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30.冷戦

冷戦の勃発

 敗戦国に対する戦後処理は、ドイツとオーストリアが米英仏ソの分割管理、日本は連合国の共同管理とされたが実際はGHQマッカーサー司令官が管理した。他の敗戦国イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーは、'46年パリ平和会議で講和条約を締結し、領土の喪失と賠償金支払いを課せられながらも、主権の回復をはたした。
 またドイツと日本の戦争責任を追求するため、史上初の国際軍事裁判が開かれた。ニュールンベルク裁判では、ナチス指導者22人が裁かれた。東京裁判では28人が裁かれたが、天皇と財閥は不起訴とされた。

 一方、ファシズムに対して民主主義が勝利したとされる第二次大戦だが、戦時中に妥協的に手を結んだ資本主義と共産主義が対立することになった。これは、ソ連の独裁者スターリンが武力をもって、東欧の共産化(ハンガリー、ブルガリア、ポーランド)を強力に押し進めたためだ。前英首相チャーチルは'46年「シュチェチンからトリエステまで、鉄のカーテンが下ろされている」と揶揄し、米トルーマン大統領は「トルーマン・ドクトリン」を発表、ギリシアとトルコの共産化とソ連の拡大を防止する「封じ込め政策」を基本方針とした。ここに西側と東側両陣営の分かれた冷たい戦争が始まる。

 '48年チェコスロバキアがクーデタにより共産化、同年ソ連は四カ国共同管理下の首都ベルリンへの交通を全面遮断(ベルリン封鎖)した。これに対して西側はベルリンへ物資を空輸し、封鎖の形骸化を行った。
 '49年アメリカを中心とする反共軍事同盟・北大西洋条約機構(NATO)が成立、対してソ連は'55年ワルシャワ条約機構を設立した。

国際連合(United Nations、UN)

 大戦中の'41年8月ルーズベルトとチャーチルは、早々と戦後のシナリオを検討し、戦後国際秩序と安全保障を定めた「大西洋憲章」を発表した。また、'44年8−10月にかけて、米英ソ中のダンバートン・オークス会議で、国際連盟に代わる国際連合を設置することが決まった。国際連盟の非力を反省して、五大国を常任理事国とする安全保障理事会を設置し、紛争解決のために経済制裁、軍事行動等の権限を与えた。'45年2月のヤルタ会談では、五大国の分裂を避けるため、常任理事国の拒否権を決定した。
 ドイツ降伏後の'45年6月国際連合設立、原加盟国は51カ国、'48年パリで行われた第3回総会の際に、基本的人権を謳った世界人権宣言が採択された。
 経済面では'44年7月のブレトンウッズ協定で国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行)が設立されることが決まった。

朝鮮戦争

 戦後北緯38度線を暫定境界線として米ソが分割占領した朝鮮は、'48年南半分に李承晩(イスンマン)を大統領とする大韓民国(資本主義)、北半分に金日成(キムイルソン)を首相(のち主席)とする朝鮮民主主義人民共和国(共産主義)に分立した。
 '50年6月、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国に侵入、3日後にソウルが陥落した。
 国連安保理事会は北朝鮮の侵略行為と断定し、韓国に対して軍事援助を決定する。ソ連は中華人民共和国の代表権を主張して欠席戦術をとっていたため、拒否権を発動できなかった。
 当初北朝鮮が優勢で、韓国を釜山周辺にまで追い込んだ。しかし、9月米軍主体の国連軍が仁川に上陸、北朝鮮の補給路を断って形勢が逆転し、10月には38度線を越え、平壌を占領、中国国境付近まで北朝鮮を追い込んだが、ここで中国人民義勇軍が参戦、再び国連軍は後退、翌1−3月ソウル争奪戦を経て、38度線付近で戦線は膠着した。
 4月国連軍最高司令官マッカーサーは、中国への爆撃と核兵器の使用を主張して、トルーマン大統領に解任された。ソ連の提案により6月から停戦会談が開始された。戦闘と休戦会談は並行して行われ、'53年7月板門店で休戦協定が調印された。しかし、平和条約は締結されないまま、現在に至る。

