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20.イタリア統一

イタリア略史(ローマ帝国滅亡〜ウィーン体制)

 西ローマ帝国がゲルマン民族の進入で大混乱の末滅亡(476年)した後、皇帝を廃位したゲルマン人傭兵隊長オドアケルが、東ローマ皇帝から総督の称号を受けイタリアを一時支配した。フンから独立した東ゴート王国(ゲルマン民族、493〜555年)は、オドアケルを倒し建国した。ビザンツ皇帝ユスティニアヌスは、北アフリカ・カルタゴのヴァンダル王国(やはりゲルマン人の国)や、この東ゴート王国を滅ぼし(555年)、ビザンツ帝国の版図を拡大した。
 ユスティニアヌス帝死後は、ランゴバルド王国(ゲルマン民族、568〜774)がイタリア北部・中部を征服した。フランク王国(カロリング朝)のピピンは、ランゴバルド王国のラヴェンナ地方を奪い(754年)、この地をローマ教皇に寄進した(ローマ教皇領の始まり)。その後カール大帝がランゴバルドを併合した(774年)。フランク王国が3分割されたとき(843、870年)イタリアは中部フランクとなったが、早くにカロリング家は断絶、ローマ教皇領や多くの都市コムーネ(市町村自治体)が自立した。南部はイスラム勢力圏となった。
 シチリア島とイタリア南部には、ノルマンディー公国の騎士たちが進出し、イスラム教徒を排除して1130年両シチリア王国を建国した。シチリア王国は、その後フランス・アンジュー朝が領有、シチリアの晩鐘(1282年)後はイベリアのアラゴン王国が領有した。イタリア南部のシチリア王国領はナポリ王国としてアンジュー朝の支配が続いたが、1435年にアンジュー朝が絶え、アラゴン王のもと両シチリア王国として復活した。

 14c末以来はコムーネに代わり、小専制君主が群立し、彼らの宮廷の下でルネッサンスが開花する。
 1494年フランス・ヴァロワ朝のシャルル8世が、ナポリ王国奪取のためにイタリア遠征を行い、長期にわたるイタリア戦争(〜1559年)の発端となった。この戦争は後ミラノ公国をもめぐって、フランスとハプスブルク家とのヨーロッパの覇権争奪戦の様相を呈した(1535年ハプスブルク家ミラノを併合)。
 1538年フランス・フランソワ1世と手を組んだオスマン帝国(スレイマン大帝)がプレヴェザの海戦で、スペイン、ヴェネツィア連合軍を破り、東地中海の制海権を確立し、チェニジア、アルジェリア、イラクを併合して、地中海を取り囲む大勢力となった。しかし、オスマン帝国の勢力は1571年レパントの海戦でスペイン艦隊に敗れた後は、徐々に地中海から後退、イタリアはスペインの植民地と化していく。

 18cには北・中部の大半がオーストリアの領有となる。1800年からはナポレオンがイタリアを征服したが、ウィーン会議により北イタリアはミラノ、ヴェネツィアを含むロンバルド=ヴェネト王国として、再びオーストリアが領有した。トスカーナ大公国もハプスブルク家の手に戻り、ローマ教皇領、両シチリア王国(スペイン系ブルボン朝支配)が再度復活した。また、パルマ、モデナなど小公国がよみがえり、これらの国にもオーストリアが影響力を行使した。

20年諸革命(1820-21年)

 ウィーン体制下、スペインやオーストリアの支配から独立を目指し、イタリア諸国で革命が勃発した。ナポリ革命('20年)、シチリア革命('20年)、ピエモンテ革命('21年)だ。

 最初の革命はスペイン革命('20年、注)の影響を受けてナポリで起こった。'20年カルボネリーア(注)指導者で司祭のミニキーニ率いるグループが反乱を起こし、ただちに周辺に広がって、両シチリア国王フェルナンド1世(スペイン・ブルボン朝)は、スペインの12年憲法と同じ内容の憲法発布を約束し、新政府・議会が成立した(ナポリ革命)。

*スペイン革命:スペインではフランス・ナポレオン占領時から、各地でスペインの兵士・民衆が小部隊による奇襲戦法(ゲリーリャ(小戦争)と呼ばれゲリラ戦の語源となった)で抵抗を続けていた。1812年には唯一の非占領地カディスに自由主義者たちが集まって国民議会を開催、立憲君主制の憲法を制定した。スペイン最初の憲法で1812年憲法、またはカディス憲法と呼ばれる。しかし、ウィーン体制下ブルボン朝(フェルナンド7世)が復活すると、憲法はあっさり廃止され絶対君主制に逆戻りしてしまった。その後'20年リエゴ率いる反乱部隊がセビーリャ近くで蜂起、呼応してスペイン各地で反乱が発生した(スペイン革命)。この動きは首都マドリードにも波及し、フェルナンド7世は12年憲法の復活と議会の召集を認めた。しかし、'22年末ウィーン体制下の列強はスペインへの介入を決め、'23年フランスが軍隊を投入、自由主義派を追放して、再びフェルナンド7世の絶対君主制に戻った。

