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32.インドの再生

インド略史

 インド亜大陸はクシャーナ朝(紀元1c後半〜3c半ば、現アフガニスタン)、サータヴァーハナ朝(2c始め〜3c、デカン高原)、グプタ朝(320年〜6c半ば、ガンジス川中流域)などが覇権を握った後(それ以前、及びこれらの王国については前編を参照のこと)、群雄割拠の状態が続いた。

 群雄割拠の時代で、豊富な史料に恵まれているのはハルシャの王国で、606年即位のハルシャ・ヴァルダナ王(戒日王)につき、彼の宮廷詩人によってハルシャ王の治績が書かれ、中国僧玄奘が「大唐西域記」を著している。ガンジス川流域からインダス川上流域を支配したハルシャは広大な領土を、ゆるやかな分権統治で支配、大軍を率い頻繁に版図内を巡行した。
 巡行中、玄奘とも謁見し、既に聞き及んでいた唐の太宗について様々に質問し、641年太宗に使節を送った。これに対して太宗も王玄策らの使節を送った(643年)。ハルシャは646/7年頃没し、647年王玄策が第2回目の使節として訪れたときには、ハルシャはすでに亡く、王位は簒奪され、王玄策は簒奪者を捕らえて唐に連行した。こうして、ハルシャの王国は瓦解した。
 一方、玄奘はナーランダー僧院に学び、そこで学識の深さを賞賛された。しかしこの頃には仏教はヒンドゥー教に圧倒され始めていた。また、民間信仰に起源をもつ呪術が入り込み、「大日経」「金剛頂経」が編まれ(7c)、この両教典の出現をもってインド密教が成立した。密教では印契(いんげい)を組み、ダーラニーあるいはマントラと呼ぶ呪句を唱えるのが行法だ。密教の流行とともに、本尊の大日如来を中央に諸仏・諸菩薩を周囲に配した曼陀羅と呼ばれる宇宙世界図が、さかんに描かれた(日本には中国経由で最澄・空海によって密教がもたらされた)。
 8cに入ると仏教は衰退、ヒンドゥー教が大衆の中に入り込み、バラモンが司祭職を世襲することによって地域社会に根を下ろし、王侯から庶民にいたるあらゆる階層の、冠婚葬祭を始めとするあらゆる宗教儀礼に関わった。対して仏教僧院は大商人や王侯たちの寄進に依存していたが、寄進する王侯や商人も日常の儀礼はバラモンに行ってもらったため、ヒンドゥー教が発展する一方、仏教僧院は商人たちからの寄進が減少して経済的な基盤を失い、規模を縮小し、やがてヒンドゥー教に吸収され消滅していった。
 ヒンドゥー教の形成に伴いその神々もヴェーダで人気のあったインドラ、アグニ神などは背後に退き、代わって最高神として、シヴァ(破壊神、宇宙を創造し維持し破壊する神)、ヴィシュヌ(維持神、様々な姿に権化して地上世界に現れる神、ラーマーヤナの主人公ラーマ、マハーバーラタの英雄神クリシュナ、仏教の開祖ブッダはすべてヴィシュヌ神の権化とされた)が人気を二分した。

 8c半ばにはカナウジを都としたプラティハーラ朝、ベンガル地方のパーラ朝、デカン高原のラーシュトラクータ朝が勃興し、800年以降三国三つ巴の抗争時代に入った。
 パーラ朝は仏教を保護し、この王朝の下でインド仏教文化は最後の華を開いた。マガダのナーランダー僧院に加え、王朝興隆期のダルマパーラ王が建立した密教のヴィクラマシラー僧院が教学の中心となり、これら二大僧院で学ぶため、チベット、ネパール、東南アジア諸国から僧たちが訪れ、これらの国々とパーラ朝の交流が盛んになった。また、パーラ様式と呼ばれる精緻で優雅な仏教美術が制作されたが、10c半ばにはこれらの勢力は衰退した。

