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18.合衆国南北戦争以後

自由州(北部)と奴隷州(南部)の確執

 かつて13植民地すべてに奴隷は存在した。しかし独立戦争(1776年)から合衆国建国に至る10年間に、北部から中部の諸州は奴隷制を廃止する動きを示した。
 しかし1788年に制定された合衆国憲法は、奴隷制を暗黙のうちに容認していた。その当時6州にあった奴隷制を、連邦形成の目的のため必要不可欠な政治的妥協として承認したからだ。憲法は明確に奴隷という言葉を使わない。例えば第1条は下院の議席を各州に割り当てる算出基準となる人口数にふれ、「自由な人間」と「その他の人間」に分け、「その他の人間(つまり奴隷)」を「自由な人間」の3/5で計算するとした(3/5条項と言われる)。
 1791年合衆国憲法は、10カ条の修正条項を追加した。通常権利章典と呼ばれる。その第5条では、「いかなる人間も、法の適正な手続きなしに生命・自由または財産を奪われることはない」と規定した。それにも拘わらず合衆国社会は、「いかなる人間も」とは合衆国市民を意味する表現であって、奴隷は市民とは見なされないと解釈し続けた。

 さらに1790年代以降、南部諸州では多くのプランテーションが生産品をタバコから綿花に切り替えていった。この綿花プランテーションは、イギリスの産業革命とりわけ綿紡績工業の興隆により、その原料供給地として特化したことに始まる。
 奴隷労働力は綿花プランテーションにとって、労働力が不足気味だった新開地で、決定的に有利な労働システムだった。奴隷労働の徹底した搾取により、プランテーションは高い収益性をあげることができたため、以後南部諸州は奴隷制に固執することになる。
 1800年代に入ると南部諸州は、奴隷制を抱えて西に向かって大きく膨張していった。ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマといった地域、さらには国境を越えテキサスにまで、奴隷を連れて進出していった。南部の拡大によって、奴隷州として州に昇格していくと、連邦上院における奴隷州議員が多数派を形成し、北部自由州との勢力バランスが崩れる(上院は各州1名選出)。こうして従来奴隷制を容認してきた北部自由州は、南部奴隷州の勢力拡大を阻止しようとした。そこで'08年、連邦法は奴隷貿易禁止を定めたが、無視されることが多いばかりでなく、南部諸州は奴隷法(スレープコード)という州法の体系を作っていった。

 1820年ミズーリの州昇格に際して、南北議員が激しく応酬した結果、北緯36度30分をもって奴隷制の境とし(ミズーリ協定)、ミズーリは自由州となった。
 しかし'45年テキサス併合に際して南部が巻き返しを図り、ときのタイラー政権(国務長官カルフーン)は奴隷制を積極的に承認し、メキシコ領土への侵攻は奴隷制の拡大という明確な意図の下に推進された。
 ところがメキシコ戦争に続くカリフォルニアの州昇格問題では、殺到する新住民たちが奴隷主のために黒人が金鉱を掘り当てることを嫌ったことで、奴隷制反対の気運がカリフォルニアを席巻した。このときペンシルヴァニア州選出の下院議員ウィルモットにより、メキシコ領土からの割譲地は奴隷制をいっさい禁止するという法案が提出(ウィルモット条項と呼ばれる)され、南部は激しく反発したが、結局カリフォルニアは自由州となった。
 一方'53年旧ルイジアナの未だ未組織の領土を、カンザスとネブラスカとして準州組織を目指す法案がイリノイ選出上院議員ダグラスから提案され、翌年、奴隷制は州に編入する際それぞれの住民の意思で決めるというカンザス=ネブラスカ法が成立した。ダグラスは大陸横断鉄道建設を推進しており、そのためこの地に州を組織する必要があって奴隷制問題で南部に妥協したのだったが、これにより'20年のミズーリ協定が無効となってしまった。
 カンザス=ネブラスカ法の成立を機に、'54年サーモン・チェイスらが檄を飛ばし、奴隷制の拡大を阻止すべく自由土地党、北部ホイッグ党系勢力が結集して、新たに共和党として発足した。

