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33.バルカン半島

 バルカン半島には、現在スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、マケドニア、ギリシアの11ヶ国がある。
 バルカン半島の民族は人種というより宗教によって分かれるもので、セルビア人とモンテネグロ人はギリシア正教、スロベニア人、クロアチア人はカトリック、アルバニア人とボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム人、コソボ(アルバニア人が大多数)がイスラム教だ。

第2次大戦まで

 19c以前バルカン半島は、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、ルーマニアより南とハンガリーの一部がオスマン帝国領、スロベニアとハンガリー西部はハプスブルク領だった。

 19cに入ると弱体化して「瀕死の病人」と称されたオスマン帝国に代わり、ロシアやオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク)がバルカン半島へ勢力を伸張する。さらに英仏など列強もバルカンに利権を求め、「東方問題」の主要な舞台となった。

 まず1817年セルビアが蜂起して自主公国として成立。1821年ギリシア独立戦争が始まり、'27年ナヴァリノの海戦で、オスマン帝国とエジプト(メフメト・アリー朝)の連合艦隊が、ギリシア独立を支援する英仏露三国艦隊に破れ、'30年独立を果たした。この結果としてロシアがバルカン半島に大きな影響力を持つようになる。

 '53年にはクリミア戦争勃発。ロシアがモルダヴィア、ワラキア、ドナウ地方に進入して戦争が始まり、まもなく英仏両国がオスマン側で参戦した。オスマン側が辛くも勝ったものの、この戦争はオスマン領土の分割をめぐる列強間の争いでもあり、列強の政治干渉と経済進出を増大させた。

 '77年露土戦争(〜'78)、結果サンステファノ条約でロシアの支援を受け、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの三国が独立、ロシアの勢力圏が大きく南に広がることになった。これに対してブリテンが強く反発、ドイツのビスマルクが仲裁役を買い('78年ベルリン会議)、ベルリン条約で三国の独立を認めたものの、その領土は大幅に縮小したものとなった。

 1908年青年トルコ革命が勃発すると、この混乱に乗じて、同年ブルガリアがオスマン帝国(以下トルコと記す)から独立し、オーストリアも管理下にあったボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。

 また'12年ロシアの仲介で、セルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロ4カ国がバルカン同盟を結び、トルコと対戦した(第1次バルカン戦争)。この結果バルカン同盟側が勝利し、アルバニアが独立、トルコはイスタンブールを除くバルカン半島領を失った。

 第1次バルカン戦争後、マケドニアをめぐってブルガリアがセルビア、ギリシアと衝突、第2次バルカン戦争('13)が起こった。セルビア、ギリシア側にはモンテネグロ、ルーマニア、トルコが参戦、ブルガリアが敗北した。この勝利で、セルビアはコソボとマケドニアを獲得、汎スラブ主義による統一運動を加速させ、スロベニア・クロアチアを支配していたオーストリアと対立を激化させた。
 こうした中'14年6月、ボスニアの州都サライェヴォを訪問したオーストリア・ハプスブルク家の皇太子夫妻がセルビアの暗殺者集団に狙撃され、死亡した(サライェヴォ事件)。オーストリアは即刻、報復のためドイツの同意を得てセルビアに宣戦布告した(第1次大戦)。

 開戦後、列強諸国は同盟・協商関係から同盟国(独襖)・協商国(連合国、英露仏)に分かれて次々と参戦、第1次大戦となる。同盟側にはトルコ、ブルガリア、協商側(連合国側)にはルーマニアが参戦した。途中ロシアでは革命が勃発し、独襖と単独講和を結んで戦線から離脱した。

 戦後オーストリアに対する講和条約(サン・ジェルマン条約)では、オーストリアはハンガリー、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどを分離して小共和国となり、面積・人口の大半を失った。トルコは中東に残っていた領土すべてを失って小アジアのみとなり、ブルガリアも領土を大幅に削減された。
 戦勝国となったルーマニアはトランシルバニア、ベッサラビアなどを獲得し、大ルーマニアを実現させた。また、セルビア、クロアチア、スロベニアは連合してセルブ・クロアート・スローベン王国(後ユーゴスラビア王国)となった。

 第2次大戦直前には、ドイツがオーストリア併合('38)やチェコスロバキアを解体併合('39)するのと並行してイタリアがアルバニアを併合、'39年9月第2次大戦勃発、'41年3月ドイツが対ソ戦の準備のためバルカン半島に進出、6月バルカン半島全域を支配下においた。同月独ソ戦開始。
 ユーゴスラビアは解体され、クロアチアはナチス・ドイツの傀儡政権ウスタシャの支配となった。その支配下、セルビア人、クロアチア人同士の大量虐殺が繰り広げられ、両民族間に激しい対立感情が形成された。