 10c後半アフガン台地にイスラム王国のガズニ朝が成立、マフムード(在位998〜1030)のとき、ジハード(聖戦)に名を借りてバンジャーブ地方に侵入、17回にも及ぶ略奪・破壊(ヒンドゥー寺院の偶像)を行った。カナウジも1018年に占領した。これに対してインド諸王は団結力が無く、各地で破られた。マフムード死後、ムスリム(イスラム教徒)軍の恐怖が去ると、インドは再びヒンドゥー諸王国の割拠状態に戻った。

 諸王朝分立の下にあって、この間に地方語・地方文化が発達した(10c以降)。言語はベンガル語、ヒンディー語、マラーティー語、ラージャスターン語などの諸語が形成された。また中部インド・カジュラーホのヒンドゥー寺院群(11c始め)始めとする寺院が建立され、西インドでは11c半ばアーブー山のジャイナ教寺院群が建立された。

 1148年アフガンではガズニ朝に代わり同じイスラム王朝のゴール朝が勃興、1175年にはムハンマドがインドの永続的支配を目指して西北インドに侵入した。このときは1191年のタラーインの戦いでインド連合軍が勝ったが、翌年第2回のタラーインの戦いに敗れ、ゴール朝はデリーを陥した。1206年ムハンマドが暗殺されると、インド領の支配にあたっていたマムルーク(奴隷)出身のアイバクが独立、デリーに最初のイスラム王朝「奴隷王朝」を創始し、インドはムスリムの支配するところとなった(以後各イスラム王朝をデリー・スルタン朝と称する)。

ムガル帝国(1526-1858)

 ムガル帝国は、ティムール帝国の一族だったバーブルがデリー・スルタン朝の最後の王朝であるロディ朝を滅ぼして、北インドに建国した(1526年)。首都デリー、やはりイスラム国家。ムガルはモンゴルが訛ったものだ。
 3代目アクバル帝(在位1556-1605)のとき、ヒンズーの最有力国家ラージプトを平定し、南部を除くインドの大半とアフガニスタンを領土とする。首都をアグラとし、中央集権的な官僚支配を確立、ジズヤ(非イスラム教徒に対する人頭税)を廃止して税の公平化を行った。また、ラージプトの王女と結婚し、イスラム教とヒンズー教を融合した宗教の設立を試みるなど、宗教対立を和らげようと努力した。
 5代シャー・ジャハン(在位1628-58)のとき最盛期。愛妻の死を悼み、美しいことで有名なタージ・マハル廟を建立したことで名を残した。
 父であるシャー・ジャハンから帝位を奪って幽閉し、即位したのが6代アウラングゼーブ(在位1658-1707)帝。南インドのデカン高原を平定して帝国の領土を最大にした。しかし、アクバル以来廃止されていたジズヤを復活し、ヒンズー教徒やシーク教徒を弾圧したため、非イスラム教徒の反乱が相次いだ。
 アウラングゼーブ死後、帝国は急速に衰退、各地の勢力がムガル帝国から自立して、デリー周辺だけを支配するだけになってしまった。

セポイの反乱(1857-58)、インド帝国(1877)

 ブリテンのインド支配は、ムガル帝国のアウラングゼーブ帝の死後衰退したインドに、フランスと共に拠点を得て勢力を拡大していったことに始まる。
 ヨーロッパの七年戦争(1756-63)では、インドでも英仏が衝突、プラッシーの戦い(1757)で、ブリテン東インド会社軍がフランス・ベンガル土候軍を撃破して、フランス勢力を駆逐、以後ブリテン東インド会社によるインド支配が行われる。
 ブリテンは4回にわたるマイソール戦争(1767以降)で南インドを征服、3回のマラータ戦争(1775以降)で中部インド、シーク戦争(1845-49)でパンジャブ地方を征服、インド征服を完了した。インド国内の土候国は、ブリテンの支配の下で内政権を与えられ、藩王(マハラジャ)として存続した。