   *アメリカ政党政治は、1800年以降フェデラリスト党が衰退するなか、リパブリカン党はやがてジャクソン、ヴァンビューレンら民主党とアダムズ、クレイらのホイッグ党に分裂していた。ウィルモット条項の対処を巡り、既存二大政党のうち民主党は分裂、民主党創設者の一人ヴァンビューレンは、北部勢力を新たに自由土地党として集結、ホイッグ党からもこれに参集する動きが見られた。

 '57年連邦最高裁は、自由州での居住を根拠に自由身分への解放を求めた奴隷ドレッド・スコットの訴えに対し、憲法は奴隷を財産として認めているとし、連邦議会が奴隷制に対していかなる規制も加えることができない、として退けた(ドレッド・スコット判決)。そのため、共和党は憲法の修正をも視野に入れ、もはや南部の支持を見込まず、北部から中西部の自由州において、多様な要求を取り込み支持層を拡大していった。例えば産業活動が活発化したことを受け大陸横断鉄道など内陸交通手段の改善、関税引き上げ(注)、自営農地法案(中西部での要求が大きかった)の推進などを盛り込んでいった。

*このため南北戦争は、保護主義を唱えた北部の工業家と、綿・たばこを輸出する南部の自由貿易主義者との対立という見方もある。

 こうした明確な共和党の戦略は、南北の対立を抜き差しならないものとした。'60年大統領選挙に向け、共和党がいち早くリンカーン(イリノイ選出上院議員)を指名したのに対し、民主党は引き続きカンザス=ネブラスカ法方式(住民主権論)を主張する多数派がダグラス、南部急進派はもはや全テリトリーに奴隷制を認めるべきとして独自にブレキンリッジを候補とした。このとき、南部急進派はすでに連邦に残るべき意義を見い出せず、南部のみで奴隷制を基盤とした新国家建設構想を持っていた。

南北戦争

 大統領選挙はリンカーンの勝利となったが、'61年サウスカロライナを筆頭に、ジョージア、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサス、フロリダが連邦を離脱、アメリカ連邦(南部連合)を結成し(南北戦争勃発後ヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーが加わり、11州となった)、首都をリッチモンド(ヴァージニア)とした。そのリッチモンドと合衆国の首都ワシントンとは、わずか150キロばかりの目と鼻の先にあった。
 これに対して、連邦に残ったのは23州、ミズーリ、ケンタッキー、デラウェア、メリーランドなどの境界地域にあった奴隷州も含まれていた。リンカーン政府は、南部の行為を合衆国に対する反逆行為と見なし、「合衆国は合衆国人民を主権者とし、連邦政府は人民を代表する」として、それまで根強く残っていた諸州の契約としての州権論的連邦政体論を否定した。

   かくして南北戦争は、'61年サウスカロライナにあった連邦海軍基地サムター要塞の明け渡しを、リンカーンが断固拒否し、南部連合軍が要塞を攻撃して始まった。要塞守備隊はまもなく降伏、リンカーンは連邦軍の動員を命じた。
 戦闘はワシントン・リッチモンド間で幾度となく行われ、名将ロバート・リー将軍を擁し、士気の高かった南部連合が善戦した。また、新式の連発式ライフル銃が導入され、塹壕掘り・土塁構築など近代的戦闘へと進行、犠牲者が多大なものとなって、南部連合が開戦1年後には徴兵制を導入、北部連邦側も1年遅れで徴兵制を導入した。最終的には北軍200万人、南軍70万人が徴兵された。
 '62年9月メリーランド州北部アンティタム渓谷の戦いでは、両軍の1日の死傷者2万人以上、'63年7月ペンシルヴァニア州ゲティスバーグの戦いでは3日間で4万6千人の死傷者を出す、大規模な戦闘となった。
 これらに連邦軍が勝利し、戦局は徐々に合衆国有利の展開となり、'65年南部連合のリー将軍が降伏して、南北戦争は終結した。

