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10.ハプスブルク帝国

 中世ドイツは、神聖ローマ帝国と称する、三百余りの領邦の連合体だった。聖俗7名の選帝候が皇帝を選出するが、1438年以降スイス・上ライン・エルザスなどを領した南ドイツの諸侯ハプスブルク家が、事実上帝位を継承していた。後ハプスブルク家はボヘミアからオーストリア・シュタイエルマルクなどを取得、マクシミリアン1世(在位1493〜1519年)のとき、結婚政策によってブルゴーニュ・ハンガリー・ボヘミアを得た。
 ハプスブルク家のカルロス1世は、母親がスペイン王女(フェルナンド2世の三女ファナ)だったため、1516年スペイン王(〜56年)となり、さらに神聖ローマ皇帝の祖父マクシミリアン1世の死によって帝位を継承、カール5世(在位1519-56年)と称した。ここにヨーロッパに突如として巨大なハプスブルク帝国が出現した。当時の神聖ローマ帝国はルターの宗教改革が本格化し('20)、諸侯が新教と旧教に分かれて騒然とする中、オスマン帝国のウィーン包囲('29)が勃発した。

 オスマン帝国のスレイマン1世は、フランス・フランソワ1世と同盟、'26年モハーチの戦いでハンガリーを破り、首都ブダに入城、ハンガリー最大の貴族サボヤイ・ヤーノシュを王に推戴して併合した。これに対して、カール5世は実弟フェルディナント(戦死したハンガリー王ラヨシュ2世の義兄)をハンガリー王に推戴し、フェルディナントは一時サボヤイを追ってブダを取り戻したが、'29年スレイマンは再びハンガリーを攻めてブダを奪回、余勢を駆ってフェルディナントのいるウィーンに迫った(第1次ウィーン包囲)。しかし冬になったため撤退した。当時のヨーロッパでは寒い冬に戦をする習慣がなかったからだ。
 オスマンとハプスブルクの抗争はその後も長く続き、ハンガリーは結局'41年に三分割された。ブダ州を含む中央大平原はオスマンの直轄領、東部はオスマンに貢納する半独立のトランシルヴァニア自治公国、西部(クロアチア)のわずかな部分がハンガリー王国としてハプスブルクの支配下に留まった。

 フェルディナント(1世、在位1556-64年)は'21年にはカール5世からハプスブルク家の世襲領の譲渡、皇帝継承権を得ていた。'30年以後は首都をプラハからウィーンに定め、城塞を建て、オスマンとの境界線上にウィーンを守るための一群の砦を築いた。その数は10年間で55カ所に達し、4000人の屯田兵が入植した。
 一方カール5世はアウグスブルクの宗教和議('55)を収めた後引退、スペイン、ネーデルランド、南イタリア、アメリカ植民地を息子フェリペに譲った(スペイン・ハプスブルク家、スペイン参照)。

 ルドルフ2世(在位1576-1612年)のとき、首都を再びプラハに戻し、中央集権化を試みたが、ハプスブルクのチェコ諸領邦(ボヘミア、モラヴィア、シュレージェン)の貴族のほとんどがこれに抵抗した。そのためかルドルフは政治から次第に遠ざかり、次第に錬金術や占星術といった道楽に熱中し始めた。

 1617年フェルディナント2世(在位1619-37年)がボヘミア君主になると、プラハの窓外放出事件('18年)が起こり三十年戦争が始まった。この間、神聖ローマ帝国内はフランス軍とスウェーデン軍の破壊的な侵略の餌食となり、'48年ウェストファリア条約で、西ボンメルン(バルト海沿岸)をスウェーデン、アルザス・ロレーヌをフランスに奪われ、帝国内は領邦主権が確認されて、神聖ローマ帝国(このときフェルディナント3世)は名目上の存在となった(三十年戦争参照)。ハプスブルク家は、ボヘミア等のチェコ領邦、オーストリア、その他を領有するのみとなった。