西側の戦後復興と経済統合

 アメリカは'47年欧州の復興を目指した「マーシャル・プラン」を発表、受諾国に対して経済及び軍事援助を進めた。'48年マーシャル・プラン受け入れのため、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が設立された。OEECはアメリカ援助資金を基金として、経済復興、貿易自由化を行った。OEECはのち、西欧経済がある程度復興した'50年代後半、OECD(経済協力開発機構)に改組された。

 経済統合は、'50年仏外相シューマンが提唱したシューマン・プランを基に、'51年ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)として調印された。これは仏・西独・伊・ベネルクス3国の6カ国が、石炭と鉄鋼の関税などの障壁を撤廃し、両産業の拡大・近代化を共同で目指したものだ。これにより、西欧の石炭・鉄工業は急速に発展した。
 この成功によって、'58年ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が発足、やがて加盟国相互間の関税引き下げ、資本と労働力の移動の自由化、共同の商業・農業政策の実施が行われるようになった。

 その後'67年前記3機関が統合され、ヨーロッパ共同体(EC)として発足。一方、ブリテンはEECに参加せず、'60年ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を発足させて対抗していたが、'67年ポンド切り下げに追い込まれた後、'73年アイルランド、デンマークと共にECに加わった。

冷戦下の西側諸国

 この間アメリカは西側のリーダーとして君臨する。民主党・トルーマン大統領('45-53)は、対外的には封じ込め政策を行い、国内では福祉国家・公正な社会を目標とするフェア・ディール政策を掲げた。一方、共産主義への警戒から、労働者の権利を大幅に制限するタフト・ハートレー法を成立させた。
 共和党・アイゼンハワー大統領('53-61)時代、ダレス国務長官は従来の封じ込め政策を、さらに強硬にした「巻き返し政策」を掲げ、和平や妥協を排除した。また、赤狩り旋風が国内を吹き荒れた。
 民主党・ケネディ大統領('61-63)は、平和維持や通商の拡大に重点を置いたニューフロンティア政策を行った。しかし'61年キューバのカストロがアメリカと断交、'59年のキューバ革命を社会主義革命と宣言して社会主義国とした。'62年10月ソ連はキューバへ攻撃ミサイルを搬入した。これを察知したケネディは、ソ連フルシチョフに対しミサイル撤去を要求するが拒否され、ケネディはミサイル搬入阻止のため海上封鎖を行い、カリブ海で米ソ艦隊が対峙、軍事衝突の危機となった。核戦争をも辞さない強硬なケネディの態度に、ここでフルシチョフが譲歩、アメリカがキューバに侵攻しないことを条件にミサイル撤去に合意した(キューバ危機)。

 ブリテンでは、'45年アトリー労働党内閣が成立した。「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家を目指し、重要産業を国営化、インドなど植民地が独立した。
 '51年には再びチャーチル保守党政権が返り咲き、'64年には再び労働党政権、以後このような政権交代が現在に至るまで続いている。

 フランスでは、自由フランス政府が終戦で臨時政府となり、'46年第4共和国憲法が発布され、オリオールが初代大統領に就任した。しかし多党分立で政情は不安定だった。
 '58年アルジェリア独立を政府が認めようとしたため、現地軍と入植者が反乱を起こした。下野していたド・ゴールは反乱軍を掌握、これを背景に議会から全権を奪い、第4共和制は終焉、みずから第5共和国憲法を制定し、信任投票で大統領に就任した。ド・ゴールは独自の外交政策で行動、'64年中国を承認、'66年にはNATOへの軍事協力を拒否して、アメリカから離反しようとした。
 しかし、'68年反ド・ゴール運動の大学紛争・ゼネストにより、翌年ド・ゴールが退陣、ポンピドゥー、ジスカール・デスタンがド・ゴール路線を継承した。'81年には社会党ミッテランが大統領となる。