 戦争中、連邦軍が奴隷地域に侵攻したとき、多くの黒人が奴隷から解放されたとして保護を求めた。当初リンカーン政府は、テリトリーとしての奴隷州の拡大に反対だっただけで、奴隷制廃止を積極的に推進する姿勢ではなかったが、連邦軍の前進は奴隷制廃止論者を勢いづかせ、事態は奴隷制解体に向かって動き始めた。かくして'63年初頭リンカーンは奴隷解放宣言を発した。
 しかし、400万人に達していた(1800年時点で約90万人だったのでいかに急激な増加だったかが分かる)解放奴隷を、合衆国社会がどのようにして新しい社会成員として受け入れるのか、ということが現実問題として残っていた。
 ひとつの考えとして、解放した黒人をもはや合衆国には不要として、国外へ移住(植民)させるという構想があった。すでに1810年代から一事業として続けられており、アフリカ・ギニア湾岸にリベリアという植民地を確保し、解放黒人を送還していた。しかし、この植民計画は解放黒人が嫌ったこと、費用が莫大にかかるため、50年間にたった1万人程度の黒人しか移住させることができなかった。よって、こうした計画はあまりにも非現実的、政治的に不可能なものとして退けられた。

 さて、リンカーンは戦争終結後わずか6日で暗殺され、新大統領となったのは南部テネシー出身で、民主党票取り込みの故に副大統領となっていたアンドルー・ジョンソンだった。
 ジョンソンは、南部の連邦復帰を早めるため、奴隷を除く財産権を保障する一方、奴隷制を廃した州憲法であれば、戦前の州憲法採択を南部州に認めた。こうした南部再建政策には共和党が激しく反発、その後大統領の南部再建政策のやり直しを決定することとなった。
 共和党が議会を牛耳った結果、'65年奴隷制廃止が憲法修正第13条として可決された。また、翌年には「市民は人種、肌の色にかかわりなく生命、自由、財産を不当に奪われることがない。」と謳い、ドレッド・スコット判決を明確に否定した憲法修正第14条を可決した。
 またジョンソンが連邦復帰を認めた南部諸州を再び軍政下に戻し、州憲法で、解放黒人への参政権、憲法修正第14条の批准を行わせた。

 解放黒人の多くは、ジョンソンによって財産権が保障されたプランターの下で、小作として綿花の生産に従事することになったが、彼らは互いに力を合わせ独自の教会を設立したり、彼らのコミュニティを作り、さらに教育の機会の場を公共機関に働きかけた。しかし、黒人の権利要求は常に白人と衝突し、南部の人間関係は醜悪なものとなっていった。権利要求や白人になれなれしくする黒人を見境なく攻撃対象とする秘密結社クー・クラックス・クランが広がったのは'67年からだった。
 これに対して連邦議会は、'69年「人種の別なくすべての合衆国市民に選挙権を保障する」憲法修正第15条を成立させ、'70年には連邦軍がクー・クラックス・クランの武力鎮圧を行うことを認める「強制法」を成立させたが、焼け石に水だった。
 しかも圧倒的な支配政党だった共和党も、南部再建政策に多くの財源がかかったことから、次第に求心力を失い、南部では'70年頃から州の権利と強い自主性を主張する民主党にとって代わられていった。民主党が復活したことにより、以後共和党と民主党の二大政党制となり、北部・中西部で優勢な共和党、南部で優勢な民主党の構図となって、現在に及んでいる。
 南部では民主党が復活した結果、'81年以降再び黒人の選挙権を奪い(人頭税の納付や読み書きを投票条件とすることで剥奪した)、社会生活上もことごとく分離し差別する州法規定が作られ、'90年以降南部各州で本格化した。さらに連邦最高裁判決が、人種によって施設を分ける法制度に対し「分離すれども平等」との承認を与えた('96年)。これをジムクロウ制度といい、南部に第2次大戦まで存在したのだった。

近代的産業国家へ

 南北戦争後、アメリカの国家的統一が大いに進められ、連邦政府の権限が強化されると共に、国民の意識も州意識から、アメリカ人としての意識へと変容していった。一方で戦後、アメリカの工業は飛躍的に発展することになり、19c末までに世界有数の工業国となっていく。

 戦後の発展の要は大陸横断鉄道の完成だった。'69年オマハ〜ソルトレイクシティ(ユタ州)のユニオン・パシフィック鉄道と、カリフォルニア〜ソルトレイクシティのセントラルパシフィック鉄道が連結、大陸横断鉄道が完成した。
 この鉄道建設のため、鉄道会社は連邦政府から莫大な土地と補助金を獲得し、アイルランド系移民や中国から輸入した苦力(クーリー)を、彼らの屍が枕木になったと言われるほどに酷使し、ロッキー山脈や砂漠を横切る難工事を驚くべきスピードで仕上げていった。
 その後合衆国鉄道網の拡大は、最初の大陸横断鉄道完成後80年代半ばまでのわずか15年の間に、5本もの大陸横断鉄道が次々と完成した。また鉄道路線に沿って電信網も敷設され、'76年に電話が発明されると電話回線網も敷設されていった。

