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34.東欧諸国

東ドイツ

 第二次大戦後冷戦構造が固定化されていく中で、ドイツは分断され'49年9月ドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。東ドイツはソ連軍が駐屯する東西冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソ連の衛星国となった。

 東ドイツは民主共和国とはまったくのたてまえで、社会主義統一党(SED)が独裁政党となり国政の実権を握った。SED書記長ウルプリヒト(1949-71)はこの間独裁者として君臨、また秘密警察である国家保安省(シュタージ)による国民の監視が徹底され、言論の自由などは無いに等しかった。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員を配置し相互監視の網を張り巡らせた。シュタージに協力する内通者(コレボレーター)の数も国民の10人に1人という高い割合だったという。
 東ドイツ経済は、'51年より第一次五カ年計画が開始され、計画実施のために中央集権化が図られ、ソ連型重工業中心、農村は集団農業政策が採用された。結果は生活消費財の慢性的な不足、農業が衰退して食糧不足を起こす事態となった。

 '53年3月ソ連のスターリン死去に際し、東ドイツでは抑圧的な政府の姿勢に反発して東ベルリン労働者のデモが起こり、これを契機として東ドイツ各地で市民が反ソ暴動を起こした(六月十七日事件)。これに対してソ連軍が介入、6000人以上が逮捕された。

 一方の西ドイツはアデナウアー首相('49-63年)時代に「奇跡の復興」と呼ばれる成長を遂げ、'54年パリ協定で主権回復と再軍備、NATO加盟を承認された。しかし、アデナウアーはドイツ単一国家を標榜する外交を展開し、また東ドイツの将来に絶望した人々がベルリンを経由して、西ドイツへ逃亡したため、東ドイツ政府は'61年8月東西ベルリンの境界を封鎖、やがて境界にはベルリンの壁が建設され、東西冷戦の象徴となった。
 国民の逃亡を遮断した東ドイツ政府は、西独に劣らない豊かさと生活の安定を実現するため、60年代半ばから生活必需品の生産性向上、家賃据え置き(40年代の額)、完全週休2日制などを実現、東ドイツの経済は中・東欧の社会主義諸国の中では最も発展し、女性の社会進出や電化製品の普及が進み、「社会主義の優等生」と呼ばれほどになった。60年代後半には、生産の拡大による労働力不足を補うために、外国人労働者も受け入れるようになっていった。

 さて西ドイツでは'70年代になると、ブラント首相が「一つの国民、二つの国家」という現実的な東方政策を標榜した結果、西ドイツ国民の自由往来と経済交流が実現、両国関係は正常化し、東西同時に国際連合に加盟を果たした('73年)。
 東ドイツでは、ウルプリヒトの跡を継いだホーネッカー('71-89SED書記長)が、60年代後半の成長を基盤として、消費財、サービスを低価格に固定し、福祉社会主義の実現を図り、この生活水準の向上政策は「消費社会主義」と言われた。公共投資も進み、日本の鹿島建設などの進出により、東ベルリンに高層ビルが建築されていった。また、「文化の自由化政策」を施行し、西側の前衛芸術を許可したり、自国の文化、芸術の海外進出に努めた。この政策は、東ドイツの若者に意味深い影響を与えることになった。

 しかし、70年代半ば以降は、世界的な資源、エネルギー価格の高騰の影響で輸出入バランスが悪化したうえに、労働生産性が低下しため、低価格維持の方針と現実との食い違いが大きくなった。とくに消費財生産の伸びは低く、国家補助が嵩んだ。また、知識人、文化人を中心に反体制運動や環境保護運動などが起り、著名な芸術家、科学者、作家などが活動を制限されたり国外追放といった処置を受けるに及んで、体制に距離をとる者の数が増加した。80年代初頭には、公然とした体制批判やデモが行なわれるようになった。
 また、東ドイツのスポーツ界では国の威信をかけた強化策が取られ、'70年代後半から80年代にかけてはアメリカを抑えて世界第2位の金メダル大国となったが、その陰には組織的なドーピングが存在し、シュタージによるスポーツ関係者の監視や協力要員化が行われた。ドイツ統一後これらの問題が噴出した。