 この間、ブリテン産業資本家は東インド会社によるインド貿易独占に強く反対し、東インド会社は貿易独占権を廃止(1813年)して自由貿易時代が開幕、'33年には商業活動も停止し、インド統治機関(インド総督)にその性格を変えた。
 その結果、ブリテンに綿織物などを輸出していたインドは、ブリテンに綿工業の原料を供給し、綿織物を輸入・消費する市場に転化した。さらに、英語教育、ブリテンの司法制度、地租制度などが導入され、ブリテンの植民地支配は強化されていく。こうしてインドの伝統的生活が破壊され、インドは貧困化し、反英機運が高まった。
 1857年東インド会社のインド人傭兵(セポイ)の反乱をきっかけとして、農民や手工業者などあらゆる階層の人々が参加して、北インド一帯に広がる民族的大反乱となった。すでに有名無実となっていたムガル皇帝さえ参加して帝国統治復活を宣言したが、東インド会社の軍隊によって鎮圧され、皇帝は捕らえられ退位、ムガル帝国は名実共に消滅した('58年)。
 これを機会にブリテン政府は、東インド会社による間接的なインド経営の方針を転換し、同年東インド会社を解散、インドの直接統治に乗り出した。'77年、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任、女王を戴くインド帝国となった。

ガンディーの非暴力不服従(1919)

 第1次大戦の勃発に際し、ブリテンは植民地から兵員と物資の補給を行わせた。インド帝国としてブリテンの植民地であったインドに対しても同様で、ブリテンは終戦後の自治権付与をインドに約束した。しかし、戦後ブリテンは約束を守らないばかりか、世界中で民族運動が高まる中、弾圧法規ローラット法('19年、令状無し逮捕・裁判抜き拘束を規定)で民族独立運動を弾圧した。
 このとき中級カースト出身の弁護士で国民会議派の指導者だったガンディーは、'19年以来、自治権獲得を目指し、「非暴力・不服従」の運動(サティヤーグラハ)という形で展開、反帝国主義運動を統一した。

 ガンディーはインド民族資本と強固に結びつき、農村部では地主を基盤とする組織を作り、なおかつ、労働者や下層農民の階層的要求も吸収した。対立勢力の全インド・ムスリム連盟すらガンディーに協力して、全国民運動となった。

独立(1929,'47)と再生

 '20年代後半からはネルー(国民会議派)がガンディーを支援、国民会議派議長として実質的に独立を主導し、'29年完全独立を決議した。
 *ガンディーは'48年、狂信的なヒンドゥー原理主義者らに暗殺された。
 しかし完全な独立は第2次大戦後、英首相アトリーのインド完全独立許容宣言('47)まで持ち越される。その独立も、ヒンズー教徒(国民会議派)とイスラム教徒(インド・ムスリム連盟)の対立から、インド(ネルー首相)とパキスタン(ジンナー総督)に英連邦内自治領として分離独立、それぞれ'50、'55年に共和国として完全独立した。パキスタンはインドを隔てて東西に領土が分かれ、のち東パキスタンはバングラデシュとして再分離した。
 インド初代首相となったネルーは政教分離を行い、貧困の撲滅と重工業化に着手した。冷戦の時代、ネルーは非同盟国家としての地位を築いたが、'62年中印紛争の際にはアメリカと接近、'71年第3次印パ戦争に際してはソ連に接近した。
 '64年ネルー死後、'66年ネルーの娘インディラ・ガンディー(マハトマ・ガンディーとは血縁関係がない)が3代目の首相となった。インディラは予想に反し、強力な指導力を発揮、'71年には東パキスタンのパキスタンからの独立運動に武力介入して第3次印パ戦争を引き起こし、東パキスタンをバングラディシュとして独立させた。'84年シーク教徒過激派が根拠とするパンジャブ州ゴールデン・テンプルへの攻撃を軍に命じたが、その報復として首都デリーで2人のスィク教徒警護警官により暗殺された。
 その長男ラジブ・ガンディーが後任に就き、シーク教徒との和解を進める一方、ソ連の協力の下軍事大国化を目指した。彼もまた'91年タミル人による爆弾テロで暗殺された。

 冷戦終了後ソ連崩壊の過程で、インド政治は内外で転換を求められ、軍事偏重経済は破綻、IMFや世界銀行からの支援を受けざるを得なくなった。'91年首相となったラオは経済自由化を目指し、'94年訪米、親米政策を志向することとなった。
 ヴァージペーイー(インド人民党、'98〜2004年首相)は「核の選択権」の実現問題をめぐって確固たる立場をとり、2004年からは、シーク教徒のマンモーハン・スィン(国民会議派)がヒンズー教徒以外で初めての首相に就任した。
 インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人も多いため、アメリカへの人材派遣や現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。一方、インドの課題は、広大な国土に対するインフラ整備が進んでいないことだ。このため天災による被害を受けやすいという問題がある。