 都市部では'60年代以降、南北戦争による戦時景気もあって産業が飛躍的に拡大していたが、産業の拡大に伴い、基幹の鉄鋼産業ではアンドルー・カーネギーがカーネギー製鋼社(のちモーガン商会に売却されUSスティールとなる)、ミシンのシンガー社、電機産業のジェネラル・エレクトリック社、石油産業のスタンダード・オイル社などの有力企業が成長した。

 *これ以後、機械技術の無数の発明が行われた。ちなみにタイプライター('73)、電話('76)、エジソンの蓄音機('77)や白熱電灯('79)、万年筆('84)、機械計算機('87)、コダック(大衆)カメラ('88)、電機ミシン('89)などなど。

 都市の人口膨張は移民によって支えられた。'64年リンカーン政府が産業拡大に必要な労働力の確保を目指して移民局(情報や統計を主たる任務とした)を設置したことから、19c後半移民が大幅に増加したが、最初はアイルランド人、ドイツ人が多く、'80年代からはさらにイタリア人、東欧系ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人などからの移民が増加した。
 その後'75年に連邦移民法が成立、移民に紛れ込んでくる売春婦や犯罪者を締め出す規制を行った。また、鉄道建設で苦力として導入した中国系移民に対して'82年中国系移民排斥法が成立、ヨーロッパ系移民を奨励する一方、アジア系移民を排除する姿勢を明確な国家の意思行為とした。白人労働者の激しい差別感情を連邦政治が取り込んだ結果だった。

フロンティア

 この時期、西部地域ではフロンティアの精神が培われた。フロンティアとは、アメリカが植民地時代から西に常にあった未開拓の土地で、人々がこれから植民しようとする最前線を意味した。歴史学者ターナーによれば、アメリカ社会がヨーロッパ社会と異なるものとなったもっとも大きな要因は、フロンティアの存在にあり、フロンティアこそアメリカ民主主義を育んだ基盤に他ならない、という(「アメリカ史におけるフロンティアの意義」、1893)。
 南北戦争後、大陸横断鉄道敷設と共に、大草原地域は次々と定住地化された。'90年代までにネブラスカ('67)、コロラド('76)、ノースダコタ、サウスダコタ、モンタナ、ワシントン(以上'89)、ワイオミング、アイダホ(以上'90)、ユタ('96)が州に昇格した。そして'90年に行われた国勢調査の報告書は、この時点で未開拓地域は点在するものの、西部開拓のフロンティア・ラインがもはや存在しなくなったと記した。
 特に、南北戦争直後から'70年代後半までの15年ほどの短い期間だったが、牧場のあるテキサスからミズーリ州やカンザス州など鉄道駅のある場所まで、カウボーイが大草原を二ヶ月弱にわたって牛追いの旅に出る光景が見られた(ロングドライブという)。牛は鉄道駅からシカゴやセントルイスに出荷された。鉄道が敷設されるに従ってカウボーイは締め出されてしまったのだが、いまだにアメリカ人の郷愁を誘うシンボル的存在となっている。
 一方、この間にスー、シャイアン、アパッチといった平原インディアンも掃討されていった。