 ドイツは冷戦で東西ドイツに分離独立('49年)。西ドイツはその後アデナウアー首相('49-63)時代に「奇跡の復興」と呼ばれる成長を遂げ、'54年パリ協定で主権回復と再軍備、NATO加盟を承認された。しかし、アデナウアーはドイツ単一国家を標榜する外交を展開したため、東西ドイツ間は緊迫し'61年ベルリンの壁が建設された。
 '70年代西独首相ブラントは、「一つの国民、二つの国家」という現実的な東方政策を標榜した結果、西ドイツ国民の自由往来と経済交流が実現、両国関係は正常化し、同時に国際連合に加盟した('73年)。

 日本は'45年ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後、GHQマッカーサーの支配下に置かれていたが、'50年朝鮮戦争勃発に際して、GHQの指令によりレッドパージ(共産党員などの公職追放)を行うと共に警察予備隊を設置、'51年にはサンフランシスコ講和条約、日米安保条約を締結して、独立した。その後は、朝鮮戦争の特需景気を背景に急速な戦後復興を達成した。
 '54年警察予備隊を改め自衛隊が発足、'56年国連加盟、'60年から池田内閣の下高度経済成長時代が始まり、経済大国への道のりが始まる。それを象徴するように'64年には新幹線が開通し、オリンピック東京大会が開催された。

冷戦下の東側諸国

 アメリカがマーシャルプランで西側経済の復興に取り組むと、ソ連もコミンフォルム(共産党情報局)を設立、東欧諸国と仏伊の共産党が加わり、ソ連中心の欧州復興を目指した。
 ソ連は、第4次('46〜)・第5次5カ年計画('52〜)で、重工業、軍事産業に重点を置き、目標をほぼ達成、アメリカに次ぐ工業国となった。
 スターリン死去('53)によって、合議制の集団指導制を導入し、'56年フルシチョフ党第一書記(のち兼首相、'56-64)がスターリン批判を行った。また、'61年中ソ論争では、両国に亀裂を生じた。'62年キューバ危機に際しては、ケネディに譲歩し、軍事衝突の危機を回避した。しかし、譲歩したフルシチョフは'64年失脚、ブレジネフ第一書記('64-82)・コスイギン首相体制となる。

 ポーランドでは戦後ロンドン亡命政府を主体に挙国一致臨時政府が作られたが長続きせず、共産党一元体制となる。スターリン死後'56年反ソ暴動が起こったが、ソ連軍の介入を拒否し、改革派のゴムルカが非スターリン化・自由化をスローガンに暴動を収拾した。
 その後は経済の停滞が深刻な事態を招き、'70年12月グダニスクで暴動、この結果ゴムルカ失脚、後任のギエルクが西側資本を導入して経済建て直しを行おうとするが失敗に終わった。'80年全国ゼネストを機に自主管理労組「連帯」が結成、ギエルクは失脚、連帯はワレサを議長として大勢力となり当局と対立した。'81年末戒厳令布告、連帯の活動は停止され地下にもぐった。
 この間の'78年ポーランド人出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が誕生し、国民の大きな精神的支柱となった。

 ハンガリーはスターリンにより戦後直ちに共産圏に組み入れられ、ソ連傀儡政権と秘密警察の支配するところとなった。'56年ナジ・イムレが、非スターリン化・一党独裁廃止・ワルシャワ条約機構脱退を訴え首相に返り咲いた('53一時首相)が、これに対してソ連軍が介入、1万人以上の死傷者を出し、'58年ナジ・イムレは処刑された(ハンガリー動乱)。

