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14.アメリカ大陸の征服と植民

アメリカ文明

 アメリカ大陸の原住民は、かつて氷期の終わり頃(約1万2500年前)アジア大陸からベーリング海峡(当時陸橋があった)を経て北アメリカへ渡った。彼らはニューメキシコ州、コロラド州、南アメリカのチチカカ湖盆地、中央アンデスを中心に狩猟採集・植物採集を行い、やがて独自に農耕文化を開始した。メキシコではトウモロコシ、チチカカ湖盆地でジャガイモを作物化し、各地でインゲンマメ、カボチャ、トウガラシ、トマト、サツマイモ、タバコなどが作物化された。中央アンデスではリャマやアルパカなどのラクダ科動物が家畜化された。

 ヨーロッパ人がアメリカ大陸に上陸したとき、南北アメリカ先住民の社会は、狩猟採集民の部族や焼畑移動農耕民の部族が多かったが、メソアメリカのアステカ帝国や中央アンデスのインカ帝国など高度に発達した国家もあった。

*メソアメリカでは、紀元前1200年頃メキシコ湾岸に生まれたオルメカ文化、150年頃メキシコ中央高地にテオティワカン文化、600〜900年頃ユカタン半島のマヤ文化、やがて1428年中央高地にテオティワカン文化を継承したアステカが全メソアメリカに覇を唱えた。中央アンデスでは、チャビン(紀元前1000〜200年頃)、ワリ(600〜10c頃)、インカ(15c半ば)が覇を唱えた。

最初の征服

 1492年コロンブスは西インド諸島にあるサン=サルバドル島他の島々を発見し、そのひとつヒスパニオラ島が黄金を産することをつきとめて帰国した。スペイン国王から新領土「インディアス」総督に任命されたコロンブスは、17隻の船団1500人から成る植民団を編成し、先住民(タイノ人)との交易、金鉱開発を行おうとした。しかしタイノ人が所有する黄金は僅かしかなかったため、タイノ人に黄金の拠出や労役を命じたが、タイノ人の反抗・逃散を招いた。さらにスペイン人自身が、レコンキスタ以来奪った土地を領地として分配する習慣があったため、タイノ人の土地の分配をコロンブスに要求し、'98年彼らの一部が反乱に訴えた。コロンブスはその際の不手際をとがめられ解任、1502年新総督オバンドが着任した。解任されたコロンブスは、新大陸がアジアの一部だと信じてその後も探検を行ったが、さしたる成果も得られず、失意の晩年を過ごした。

 オバンドはスペイン人の要求を「エンコミエンダ」という制度として合法化した。エンコミエンダとは国王が先住民を預ける、という意味で、預かった先住民から貢納や賦役を徴する権利を持つ代わり、彼らを保護し、キリスト教に改宗するよう宗教教育を授ける責任を負う。しかし、オバンドは2500人ものスペイン人を引き連れてきた。この大人数が直接間接にエンコミエンダ制を介してタイノ人社会の乏しい資源に圧力を加えたので、タイノ人社会の崩壊と大量死が進行した。タイノ人の労働力が不足して金鉱採掘に支障をきたすと、スペイン人たちはバハマ諸島、プエルトリコ島、ジャマイカ島、キューバ島を次々と征服し、捕らえたタイノ人たちをヒスパニオラ島へ送って酷使した。そして彼らも死んでいった。
 この悲惨な酷使・大量死に対して、1511年ついにドミニコ会修道士モンテシノス、続いて元オバンド隊のドミニコ修道士バルトロメ・デ・ラス・カサスが、先住民に対する待遇を改善する運動を始めた。

 1509年パナマ地峡のウラバ湾に入植地が設けられ、その統率者に成り上がったバルボアは、'13年先住民からの情報に基づき、始めて地峡を横断して太平洋に出た。'19年には地峡の太平洋側にパナマ市が建設された。