 フロンティア地域では、巡回牧師によるキャンプ・ミーティング、巡回裁判、サーカス、セールスマンが行う販売興業などが見られた。
 キャンプ・ミーティングとは、始めメソディストやバプティストといった小会派の信仰復興運動として1820年頃から東部農民や労働者に対して始まったが、次第にフロンティア地域に広まってエンタテイメントと化し、牧師はしばしば「地獄の業火」の恐ろしさを激しい身振りで語って、興奮をかき立てた。
 巡回裁判は、法廷を都市に固定しておいては開拓地に法の権威を及ぼすことができないため、裁判官が各地を巡回する必要に迫られて行われた。しばしば居酒屋が法廷となり、法律の知識などない陪審員に訴えるため、検察側も弁護側も表現が大袈裟になり、感情本位となる弊害が指摘されたが、住民にはこれも一種のエンタテイメントとなった。
 各地を回るセールスマン商売は、小説・伝記・物語歌などが書かれたチャップブックという小型の本や、薬売り、その他の日用品を売って回った。その中には、あやしげな見せ物仕立てで興行したものもあった。
 サーカスは、バーナムが'71年に、博物館的な見せ物と、曲馬団、動物園を一緒にして作り、'74年にはニューヨークに1万人を収容する大曲馬場(マディソン・スクエア・ガーデンの前身)を作った。以後このサーカスをつれて全国を巡業、豪華な装飾をほどこした鉄道で移動して、「サーカスが来た!」という言葉がアメリカの老若男女を興奮させた。

 都市部では人口が激しく膨張し、店舗が大規模化して、多様な商品を品揃えするデパートメントストア('70年代)や全国的なチェーンストア('79年以降)が登場した。マンハッタンとブルックリンを結ぶ当時世界最大の吊り橋ブルックリン・ブリッジ('83年完成)が建設され、ニューヨーク港には自由の女神(正式には「世界を照らす自由の像」、'86年)も完成した。この中で'93年シカゴで19c最大規模の万博が開催された。
 一方で産業の成長に伴い、過剰生産という問題も現れ、'73年合衆国は初めて激しい不況に見舞われ(〜'77年頃まで)、以後構造的なものとなった。
 また南北戦争後'90年頃までのこの時代を、マーク・トウェインの小説に名を借りて「金メッキ時代」と呼ぶこともある。表面は金色に輝いて見えるが、中身は安っぽい時代という意味だ。

世界強国としての台頭

 1890年代から、ヨーロッパ列強によるアフリカ、中東、アジアに向けた世界的な帝国主義への動きが活発化した。アメリカでは'98年、スペイン領キューバの独立運動を助けるという名目で、ときのマッキンレー(共和党)政府は、スペインに宣戦布告(米西戦争)し、キューバのみならず太平洋の彼方フィリピンにも艦隊を送り、マニラを制圧した。
 国務長官ジョン・ヘイは、パリ条約(同年)で、フィリピンをスペインから2千万ドルで譲り受けることを約し、またキューバの管理権とプエルトリコ、グアムを取得した。また同じ年ハワイも併合し、恒久的な海軍基地を建設した。
 ヘイはまた、中国に対する機会均等原則を主張した覚え書き「門戸開放通牒」を、英仏露独日に対して送付した('99年)。
 しかしマッキンレーは、1901年9月暗殺された。彼の後を継いだのは、同じく共和党でマッキンレーの副大統領だったシオドア・ローズベルトだった。彼もまた「強健な国家」を目指し、合衆国は20世紀初頭、世界強国として台頭した。

 ローズベルトは、「白色艦隊」と呼ばれる合衆国海軍の大艦隊を整備し、その政権末期にはイギリスに次いで世界第2位とされる海軍力を備えるに至った。
 艦隊増強とからみ、'03年パナマ運河建設を推進すべく、コロンビアからパナマを強引に独立させ、翌年パナマ政府との協定により、合衆国政府事業として建設を開始した('14年完成)。
 '02年にはキューバは独立したが、事実上は合衆国による保護国化だった。また、キューバ、パナマ、ドミニカといったカリブ海諸国に繰り返し、軍事的・政治的介入を行い、カリブ海全域に植民地化を伴うことのない勢力圏を拡大した。ローズベルトはその行動を、「文明的社会」を守るための合衆国の責任として正当化した。
 国内的には、議会における共和党の優位に支えられながら、大統領権限の強化、連邦行政活動の大幅な拡大を目指し、20世紀の新しい政治の流れを作り上げた。'02年にペンシルヴァニアで起こった石炭労働争議に対し、炭鉱経営者及び労働組合の双方の当事者に、争議調停役としての大統領の役割を認めさせたこと、シャーマン反トラスト法によって、特定企業を独占禁止規定違反で告発し、フロンティアライン消滅を転機に、連邦公有地を国有林または野生動物保護区として自然資源保存政策を打ち出したことなどだった。