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23.中華帝国の崩壊

清略史

 1616年女真族建州部のヌルハチ(太祖)は女真族を統一、国号を金(後金)とした。2代ホンタイジ(太宗)は内モンゴルを征服し、国号を清と改めた。
 一方、明は万歴帝の治世後半から、宦官の専横、農民反乱が続発し、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592,97年)で朝鮮を支援したための軍事費負担などが重なり、農民反乱を激化させていた。ついに1644年、李自成率いる農民軍が北京を占領、皇帝が自殺して明が滅亡した。

 清3代順治帝は李自成を追って北京に入城し、首都を瀋陽(シンヨウ)から北京に移し、清帝国が成立した。このとき、明の武将だった呉三桂は、その後の清の統一を援助したため、他の漢人武将2名と共に、華南に封建された(三藩という)。
 4代康煕(コウキ)帝は、三藩の廃止を計画し、呉三桂らは反乱を起こす(1673-81年、三藩の乱)。これを鎮圧し、清は中国の直接支配を完成した。康煕帝の1689年、南下するロシア(ピョートル1世)とネルチンスク条約を結び、国境を画定した。
 康煕・雍正(ヨウセイ)・乾隆(ケンリュウ)帝三代が、清の最盛期だ。この時期、モンゴル、チベット、東トルキスタンを征服し、元に次ぐ大帝国を形成した。また、李氏朝鮮、ベトナム(越南国阮朝)、タイ(チャクリ朝(現王朝))などが属国となった。

 清の内政は明の政治制度を全面的に継承するが、中国本土以外のモンゴルなど征服地を藩部とし、これらの行政を理藩院が統括した。兵制は八旗制を導入し、漢軍、満州、蒙古にそれぞれ八旗を置いた。税制では地丁銀という制度を採用した。丁銀は人頭税、地銀は土地税だ。また朱子学者に余計な考えを起こさせないようにするため、編纂事業に従事させた。康煕帝の「康煕字典」、雍正帝の「古今図書集成(百科事典)」、乾隆帝の「四庫全書(図書目録)」などだ。弁髪を強制し、反清思想を厳しく弾圧した。

 乾隆帝治世末期から、清は衰退へと向かう。乾隆帝の寵臣和?(カシン)は権力を乱用して莫大な私財を蓄えた。これによって帝国の隅々まで賄賂が横行し、腐敗が蔓延して、農民は重税の取り立てに苦しんだ。
 乾隆帝死去の翌1796年から(嘉慶帝、在位1796-1820年)、白蓮教徒の乱が起き、多くの農民が参加、鎮圧に10年を要した。八旗兵は腐敗して役に立たず、地方の地主たちが組織した郷勇という義勇軍が正規軍よりも活躍して、ようやく乱が鎮圧された。清朝は郷勇を公認することになり、軍隊を持った地主は軍閥として成長することになった。

アヘン戦争(1840-42)、アロー戦争(1856-60)、太平天国(1851-64)

 17c後半イングランド東インド会社は、毛織物販売を目的に中国に来航したが、毛織物は売れず、その後中国茶の輸入で貿易を継続した。茶はカリブ海からもたらされた砂糖を入れて飲まれるようになり、次第に普及していった。18c後半になると、入超の茶に対して何らかの輸出品が模索され、インドのアヘンに目がつけられた。もっともアヘンはすでにポルトガル人によって中国にもたらされており、東インド会社はこれを茶の輸入に見合うほど大量に行うことになった。しかし中国はアヘンを禁止していたから、東インド会社は直接手を下さず、民間商人を使って密輸でこれを輸出した。こうして茶をブリテンに送り、本国の綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国へ送る三角貿易が始まった。