 大戦後、スターリンが武力をもって東欧の共産化(ハンガリー、ブルガリア、ポーランド)を強力に押し進めた。対して米トルーマン大統領は「トルーマン・ドクトリン」を発表、ギリシアとトルコの共産化とソ連の拡大を防止する「封じ込め政策」を基本方針とした。ここに東西冷戦が始まり、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、バルカン半島ではブルガリア、ルーマニアが東側陣営として、戦後世界史をわたった。ユーゴスラヴィア連邦はその間にあって独自路線をとった。

ユーゴスラヴィア連邦とその解体

 ナチスによって解体されたユーゴスラヴィアは、大戦後パルチザンの総司令官だったチトー(本名ヨシップ・ブロズ)によって再復活、王政を廃し、クロアチア、スロベニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6ヶ国による社会主義連邦となった。首相(兼国防相)となったチトーは'45年8月には早々と基幹産業を国有化、'47年からは5ヵ年計画も開始した。その後は親ソ派を粛正、ソ連と一線を画した独自の社会主義路線を歩んだため、スターリンによって'48年コミンフォルム除名、経済封鎖を受けてソ連と断交、そのことがかえってユーゴスラヴィアを一致団結させた。共産主義陣営からはじき出されたユーゴは、当然のごとく西側に歩み寄り、'49年アメリカから経済・軍事援助を取りつけ、'53年にはギリシャ・トルコと友好協力条約を締結した(同年大統領となる)。ソ連でスターリン批判が行われると、ソ連との関係は修復されたものの、ユーゴはあくまでも分権化・自由化・民主化への道をとった。分権化は各共和国の大幅な自治権を特徴とする独自の「自主管理社会主義」建設となった。外交面ではエジプト・ナセル、インド・ネルーと共に東西両陣営に属さない、いわゆる「非同盟諸国」のリーダーの一人として活躍することになる。'65年には市場原理が導入された。

 しかし民主化・分権化は、民族問題を噴出させることにもなった。'68年コソボのアルバニア人が権利拡大と共和国への昇格を要求し暴動。'70〜71年クロアチアでもセルビアの経済的搾取を受けていると主張し蜂起、連邦からの離脱とクロアチア主権国家の樹立を要求した。チトーはこのような危機に対し、民族主義者の一掃を行うとともに、'74年新憲法で各共和国に実質的には拒否権と言っていいほどの権限を与えるという、いわば飴と鞭の政策をとった。連邦の維持はこうしてチトーのカリスマ性と宥和政策によるものだったため、チトー死後連邦は解体に向かうことになる。

 '80年チトーが死に、さらにソ連にゴルバチョフが登場、'89年一連の東欧革命が生ずると、ユーゴでも民族自決の意識が高まり、連邦は空中分解することになる。'90年各共和国は順次、連邦制を争点とする選挙に突入した。その結果'91年6月クロアチア、スロベニアが、11月にはマケドニア、翌3月ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。残るセルビアとモンテネグロは新ユーゴスラヴィア連邦(後セルビア・モンテネグロと改名)を樹立した。

 スロベニア独立に際しては連邦軍が侵攻したが、10日間のスロベニア戦争で連邦軍は駆逐された。クロアチアは内部にセルビア人のクライナ自治区を抱えていたため、独立と共に内戦となった。'91年11月国連の仲介によって停戦となったが、'95年クロアチア軍がクライナに侵攻、これを併合した。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでは独立後深刻な民族間の覇権争いが始まった。この国の民族はムスリム人が最大、次いでセルビア人、クロアチア人で構成される。直接のきっかけは独立時の選挙でセルビア人がボイコットし、これを不服とする新ユーゴ連邦軍(セルビア人主体)が介入したためだ('92年4月)。当初セルビア人が他の2勢力を圧倒して有利だったが、後クロアチア人が巻き返し、その後ムスリム人とも交戦を始め、三つ巴となった。この間セルビア人勢力による虐殺や女性への集団レイプという「民族浄化」が行われた。紛争はセルビア人勢力に対するNATO軍の空爆で'95年一応の終結を見たが、3年半以上にわたる内戦の結果、死者20万、難民・避難民200万と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった。'95年12月のデイトン和平合意で、ムスリム系及びクロアチア系住民が中心のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、及びセルビア系住民が中心のスルプスカ共和国という2つの主体から構成されることとなった。それぞれの主体は独自の警察や軍を有し、高度に分権化されて、今日に至る。
 民族間の対立は完全に解消されたわけではないが、EU及びNATO加盟は、民族を超えた目的であり、政府はこの目標に向かって国際社会の支援を得ながら諸改革に取り組んでいる。