 '80年代後半になると、西ドイツとのあまりの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。'85年ソ連書記長にゴルバチョフが就任、ペレストロイカが始まる中で、'88年からは一連の東欧革命により東欧の共産主義国が次々と民主化していった。'89年ハンガリーでは、オーストリアとの国境を開放、東ドイツ国民が西ドイツへ大量脱出した(汎ヨーロッパ・ピクニック)。東ドイツ国内では、南部の都市ライプツィヒでの「月曜デモ」のような反政府運動が激化してホーネッカー体制が崩壊、東ドイツ政府はやむなく同年11月ベルリンの壁を解放した。

 壁の崩壊は、ドイツ統一問題を急浮上させた。また、この年の12月米ソ首脳会談(米はブッシュ)は「冷戦は終わった」と宣言、一方東ドイツはもはや国家維持が困難となり、東西ドイツ国境は事実上自由通行となる中、SEDは独裁支配を放棄、翌90年東ドイツ史上初めての自由選挙が実施され、西ドイツからも政治家の応援演説や資金提供が行われ、西ドイツとの統一を主張するキリスト教民主同盟が第一党となった。これにより東ドイツは独立国家としての存続を放棄し、西ドイツに主導権を預けた急進的なドイツ統一への道を進んだ。7月コール首相は両国通貨統合を公表、10月ドイツ連邦共和国に吸収される形で東ドイツは消滅し、ドイツは41年ぶりに統一された。

ポーランド

 第一次大戦後ヴェルサイユ条約で、ポーランドはドイツと旧帝政ロシア領から土地が割譲され独立したが、第二次大戦でドイツが侵攻、ソ連も西ウクライナ、白ロシアを占領して、ポーランドは再度消滅した(独ソ不可侵条約の密約にもとづく分割)。
 第二次大戦後は国土が復活したが、ヤルタ会談密約にもとづき、国土は大きく西に移動した。ソ連に併合された東方領土は戻らず、代わりに北部および西部で旧ドイツ領が割譲されたからだ。これによりポーランドは、戦前と比べて約200キロ西へ移動した。
 戦後政府は労働党と社会党の社共合同で結成された統一労働者党(共産党)支配が確立、計画経済の導入、農業の集団化、ソ連一辺倒の外交政策、警察権力の強化、イデオロギー的締め付け等の体制固めが進行した。

 スターリン死後'56年反ソ暴動が起こったが、ソ連軍の介入を拒否し、改革派のゴムルカが非スターリン化・自由化をスローガンに暴動を収拾した。しかし、ゴムルカ体制はやがて硬直化し、民主勢力への弾圧・検閲の強化が進んだ。'68年ワルシャワの学生・知識人が抗議に立ち(3月事件)、次いで'70年12月北部の工業都市グダニスクで労働者が大規模なストライキ闘争を展開(12月事件)、この結果ゴムルカは退陣、後任にギエレクが登場した。
 ギエルクはイデオロギーを棚上げにして、西側資本を導入し経済建て直しを行おうとするも、西側世界の石油危機の直撃を受け、失敗に終わった。'76年にはまたも労働者の大規模な抗議行動が起こる(6月事件)。

 '80年8月グダニスクのレーニン造船所で、ワレサ率いる自主的労組がストを起こし、知識人やカトリック教会がこれを支持した。ワルシャワから派遣された統一労働者党政府との政労交渉の結果、8月末グダニスク協定が結ばれ、第一書記ギエレクは解任、自主管理労組「連帯」結成が承認された。連帯はワレサを議長として'81年9月までに一千万人に及ぶ大勢力に拡大、ソ連ブレジネフは介入に慎重だったが、KGBアンドロポフ議長はポーランド当局に戒厳令導入を求めた。対して連帯は急進派が制御不能となるなか、当局の指導者となったヤルゼルスキ将軍によって'81年12月戒厳令が布かれ、軍事政権は多数の活動家を「抑留」するなど「連帯」の弾圧に乗り出した。連帯の活動は停止され地下にもぐった。こんな中、83年6月ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が里帰りし、ポーランド国民にカトリック意識を再起させた。

