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8.フランス・ブルボン朝(1589-)

 フランスでは、ヴァロワ朝のときイタリア戦争やユグノー戦争を通じて、長期に渡る戦争経験から、膨大な軍事支出に対応できる国家財政の基盤強化を痛感する。イタリア戦争でのフランソワ1世やアンリ2世、ブルボン朝創始者アンリ4世らは、財務行政機構を充実させた過程で、一定の官職を平民に購入させ(売官制度)て貴族化の道を開くと共に、王権による支配が強化された。こうしてブルボン朝ルイ13世、ルイ14世のとき、フランスは絶対主義の時代を迎えた。

イタリア戦争

 ヴァロワ朝のシャルル8世が、ナポリ王国奪取のためにイタリア遠征を1494年に行い、長期にわたるイタリア戦争(〜1559年)の発端となった。ナポリは13cからしばらくフランス王家につながるアンジュー朝が支配していたが、王統が途絶えた1442年アラゴン(従ってスペイン)に編入されていた。戦争の前半はシャルル8世とルイ12世によるナポリ王国とミラノ公国奪取のための戦争、後半はミラノ公国をめぐる戦いが、フランスとハプスブルク家とのヨーロッパの覇権争奪戦の様相を呈した。1515年即位したフランソワ1世は、神聖ローマ皇帝カール5世との対抗上オスマン帝国と同盟し、1529年のオスマン帝国のウィーン包囲を支援した。その跡を継いだアンリ2世(在位1547年〜)は、国家財政の基盤強化を強化しつつ、国内のプロテスタント勢力を打倒するため、1559年カトー・カンブレジの和議でイタリア戦争を終結させたが、その矢先愚かにも騎乗槍試合で事故死してしまう。

ユグノー戦争

 続くフランソワ2世は急死、新王シャルル9世(在位1560年〜)が幼少のため、イタリアから王家に嫁いだ王太后カトリーヌ・ド・メディシスによる摂政政治が始まる。王権が弱体化するなか、大貴族間の権力闘争と宗教対立が結合し、1562年宗教戦争(ユグノー戦争、〜98年)が勃発した。旧教の国王側、新教のユグノー(カルヴァン派のフランスでの呼称)諸侯の対立という構図だ。
 その途中1572年に聖バルテルミーの虐殺事件が起きた。この事件は、両派の和解のため、王の妹とユグノー指導者ブルボン家アンリが結婚したが、このとき集まったユグノー有力者を国王側がだまし討ちで虐殺したものだ。
 1574年アンリ3世即位、'84年にはその弟の死により、王の妹を妻にしたブルボン家アンリが第一王位継承者として浮上、ユグノー戦争は新局面を迎えた。'89年過激派カトリックによってアンリ3世が刺殺されると、アンリは即位してアンリ4世(在位1589-1610年)となり、ここにブルボン朝が成立した。

ブルボン朝

 王位につくときアンリ4世はユグノーからカトリックに改宗したが、ユグノー勢力は納得せず内戦はいつまでも続いた。これを打開するため、アンリ4世は1598年「ナントの勅令」を発布し、信仰の自由を認め、ユグノー戦争は終結した。

 しかしアンリ4世は狂信的なカトリック教徒によって殺害されてしまった。このためルイ13世(在位1610-43年)が幼少で即位、王太后マリー・ド・メディシスが摂政となって一時政治が乱れたが、長じて宰相リシュリューが登場('24年〜)、帯剣貴族やユグノー勢力を抑圧し、三部会を閉鎖して王権を強化した。また法服貴族ル・ブレはリシュリューの考えを代弁し「王権神授説」を上梓した。また旧教国でありながら、ハプスブルク家に対抗するため、三十年戦争で新教側を支援した。この間戦費を調達するため増税を繰り返し、'30年代後半には各地で暴動が起こって、反徒に対する軍隊の弾圧は凄惨を極めた。

 '42年リシュリューが、翌年ルイ13世が他界、わずか5才でフランス絶対主義を代表するルイ14世(在位1643-1715年)が即位した。摂政となった王太后アンヌ・ドートリッシュは、スペイン国王フェリペ3世の長女でありながらフランス王妃としての義務に目覚め、宰相となったマザランを支えた。
 宰相マザランはリシュリューから国家への滅私奉公を叩き込まれ、三十年戦争を継続し、フランスを勝利に導くための資金調達にあらゆる手段を講じた。リシュリューが農民から絞れるだけ絞り取ったのに対して、マザランは都市への増税に照準を定めた。これに対してパリ市民や貴族の不満が高まり、フロンドの乱('48〜'53年)を引き起こした。この乱が勃発したとき、マザランはウェストファリア条約で三十年戦争を終結、アルザスを獲得して領土を拡大し、フランスはヨーロッパの政治に大きな影響力を持つようになった。乱は'53年にようやく鎮圧、貴族は王権に屈服した。また'58年フランス優位のうちに、スペインとピレネー条約を締結、国境を画定すると共に、ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサとの結婚を決めた。