 新ユーゴスラヴィアでは、アルバニア人(*)が多数を占めるコソボ自治州がコソボ共和国の独立を目指して武力闘争を行っていたが、'97年以降大セルビア主義を掲げるミロシェビッチ大統領がKLA(コソボ解放軍)掃討作戦を展開、米軍を中心とする国連軍が和平に乗り出したが、新ユーゴは和平受け入れを拒否、'99年新ユーゴへのNATO軍の空爆が行われた。空爆開始後、セルビア治安部隊によるKLA掃討活動が強化され、多数のアルバニア人がマケドニア等近隣地域に難民として流出した。和平成立(同年)後、NATO軍平和維持部隊が駐留、コソボは国連の統治下に入った。
 '03年新ユーゴスラヴィアは2003年国名をセルビア・モンテネグロと改名、'06年にはモンテネグロが独立し、セルビア共和国となった。コソボでも自治政府樹立に向けて準備が進められ、'05年末からは国連特使の仲介で独立を勧告、'08年共和国として独立した。

*14c末のオスマン帝国のバルカン半島征服の過程で、コソボ平野の戦い(1389年)後、オスマン帝国は多くのセルビア人領主を処刑、そのためセルビア人が大挙コソボを捨てて北方へ移動し、そのあとにアルバニア人が入植したという経緯がある。

 モンテネグロは歴史的も政治的にもセルビアと密接な関係にあったが、2000年セルビア・ミロシェビッチ政権の崩壊後、独立に向けた機運が高まり、EUの仲介で'06年5月住民投票を実施した結果、独立案が可決された。

ルーマニア

 ルーマニアはソ連の後ろ盾を得た共産党が政権を握り、人民共和国を宣言、反対派を次々と粛正した。'50年代には国有化と工業化が強力に推進され、60年代には年12%という東ヨーロッパ諸国で最高の経済成長率を記録、'62年には農業の集団化も完了した。こうした経済基調を背景に、'60年代以降、外交面でソ連と一線を画した独自路線を取り、西側諸国との貿易や外交も徐々に深まると共に、中ソ対立に際しても中立の立場をとった。
 '65年共産党第一書記に就任したチャウシェスクは、'68年ソ連のチェコスロヴァキアへの軍事介入を非難、翌'69年米ニクソンのルーマニア訪問をきっかけにチャウシェスクも数度にわたって訪米、'72年IMFと世界銀行への加盟が認められた。一方でソ連との友好関係も維持し、'76年にはブレジネフがルーマニアを訪問している。しかし、ソ連のアフガン侵攻には追随しないなど、一定の距離を保った。この間の'74年チャウシェスクは大統領に就任、独裁体制をしき、反対派の存在を許さなかった。'70年、'75年の洪水、'77年の地震など相次ぐ自然災害に見舞われ、国民は食糧、燃料、電力にも事欠く耐乏生活を強いられるようになったが、その一方では「国民の館」と称する豪奢な宮殿を造営した。
 ソ連にゴルバチョフが登場し、東欧の民主化が行われる中で、チャウシェスクは大統領権力の保持を企図した。'88年に発表された8000の村の破壊を伴う強制移住計画に対して国民が反発、'89年ティミショアラで牧師強制連行をきっかけに反政府デモが行われ、チャウシェスクは容赦ない弾圧を加えた。国民の独裁への不満は一挙に噴出し、暴動は首都ブカレストを含むルーマニア全域に広がった。12月チャウシェスクは戒厳令をしいたものの、国軍は命令を拒否して国民に合流、市民が共産党本部・放送局を占拠する中で、チャウシェスクは脱出を試みたが、失敗して身柄を拘束され、銃殺刑となった。その様子は映像で世界中に配信され、ベルリンの壁崩壊と共に東欧民主化の象徴となった。

 チャウシェスク政権崩壊後、イオン・イリエスクひきいる救国戦線評議会が暫定的に政権についた。翌'90年総選挙で救国戦線は大勝、イリエスクは大統領に選出された。'91年末には新憲法が施行された。しかし、インフレ、失業、低賃金によって国民は生活状態が悪化していき、'94年200万もの労働者によるゼネストが発生した。一方、救国戦線は'92年社会民主党と民主党に分裂、加えて極右勢力の台頭、王政復古の動きなど政局は混迷した。'96年には与党の社会民主党が敗北、民主会議など中道3党による連立政権となった。民主会議のチョルベアが首相に就任、大統領も民主会議のコンスタンティネスクがイリエスクを破って就任した。チョルベア政権は経済改革の推進を目指したが、改革の遅れへの批判が高まり、'98年には引責辞任、'99年最大与党の全国農民党バシレが後任首相となった。
 外交面ではこの間、'93年EUとの連合(準加盟)協定調印、'94年NATOとの「平和のためのパートナーシップ」に参加した。またEU・NATOへの早期加盟を目指し、積極的に近隣諸国との関係改善に乗り出し、'96年にはハンガリーとの基本条約を調印、トランシルヴァニア地方のハンガリー系住民の地位と国境の保全を保障して、両国間の歴史的緊張関係に一応の終止符をうった。'97年にはウクライナとの友好協力条約に仮調印し、両国の係争地となってきた北ブコビナと南ベッサラビアに関する領土要求を事実上放棄した。