 ペレストロイカが始まると、'87年4月ゴルバチョフ・ヤルゼルスキ会見で、スターリンが独ソ不可侵条約締結に際してポーランド分割を決めたとき、ポーランド軍将校の大量殺害(カティンの森事件)の解明が懸案となり、88年7月ゴルバチョフは事件の究明を約した。同年末ポーランドでは円卓会議の模索が始まり、「連帯」が再浮上する契機となった。統一労働者党の権威はすでに失墜し、大統領制導入(ヤルゼルスキ大統領)と限定自由選挙が約束された。89年4月米ブッシュ大統領が訪問したのをきっかけに「連帯」運動が復権し、同年6月選挙で連帯が圧勝、9月ワレサの要請でヤルゼルスキはマゾベツキを首相に任命、共産党(ラコフスキ第1書記)が政権に参加して連帯系の連合政権となった。12月には憲法改正により国名から社会主義が削除された。

*カティンの森事件:スターリンの指令により、一万数千のポーランド将校、警官および役人が、秘密裏にNKVD(内務人民委員部)の手で処刑された。

 90年から政府は、バルツェロビッチ蔵相のもと急進的な市場改革を実施し、マゾベツキ首相も連帯と距離をおくようになった。同年12月ワレサが大統領に就任、急進的市場改革は問題が多かったため、やがて連帯は分裂の様相を呈した。このため93年9月には、社会民主党(90年始め共産党が改名)が選挙で勝利し、民主左翼連合が政権を握った。95年ワレサに代わり、旧左翼系のクワシニエフスキが大統領となった。97年9月再度連帯系政権となった。
 ハンガリー、チェコと共に、'99年NATO加盟、2004年EU加盟。'05年の総選挙・大統領選挙では左翼陣営が敗れて再び政権交代が起こり、国会では旧「連帯」系の流れを汲む「法と正義」の少数単独内閣が誕生、大統領職にも同党のレフ・カチンスキが当選した。

ハンガリー

 ハンガリーは第1次大戦後、サン・ジェルマン条約によりオーストリア=ハンガリー二重帝国が解体され、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアと共に民族国家として独立が承認されたが、ハンガリーは面積の70%を失うことになった。新たなハンガリー王国では、一時クーン・ベーラによる共産主義政権が起こったが、共産主義に反対する旧オーストリア・ハンガリー海軍司令官ホルティ・ミクローシュがクーン政権を倒して自ら政権を掌握し、国王不在のまま摂政となり、独裁体制を確立した。
 その後、ドイツ・ヒトラーがオーストリアを併合、チェコスロヴァキアも解体併合され、ドイツ軍がポーランドに侵攻、第2次大戦が勃発する。ハンガリーは失地回復のため、ドイツに接触'40年から枢軸国側で参戦、ドイツが劣勢になった戦争末期にホルティは連合国への寝返りを企てたが失敗、ドイツによって逮捕・幽閉され、終戦と共にハンガリーはソ連に占領された。

 戦後はスターリンにより戦後直ちに共産圏に組み入れられ、ソ連傀儡政権と秘密警察の支配するところとなった。国名はハンガリー人民共和国、ハンガリー勤労者党(共産党)による一党独裁国家だ。第一書記ラーコシ・マーチャーシュ(1949-56、'52-53首相兼務)は小スターリンとして君臨したが、工場の国営化・農業の集団化という経済政策の失敗から、労働者・農民は悲惨な状況に置かれた。ラーコシは首相の座を穏健派のナジ・イムレ('53-55首相)に譲り、ナジの下農業集団化は緩和され、重工業優先から消費財生産にシフトした結果、国民生活は向上したが、ナジは'55年突然失脚、後任首相はラーコシ派のゲレ・エルネーとなった。

(ハンガリー動乱 1956)

 '56年ソ連フルシチョフが「スターリン批判」を行うと、ハンガリー労働者から共産党幹部に対する不満が噴出、学生・知識人らはラーコシ退陣・ナジ復権、非ソ連化と民主化を要求した。ソ連もラーコシを見限り後任第一書記にゲレを据えた。これに反発した市民は、集会禁止令にもかかわらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。10月ゲレの退陣を求めて学生たちがブタペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった。夜になりデモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、ゲレは急きょ前首相ナジを復職させる決定をする一方、デモ鎮圧のためソ連軍の出動を求めた。
 ソ連軍は始め国会前広場で民衆と話し合いするなどの姿勢を見せていたが、突然民衆に向かって発砲し、広場は血の海と化した。真相は謎に包まれているが、秘密警察の発砲が原因との見解もある。またコルビン劇場のあるコルビン広場でも、ソ連軍との間に激しい戦闘が起こった。その後、ナジはソ連派遣の党幹部と交渉してソ連軍をブタベスト郊外に撤退させ、さらに自由化を求める急進派の声に押されて、ソ連軍の即時撤退を要求してソ連と交渉したが、交渉は決裂した。交渉が決裂すると、ナジは11月1日にワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言した。
 この結果フルシチョフは11月4日、新たに戦車2500両、15万の歩兵部隊から成るソ連軍を侵攻させた。一連の戦闘で死者は17000人に上り、20万人が難民となって亡命した。ナジ・イムレ政権は崩壊、ナジ政権の一員だったカーダール・ヤーノシュがソ連傀儡政権(共産党は社会主義労働者党と改名)として、ハンガリーを統治することになった。