 同じ'19年、ユカタン半島に衣服を着、石造りの建物に住んでいるマヤ人の情報を得たキューバ総督が、部下のコルテスに西方の探査を命じた。コルテスは兵500を率いて上陸し、先住民からアステカ帝国の情報を聞き出すと、キューバ総督から自立を宣言し、この地の征服のためのカピトゥラシオン(下記)を得るべく腹心の部下をスペインに送り込んだ。これは先のバルボアが抜群の功績を挙げたのに、カピトゥラシオンを結んでいなかったため、あとからやってきた新総督に反逆罪で処刑されてしまった、その轍を踏むまいと宮廷工作を行うためだ。後にコルテスは事後承諾の形で総督に収まることができた。
 コルテスはほどなく付近の先住民数万と戦い、これを鉄製武器と騎馬隊で圧倒した。その先住民というのがアステカ帝国と敵対していたため、コルテスと同盟することになった。コルテス軍の圧倒的強さを聞いたアステカ皇帝モクテスマは戦意を喪失、交戦せずに帰ってもらおうと、自発的にコルテス軍を首都テノチティトランに迎え入れた。この弱腰に乗じてコルテスはモクテスマを拉致監禁して傀儡とした。皇帝の弱腰に怒ったアステカ人は、モクテスマの弟クイトラワクを推戴して蜂起したものの、折からスペイン人が持ち込んだ天然痘の流行がアステカ人を襲い、彼らは激烈な症状を呈してなすすべもなく死んでいった。こうしてアステカ帝国は滅んだ。

 *カピトゥラシオン(「協約書」ほどの意味)とは、スペイン国王と個々の征服者との間の征服植民請負契約のこと。征服遠征は民間人である征服者たちが自腹を切って行い、国王に遠征で得られた戦利品などの収益の1/5を上納し、それと引き換えに国王からあらかじめその征服地の総督に任命される。

インカの征服

 アンデス世界は差異が大きい三層の気候風土から成る。コスタ、シエラ、セルバだ。コスタは太平洋に沿って広がる海岸(コスタ)で、乾ききった砂漠が大部分を占め、アンデス山脈から流れる河川とその周辺のオアシスだけが、かろうじて潤いを与えている。コスタと並行しアンデス山脈の高原が高度4000メートル地帯に広がる。万年雪を被った高度5千メートル超のアンデス西山系とアンデス東山系の間にあり、山(シエラ)の世界だ。インカ王国も海抜3400メートルのクスコの盆地で発生した。一番奥側には広大な熱帯の密林(セルバ)が広がる。

 インカはもとクスコ一帯の地方部族に過ぎなかったが、クシ・ユパンキのときアンデスに覇を唱え(1438年)、続くトゥパク・インカ・ユパンキ、ワイナ・カパック王の下、アンデス全域はインカの軍門にくだった。その後わずかな時間に、広大な領域と1000万人の人口を抱える帝国となった。アンデスの地に足を踏み入れたスペイン人たちが賛嘆してやまなかったのは、その見事な道路網だった。全長3万キロに及ぶと算定されており、南北アンデス山脈を可能な限りまっすぐ伸び、貫通していた。さらに道に沿って、宿場(タンボ)が設けられ、飛脚(チャスキ)のシステムが敷かれていた。情報は彼らに担われて猛烈なスピードで駆け抜け、スペイン人記録者によれば、彼らの踏破力を一日140キロとか、250キロなどと唖然とするような数字を伝えている。

 コルテスがアステカを滅ぼし、莫大な財宝を手に入れたと聞いたピサロは、第二のコルテスを目指し1526年以来三度南アメリカ太平洋岸を探索、ペルー山上のインカ帝国の情報をインディオから入手した。この頃、インカ帝国では前王が死に、二人の息子が王位継承で争い、アタワルパが勝利したところだった。'32年、前もってスペイン王権からカピトゥラシオンを得たピサロは、奸計をめぐらしアタワルパに会見を申し込んだ。このときピサロ側は兵160程度、即位したばかりのアタワルパは数万の軍勢を伴ってゆっくりと会見場所にやってきた。ピサロは兵士を周辺に潜ませ、ドミニコ会士の司祭が聖書をアタワルパに手渡し、王が聖書を投げ捨てたのを機に、鉄砲と騎兵とで王を囲んでいたインカ兵らを虐殺した。殺されたインディオは2000名という。アタワルパは捕虜となり、身代金として黄金を部屋いっぱいにして差し出したものの、翌年ピサロに処刑されてしまった。その後クスコには傀儡政権が立てられた。