 チェコスロバキアは'48年クーデタにより共産主義化した後、'68年第一書記となったドプチェクが自由化路線をとり、民主化運動が広がった(プラハの春)が、これを反革命と捉えたワルシャワ条約機構軍が軍事介入、全土を占領して自由化を阻止した。市民は侵略に抵抗したが、ドプチェクは解任された。

 バルカン半島では、第1次大戦後セルビア、クロアチア、スロベニアが連合してセルブ・クロアート・スローベン王国となったいたが、第2次大戦後はチトーによって、この王国を元に、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアを加えた都合6ヶ国が社会主義連邦「ユーゴスラビア」を建国。ソ連とは一線を画した独自の社会主義路線を歩んだため、スターリンによって'48年コミンフォルム除名、経済封鎖を受けてソ連と断交、そのことがかえってユーゴスラヴィアを一致団結させた。

中東戦争(1948,56,67,73)

戦後新たな激震区となった中東、その原因はイスラエルの建国だった。

第1次中東戦争('48)

 19C末、ヨーロッパではユダヤ人の迫害が激しくなり、パレスチナへの帰郷運動であるシオニズムが発生する。その当時パレスチナは、大多数のイスラム教徒と少数のキリスト教徒が、大きな対立も起こさず暮らしていた。そこに、「パレスチナはユダヤだけの地」とするシオニズムの思想を持つユダヤ人帰郷者がパレスチナに増えるにつれ、先住のイスラム教徒との間に対立が生じてきた。
 パレスチナを含む中東の一帯はオスマン・トルコの領土であり、第1次大戦中トルコと開戦したブリテンは、後方攪乱を狙って、1915年大戦終了後にはアラブ人に独立国家の建国を認める「フセイン・マクマホン協定」を交わした。
 一方で、ブリテンはユダヤ資本の協力を得ることを目的に、外相バルフォアが戦後パレスチナにユダヤ人国家の建国を支持するという発言を行い('17バルフォア宣言)、さらに、大戦終了後トルコは英仏露で分割するという秘密条約を交わしていた('16サイクス・ピコ協定)。この秘密協定は翌年ロシア革命で政権を握ったソヴィエト政権が明らかにした。ブリテンの本意は恐らくサイクス・ピコ協定だったが、この三枚舌外交が、現在も続くパレスチナ問題の原因となっている。
 '20年戦後処理で、パレスチナはブリテンの委任統治下に入ったが、バルフォア宣言を得て、ユダヤ人は入植ペースをあげていった。さらに、ナチスが勢力を強めた'30年代には、帰郷者の数は飛躍的に増大した。

 第2次大戦後、ナチスによる大虐殺(ホロコースト)が世界中に知られると、欧米ではユダヤ人に対する同情論が高まり、異教徒のユダヤ人をパレスチナに戻してしまおうというキリスト教徒の排他的な発想もあり、さらにユダヤ人自体も国際社会での根回しを行った結果、'47年の国連総会で、ブリテン委任統治の終了、アラブとユダヤでのパレスチナ分割を可決した。ブリテンもすでに、パレスチナでユダヤ人とイスラム教徒の対立が深刻化し、パレスチナ統治に嫌気がさして国連に一任すると発表していた。
 分割案はアラブ人地区がユダヤ人地区によって、とびとびに三分割されてしまうもので、アラブ側は当然拒否するが、'48年5月ユダヤ人は国連決定を受けて、イスラエル共和国の建国を宣言した。これに対して周辺のアラブ国家はパレスチナに侵入、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)が始まった。
 建国間もないイスラエルは士気が高く米英の支援もあって、イスラエル軍はアラブ連合軍を破り、ユダヤ人地区を拡張、多数のアラブ人を追放してパレスチナ難民を作り出した。パレスチナ戦争は翌年、国連の調停で停戦した。

第2次中東戦争('56)