 1793年ブリテンは中国と条約を締結して貿易を安定させることを目的に、マカートニーを全権とする訪問使節を送った(当時乾隆帝)。しかし、ヨーロッパの条約体制とは異なる「朝貢体制」が古くから存続する中国では、使節は朝貢使節として扱われ、貿易は恩恵的に許されるものでしかなかった。このため、条約締結は相手にもされず拒絶されてしまった。その後も使節は送られたが、失敗に終わっている。
 条約は締結されなかったが、貿易は行われた。ヨーロッパ船の来航は広州(ブリテンではカントンと呼んだ)に限定され、貿易は「行商(コウショウ)」という中国側の特許商人が担当した。これを「カントン体制」と呼ぶ。

   アヘン中毒者が急増し、アヘン流入量が増大した結果、1827年頃から銀が中国から流出し始めた。アヘン戦争直前アヘン流入量は年間4万箱にまで増大したという。今や中国にとってアヘン問題は、財政上の大問題となった。そこでときの道光帝(在位1821-50年)は、改革派官僚のリーダー格だった湖広総督林則徐を欣差大臣(特命全権大臣)として広州に派遣した。'39年林則徐は2万箱のアヘンを没収・廃棄した。
 アヘン貿易の危機に対して、ブリテンではパーマストン外相(首相はメルボーン)が砲艦外交を主張し、中国遠征軍派遣を決定した。遠征軍に伴う特別財政支出の議案を議会に提出した際、後に首相となるグラッドストーンはこの戦争を「永遠の不名誉を残すことになる」と反対したが、政府案は可決された。
 こうして始められたアヘン戦争('40-42年)は、東インド会社の武装汽船の活躍、長江と合流する大運河の閉鎖など、ブリテンの圧倒的軍事力の前に清朝が屈服した。

 '42年ブリテンは南京条約で、香港の割譲、上海など5港の開港、行商の廃止、1800万両という多額の賠償金を約束させ、翌年には領事裁判権、最恵国待遇などの不平等条項を認めさせた。カントン体制は解体すると共に、敗北に懲りた清朝によってアヘン貿易は黙認されることになった。さらに清朝の敗戦は東アジア国際秩序であった朝貢体制を動揺させた。
 また翌年には、アメリカ、フランスとも南京条約に準じた条約を締結させられ、各国は中国内に、自国の行政権を行使する租界を設置して、中国進出への足がかりを作った。
 他方、列強の進出は一方で中国の近代化を推し進めた。上海は元々江南最大の都市だった蘇州に次いで交易で繁栄していたのだが、南京条約で5港が開港されると、長江河口に近い上海には、中国の主権が及ばないブリテンの租界が設置され、アメリカやフランスも続いて租界を設置した。大平天国の乱の際には、戦乱を避けて中国人も租界に避難し始め、やがて東アジア一帯の国際交易の一大中心となった。

 続いて'56年香港籍つまりブリテン船籍アロー号の中国人乗組員が、海賊容疑で清朝官憲に逮捕された。ブリテンはアヘン戦争後も対中関係に不満を抱き、何かことあれば再び遠征軍を派遣するつもりだったので、アロー号事件は言いがかりをつけるよいきっかけとなった。
 首相となったパーマストンはただちに武力行使の議案を議会に提出、上院では通過したが下院で否決されてしまったため、下院を解散、総選挙を行って議案を通過させた。そうしてフランス・ナポレオン3世に共同出兵をもちかけ、インドシナ進出を企図したナポレオン3世の同意を得た。'57年英仏連合軍がカントンを占領してアロー戦争(第2次アヘン戦争ともいう)は開始された。
 連合軍が北京に迫ると、大平天国の内乱に苦しんでいた清朝(当時咸豊(カンポウ)帝、在位1850-61年)は、いったん天津で講和条約('58年)を結んだが、清朝側が批准書交換の英仏使節を攻撃したため('59年)戦いが再開され、'60年英仏連合軍は円明園を略奪・破壊した後北京を占領、'60年新たに北京条約が結ばれた。

*天津条約は'58年露米英仏との間で締結され、これら諸国は続いて日本と修好通商条約('58年、日本では蘭を含み安政五カ国条約という)を締結した。

 北京条約では、11港の開港、内地旅行権、外交使節の北京常駐権、キリスト教布教の自由、九龍島南部のブリテンへの割譲、賠償金800万両などを認めさせ、さらにブリテン国内やアメリカなどからの非難をそらすため、条約そのものでなく上海の税則会議という狡猾な手段でアヘン貿易が公認された。

