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5.イングランド・チューダー朝(1485-1603)

 イングランドは百年戦争の結果、対岸の港町カレーを残すばかりでフランスから撤退、しかもいまだスコットランド、アイルランドは別の国なので、イングランド(ブリテン島の半分)を領するだけの国だ。スコットランドは長年イングランドと宿敵の関係で、その敵対心から伝統的にフランスと友好関係を結んできた。
 ウェールズ・チューダー家のヘンリ7世(在位1485-1509年)は百年戦争後のランカスター家とヨーク家の内乱、ばら戦争(1455-85年)を終結させたボズワースの戦いで、国王リチャード3世を殺してイングランド王となった。ヘンリ7世は中央集権的な君主制を築こうと、いつまた謀反をおこすかもしれない貴族たちを武装解除し、国内を安定させた。しかし、絶対主義と言うほどの段階には至っていない。

 次のヘンリ8世(在位1509-年)のとき、みずからの離婚問題でローマ教皇と対立した。最初の妻は、スペインのフェルナンド、イサベル両王の末娘カタリーナ(英名カザリン)だが、もともとヘンリ8世の兄アーサーに嫁し、アーサーがすぐに亡くなったため父親に説得され仕方なく結婚した。この王妃と離婚し、王妃付きの若くて美人の女官アン・ブーリンと結婚したくなったヘンリ8世は、これをローマ教皇クレメンス7世に申し出たが、カザリンが今をときめく神聖ローマ皇帝カール5世の叔母にあたるため、教皇はこれを拒絶した。このため、ヘンリ8世はローマ教会と袂を分かち、1534年国王至上法を制定してイングランド国教会を成立させてしまった。教義内容に大きな変更はないが、ローマ教会と決別した限りにおいて、これも宗教改革のひとつに数えられる。これにより修道院を解散、没収した財産をジェントリに払い下げることで国民の不満を抑え、王政の基盤を強化した。この改革に反対したトマス・モアを斬首刑とし、国教会の首長は王が兼任、政治・宗教とも実権を握った。しかし、当の王妃アンはわずか3年後、女癖の悪いヘンリ8世が三番目の妻を迎えるため、斬首刑に処せられた。
 この宗教改革の過程で、イングランドは1536年合同法を制定し、ウェールズ辺境伯領が正式にイングランドに編入された。

 ヘンリ8世の死後、ただ一人の王子エドワード6世が即位、重臣たちはイングランド国教会を維持したが、即位後まもなく死亡。次に即位したのはヘンリ8世と最初の妻カザリンの娘メアリ1世。彼女は自分の母を離婚した父や、離婚の結果できたイングランド国教会を嫌い、即位するとローマ教会に復帰し、またスペイン国王フェリペ2世と結婚した。しかし、旧教に復帰したため臣下の支援を得られず、自分に反対する臣下を次々と処刑し、ブラッド(血)・メアリとあだ名された。即位5年で死去。

 そして即位したのがエリザベス1世(在位1558-1603年)、ヘンリ8世とアン=ブーリンの間の娘、メアリ1世は即位中このエリザベスをロンドン塔に幽閉していたが、メアリの死で王位がころがりこんできた。
 エリザベス1世はイングランド国教会を復活、1559年信仰統一法でイングランド国教会を確立した。一方新大陸から銀を運ぶスペイン船を海賊ドレイクやホーキンズなどに襲撃させたり、'85年かねてから要請のあったネーデルラント独立支援のため大陸派兵を決定した。これに怒ったスペイン国王フェリペ2世はイングランド侵攻作戦を計画し、'88年130隻の無敵艦隊(アルマダ)に将兵3万を乗せ、英仏海峡を横断しようとした。イングランドは国中がパニックに陥ったが、大方の予想に反し、イングランド混成艦隊の艦砲射撃作戦が伝統的なスペインの体当たり作戦を凌駕し、苦戦したスペイン艦隊が北海方面に待避して、折からの嵐で大損害を被るという幸運に助けられて、侵略を免れた。

 一方スコットランドも宗教改革を模索し始め、1560年代にプロテスタントの国教会を成立させた。騒乱状態になったスコットランドに対し、イングランドは大軍を派遣して、宗教改革の実現を助けた。しかし、スコットランド女王メアリ・スチュアートは宗教改革に及び腰で、反女王暴動が起き廃位('68)されてしまい、イングランドに逃げ込んできた。しかし、メアリは後にスペインに協力したかどで、エリザベス1世に処刑されてしまう('87)。
 スコットランドが宗教改革を達成したことで、ブリテン島の二つの王国は、始めて「プロテスタント」という共通点で結ばれることになった。少なくともイングランドにとって、北の脅威はこれで大いに軽減されることとなった。1560年代を境に戦火を交えることがなくなり、17c初頭には同君連合によってゆるやかな連邦を組むことになる。
 のちイングランドが主教制度というピラミッド型の教会組織をとったのに対し、スコットランドはカルヴァン主義の制度に忠実な長老会制度をとった。

 エリザベス1世は「私は国家と結婚している」と言い、生涯を独身で過ごし、イングランド絶対王政の最盛期を現出した。彼女の死(1603)でチューダー朝は断絶、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位、スチュアート朝が始まるが、絶対王政は力を失っていく。