 オスマン帝国領であったエジプトは、1798年のナポレオン遠征以来、太守メフメト(ムハンマド)・アリーが改革を進め、封建制打倒、近代的な軍隊の設立、教育改革などを行い、1811年にはエジプトを統一してオスマン帝国からの半独立を達成した(メフメト・アリー朝)。
 その後は、オスマン帝国同様列強の進出に悩まされ、1869年スエズ運河の開通と共に運河周辺には英仏軍が駐屯し、'81年アラービー・パシャの民族反乱を英仏が鎮圧すると、同年エジプトはブリテンの保護国となってしまった。
 第2次大戦末期結成された自由将校団は、パレスチナ戦争で表面化したメフメト・アリー朝の腐敗と外国人の搾取に対してクーデタを起こし、1952年政権を奪取、翌年共和国宣言を行った(エジプト革命)。初代大統領は自由将校団団長であったナギブ。
 ナギブは革命委員会の内部対立が原因で'54年失脚し、代わってナセルが首相となった。'56年英軍の完全撤退が完了すると、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言した。これはアスワン・ハイダムの建設費援助を米英が拒否したことに対する対抗策でもあった。
 ハイダムの建設援助をソ連が受諾し、アラブ民族運動の旗手となったナセル・エジプトを欧米は警戒した。'56年イスラエルがエジプト領に侵入したのをきっかけに、英仏が共同出兵、スエズ戦争(第2次中東戦争)が勃発した。
 戦争はエジプト国民の結束、全アラブと第三世界の支援、さらに国連の即時停戦決議とソ連の支援声明に、三カ国は撤退に追い込まれ、エジプトは勝利した。これはアラブ民族主義の勝利でもあった。
 '57年アイゼンハワー・ドクトリンによりアメリカが中東への介入を表明するが、翌年エジプトとシリアがアラブ連合を成立させた。ナセルはその後もアラブ民族解放を進めたものの、'61年シリアが連合を解消し、北イエメン革命への介入失敗、'67年イスラエルに領土を占領されるなどして、ナセルの影響力は次第に低下していった。

第3次中東戦争('67)

 '60年代になるとアラブ諸国の足並みが乱れだす。社会主義志向の進歩派と、イスラムの伝統を守ろうとする保守派の諸王国が対立したためだ。
 領土拡大を狙うイスラエルは、アラブ諸国の足並みの乱れに乗じて、'67年パレスチナ人のゲリラ活動を未然に防止するという名目で、周辺のアラブ諸国に全面的に侵攻した。アメリカはイスラエルを支援、ソ連がアラブ諸国を支援したが、4日間という電撃戦でイスラエルは領土拡大に成功した。
 この戦争で、イスラエルはヨルダン川西岸地区とエルサレムを占拠、エジプトからシナイ半島、シリアからゴラン高原を奪った。
 国連はイスラエルの撤退、イスラエルを含む中東諸国の生存権を保障する決議を行ったが、エジプトとヨルダンがこれを受諾したのに対し、イスラエルは撤退を現在に至るまで実施していない。
 また、イスラエルは領内に多くのパレスチナ難民を抱えることになり、さらにパレスチナ解放戦線(PFLP)が結成され、ハイジャックやテロでイスラエルに対抗するようになった。

第4次中東戦争('73)

 領土回復を狙ったエジプトとシリアが、イスラエルへの奇襲で侵攻したことで幕をあけた。勝敗はつかなかったが、10日程度で鎮静化する。
 この戦争ではアラブ諸国が石油戦略を用い、アメリカとオランダに対し石油禁輸を、非友好国へ輸出削減を行った。西欧諸国では石油価格が高騰し、石油危機(オイルショック)となった。我が国でも、買い占めや品不足、便乗値上げで社会が混乱し、石油高騰の影響で戦後初のマイナス成長を記録した。
 石油というカードを有効に使ったアラブ諸国は、以後国際的な影響力を高め、OPEC(石油輸出国機構)の発言力が高まった。

ベトナム戦争(1965-75)