 一方国内で発生した空前の内乱大平天国とは、洪秀全によって組織されたキリスト教結社・上帝会が'51年挙兵、太平天国という国を樹立して、清の支配を倒そうとしたものだ。'53年に南京を陥し、天京と改称して首都とした。参加者は清の弁髪を拒否し、長髪にした。またこれに呼応するかのように、各地にさまざまな反乱が続発し、全中国は騒然となった。これらの反乱は、清国内部の腐敗に加え、アヘン戦争後の賠償金が民衆に重くのしかかったためだ。
 アロー戦争中も太平天国の乱は継続していたが、腐敗した八旗兵は敗走を重ね鎮圧に手こずったため、清は嘉慶白蓮教徒の鎮圧にならい民間の軍事力に頼った。その中心を担ったのが儒学者官僚でもあった曽国藩の湘軍やその配下の李鴻章・淮軍だ。ブリテンもアロー戦争後の天津・北京両条約で、所与の目標をひとまず達成したため、一転して大平天国の乱に苦しむ清への支援を鮮明にした。清の滅亡で既得利権を失うことを恐れたためだ。このため列強と共に外人部隊常勝軍('63年から英ゴードン将軍が司令官)が太平天国の討伐に参加した。太平天国側では、洪秀全が専制君主化し、さらに内部分裂で弱体化して、徐々に領土を失い、'64年湘軍の天京(南京)攻撃により陥落、滅亡した。

 大平天国の乱の最中、'61年咸豊帝が熱河の離宮で病死し、幼帝(同治帝、在位1861-75年)の実母西太后と恭親王奕?(キョウシンノウエキキン)がクーデタにより実権を握った。これ以後咸豊帝の皇后(東太后)と西太后の後見になる垂簾政治が行われた。奕?はその後'65年、'74年に西太后に排斥されるが、東太后のとりなしで復職した。
 同治帝が'75年死去すると、光緒(コウショ)帝(在位1875-1908年)が即位した(咸豊帝の弟と西太后の妹の間の子、西太后推薦による)。引き続き西太后と東太后の後見になる垂簾政治が行われた。しかし'81年東太后死去、東太后の後ろ盾を失った恭親王奕?は、'84年清仏戦争の責任を押しつけられ三度失脚した。保守派の代表だった西太后は、洋務を北京から遠ざけて地方大官にまかせ、宮廷の尊厳を守ろうとした。このため清朝の実質的な外交窓口は、北洋大臣の李鴻章が行うこととなる一方、北京はしばしば李鴻章の現実主義的政策決定を批判した。

*清仏戦争:インドシナに進出したフランスとヴェトナム阮(グエン)朝に対する宗主権を主張する清朝の戦い。'82年劉永福率いる黒旗軍がソンコイ河流域の鉱山を調査していたフランス隊を妨害したことをきっかけに交戦し、'84年一時協定を調印したが、撤兵に関する部分が不明確だったため、同年再び戦争に逆戻りした。これより清仏戦争が始まる。戦争中両国はヴェトナム北部で戦うと共に、フランス艦隊が台湾の基隆(キールン)攻撃、澎湖(ホウコ)島占領などを行い、清朝は主戦論・和平論が対立する中、結局和平を決断した。'85年天津条約で清朝はヴェトナムに対する宗主権を放棄させられ、フランスは'87年フランス領インドシナ連邦を結成した。