 '37年傀儡王マンコ・インカがクスコを脱出して、インディオ軍を率いクスコを包囲した。クスコ市を統治していたピサロの異母弟ゴンサーロとエルナンドは、マンコ軍の攻撃に耐え、やがて農繁期と共に攻撃が緩み、インディオたちは森林地帯に撤退していった。このとき、かつてピサロの後方支援の任にあたっていたアルマグロが、クスコの領有権を主張してピサロ側と対立、アルマグロは敗れて斬首された('38)。しかし、アルマグロ派はアルマグロの遺児を領袖に担ぎ上げ、'41年ピサロを暗殺した。そのアルマグロ派も、新しく派遣された総督軍に壊滅させられる('42)。この年、新法(下記参照)が発布され、副王が赴任してきた。副王の新法施行に対して、エンコミエンダ所有層が反発、'46年ゴンサーロ・ピサロを中心に反乱が起き、副王は殺された。この反乱は'48年鎮圧された。こうして征服者たちが死んでゆき、混乱しながらも徐々にスペイン王権の支配が浸透していった。その中でインディオたちは、スペイン人の支配に組み込まれていった。

スペインの征服植民方式

 征服した地域に、スペイン人たちがどのように町づくりをしたかというと、総督が都市を建設する地点を決め、市民団を選ぶ。市民は市会議員を選出し、市会は町の地割り、中心部の広場や教会や市庁舎の位置を決め、市民の屋敷地を分配する。一方総督は、まわりの土地の先住民の村をエンコミエンダとして市民に分配する。また、市民は先住民の首長と話をつけ、先住民の賦役労働力を用いて、自分の屋敷を建て、公共事業として都市インフラを整備する。
 スペイン人は従って都市居住者であって、先住民の労働に依存する代わり、農村を先住民の生活圏として残した。これは北米のイギリス植民地の入植者が開拓自作農民として自身で泥まみれになって働く代わり、先住民が入植者社会から排除されて遠くへ追いやられたことと対比される。また、スペイン人は農村部のエンコミエンダからの定収入によって、親族、使用人を含む大きな世帯を維持した。さらに都市には職人など様々な職業の移住者がすぐにやってきて、都市は拡大していった。

 こうして各地に都市が建設された。例えばコルテスがテノチティトランの跡に1521年メキシコ市を建てた他、グアテマラ高地のマヤ系先住民が征服された場所にグアテマラ市、ユカタンのマヤ人が征服された場所にメリダ市、が建設された。インカ帝国を滅ぼしたピサロは'34-5年にクスコ市とリマ市を建てた。ムイスカ人の領域にポゴタ市、チリにはサンティアゴ市などが建てられた。

 しかし、スペイン王権は1542年に「新法」を発布した。これはラス・カサスらの先住民擁護運動の成果として、インディオの奴隷化の禁止を定めたものだが、同時にエンコミエンダが相続の対象とならないことを定めていた。後者は市民市民の経済基盤を奪い大混乱が予想されたため、メキシコでは初代副王アントニオ・メンドーサが発布を見合わせ、陳情団を本国に派遣させて条項の廃止を求めさせた。また、ペルーでもゴンサーロ・ビサロの反乱が勃発したこともあって、この条項は新法から削除された。

*メキシコ市では'27年アウディエンシア(総督を補佐する合議体)が置かれて、総督任務を継承したが政情が安定しなかったため、'35年副王を置いて統治することとした。以後3世紀にわたり、副王が最高当局者としてメキシコの統治にあたった。これを手始めとして、各地には副王またはカピタンヘネラル(大将軍ほどの意)が総督として任じられ、これを補佐するアウディエンシアが置かれた。後にそれぞれが独立して一国をなす。アンディエンシアの長官は総督が兼任するが、専任のアウディエンシア長官だけが置かれる地方もあった。一方本国では、国王とインディアス顧問会議(後の植民地省)で、アメリカ植民地全体を統治した。

