トップページに戻る

2.大航海時代(15c末〜16c始め)

 西欧が大西洋やインド洋に進出していった時代を大航海時代といい、その担い手はイベリア半島のポルトガルとスペインだ。

 イベリア半島北部では、イスラム勢力に対し、キリスト教諸侯が戦闘を繰り返しながら徐々に領土を拡大していった。これをレコンキスタ(再征服運動)という。この過程でレオン、カスティリア(930〜1479)、ナヴァル、アラゴン(1034〜1479)などの王国が建設され、1143年ポルトガルがカスティリアから独立した。ナヴァルとレオンはそれぞれアラゴン、カスティリアと合体、1469年カスティリア王女イザベラとアラゴン王子フェルナンドが結婚、1479年に両国が統一してスペインとなり、イザベラ女王とフェルナンド2世両王による共同統治となった。1492年最後のイスラム国家ナスル朝(首都グラナダ)をスペインが滅ぼして、レコンキスタが終了する。

 レコンキスタの進行と共にイベリア半島海岸部がキリスト教徒の所有に帰すると、海岸都市がフランドル地方やイングランドから地中海への交易ネットワークに組み込まれた。西地中海からジブラルタルを越え、大西洋に至るルートだ。バルセロナなどの先行都市に加え、イタリア・ジェノヴァ商人によってマラガ、カディス、内陸のセビーリャ、大西洋のリスボンなどに商館が建てられた。フランドルへは香辛料や装身具を輸送し、帰りの船でイングランドから大量の羊毛を仕入れてイタリアに搬送する。その間の港からはサフラン、油漬けイワシがもたらされる、といった具合だ。これが15c末までに完成した。
 しかし当時の海上貿易の花形といえば、十字軍をきっかけにもたらされ、今や肉食に不可欠となった香辛料(主として胡椒)だった。それはアジアからインド商人・イスラム商人・イタリア商人を経由してヨーロッパに運ばれたので、驚くほど高価だった(当時同じ重さの銀と交換されていた)。そのため、かねて地中海の商人たちはアジア諸国への交易路の開発を希求していた。

 すでに船の技術革新は終えていた。船の改良は第一に脊椎動物と同じ仕組みの竜骨船が現れ、堅固な船体となった。これにより船は次第に大型化し、14cには400トン、15c大西洋にでかける頃には1千トンに近づいた。第二にガレー船から帆船へ移行した。多数の漕ぎ手で運航するガレー船も条件が許せば帆走するが、多数の人員を要するため商船としては経済的に問題があった。13c始め頃から、船尾に三角帆をつけた新型の帆船が登場、船の中央に従来からある方形帆はもっぱら推進用、三角帆は必ずしも進行方向に吹くとは限らない風を、船の進行方向を修正するのに用いる。これによって帆走専門の船舶が可能になった。第三に羅針盤の使用。磁力を帯びた鉄の針が南北を指すことはしばらく前から知られていたが、これを船で実用化するためには、いくらかの工夫が必要だった。13c末には羅針盤は航海の必需品になっていた。それまでの近海航法(陸地が見えるところを航海する)は常に座礁の危険が伴っていたが、コンパスを見ながら航海する遠海航法が確立された。第四は海図。それまでの地図と言えば、東が上におかれ、エデンの楽園やら天上のエルサレムなどが記入されていた。これが羅針盤対応で、北が上、主な港を起点にして方位を示す放射線が記入された。ジェノヴァで大成した作図法は、やがてシチリア、マジョルカ島に受け継がれた。
 一方、アフリカにはプレスター・ジョンの国(空想上のキリスト教国が連携を求め、イスラーム教徒を挟撃しようとしているという)の伝説が健在で、加えてマルコ=ポーロの「世界の記述(東方見聞録)、1299年」はアジアへの関心を高めると共に、金を産出する楽園が15cにはアフリカ南端にあると想定されるようになっていた。

ポルトガルの探検航海

 大航海時代のさきがけとなった人物はポルトガルのエンリケ航海王子だ。地中海に無縁なポルトガルは、リスボンのジェノヴァ商人の促しもあって、大洋の可能性に賭けた。アフリカ西海岸を南下し、その南端を周航してインドに至り、直接香辛料貿易を行おうという戦略だ。エンリケは手始めに半島の対岸、北アフリカのセウタを標的とした。しかし、攻略したセウタ経営は、現地モロッコ・イスラーム社会の根強い抵抗に遭いてこずってしまった。そこで王子は自らが地方総監であったポルトガル最南部サグレスに、1415年一大航海センターを設立、ヨーロッパ中から造船術、航海術、海図制作の専門家を招聘し、これを集大成すると共に、腕利きの航海者を養成した。こうしてサグレスはヨーロッパ初の航海学校の地となり、今日エンリケとポルトガル人の航海を記念する像が立っている。