 レオポルト1世(在位1658-1705年)のとき、'77年ハプスブルク領ハンガリーで、ハプスブルク家の対抗宗教改革に対して、プロテスタントがクルツ(十字架)の反乱を起こし、折悪しくペストがウィーンを襲った。このためレオポルトは妥協、すべての宗教の平等が宣せられ、反乱者たちの罪は問われなかった。しかしこの反乱は再びオスマン帝国の介入を招き寄せ、'83年第2次ウィーン包囲が起こった。これに対してはポーランド国王ヤン・ソヴェスキが皇帝救援軍として参戦、オスマンは決定的な敗北を喫した。このとき、トルコの置きみやげとしてコーヒーがもたらされ、ウィーンはヨーロッパ・コーヒー文化発祥の地となった。
 ウィーンの解放と共に、レオポルトはハンガリーの逆征服を行い、'86年ブダを奪還、'99年カルロヴィッツ条約により、ハプスブルク家はトランシルヴァニアを含む全ハンガリーを獲得した。この条約では、ポーランドがドニエプル川右岸のウクライナ、ロシアがドン川河口の町アゾフを手に入れた。オスマン帝国の優位は覆され、ハプスブルク、ロシアが優位に立つ。

マリア・テレジア

 マリア・テレジア(在位1740-80年)のとき、その即位(23才)と同時にプロイセンのフリードリヒ2世が、ゆたかなシュレージェンの獲得を狙って軍を進めてきた(オーストリア継承戦争、1740-48)。彼女はハンガリー貴族に訴えて4万の軍の提供を得たものの、結局はプロイセンの勝利に終え、シュレージェンを失ってしまった。しかし、若い女帝の毅然とした態度によって、ハプスブルクはとにかくにも伝統的な皇帝の地位を守り抜くことができた。
 敗戦の苦い経験とプロイセンへの報復目的から、強力な常備軍の創設を痛感した彼女は、'48-9年に11万弱の常備軍を設けた。資金を貴族所領への課税、議会から徴兵と物資補給の権限を取り上げたり、ベーメン(ボヘミア)政府を吸収するなど、それまでの領邦複合体制から多少は中央政府の支配を強化することに成功した。
 '56年当時フランス大使でもあった宰相カウニッツによって、それまで敵対関係にあったフランスと同盟(外交革命という)、またロシアとも手を結び、プロイセンへの報復戦争が始まった(7年戦争、'56-63)。戦争は優位のうちに進められ、'60-1年にベルリン占領、プロイセンを壊滅間近に追い込んだが、ちょうどロシアの女帝エリザヴェータが亡くなり、跡を継いだピョートル3世がフリードリヒ大王の崇拝者だったため、一方的に兵を引いてしまった。このためシュレージェン奪回はならなかった。
 フランス・ブルボン家との同盟関係はその後も継続し、'70年娘のマリー・アントワネットがルイ16世(当時まだ王太子)に嫁ぐことになる。

 マリア・テレジアは彼女自身は啓蒙思想に惹かれることはなかったが、改革を進めるにつれて啓蒙思想と関わりを持つ人々に囲まれるようになった。領主が農民に対して週3日以上の賦役を課すことを禁じたベーメンの賦役令(他の地域でも同様令)、初等教育の導入などは、そうした思想に裏打ちされていた。こうして彼女も啓蒙君主の一人に数えられるようになる。
 マリア・テレジアの時代、ウィーンはその治世のはじめ9万弱だった人口が、治世末には17万以上になった。居城シェーンブルン宮が増築され、バロック風の壮大な宮殿、教会が建立された。この建築ブームは地方へも広がり、中でもハンガリー最大の名門貴族エステルハージ公爵家は、フェルトゥードとアイゼンシュタットに「ハンガリーの小ヴェルサイユ」と称される華麗な館を建てた。大作曲家として知られるハイドンは、このエステルハージ家に30年間仕えた。

 マリア・テレジアの跡を継いだのは、ヨーゼフ2世(在位1765-90年)で、父帝の死去後マリア・テレジアとの共同統治の任にあった。
 ヨーゼフは啓蒙主義の申し子で、母の宿敵プロイセンのフリードリヒ大王を崇拝し、'72年母親の反対を押し切って、大王の提唱する第1次ポーランド分割に加わり、ガリツィア地方の一部を手に入れた。母親の死後'81年、勅令で農奴解放(農民の人身的隷従の撤廃)、及びプロテスタント、ユダヤ教の信仰の自由を認める宗教的寛容令が発布された(それまではカトリックの国)。
 しかし、彼の改革は急進的に過ぎ、'84年公用語としてドイツ語を採用、それ以前にハンガリー国王となるための聖イシュトヴァーンの戴冠を拒んで対立していたハンガリーでは、議会が宗教的寛容令を除くヨーゼフの政策の大部分を撤回した。治世の最後の数年は失敗が続き、失意のヨーゼフは'90年世を去った。