トップページに戻る
21.ドイツ帝国

ナポレオンのドイツ統廃合

 18c末までのドイツは、神聖ローマ帝国内に314の領邦国家と1475もの帝国騎士領が存在するモザイク国家だった。皇帝ハプスブルク家がオーストリア、ボヘミア、ハンガリー他を領する一方、フリードリヒ2世によって強国となったプロイセン(ブランデンブルク)が台頭していた。
 ドイツのモザイク状態は、ナポレオンの有無を言わせぬ統廃合によって終わりを告げる。歴史家ニッパーダイは「はじめにナポレオンありき」と言って、ドイツ近代史の始めとした。

 オーストリア、プロイセンのフランス革命干渉後、プロイセンは早々と戦線を離脱、オーストリアは1801年2月リュネヴィルの和約でフランスのライン左岸領有を認めさせられた。次いで'03年2月、帝国代表者会議はナポレオンの同意の下、宗教諸侯領と帝国騎士領を取りつぶして中核領邦への吸収合併を行った。これは「世俗化と陪臣化」と呼ばれる。
 '05年12月三帝会戦の後、'06年7月バイエルンなど西南ドイツ16の領邦がナポレオンを後見とするライン連邦を結成し、神聖ローマ帝国から離脱した。ついに'06年8月、皇帝フランツ2世は自ら退位を宣言、ここに神聖ローマ帝国は解体した。
 帝国解体後ほどない10月プロイセンがフランスに宣戦したものの、イエナ・アウエルシュテットの会戦でナポレオンから壊滅的打撃を受け、ベルリン入城を許し、翌年7月ティルジットの和約で領土の半分を失う屈辱的講和を結んだ。旧ポーランド領はワルシャワ大公国に組み込まれ、ナポレオンの傀儡国家となった。
 '09年オーストリアも、フランスがスペインのゲリラ戦に悩まされていたのにつけ込んで、バイエルンに攻め込んだが、ヴァグラムの会戦でナポレオンに打ちのめされ、巨額な賠償金を支払う羽目になった。こうして全ドイツはナポレオンに屈服した。

 しかし、ナポレオンの支配に対する屈辱をバネに、プロイセン主導の下「統一ドイツ」への道が始まることになる。'07年末から翌年にかけフランス軍が駐留するベルリンで、哲学者フィヒテがおこなった「ドイツ国民に告ぐ」と題する愛国的アピールは、当時まだドイツが虚構でしかなかったものの、やがて実体を備えるようになっていく。

ウィーン体制

 ナポレオンが没落した後、メッテルニヒのウィーン体制はドイツ連邦を成立させた(1815年)。これはナポレオンによって統廃合されたドイツ諸領邦を再興させず、オーストリア、プロイセンを中心に39の独立邦国が、国家主権を保持したまま相互の安全保障をはかる体制だ。フランクフルトに連邦議会をもち、オーストリアを議長国としていても、連邦元首や中央行政府は置かれない。しかし、ハノーヴァー王国(ブリテン国王)、ホルシュタイン公国(デンマーク国王)、ルクセンブルク大公国(ネーデルラント国王)など外国君主が参加したため、'66年普襖戦争が勃発するまでの半世紀間、国際的平和維持機構として有効に機能した。

 またウィーン体制は自由主義やナショナリズムを徹底的に弾圧した。ドイツ連邦では'13年の諸国民戦争(ライプチッヒの戦い)に志願兵として参加した学生たちが、'17年10月のワルトブルク祝祭で反ドイツ的著作の焚書事件を起こし、その余勢をかって1年後ブルシェンシャフトという学生団体を結成したが、メッテルニヒとプロイセン政府はブルフェンシャフトを弾圧し、全ドイツで赤狩りが行われた。そのブルジェンシャフトの旗は黒・赤・金の三色旗だったが、これが今日のドイツ連邦共和国の国旗となった。
 '33年にはオーストリアを除外して、プロイセン中心の経済連合としてドイツ関税同盟が結ばれたものの、ウィーン体制は健在で身分制の色濃い政治システムは旧態依然だった。

ウィーン体制の崩壊

 フランスで二月革命が勃発し、その影響はドイツ連邦・オーストリアに瞬く間に波及した。'48年3月ドイツ連邦諸邦では次々と民衆運動が起こり、諸邦政府は無抵抗のうちに譲歩して、自由主義的な新政府が成立した(ドイツ3月革命)。
 革命の嵐はさらにオーストリア、プロイセンを席巻した。同月ウィーンとベルリンで暴動が発生し、メッテルニヒはイギリスに亡命、ウィーン体制は吹き飛ばされた。プロイセンでは国王フィリードリヒ・ヴィルヘルム4世が民衆に屈服して、国王自ら黒・赤・金の腕章をつけてドイツ国民の先頭に立ったため、現行君主制が護持された。ウィーンでは皇帝フェルディナント1世がインスブルックに宮廷ごと亡命し、5月に公安委員会が権力を掌握した。
 さらに分割下のポーランド、オーストリア支配下のハンガリー、ベーメン(チェコ)など「諸民族の春」が噴出した。
 だが、パリ6月蜂起が凄惨な最後をとげると、ウィーンやベルリンにも逆風が吹き始めた。ウィーンでは10月民衆が再度蜂起した(ウィーン10月革命)ものの、軍によって2000名近い死者を出して鎮圧された。ベルリンでは12月、国王が議会を解散、欽定憲法を発布して決着した。

