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31.中国・国民政府から中華人民共和国へ

国民政府(1919,'28統一)

 中国は第1次大戦後の1919年パリ講和会議に際し、日本の21ヶ条の取り消し、山東における利権の返還を提訴した。ところが、講和会議はこれを斥けてしまった。そのため、中国民衆は、北京大学生を中心に抗議デモを展開し、続いて日本商品のボイコット、ストライキが全国に波及した。これを五・四運動という(北京大学のデモ開催日にちなむ)。これを受け、孫文は中国国民党を組織し、断続的ではあるが広東軍政府を樹立して、軍閥政権と対抗した。
 '24年国民党は、コミンテルンの仲介で国共合作を実現、共産党員は党籍を保持したまま国民党員となり、「連ソ・容共・扶助工農」をスローガンとして採択した。
 '25年孫文が亡くなると、蒋介石が国民党の実権を握り、北部の軍閥政権を打倒するため北伐を開始した('26年)。一方で'27年共産党を追放、南京国民政府を樹立した。'28年北伐を再開、日本の干渉をはねのけて北京を占領した。軍閥の張作霖は日本軍によって爆殺され(奉天事件)、後を継いだ張学良が国民政府に帰順したため、中国の統一は完成した。

 一方共産党は農村地帯に活動拠点を移し、各地にソヴィエト解放区を建設した。国民政府は英米の援助を得て共産党を攻撃する。国民政府に追われた共産党は、北方にいる日本軍と戦うという名目で、'34年根拠地の瑞金から撤退、丸2年かけて延安に到着するまでの行程を長征と称した。
 この間、日本軍(関東軍)は関東州と満鉄警備のため駐留しており、'31年奉天郊外で満鉄線路を爆破、これを張学良のしわざとして満州事変を引き起こし、さらに'32年海軍が上海を攻撃(上海事変)して、宣戦布告無き戦争を起こしていた。
 長征途上、共産党の指導を確立した毛沢東は'36年抗日民族統一戦線を提唱し、これに共鳴した張学良が反対する蒋介石を監禁して、翌年第2次国共合作が成立した。その直前、北京郊外の廬溝橋で日中両軍の軍事衝突が起き(廬溝橋事件)、日中戦争へ突入した。国民政府は重慶へ移り、抗日戦争を継続する。

中華人民共和国(1949)

 '45年日本が降伏して第2次大戦が終了すると、再び国民党と共産党は内戦を再開する。一時、アメリカの調停で停戦が成立('46年)したが、国民党の破棄で再び内戦となった。'47年に入ると共産党の人民解放軍が総反攻を開始、国民党軍を敗走させ、解放区で土地改革を行って共産中国を拡大していった。
 '49年、北京で中華人民共和国の建国を宣言、国家主席に毛沢東、首相に周恩来が就任した。自由主義、土地解放を柱とした新民主主義を提唱し、労働者・農民を基盤とする社会主義国の成立だった。蒋介石率いる国民党は、中華人民共和国成立後台湾へ逃れ、中華民国(国民政府)を継承した。反共政策をとっていたアメリカを含む西側の支援を受け、その後長らく中国の正統政権とみなされて、国際連合の安保理常任理事国であった。

 中華人民共和国では第1次五カ年計画('53〜)で工業化の基礎を固め、第2次五カ年計画('58〜)では人民公社による農業の集団化が進められた。これは「大躍進」と呼ばれ、農業の生産目標が高められたが、結果は農村が荒廃した。毛沢東は批判され、'59年国家主席を引責辞任した。
 代わって国家主席となった劉少奇は、人民公社によらない農業政策を目指したが、毛沢東は政権へのカムバックのため、'65年から社会主義革命の徹底を掲げた「文化大革命」を推進、民衆を利用して政権奪取に邁進した。'66年からは学生を主体に紅衛兵が組織され、彼らによって資本主義者、反毛沢東派、果ては嫉妬の対象となる人物までが自己批判を行わされた。これで自殺したり、リンチで殺害したりされたりした人は数百万から数千万にのぼるといわれ、経済活動は停滞した。
 さらに'67年中央にも文化大革命の嵐が押し寄せ、劉少奇やケ小平らが走資派(資本主義を走る者)と断罪され、党籍を剥奪、公職を追放された。
 '69年には毛沢東−林彪の文革ラインとなり、林彪は毛沢東の後継者とされたが、林彪はクーデタを企てたとされ、ソ連への亡命途上モンゴルで墜落死した。真相は今もって謎だ。ともあれ、文化大革命は毛沢東が政権への執着から起こしたもので、現在の中国では公式に否定されている。

 '76年周恩来首相死去、民衆は天安門広場の周恩来碑文に花輪を捧げたが、当局によって撤去され、騒乱となった。この騒乱は毛沢東体制への拒絶であったため、徹底的に弾圧された(天安門事件)。この責任を追及されて、生前の周恩来を補佐したケ小平が三たび失脚した。しかし、9月毛沢東死去、ケ小平によって夫人の江青ら四人組が逮捕され、失脚した。
 '77年にはケ小平が毛沢東死後主席となっていた華国鋒から実権を奪って復権し(ただし華国鋒は国家主席のまま)、'78年ケ小平は毛沢東を批判、大きな政策転換を図り、門戸開放策をとった。また、農業、工業、国防、科学技術の現代化(四つの現代化)を掲げた。
 '80年経済特区を設置し市場経済を実験、'89年には第2次天安門事件が起きるが、'92年には社会主義と市場経済を融合させる「社会主義市場経済」を正式に採用した。'97香港返還を目前に死去した。ケ小平は国家主席にはならず、軍部の首脳(中央軍事委員会主席)として君臨した。三度の失脚にも拘わらず復権したため、起き上がり小法師と言われた。

 ケ小平死後、江沢民主席が後任となった。江択民はケ小平路線を継承、特に経済の改革開放が進み、安い人件費を生かした工場誘致で「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長した。ただ、急激な経済成長に伴う貧富の拡大や環境汚染が問題となってきている。
 '97年ブリテンから香港が、'99年にはポルトガルからマカオが返還され、中国経済の牽引都市になっている。江沢民は2004年までに党総書記、国家主席、党中央軍事委員会主席を辞任、後任は胡錦濤となった。

台湾

 台湾はネーデルラント東インド会社の植民地時代(1624〜62年)、鄭成功時代(1662〜83年)、清朝統治(1683〜1895年)、日本統治(1895〜1945年)、中国国民政府統治を経、1949年蒋介石国民政府が台湾に逃れて、長らく中国の正統政権と見なされていた。
 しかし'71年国連総会で、国民政府は「中国」の代表権を喪失、同時に国連から脱退した。以後欧米日が中華人民共和国と国交を樹立、台湾はこれら諸国と国交を断絶した。
 '96年、李登輝が国民の直接選挙によって総統に選出され、この時点から国民党の一党独裁体制は終わった。2000年総統に民主進歩党の陳水扁が選出され、国民党が初めて野党となった。

 台湾経済は、ベトナム戦争の際、アメリカが戦略物資を台湾から調達したため飛躍的に発展した。また、政府は軽工業から重工業への転換を図り、積極的な産業政策を打ち出した。特に半導体産業の育成は成功を収めた。