カシミール問題

 分離独立したインド・パキスタンは、当初から対立を続けていたが、'48年に北西部のカシミール地方領有をめぐって戦争が勃発(第1次印パ戦争)、国連の仲介によって停戦し、停戦ラインによってカシミールは分割された。
 '65年に再びカシミール地方の領有をめぐって、第2次印パ戦争が勃発、以後カシミールでは定期的に小規模な抗争が起こる。
 東パキスタンは、政治実権を全て西パキスタン(現在のパキスタン)に握られており、植民地の様相を呈していた。'70年集中豪雨によって東パキスタン国土のほとんどが水没、17万人に上る死者を出し、本国政府の怠慢に市民は憤った。そこで西パキスタンからの独立運動が広がり、独立を阻止すべくパキスタン軍が制圧を開始した。ここで多くの難民が発生し、難民はインドに流れ込んだ。しかし貧しいインドに大量の難民を抱えるだけの力はなく、インドは東パキスタン独立のため介入し、第3次印パ戦争となった。インドは圧倒的な人員で戦争を有利に進め、主戦線から遠いパキスタンは敗北し、東パキスタンは'71年12月、バングラデシュとして独立した。
 一方、カシミールでは'95年、'99年対立が極限に高まり、全面核戦争(インドは'74年、パキスタンは'98年核保有)の危機が語られたが、'99年パキスタン軍事クーデターによって就任したムシャラフ大統領が、段階的にインドとの協調路線をとり、安定している。

カースト制度

 インドで忘れてはならないのがカースト制度の存在だ。カーストは親から受け継がれ、カーストの移動は認められておらず、結婚も同じカースト間で行われることが多い。人種差別は憲法で禁止されているものの、実際にはカーストによる人種差別がインド社会に深く根付いており、農村特に南インドにおいて根強いと言う。

 カースト制度の起源は、前13c頃からアーリア人(印欧系)がインドに侵入し先住民族を征服していった過程で、バラモン教の一部として4つのヴァルナが形成されたことに始まる。ヴァルナはバラモン(司祭)、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(一般部族民)、シュードラ(隷属的な先住民)だ。前6c頃には、排泄、死などにかかわる職業に従事していた人々が、不可触民(ヴァルナでもない)の地位に落とされた。ヴァルナ制度は前200年〜後200年頃「マヌ法典」として完成した。6、7c頃から、ヴァルナを基本的な枠組みとしこれに職業を加えた出自の集団、すなわちカーストが複雑に発達していった。現在2000〜3000に及ぶカーストが存在するという。
 ヒンドゥー教とカースト制度の結びつきは非常に強く、かつ生活に密着している。バラモンが世襲され、彼らが地域社会で、「現在の人生の結果によって未来の生で高いカーストに上がることができる」、また、「現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだ」と、説くので、子供の時からインド人の人生観・世界観を形成するためだ。

 カースト制度の問題点は、カースト外の不可触賎民(アチュート、アンタッチャブル、彼ら自身はダリット(壊された民という意味)と呼ぶ)の存在だ。彼らは、ヒンドゥー教で触れてはいけない人々とされ、水飲み場に近づくことも許されない。もちろん同席など許されない。その数約1億人(インド全体では10億超、2001年現在)。
 この不可触民解放運動を推進したのが不可触民生まれのアンベードカル。彼は戦前、ヒンドゥー寺院への立ち入り(許されていなかった)、公共の貯水池や井戸の利用の権利を求めた非暴力運動を展開した。この過程で、カースト制度を不可欠のものとするガンディーと対立した。戦後インド独立と共に初代法務大臣になり、インド憲法を創案するために委員会議長に選ばれた。この憲法で「アンタッチャビリティー」を廃止したが、憲法創案作成後は仏教に帰依した。
*参考:アンベードカル小伝