 こうしてアフリカ探検に挑んだポルトガル人は、1418年にはマディラ諸島、'27年にはアゾレス諸島探検、'45年ヴェルデ岬発見、'60年シェラレネオ到達、エンリケ死後'70年には象牙海岸(コート・ジボワール)に到達した。まだ赤道が近くなると海はぐつぐつと煮えたぎっていると信じられている中、'82年船乗りカーンが赤道を越え、コンゴ河口に達し、アンゴラ海岸を南下した。その航跡をたどって、ついに'88年バルトロメウ=ディアスはアフリカ最南端に到達、東に回り込んで南端であることを確認した。輝かしい未来を約束するはずの発見は、国王ジョアン2世によって喜望峰と命名された。

 この間ポルトガルは航路独占のため、ギニア海岸に接近した外国船の撃沈または捕獲する布告('81年)や、ベニン湾の要塞建設('91年)などの手を打ち、他の国がアフリカ回りインド航路を使用できないようにした。

スペインの探検航海

 一方、1492年グラナダを陥落させてレコンキスタを終了させたスペインは、ときの女王イザベラが、西回り航路を主張するコロンブス(イタリア・ジェノバ出身)の献策を採用した。
 この頃には地球球体説が知識人の間で囁かれ、船乗りたちにとっても、さほどの奇説ではなかったらしい。コロンブスはかねて地理学者トスカネリと交信し、西回りでアジアまで約4400キロ(実際には最短でも15000キロ)と計算していた。彼ははじめポルトガルに後援を依頼したが、アフリカ南下政策を遂行中のポルトガルは首をたてにふらなかった。次いで統一成ったばかりのスペインに依頼した。女王イザベラへの説得は難航をかさねたが、なんとか後援の約束を取り付けることができた。

 1492年8月サンタマリア号他2隻がインド目指して出航した。コロンブスは2ヶ月後サン・サルバドル島(現バハマ国)に上陸、インド周辺と信じて、西インド諸島の島々を探検、その間にサンタマリア号が座礁し他の1隻が行方不明になったため、乗組員の一部を残して、残る1隻で帰国した。
 報告に喜んだ国王は、コロンブスを総督に任命し、援助を続けてさらなる探検を命じた。翌'93年香辛料を見つけるため、17隻の大船団でコロンブスは二回目の航海に出発したが、前回残していった乗組員は原住民によって全滅しており、香辛料も発見できなかった。結局コロンブスは合計4回探検したが、到達した場所がインドの一部という証拠を見つけることができず、失意の晩年を送った。

 アメリカ大陸発見により、ポルトガル、スペイン両国は早くも1494年トリデシリャス条約を締結、ときのローマ教皇アレクサンデル6世の採決により、大西洋のヴェルデ諸島から約2500キロより西で発見した非キリスト教徒の土地はスペイン、東はポルトガルの領分と決めた。他のヨーロッパ諸国が探検航海に乗り出していないので、勝手に世界を分割したわけだ。

その後の探検航海

 さてポルトガルでは、喜望峰に達したときインド航路の完成は間近だと思われたが、その後10年間停滞してしまった。ようやく'97年ヴァスコ=ダ=ガマを提督として遠征隊を派遣、ガマは喜望峰を回ったのち、イスラム商人を水先案内人として(インド洋はイスラム商人やインド商人の貿易権だった)インド西海岸のカリカットへ到着し、そこで香辛料を仕入れて帰国した。このときガマたちの一行は、野菜不足による壊血病で170人いた乗組員が、帰ってきたときは44人に減ってしまっていたと言う。こうしてインド航路が完成、これ以後、ポルトガルは次々と貿易船をインドへ送り、莫大な利益を得ることができるようになるのだが、1502年のガマの二度目の航海のときは、軍事力を背景にカリカットの太守を恫喝して、香辛料を手にいれている。

 アメリカ大陸へは、その後次々と探検家たちが向かった。主要な発見は次の通り。

 カボート イングランド王の支援を受け、大西洋の北方航路を渡って北アメリカに到着した。

 アメリゴ=ヴェスプッチ イタリア・フィレンツェ出身。コロンブスのあとを追って、カリブ海と南アメリカ沿岸を4回にわたって探査、コロンブスの信念に反して新発見の大陸だと断定した。これによって新大陸は、アメリゴの土地「アメリカ」と名付けられた。

 カブラル ポルトガル人。ヴァスコ=ダ=ガマが1498年第一回目のインド航海から帰ったあと、インドに派遣されたが、アフリカの西を南下している途中嵐に合って流され、大西洋を横断してしまい、ブラジルに漂着した。そこはトリデシリャス条約線より東にあることがわかり、ポルトガル領となった。

 バルボア スペイン。多くの探検家がアメリカ大陸の向こう側に抜けようと探索したが、黄金を求めてたまたまパナマ地峡を横断したバルボアが、1513年偶然太平洋を見つけた。

 マゼラン ポルトガル生まれ、のちスペイン。はじめて世界周航を成し遂げた。1519年5隻の船団で出発、南米大陸南端の海峡(後マゼラン海峡と名付けられる)を通過して太平洋に出、'21年ようやくグアム島にたどり着く。さらに西進して、フィリピンに至り、セブ島やマクタン島で島民と戦闘、マゼランは戦死した。残された一行はさらに西進してモルッカ諸島に至り、ここで香辛料を入手、'22ようやくスペインに到着した。帰国したとき、5隻250人いた乗組員はたったの1隻18人になっていた。