(カーダール体制 '57-88)

 動乱後のハンガリーは、実質的にはソ連軍駐留の下、ソ連共産党が支配した。また、KGB指導の下ハンガリー内務省国家保安局(AVH)が再編成されて諜報活動を行った。カーダール傀儡政府はナジ政権の閣僚や多くの市民を処刑、ナジも58年KGBの秘密裁判で処刑された。
 カーダールは以後ソ連になびきながらも、自主的な内政を行っていく。再び集団化政策に復帰して'61年には農場の集団化・国有化率は90%に達したのはソ連型になびいたものだが、'63-4年頃からはニェルシュ・ルジェーの統括下に経済改革を実施、'68年初頭指令経済体制を廃止して、資本主義的経済原理を導入した市場経済体制に移行した。
 しかし、同年夏発生したチェコ「プラハの春」は、ソ連をして東欧体制の緩みに危機を抱かせ、ハンガリー改革路線に介入させるきっかけとなった。'74年ニェルシュは失脚、カーダールは経済と文化の締め付けを強化せざるを得なくなった。

(ペレストロイカとハンガリー民主化運動)

 ソ連でゴルバチョフ政権となった'85年以降ペレストロイカが推進されると、ハンガリーでも社会主義労働者党政権は改革派が主導するようになり、急速な民主化を進めた(ハンガリー民主化運動)。
 この中、カーダールは'88年5月自ら社会主義労働者党書記長を辞任し、32年の長期に渡るカーダール時代に幕を閉じた。カーダール自身は、権力を得ていた間、清貧に甘んじ質素な生活を送ったという。
 11月ネーメト・ミクローシュを指導者とする社会主義労働者党改革派の政権が発足した。社会主義労働者党は一党独裁制を放棄し、西欧型社会民主主義を志向するハンガリー社会党と改名し、国名も「ハンガリー共和国」に変更された。
 '89年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境線にあった鉄条網を撤去、東ドイツ国民が多数オーストリアに亡命し、ベルリンの壁崩壊のきっかけを作った。同年6月にはナジ・イムレの名誉回復がなされ、国葬が行われた。

(現在のハンガリー)

'90年には複数政党による選挙が行われ、民主フォーラムが第一党となり社会主義政権に終止符が打たれた。しかし政権運営の行き詰まりから'94年社会党(旧社会主義労働者党)が政権に復帰。経済も外国資本を受け入れ、積極的に経済の開放を進めた結果、'97年から年4%もの高成長を続けて経済が好転、「旧東欧の優等生」と言われるようになった。'98年総選挙では社会党が敗北、青年民主連合連立政権が発足した。'99年北大西洋条約機構加盟。2004年にヨーロッパ連合に加盟した。
 しかし経済成長の一方で、インフレが起こり、失業率が増加して貧富の差が広がって社会問題となっている。また巨額の財政赤字も重要な課題であり、ユーロ導入への見通しはまだ立っていない。

チェコスロヴァキア

 チェコスロヴァキアのマサリクは、第一次大戦中オーストリアから独立するためスイスでチェコスロヴァキア独立政府を結成、また東部戦線でロシアに投降した兵を仏露側で参戦させるためチェコスロヴァキア軍団を結成した。折しもロシア革命が勃発したため、チェコスロヴァキア軍団は英仏日のシベリア出兵に協力、赤軍と戦った。この活躍により、戦後オーストリアに対する講和条約サン・ジェルマン条約('19年9月)で、ハンガリーと共に独立が承認された(チェコスロヴァキア共和国)。初代大統領となったマサリクは、ユダヤ人にも市民権・選挙権を与える理想的な民主主義国家を築くと共に、兵器自動車産業のショコダ社に代表される重工業も発達し、経済的にも発展した。