 こうしてエンコミエンダは存続するかに見えたが、やがてスペイン王権はその空洞化を狙い、エンコミエンダの村々をスペイン式の村落自治体に改組し、そこにコレヒドールという役人を配置した。そのうえで、'49年エンコミエンダ所領から賦役をとることを禁じた。これによりエンコミエンダは領地としての性格を形骸化された。また、エンコミエンダは相続の対象から除外はされなかったものの、実際に相続となると、スペイン王権はあれこれと難癖をつけて没収する各個撃破策をとったので、エンコミエンダの人口は急激に減少していった。目先の利く者はエンコミエンダに見切りをつけ、アシエンダ大農園を経営する方向に転換するようになった。

 アシエンダとは大土地所有のことで、大量死によって先住民人口が激減した(メキシコ主要部で一千万人ほどだったが、1630年には75万人に激減した)ため土地を大量に安く買うことができるようになったこと、エンコミエンダ形骸化政策もあり、スペイン人は土地を大量に安く買い、人を雇って、都市・鉱山市場向けの農業・牧畜経営を始めた。これをアシエンダという。土地がだぶついて極端に値崩れした時代にできたので、やたらと面積が大きく、最低でも数百ヘクタールから上限は無いに等しい。やがて先住民人口が18cから回復過程に入り増加し始めたとき、アシエンダのすぐ隣で先住民の土地は細分化し、巨大経営と零細経営が併存する構造が恒常化して、ラテンアメリカ農業が現在に至っている。

 鉱業では、インカ帝国の旧領ペルー(現ボリビア)でポトシ銀山が発見され(1545年)、スペインに莫大な富をもたらすことになった。ここでもインディオが奴隷としてこき使われた。16〜17cの代表的な鉱山はこのボトシだったが、18cにはグアナフアトなどメキシコの鉱山が首位に立った。スペインは銀の輸送船団を組織して、大西洋を往復する定期航行を軌道に乗せた。セビーリャを夏に出発する船団は目的別に二つに分かれ、それぞれ60〜70隻編成、これに武装した護衛船団がつく。メキシコに向け5月に出港する船団は「フロータ」と呼ばれ、パナマに向け8月に出港する船団を「ガレオン」という。往路の積み荷はワイン、オリーブ油、穀物、剣、衣服などの植民地に必要な生活物資(主要輸出品を毛織物とした旧見解は正しくない)だ。両船団は越冬し、フロータはメキシコ産銀を積み、ガレオンはペルー産銀を積んでハバナで合流、5月頃にセビーリャに向け復路に旅立つ。
 エリザベス女王のイングランドが積み荷を横取りしようと狙い撃ちにしたのが、先にハバナに着いて待機していたフロータで、この海賊行為を国王の勅許事業とし、分捕った宝を女王に上納した。ドレイクやホーキンズなど、この時代に活躍した海賊に対し、女王は労を多として「サー」の称号を名乗ることを許した。

 1569年ペルー副王としてトレドが赴任した。彼はまずラス・カサスの著作没収を始めドミニコ会士を弾圧し、インディオの強制集住政策を行った。彼の政策は傲慢を極め、インディオを人間と認めず、ボトシで強制的に労働させた。また、最後まで抵抗を続けていたインカ族最後の王トゥパク・アマルを捕らえ、クスコで処刑した。

ブラジル

 カブラルがブラジルを発見し、トルデシリャス条約によってブラジルがポルトガル領になってからも、ポルトガルはマムルーク朝と戦ったり、マラッカを占領したりなど、インド洋方面が余りにも忙しく、ブラジルは放置されていた。その後フランスに奪われそうになって始めて重い腰を上げ、ブラジルの海岸線を十五の区画に区切り、それぞれの開発をカピタン(長官)にまかせた。1530年代のことだ。この時の主要産業といえば、パウ・ブラジルという木を伐採し、その材質から赤い染料を採るもので、この木の名前からブラジルという地名が定着した。