 インドシナ半島は19C後半から、フランス(カンボジア、ベトナム、ラオス)やブリテン(シンガポール)の植民地として支配され、唯一タイが植民地支配から免れていた。
 仏領インドシナでは、その後ベトナムを中心に民族運動が進展し、1930年ホーチミンによりインドシナ共産党が結成される。'40年日本軍が進駐して日本の支配となるが、このとき共産党ホーチミンの指導により'41にベトミン(ベトナム独立同盟)が結成され、終戦まで抗日運動を続けた。

 終戦後'45年ベトミンを中心にベトナム民主共和国(北ベトナム)が独立を宣言した。仏連合内の独立国で首都ハノイ、大統領ホーチミンであった。しかし、翌年フランスは独立合意を破棄、軍による支配を続けようとする。これによりインドシナ戦争が勃発、フランスは北ベトナムに対抗して、阮(ゲン)朝最後の王バオ・ダイを主席とする傀儡政権ベトナム国を樹立、サイゴンを首都とした。
 '54年ディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍は北ベトナム軍に敗退、フランスはベトナム支配をあきらめた。
 '55年ジュネーブ協定(インドシナ休戦協定)で、北緯17度線を暫定軍事境界線とし、フランス軍撤退と南北統一選挙が合意事項となった。しかしベトナム国では同年、ゴ・ディン・ディエム首相(のち大統領)がバオ・ダイ主席を追放し、独裁国家ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立、アメリカの支援を受けて合意事項の統一選挙を拒否した。これに対して、'60年北ベトナム支援の下に南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が結成され、反政府活動を開始した。

 '64年トンキン湾で米軍駆逐艦が魚雷攻撃を受け(トンキン湾事件)、アメリカ(ジョンソン大統領)は'65年北ベトナムを爆撃して本格介入を開始、宣戦布告無きベトナム戦争が始まった。
 その後の戦いで、米軍は数次の北爆、50万の地上兵力を投入したが、ベトコンのゲリラ攻撃に苦しみ、戦争は泥沼化して、アメリカは国際的にも孤立することになった。
 '73年パリ和平協定に基づきアメリカ(ニクソン大統領)は撤退、民族解放戦線は反撃を強め、'75年にサイゴンが陥落して南ベトナムは降伏した。南ベトナム臨時政府と北ベトナムは、'76年統一選挙を実施、ベトナム社会主義共和国として南北ベトナムは統一を達成した。'77年には国連加入。

イラン・イラク戦争

 イランは、かつてオスマン帝国に対抗して繁栄したサファヴィー朝(首都イスファハーン、1501〜1722)滅亡後、カジャール朝(首都テヘラン、1779〜1923)が興ったが、官僚機構があまり整備されず、強力な常備軍も持たなかった。
 19cになると、カフカースを狙ってロシアが南下し、1828年トルコマンチャーイ条約でカフカースを割譲し、治外法権などの不平等条約を締結した。まもなく英仏も、同じ不平等条約の締結に成功した。これらの不平等条約は1927年に撤廃されるまで、イランを苦しめることになった。その後もカスピ海東岸のサマルカンドやブハラをロシアに占領され、1881年現在のイラン北方国境が画定することになる。
 1906年、テヘランで大バストが発生し、国民議会創設と憲法制定が認められた。立憲革命という。バストとは、不当な扱いを受けた人々が、公権力の及ばない聖域に逃げ込んで抵抗することだ。しかし、'11年にはロシアが立憲革命に干渉し、武力で議会が閉鎖され、立憲革命は中断した。その後もカジャール朝のシャーは無策だったため、ついに'23年国民議会からカジャール朝の廃止を通告されるに至った。