 しかしドイツにナチス・ヒトラーが登場すると、ドイツはかつての失地を回復させた上、ドイツ人が居住するすべての土地にまでヒトラーの野心が拡大、オーストリア全土とチェコの大部分が領土要求の対象となった。'38年オーストリアを併合したヒトラーは、チェコの重工業の中心地ズテーテン地方割譲を要求、マサリクの跡を継いでいたときのベネシュ大統領は断固抵抗しようとしたが、英仏は独とのミュンヘン会談でヒトラーの要求を飲み、これをチェコスロヴァキアに認めさせた(同年)。翌'39年にはチェコスロヴァキアは解体され、チェコ(ボヘミアとモラビア)はドイツに併合、スロヴァキアもドイツの保護国と化した。

 第二次大戦後ドイツの支配から解放されたチェコスロヴァキアは、再びチェコスロヴァキア共和国に戻ったものの、'48年共産党のクーデタが起こり、ソ連べったりの共産主義政権が成立、人民共和国となった('60年社会主義共和国に改称)。市場経済は否定され、農業は集団化され、市民の言論活動は著しく制限された。

(プラハの春)

 ソ連でスターリンが没すると、'56年ハンガリー動乱が発生、流血の惨事に見舞われた。チェコスロヴァキアではハンガリーの失敗を踏まえ、'68年共産党第一書記となったドプチェクは平和的な手段で、言論と出版の自由化を採用した。それまで地下に潜んでいた有識者・文化人は活発な言論・著作活動を行うようになった(プラハの春)。しかし、これはソ連と周辺の社会主義国に大きな脅威を与え、'68年8月ワルシャワ条約機構軍が軍事介入、全土を占領して自由化を阻止した。市民は侵略に抵抗したが、ドプチェクはモスクワに監禁された上解任された。

 プラハの春以後フサークが第一書記として、「正常化体制」の名のもと保守的・抑圧的な政権となる。この政権下でも東欧諸国中もっとも進んだ工業国ではあったが、西側諸国からは次第に立ち遅れが隠せなくなった。

 '77年ハヴェルら反体制派知識人が地下活動の中から「憲章77」を発表、「市民フォーラム」を主宰するなど奮闘していたが、ソ連ゴルバチョフのペレストロイカが始まり、'88年ハンガリー国境が開放されて亡命希望者が西側に溢れ出すと、チェコスロヴァキアでも'89年11月プラハの学生たちのデモに始まり、市民が合流して、フサーク政権退陣・ハヴェルを大統領にを声高に叫び始めた。ソ連の援助を期待できず、恐れをなした共産党幹部たちは呆気なく退陣を表明、民主革命が流血を伴うことなく成功した(ビロード革命という)。これによりハヴェルが大統領、ドプチェクも連邦議会議長として復権した。
 ハヴェルは経済の専門家クラウスを首相として資本主義化と自由化を推進した。国営企業は持ち分をクーポン化し、資金を拠出した市民に配分して株式会社に変えた。この過程で物価が急上昇したが、金融当局が素早く介入してインフレを抑え込んだ。この結果、もともと工業生産力に優れ、市民の生活水準も高かったこともあって、他の東欧諸国が改革に難航するなか、チェコスロヴァキアは資本主義化の優等生と呼ばれるようになった。

 ただ、こうした改革をめぐってはチェコを中心とする急進派とスロヴァキアを中心とする穏健派の対立があったため、'93年スロヴァキアのナショナリズム高揚を背景に連邦を解消、チェコとスロヴァキアが平和裡に分離・独立した。以後も両国の関係は友好的だ。
 チェコは連邦解消後も経済は良好だったが、その後不正蓄財の横行・通貨危機などにより、経済が悪化した。'99年頃から再び経済は好転しており、同年NATO加盟、2004年EUに加盟、'09-10年ユーロ導入を目指して条件を整備している。
 スロヴァキアでも'93年連邦解消後、政治は弱体政権が推移するが経済は比較的堅調で、欧州への回帰を目指し、2004年NATO、EUへ加盟を果たした。