 1549年バイアのサルヴァドルに総督府が置かれ、1570年頃からバイアとその北東部に砂糖産業が発達した。森を切り開いた跡のマサペという土壌がサトウキビに適し、目と鼻の先にアフリカ奴隷の仕入れ地ギニアがあったので、容易に労働力が手に入ったからだ(奴隷貿易については後述)。
 この砂糖生産地帯では都市はあまり発達せず、エンジェーニョ(サトウキビ農園)にカザグランデ(大邸宅)を構え、ここに主人一家と親類縁者、寄食者、使用人、精糖職人、家内奴隷(女)が住み、まずまずの文化的生活を営んだ。しかし、エンジェーニョにはセンガラという男ばかりの奴隷居住区があり、一年中サトウキビの刈り入れ労働をさせられた。
 過酷なこの労働に従事する奴隷の耐用年数は10年から20年と言われ、毎年5〜10%の割合で死んでいった。怠ける者は荷車に向こうむきに縛り付けられて鞭でたたかれた。奴隷は対岸の仕入れ地が近いため、値段が安く、成人男子が購入され、使い捨てにされた。このため多くの奴隷たちがエンジェーニョから逃亡し、農園主が雇った賞金稼ぎに追われて奥地に逃げ込み、モカンボとかキロンボと呼ばれる集落を作って共同生活をするようになった。その最大のものは数千人に達したが、1694年当局の軍隊によってその集落は滅ぼされた。

奴隷貿易

 アフリカ奴隷はイスラム社会にも存在したが、ヨーロッパが新大陸に導入した奴隷の比ではない。ポルトガルはアフリカを南下する過程で、マディラ諸島、カボヴェルデ諸島、ギニア湾のサン・トーメ島など多くの島を根拠地とした。この島々でサトウキビ栽培を行い、ギニアから奴隷を購入して送り込んだ。これがアフリカの奴隷貿易の始まりだ。
 ブラジルでサトウキビ栽培が始まると、目と鼻の先のギニアは新大陸の奴隷供給地となった。スペインでも1513年には王室が新大陸へのアフリカ人奴隷導入許可状を発行し、これが奴隷を導入するきっかけとなった。アフリカ人奴隷はインディオ奴隷の価格の三分の一だったという。

 ヨーロッパから綿布、羊毛、ビーズ、鉄砲、火薬などの工業製品をアフリカに輸出、アフリカから奴隷を商品として新大陸に輸出、新大陸から砂糖、コーヒー、ワタなどをヨーロッパに輸出する「大西洋三角貿易」が成立した。また、奴隷をアフリカから新大陸へ運ぶ航路は悪名高い「中間航路」と呼ばれ、奴隷船の衛生状態は悪く15%の奴隷が目的地にたどり着く前に死んでいった。
 奴隷を供給するのはヨーロッパの奴隷商人だが、現地の王や首長など支配層が奴隷狩りに協力し、また自ら奴隷を供給した。王たちは近隣諸国のみならず自国からも奴隷を生み出し、奴隷を売った見返りに馬やその他の商品を奴隷商人から手に入れた。中にはギニア湾岸のアシャンティやダオメーといった奴隷貿易で強力な軍事国家を形成した王国もあった。奴隷商人も供給源を求めて、海岸地域から内陸の奥地へと浸透していった。
 大西洋奴隷貿易で送られた奴隷の数は15c半ばから1870年までに1500万〜2000万と見積もられている。