 その直前'21年にクーデタを起こして首相となった軍人レザー・ハーンは、'25年国民議会から皇帝に推され、パフレビー朝(〜'79年)を創始した。レザー・ハーンは近代化を進め、第2次大戦では中立を宣言する。しかしドイツに接近したため、英ソの侵攻を招き、退位、亡命した。代わって即位したパフレビーは、アメリカとの協調路線をとった。
 イランの石油は1909年以来、ブリテン系アングロ・イラニアン石油会社が、採掘・精製・販売を独占していたが、'51年国民議会は同社の国有化を議決、さらにこれを推進する民族主義者のモサデクが首相となった。ブリテンはこれに猛反発、米英の画策でイラン石油は国際市場から閉め出されることになり、経済危機となった。
 '53年国王支持派による反モサデク・クーデタが起き、モサデクは失脚し、死ぬまで軟禁状態におかれた。そしてアメリカの影響力が増大、'54年には国有化の撤回が行われた。

 '73年第4次中東戦争による石油危機で、イランの石油収入は莫大なものとなったが、一方で貧富の差は拡大、経済政策の失敗もあって、'78からテロやデモ、ストライキが多発、社会機能が低下した。'79年シーア派が、軍や社会主義者との主導権争いに勝ち(イラン・イスラム革命)、パフレビー2世はイランから亡命、パフレビー朝は幕を閉じた。元首には亡命先のパリから帰国したホメイニが就任、イスラム共和国となった。

 一方イラクは、第1次大戦の戦後処理でブリテンの委任統治下に入ったが、'21年統治下イラク王国となり、サウジアラビアのフセインの息子が国王となった。独立は'32年。
 '58年カーセムのクーデタによって王政が打倒され、'63年クーデタによりバース党が政権を奪取した。'79年サダム・フセインが政権を掌握、反体制派を弾圧、独裁体制を敷き、軍備を強化していった。

 フセインはイランの混乱をついて、中東での覇権を狙い'80年9月イラン南部の油田地帯へ侵攻した。イランのイスラム革命に介入すべく欧米、ソ連、アラブ諸国共にイラクを支援した。一方イランは人海戦術で対応、多くの戦死者を出したが、戦線は膠着し長期消耗戦となった。
 その後、北朝鮮が秘密裏に武器と兵員をイランに送り、アラブ全てを敵にしているイスラエルがイランを支援し、'81年建設中のイラク原子力発電所を空爆した。また、シリアとリビアもイランに味方、イランは'82年6月領土のほぼ全域を奪還し、攻勢に出て形成は逆転した。同時期イスラエルがベイルートを包囲、レバノン内戦が再燃した。
 小競り合いが続く中、'85年以降相互に都市をミサイルで攻撃し合い、戦争は互いに一般国民を殺戮するものにエスカレートした。'87年イランはイラク国内のクルド人を支援して反乱を起こすようし向けたが、イラク軍はクルド人に化学兵器を使用した。同年7月国連安保理は、即時停戦を勧告、イラクが受諾の姿勢を見せたが、イランは応じず、'88年2月米軍がペルシャ湾に出動するに及び7月イランは国連決議受諾を表明、8月停戦が発効した。'89年ホメイニ死去。

その他

 戦後経済の発展の鍵を握ったのが石油だ。大戦後、石炭を追い越して、主要エネルギーの地位を奪った。石油生産に果たしたアメリカの役割は大きく、'50年時点では、世界の石油生産の半分をアメリカが占めていた。その後は徐々に中東産油国が主役となり、アメリカはむしろ石油輸入国に転ずるようになった。
 石油はガソリン、エネルギー燃料、石油化学製品の原料として、現代経済の血液とも言える。中でも石油化学製品は、ポリプロピレンから作られるプラスティック、ポリエチレンから作られる発砲スチロール、塩化ビニール樹脂、合成繊維など、日常生活のあるゆる分野に浸透した。
 また、'59年あたりからメジャーと産油国の利害対立が表面化し、'60年9月イラン、イラクなど石油産出五カ国が石油輸出国機構(OPEC)を結成、以後石油は世界戦略の主要な道具となった。