ドイツ帝国の誕生(1871)とビスマルク

 '61年即位したヴィルヘルム1世は、翌年ユンカー出身のビスマルクを首相に任命し、ビスマルクによってドイツの統一が進められる。
 ビスマルクは議会の反対を押し切って、ドイツ統一のため軍備拡張に乗り出す。軍事費の追加予算を議会に認めさせた際、「現在の大問題(ドイツ統一)は演説や多数決ではなく、鉄(大砲)と血(兵隊)によって解決される。」という有名な演説を行い、以後鉄血宰相の異名を付された。
 '64年、オーストリアと結んでデンマークと戦い、シュレスウィヒ、ホルシュタイン州を獲得した。このときの参謀総長がモルトケで、以後二人のコンビでドイツ統一が推進される。次いで両州の管理をめぐってオーストリアと戦うため、フランス・ナポレオン3世にフランスが中立を保つなら、ライン左岸のどこかを割譲するとの口約束を行い、さらにイタリアとも密約を結びオーストリアの背後を牽制させた。そうしておいて'66年、産業革命の賜である鉄道・電信をフルに活かし、参謀総長モルトケの下、迅速な兵力移送・指揮系統の効率化、最新式の火器を用いてオーストリアを破り(普襖戦争)、昔年の雄邦対立に決着をつけた。
 翌'67年プラハ講和条約で、ビスマルクはドイツ連邦を解体、オーストリアを除いてプロイセン主導の北ドイツ連邦を組織した。一方オーストリアは、マジャール人の自立を認めたオーストリア・ハンガリー二重帝国として再出発することを余儀なくされた。

 ナポレオン3世は約束のライン左岸の割譲を求めたが、ビスマルクはその約束を冷笑をもって反古にした。さらにスペイン王位継承問題に端を発したビスマルクの挑発(エムス電報事件)に、ナポレオン3世が引っ掛かり、'70年普仏戦争が勃発、開戦準備怠りなかったプロイセン及び南ドイツ4邦国から成るドイツ連合軍はアルザス、ロレーヌに侵攻して連戦連勝、2ヶ月後セダンでナポレオン3世は降伏した。ここにフランス第2帝政が崩壊した。ビスマルクがこの戦争で企図したのは、北ドイツ連邦に属さないバイエルン王国(注)などのドイツ南部の諸邦に連帯感を持たせ、ドイツ統一を実現する事だった。
 パリを占領されたフランスはアルザス、ロレーヌの割譲と50億フランの賠償金を支払う羽目になり、さらにビスマルクは'71年敵国の本拠であるヴェルサイユ宮殿で、いやがるヴィルヘルム1世を「ドイツ諸邦国君主が推戴する」という形式でドイツ皇帝に推戴、ここにドイツ帝国が成立した。戦争の砲火の後押しを受けながらの王朝的統一ではあったが、まぎれもなくドイツ国民国家の誕生だった。

*余談だが、ビスマルクは南ドイツ・ミュンヘンを王都とするバイエルンを北ドイツ連邦に引き入れるにあたり、夢想的な国王ルートヴィヒ2世が執心したノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)建設のための資金を密かに提供する約束をした。アルプスの峰を背景にしたこの城は'86年に完成したが、ルートヴィヒ2世はその3ヶ月後に王座を追われ、シュタルンベルク湖水で謎の死を遂げた。

 ビスマルクは宰相として以後20年間にわたり辣腕を振るい、この時代をビスマルク時代という。特にフランスの復讐を懸念してフランスの孤立化を狙い('73年三帝同盟、'82年三国同盟、三帝同盟が崩壊した後'87年独露再保障条約)、露土戦争('77-8)では仲介役を買ってフランス以外の国と良好な関係を築いた。これによってヨーロッパには第一次世界大戦まで続く小康状態が生まれた。
 国内では社会主義者を弾圧しながら('78年社会主義者鎮圧法)、災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度の制度を整備する「アメとムチ」の政策をとった。彼が打ち立てた社会国家像は、伊藤博文によって日本の明治憲法体制にも採用された。

 '88年ビスマルクが長年仕えたヴィルヘルム1世が死去すると、後を継いだヴィルヘルム2世はビスマルクの複雑な外交術が理解できず、単純で直線的な植民地拡大策を欲し、また社会主義者鎮圧法の更新に反対してビスマルクと度々衝突、'90年ビスマルクを解任した。
 ヴィルヘルム2世はその後3B政策を推進してイギリスと対立するようになり、独露再保障条約の更新を拒否してロシアとも対立、三国協商を形成させ三国同盟対三国協商の対立関係を生み、ビスマルクが最も恐れていたドイツ包囲網を作らせてしまった。その結果第一次世界大戦へと向かっていく事になる。