太陽王ルイ14世

 マザラン死(1661)後、ルイ14世は親政を始める。マザランの推挙で大蔵大臣となったコルベールが親政時代前半に活躍した。コルベールは重商主義政策を展開、フランス東インド会社を再建し、海外貿易に乗り出して国富を増大させた。
 ルイ14世はフランスの領土拡張のため、積極的に外征を行った。南ネーデルラント継承戦争(1667-68)、ネーデルラント侵略戦争(1672-78)、ファルツ継承戦争(1689-97)、スペイン継承戦争(1701-13)など。特にスペイン継承戦争は、スペインのハプスブルク家が断絶、ルイ14世は自分の孫をスペイン王にしようとしたのに対し、周辺諸国がこれに反対して起きた戦争だ。1713年のユトレヒト条約で、孫をスペイン王にする事を列国に認めさせる代わり、将来にわたってフランスとスペインが合体しないことを誓いフランス・スペインの領土の多くをイングランドに割譲した。
 またヴェルサイユ宮殿を造営、伝統的な移動する宮廷を終わらせ、'82年以後宮殿に落ち着いた。大貴族を宮殿内に常住させ、上席権順位や礼儀作法を厳格に定め、国王が授ける栄誉と年金を競わせた。こうしてヴェルサイユ宮殿は文化の中心となり、貴族が飼いならされて、大貴族が群小の帯剣貴族を従えて強力な地方勢力となる機会が失われた。
 こうしてフランス絶対王政を現出させたルイ14世は世に「太陽王」とも言われ、「朕は国家である」という有名な言葉を残す。
 一方で度重なる戦争によってその負担が重税という形で国民にのしかかり、徐々にフランスの経済を悪化させていく。さらに'85年ナントの勅令の廃止を行い、ユグノーの亡命を招いて産業が停滞した。治世の末期には農民反乱がしばしば起こった。

18cフランス

 ルイ14世死後、ルイ15世がわずか5才で王位を継承(在位1715-74年)、ルイ14世の甥オルレアン公フィリップが摂政となった。ルイ14世は摂政フィリップの権限を制限した遺言状を残したが、フィリップはパリ高等法院に遺言状を破棄させ、交換条件としてルイ14世が封じ込めていたパリ高等法院の建言権を返した。この譲歩によって、後に高等法院が王権と対決することになる。摂政時代、ルイ15世の宮廷はヴェルサイユからパリに移ったが、その宮廷は酒好き、女好きの摂政が手本を示して、明るく陽気になった。パレ・ロワイヤルやリュクサンブール宮で夜な夜な宴と舞踏会が催され、優美なロココ様式が広まった。
 フィリップ死後、'26年からはルイ15世が敬愛する老聖職者フルリーを事実上の宰相に、フランスはポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争に参加していった。'43年以降はルイ15世の親政となったが、オーストリア継承戦争を終結させたアーヘンの和約('48)はフランスに何の利益ももたらさなかったし、'45年以降愛妾となっていたポンパドゥール夫人の浪費で、次第に国王のイメージは悪化していった。
 しかし、この時代のフランスはおおむね活気に満ちていた。人口も1700年2150万から1790年には2800万に増加、農業は人口増に見合う生産増を確保し、パリ、ボルドーなどの都市が発達して商工業は活況を呈した。文化面では宮廷の役割が減少した代わり、アカデミー・フランセーズや科学アカデミーなどの各種アカデミー、ランベール侯夫人やジョフラン夫人などのサロン、プロコーブなどのカフェ、秘密結社フリーメーソンの会合などが、啓蒙思想家や芸術家、科学者の活動の場となった。

啓蒙思想

 フランス啓蒙思想は、キリスト教信仰と絶対主義を批判した思想運動で、18c半ばパリを中心に絶頂期を迎えた。「理性」を武器とし、無批判な伝統や権威への盲従、迷信、無知を敵とした。1637年に発表されたデカルトの「方法叙説」が先駆けとして方法的懐疑を提供し、ディドロ「百科全書、1751」、ヴォルテール、ルソー「社会契約論、'62」、モンテスキュー「法の精神、'49」などの思想家が活躍した。