*洋務(運動):60年代、曽国藩・李鴻章ら主として地方大官の洋務派を中心に「洋務運動」という名の近代化が始まった。これは武器、製鉄、紡績、運輸、電信など近代工業を導入するものだったが、保守派の抵抗を受け十分な成果を上げることができなかった。
 これに対して南京条約後の開港直後からジャーディン・マセソン商会、デント商会など、アヘン貿易でのし上がった商社が営業を行い、'70年頃からこれら外国商社は中国沿海の各港を結ぶ沿岸航路、やがて長江にも汽船を運航し(船舶業)、さらに製糸工場や紡績工場を建設、銀行が作られ、これら外国企業によって中国の近代化が実行された。
 しかし近代化の要となる鉄道は、'76年上海−呉淞間に中国最初の鉄道がひかれたが、民衆の生活を脅かすとしてまもなく取り壊された。鉄道が墓地や風水を乱すと考えられたためだ。この鉄道が改めて建設されたのは'98年になってのこと。また日清戦争以前に敷設された鉄道は、'81年の唐山−胥各荘間、'91年台湾鉄道のみだった。

 '87年以後光緒帝の親政が始まるが、実権は北京郊外の頤和(イワ)園を隠居所とした西太后にあった。頤和園の改修のため、北洋艦隊の予算のかなりの部分が消費されてしまった。また、官界の腐敗・賄賂の横行がますます目立つようになった。

日清戦争(1894)

 朝鮮で1894年東学党の乱が勃発したとき、朝鮮政府は宗主国清に対して援軍を要請した。袁世凱の清軍は朝鮮に出兵し、'85年の天津条約に基づいてこれを日本に通告した。一方日本は居留民の保護を名目にして朝鮮に出兵し、これをやはり清朝に通告した。ところが反乱軍と朝鮮政府は和約を結び、清朝の援軍は必要なくなった。しかし日本政府は日清同時撤兵を拒否、朝鮮をめぐる日清間の問題に決着をつけるべく清との戦争を決意した。開戦の口実をつけるため、大鳥圭介公使は朝鮮政府に対して内政改革案を突きつけると共に、清との宗属関係の廃棄を迫った。さらに日本軍は王宮を占拠、閔氏政権を倒し、大院君をかついで執政とする傀儡政権を樹立した。

 この結果日清両国は互いに宣戦布告(日清戦争)、平壌で両軍は対決し、僅か1日で山県有朋率いる日本軍が大勝した。黄海の海戦においても、日本軍は清の最新鋭鑑に大損害を与えて勝利した。そのさなか'94年秋、頤和園では西太后の60歳誕生日を祝う盛大な祝典が行われていた。
 '95年日本全権伊藤博文と清国全権李鴻章が下関条約を締結、清は朝鮮の独立承認、日本に賠償金2億両を支払い、中国4港の開港、遼東半島・台湾の日本への割譲などを約束させられた。ただし、遼東半島は露仏独三国の干渉により、3000万両と引き換えに清国に返還した(三国干渉)。

 三国干渉を契機に、それまで周辺の朝貢国を標的としていた列強の矛先が、再び中国そのものに向かい、列強による熾烈な利権獲得競争が展開されて、帝国主義の主要な舞台となっていった。日清戦争中から清朝は列強から多額の借款を受けていたが、借款を通じて列強は鉄道敷設権と沿線の鉱山採掘権を獲得していった。
 ロシアは三国干渉の見返りに東清鉄道の敷設権を得、また日本に返還させた遼東半島の旅順・大連を租借地として獲得、旅順には軍港を建設した。ドイツが膠州湾南部、ブリテンが威海衛と九竜半島、フランスが広州湾をそれぞれ租借した。アメリカも1899年国務長官ヘイが中国への遅れを取り戻すべく門戸開放宣言を行い、中国の権益獲得に乗り出していった。

 さらに日清戦争により清朝の威信は大きく低下、アヘン戦争以来動揺し続けていた朝貢体制が崩壊した。
 '98年光緒帝は康有為が提唱する変法を採用し、次々に改革の上諭を下したが(戊戌の変法という)、立憲君主制の樹立などそれまでの行政機構を全面的に改変してしまうため、現実にはほとんど実践されることはなかった。西太后はその混乱を見て、再び垂簾政治を開始、康有為は日本に亡命、以後光緒帝は死ぬまで親政の機会を与えられなかった(戊戌の政変)。