 2000年中道左派のイリエスクが再び大統領となっていたが、'04年には民主党バセスクが大統領となる。首相は国民自由党タリチャーヌが中道右派連立内閣を構成、EU加盟を最大目標に掲げ税制改革、司法改革などに取り組んだ。その後バセスク大統領と確執が表面下し、連立を構成していた保守党が離脱して少数内閣へ転落するなど内政は混乱したが、'04年には他の中・東欧諸国及びバルト三国と共にNATO、'07年ブルガリアと共にEU加盟が実現した。
 現在ルーマニア経済は抑制されているものの、高いインフレ下にあり、生活水準の低下が続いている。また、産業は伝統的に農業の比重が高い。鉱物資源は石油、石炭、天然ガスなど豊かだが、輸出入とも貿易に強く依存している。

ブルガリア

 第一次大戦勃発に際し、再び領土拡大を目指したブルガリアは、同盟側に立って参戦、敗戦と共に多くの領土の割譲を強いられ、また巨額の賠償金の支払を行うこととなった。'23年には軍によるクーデターでファシストが政権を掌握、また国王ボリス3世は独伊と接近した。第二次大戦に際しては、再び枢軸側で参戦、敗戦直前にソ連が侵攻し、モスクワから帰国したディミトロフが政権を掌握して、ソ連の衛生国家となる。'46年王政廃止、ブルガリア人民共和国の成立が宣言され、ブルガリア共産党による一党独裁体制となり、産業の国有化・農業の集団化など社会主義政策が推進された。'50年首相に就任したヴルコ・チェルベンコフは政敵を次々に粛清し「小スターリン」と呼ばれたが、'53年スターリンが死去に際して、首相・第一書記の座をトドル・ジフコフに譲った。
 以後実に35年の長きにわたりジフコフの独裁政権となる。ジフコフは親ソ路線を堅持し、ブルガリアは「ソ連の16番目の共和国」とまで呼ばれることになった。'71年には憲法を改正、自ら国家主席に就任した。しかし計画経済が行き詰まる中、'78年には党内反対派を粛清し三万人を党から除名した。'82年からは西側の技術を導入し、さらに'84年には自由化を謳った経済改革を行った。しかし急激な改革は却って債務の増加を招いた。また'84年には国民の一割を占めるトルコ系住民にブルガリア名を強制し騒乱も起きた。

 ソ連にゴルバチョフが登場、一連の東欧革命に刺激されて'89年、世情は騒然となり、トルコ系住民30万人が国外に脱出する騒ぎになった。11月にジフコフは突如辞任、自由化を求めるデモが続く中、1990年1月には野党との「円卓会議」が開催され、共産党の一党独裁は放棄され、6月には総選挙が行われ、11月には国名がブルガリア共和国と改められた。'91年には東欧諸国で初の民主的な新憲法を採択、大統領には改革派のジェレフが選出され、民主化が進んだ。'94年には経済成長と共にインフレを抑制するなど、回復の兆しを見せたが、政権は'89年以降10年間のうちに、社会党(旧共産党)→民主勢力同盟(非共産党勢力)→社会党→民主勢力同盟へと頻繁に推移した。'96年には不安定な銀行システムにより再び経済が悪化し、金融危機に陥るなど、経済改革は効果をなかなか現わさなかった。また構造的な汚職により国民の政治不信を招いた。

 2001年の選挙では元国王シメオン・サクスコブルクゴツキの率いる「シメオン2世国民運動」が勝利し、首相に就任して注目を集めた。シメオン2世元国王は、1946年に王政が廃止されて亡命したとき、9歳の子供だった。また同年の大統領選挙では、社会党党首のパルヴァノフが、現職のストヤノフ大統領(無所属)を破り、大統領に就任した('06年10月の大統領選挙で再選)。シメオン・サクスコブルクゴツキ政権は企業の民営化の加速、正常な金融政策の実行、構造改革の追求などの経済政策を約束し、経済成長は持続的なものとなったが、未だ高い失業率、低い生活水準にとどまっている。'05年には「シメオン2世国民運動」は、社会党を中心とする「ブルガリアのための連合」に敗れ、スタニシェフ社会党党首を首班とする連立政権となった。
 '04年にNATOに加盟、また'07年EU加盟を果たしたが、加盟に際しては、改革が不十分であるとして、欧州理事会によって再審査され、加盟後も改革を続行するとして承認された。しかし、加盟時にEU最貧国であり、加盟後には若年労働者や知識層が高収入を求めて西欧へ流出することが危惧されており、ブルガリアの国力低下と共に、低賃金労働力が流入する西欧諸国との軋轢が拡大することが懸念される。