トップページに戻る

9.イングランド・スチュアート朝(1603-1714)

 チューダー朝のエリザベス1世死去で、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王となったが、彼はエリザベス1世に処刑されたメアリ女王の息子、即位してジェームズ1世(在位1603-25年)と称した(スチュアート朝)。しかしイングランド国教会を継承、王権神授説を信奉し、ピューリタン(カルヴァン派)を弾圧した。そのため、ピューリタンの一部は'20年新大陸へ移住した。また、議会を無視し、重税を課した。

 2代目チャールズ1世(在位1625-49年)も専制を続け、1628年議会が提出した「権利の請願(議会と国民の権利を尊重するよう要求)」を拒否して議会を解散、王と議会の対立は決定的となった。その後、王を兼ねるスコットランドでカルヴァン派の反乱が起き、自ら軍を率いて鎮圧に向かうが、逆に攻め込まれて賠償金を支払って降伏した。賠償金支払いのため増税しなければならなくなり、再び議会を招集したが、とたんに議会と対立、王と議会(王党派と議会派)はそれぞれ軍隊を組織して戦争となった(議会派の多数はピューリタンだったためビューリタン革命と呼ばれる、1642-49)。

 ここで議会派を勝利に導いたのがクロムウェル、ピューリタンのジェントリ出身、彼は鉄騎隊という宗教的団結力のある部隊を組織し、ネイズビーの戦い('45)で王党派の軍隊を打ち破った。クロムウェルは王を処刑('49)して共和制を樹立、自らが独裁者として君臨('49-59)する。
 クロムウェルは旧教のアイルランドや、スコットランドをまたたく間に征服し、大ブリテンの基を築き上げてしまった。'51年航海法を制定、ネーデルラント船がイングランドとその植民地に入港できないようにした。これが原因で第1次英蘭戦争('52-54)が起き、決着はつかなかったが、イングランド有利の講和が結ばれた。'53年には議会を解散し、自らを護国卿とした。以後共和制は軍事独裁政治となり、クロムウェルの禁欲主義に基づいて、劇場の閉鎖、賭博禁止を行い、国民の反発を高めた。'58年クロムウェル死去、息子が護国卿となるが、独裁政権を維持できず、翌年辞任、イングランドは再び混乱する。

 議会は、議会の尊重を条件に、チャールズ1世の息子チャールズ2世を迎え、王政へ復帰した(王政復古、'60)。しかし、チャールズ2世は専制政治を進め、ピューリタンを弾圧、さらに旧教の復活を企図した。これに対して議会は、'73年「審査法」を制定、イングランド国教会信徒以外は官職につけないことにした。さらに、'79年「人身保護法」を制定、王による不当逮捕と投獄を禁じた。
 チャールズ2世が死ぬと、弟ジェームズ2世が即位、専制を続行したが、歳でもあり世継ぎがいないこともあって、議会は強攻策を控えていた。ところが、王に息子が生まれてしまったため、議会は王を追放して新しい王を迎える相談を始め、これを知った王は亡命した(名誉革命、'88)。

 1689年、代わりにイングランド王として招かれたのは、ネーデルラント統領職のウィレムと妻メアリ(メアリはジェームズ2世の娘)だった。王になるにあたり、議会の権利、伝統的な国民の権利を守ることを宣言した(権利の章典、'89)。ここにイングランド議会制度が確立、権利の章典は成文憲法のないイングランドで、国民の権利を定めた法律として現在でも重要だ。夫妻はウィリアム3世(在位1689-1702年)、メアリ2世(在位'89-94年)として共同統治を行った。議会は多数派が内閣を組織、国王の補佐機関として機能した。
 ウィリアム3世死後、メアリ2世の妹アン女王の治世(在位1702-14年)には、女王に代わり、内閣が行政を担当する責任内閣制が成立した。

 アン女王には子が無く、1714年遠縁のドイツのハノーヴァー家から、ジョージ1世として王を迎えた(スチュアート朝断絶、ハノーヴァー朝)。英語を解さないジョージ1世の治世下で責任内閣制がますます発達、王は「君臨すれども統治せず」ということになった。

海外への躍進

 イングランドの海外進出は、世界最初の株式会社・東インド会社が1600年設立されていたが、ネーデルラント勢力にはるかに遅れをとっていた。そのうえ'23年、東インド会社が進出の足がかりにしようとしていたモルッカ諸島のアンボイナ島で、イングランド人がネーデルラント人に襲撃されて全滅するという事件(アンボイナ事件)がおき、イングランドは東南アジア進出を断念せざるを得なくなった。
 一方北アメリカでは、スペインより1c遅れの'07年、ヴァージニア・ジェイムズタウン(ジェームズ1世の名をとった。ちなみにヴァージニアはヴァージン・クイーン・エリザベスにちなむ。)に苦難の末初めて定住植民地が誕生した。当初北アメリカ東海岸は、インディアンの助けを借りなければ食糧にも事欠く有様だった。新天地で新生活を送ろうと勇気を奮い起こした人は、一部のピューリタンばかりで、時間をかけ少しずつ農地を切り開いていった。この植民地が本格的に発展し始めるのは、17c後半になってからだ。

 クロムウェルの軍事独裁共和制が成立(1649)すると、露骨な拡張政策を採った。その原動力は厳格で清廉なピューリタンの「千年王国」思想で、国教会やカトリックは悪魔だと信じ、スコットランド(国教会)、アイルランド(カトリック)の征服が悪魔を成敗するという名目で一気に進められた。特に「悪魔の巣窟」とみなされたアイルランドでは、徹底的な殺戮を伴った。
 新大陸でも、悪魔の国スペイン(カトリック)を倒すべく、スペイン領アメリカ植民地に大艦隊を送り込み、'55年ジャマイカを奪った。
 イングランド最大の敵ネーデルラント(悪魔の国ではないのだが)に対しては、'51年航海条例(のち航海法)を制定、ネーデルラント船がイングランドとその植民地に入港できないようにした。この法律は19cヴィクトリア時代まで200年近く効力をもった。
 翌年この措置に憤慨したネーデルラントはイングランドに宣戦、'60年イングランドの王政復古後'70年代まで断続的に戦い続けた。この間、航海法の効果が徐々に表れ、イングランド貿易はようやく成長段階に入っていった。

 18cに入ると、イングランドは本格的な世界進出の時代を迎えた。ありとあらゆる世界の商品がイングランドに持たらされ、中国から茶、陶磁器(チャイナは英語で陶磁器の意味)、絹織物、インドから毛織物、アメリカから砂糖を輸入して、生活の中に取り入れられた。
 また「中国趣味」が一大ブームになった。かつてマルコ=ポーロが語った伝説、ネーデルラント人リンスホーテンの「東方案内記」(1596)によって、中国で生産される陶磁器の優美さ、絹織物、果実などの物産が豊富なことが喧伝され、中国は憧れの国となっていた。庭園設計でもイングランドではフランス式の直線的・幾何学的造形美を嫌い、自然を生かした中国式庭園「眺望庭園」を作るようになった。中国風あずまや(パヴィリオン)が「眺望庭園」の不可欠の要素となり、ヨーロッパ中に流行した。

 スコットランドとアイルランドでは、名誉革命でウィリアム3世が国王になったとき、ナショナリズムからイングランドの統合に反対し、特にアイルランドで前国王ジェイムズ2世がフランス軍を率いて上陸、アイルランドは島をあげてジェイムズを支援した。'90年ウィリアム3世は自らネーデルラント軍を率いてジェイムズ軍と戦い、これを退けた。この結果アイルランド独立はならず、それから200年あまりイングランドからの搾取と貧困の島となった。