  義和団事件(1900)

 戊戌の政変直後、伝統的な社会が動揺し、価値観がおびやかされいてく事態の中で、民衆の大規模な争乱が勃発した。義和団事件という(1899-1900年)。義和団は西洋人の追放、キリスト教や西洋文明の拒否、さまざまな近代的施設の破壊を行った熱狂的な民衆蜂起で、「扶清滅洋」をスローガンに掲げた。
 義和団は1900年山東から北上し、天津を経て北京城に招き入れられ、また各国の公使館などを襲った。西太后の清朝政府は義和団を利用して列強を追い払うべく、列強に宣戦布告した。しかしこの宣戦は地方大官に無視され、地方はむしろ列強と強調した。
 列強は日本やロシア軍を主力とする英仏露など8カ国の連合軍を組織、翌月には天津を攻略、北京を占領し、各地の義和団も鎮定した。二ヶ月後に清・連合軍間で北京議定書が結ばれ、列強は多額の賠償金を課すと共に、北京及び周辺の要衝に軍隊を駐留させる権利を得た。これを日本では北清事変と呼ぶ。こうして清朝は決定的に列強に屈服した。

辛亥革命(1911)、中華民国の成立(1912)

 義和団事件後'01年、西太后はやむなく戊戌政変で切り捨てた変法への舵取り修正を行った。これは「日本モデル」の導入を軸とした政治・行政改革だった。当時の年号にちなみ「光緒新政」と言われる。'05年には翌年以降の科挙廃止、教育制度の近代化を目指した。しかし、膨大な賠償金を課せられている中で財源を確保するため、増税に転嫁するしかなかったので、全国各地に新政反対の蜂起が起こった。

 ここにおいて孫文は清朝の打倒を唱え、「三民主義」を著し、革命の要として民族主義・民権主義・民生主義を唱えた。これは後に蒋介石によって継承され国是とされた。'05年孫文は来日中の東京に於いて中国同盟会を結成、三民主義を綱領として掲げた。中国同盟会に結集した革命派は、その後華南・華中の各地で武装蜂起を行ったが、失敗を繰り返した。一方勃興しつつあった中国の民族資本家を中心に、やはり'05年以後鉄道利権などの回復運動が行われていた。しかし両者は共闘することなく推移した。
 こうしたなか、'11年清は米英仏独の四国からの資金借入れの担保にする目的で、幹線鉄道の国有化を宣告した。これに対し、鉄道建設や利権回収運動に従事していた中国資本家や国民が激怒し、辛亥革命が勃発する。
 革命の火の手は武昌(湖北省)から上がり、たちまち全国に広がり、わずか1ヶ月の間に大部分の省が独立宣言を発し、米英遊説の旅から帰国した孫文を臨時大総統に選出、'12年1月南京で中華民国が建国された。清朝は袁世凱を総理大臣に任命して全権を与えた。

*袁世凱:李鴻章が'01年死去した後、その部下だった袁世凱が後継者として直隷総督兼北洋大臣になった。'08年光緒帝、西太后が相次いで死亡し、宣統帝溥儀(在位1908-12年)が即位すると、皇族や高官たちに忌避され下野していた。

 しかし、権力に野心を抱く袁世凱は、革命政権と取り引きし、宣統帝を退位させ(これにより清朝滅亡)、共和制の実現を条件に自ら中華民国の臨時大統領に就任した。そして、野に下った孫文ら革命派の弾圧に乗り出し、孫文は日本に亡命、袁世凱の独裁政治へと進行する。
 続いて袁世凱は、'13年大総統に就任、国会を停止し、'15年には自ら帝位に就くことを宣言した。これには内外の反対が集中、各地で暴動が起こり、'16年帝政の取り消しを発表、同年失意のうちに病死した。
 袁世凱死後、各地には軍閥が割拠する。軍閥は旧体制を維持し、列強は利権を守るため彼らを支持した。こうして中華民国政府は、列強の力を背景とした軍閥政権に悩まされることになる。