カリブ海の砂糖生産

 1621年ネーデルラントは西インド会社を設立、スペイン領土の南北アメリカ圏に殴り込みをかけてきた。'24年にはポルトガル総督府があるバイアのサルヴァドルを占領したが、翌年反撃を受け撤収した。しかし、'30年には北のペルナンブコを占領(〜54年まで保持)、西アフリカの奴隷貿易にも割り込んで奴隷供給を行い、サトウキビ農園を経営した。スペインから独立したポルトガルがようやくベルナンブコを奪還したとき、ネーデルラント人は砂糖生産の知識を蓄え、カリブ海に逃れた。
 カリブ海の小アンティール諸島は吹けば飛ぶような小島の群れだが、スペインがこれらの島々に入植しなかったので、ネーデルラント、イングランド、フランスのカリブ海への前進基地となった。これらの島々で、ネーデルラントが気前よく提供した技術によって、各国はサトウキビ栽培を始めた。カリブ海生産とブラジル北東部の生産が競合した結果、砂糖の供給が需要を上回り、一時値崩れを起こした。この経緯の中で英仏植民地のプランテーションが奴隷労働の効率化に成功し、ブラジルのエンジェーニョが敗退していった。この結果17c末までにブラジル砂糖産業は慢性的不況に陥り、北東部はやがてブラジル随一の後進地域に落ちぶれていった。
 カリブ海の最初の砂糖生産地は英領バルバドス島で、1640年から生産を始め、17cを通じて随一の生産地となった。その後18c前半には英領ジャマイカ(1655年スペインから奪取)が最大の生産地となり、1740年からは仏領サンドマングが最大となった。

革命の勃発

 スペイン植民地では、コレヒドールによる商品強制分配制(レパルティメント)が、18cになると猛威をふるった。スペイン王室は財政危機の解決策として多くの官職を売買したが、コレヒドールは俸給が安く任期制だったため、この官職を購入すると任期内に暴利をむさぼる私利追求に走った。それがレパルティメントで、インディオに普通より高い値をつけて強制的に物資を販売する。
 1780年インカ王の系統につながるトゥパク・アマル2世という者が、コレヒドールの暴虐に対して反乱を起こした。彼はティンタ地方のコレヒドールを処刑、クスコへと進軍したが、当局とのレパルティメント制度の交渉を行うだけだったため、当局の援軍到着と共に捕らえられ、極刑に処せられた。しかし、反乱はその後も全アンデスに広がり、'82年ようやく終息した。
 一方当時スペインはブルボン家が継承し、カルロス3世(在位1759〜88年)と彼に仕える開明官僚は、植民地改革を実施した。反乱直前の'76年ラプラタ副王領が新設され、ブエノスアイレスを首都に現在のアルゼンチン、ウルグァイ、パラグァイ、ボリビアを包摂した。翌'77年には全権巡察官アレチェがペルーに着任、反乱の後レパルティメントを廃止する一方、伝統的な祭礼、衣裳をまとうこと、インカという言葉の使用の禁止、インカをモチーフにした絵画や書籍の禁止などを命じた。

 カリブ海のサンドマングでは当初砂糖生産に必要なだけ奴隷が輸入され、フランス人が総じて海外移住に不熱心なこともあって、人口の9割を黒人が占めた。折から本国で革命が勃発(フランス革命、1789年)、革命政府は自由黒人やムラート(白人と黒人の混血)に参政権を賦与した。
 革命政府が'92年派遣した統治委員は、反革命の白人プランターと対立、折から対仏大同盟の成立で、イングランド、スペインがサンドマングに侵入した。ここにトゥーサン・ルーヴェルチュールという解放奴隷が革命政府統治委員と結び、英西軍を退けトゥーサンは副総督兼軍司令官に収まった。そしてサンドマングを半独立植民地とし、自身をその終身総督としたが、英仏がアミアン和約を締結(1802年)すると、ナポレオンは遠征軍をこの地に送り、トゥーサンを捕らえ、フランスに送還した(翌年獄死)。
 しかしアミアン和約が破れると、トゥーサンの部下だったデサリーヌが1804年ハイチとして独立を宣言、皇帝に収まった。この政権は2年で倒れ、以後しばらくハイチは南北に二分されることとなったが、このハイチ革命を皮切りに、中南米は各地で独立を目指すことになった。