*カルボネリーア:フランス支配の時期に生まれた秘密結社。フリーメーソンの位階制や儀礼などの組織形態を継承している。

 その報に接したシチリアでも'20年7月、パレルモの職人・労働者で組織する多くの同業組合が民衆暴動が起こし、即座にスペイン12年憲法の適用、臨時政府の樹立が認められた(シチリア革命)。しかし、ナポリの革命政府がシチリア革命に介入、両革命は地域的な利害の対立を露呈して、不幸な結末を迎えることになる。
 結局、シチリアはナポリ軍によって平定され、ナポリ革命政府もメッテルニヒが北イタリア駐屯のオーストリア軍を派遣し、'21年3月カルボネリーアのメンバーが逮捕されて、ナポリ革命は敗北した。
 サルディーニャ王国(注)ピエモンテのアレッサンドリアでも、ナポリ革命が終息に向かいつつあった'21年3月、王国内の自由主義的青年将校たちが蜂起した(ピエモンテ革命)。反乱将校たちは、サヴォイア朝国王に憲法の制定と、ナポリへの部隊派遣で手薄になったオーストリアのロンバルド=ヴェネト駐屯軍と戦う意志の表明を期待したのだった。蜂起はただちに首都トリノにも波及した。ところが事態の展開に驚いた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世は、弟のカルロ・フェリーチェを新国王に任命して、自分はさっさと退位してしまった。反乱はさらにピエモンテ各地に広まったが、新国王は反乱を鎮圧するために王党派の軍隊を動員したばかりでなく、オーストリアにまで武力援助を依頼した。こうしてピエモンテ革命は、発生からわずか1ヶ月後に鎮圧された。

*サルディーニャ王国:アルプスのフランス側斜面に位置し、11c神聖ローマ皇帝から伯とされたサヴォーイア家は、その後イタリア・トリノに本拠を移し、公爵となった(ピエモンテ国家ともいう)。スペイン継承戦争に乗じて、フランスへの従属から独立、シチリアを得て王号を得た。まもなくこれをサルディーニャと交換(1720年)、以後サルディーニャ王国となる。ナポレオン時代は本土の領土を失い、サルディーニャを領有するだけだったが、ナポレオンの没落によって旧領を回復、さらに旧ジェノヴァ共和国を併合した。

48年諸革命と第1次イタリア独立戦争

 フランス二月革命と前後して、イタリアでは再びパレルモの反乱(シチリア、'48年1月)、ヴェネツィア革命(同3月)、ミラノの5日間(同3月)、第1次イタリア独立戦争(同3月)が勃発した。

 '48年1月フランス二月革命に先立って、シチリア・パレルモで民衆が蜂起し、近郊の農民がこれに続いた。両シチリア王国フェルディナンド2世の誕生日のこの日、数日前からこの日に何かが起きるという不穏な空気が漂っていた。反乱はたちまち全島に広がり、政治家たちはこれに乗じて臨時政府を形成した。国王は急遽憲法制定を約し、翌月公布した。
 臨時政府はこの憲法を不満とし、ナポリから分離した独立国家形成に向かい、独自に憲法制定作業を始めた。これに続き、トスカーナ、サルディーニャ、ローマで君主の発布になる憲章が制定された。あわただしく制定された諸憲章のモデルはフランスの30年憲法で、フランスで2月革命により七月王政が崩壊したちょうどその時に、イタリアの諸国家は七月王政の憲法を取り入れたことになる。

 ヴェネツィアはナポレオンの征服や、ウィーン体制下オーストリア支配のロンバルド=ヴェネト王国に組み込まれるなどして、かつて高度な造船技術を誇って繁栄した造船所も見る影もなく荒廃し、貧困者が増大した。その後荒廃から徐々に立ち直り、40年代には人口も元に戻り、'43年にはサン・マルコ広場にガス灯の照明がともり、'46年にはヴェネツィアまで海上の長い鉄橋が完成して鉄道が開通した。しかしオーストリア支配からの独立要求は次第に高まっていた。
 '48年3月サン・マルコ広場に集まった民衆は、改革運動の指導者マニンら政治犯の釈放を要求し、これを認めさせた。しかし翌日再びサン・マルコ広場に集まった民衆にオーストリア軍が発砲、数名の死者が出た。これをきっかけにマニンと労働者らが直接行動に出、オーストリア指揮下にあったイタリア兵らが反乱者側に好意的態度をとってオーストリア軍に圧力を加え、その月オーストリア軍はヴェネツィアから撤退した。その日マニンら急進派から成る臨時政府が成立した(ヴェネツィア革命)。

 やはりウィーン体制下オーストリア支配のロンバルド=ヴェネト王国に組み込まれ、独立要求が高まっていたミラノでも'48年3月オーストリア駐屯軍(ラデッキー元帥麾下14000)に対し蜂起が起こり、市内各所に最終的に1600ものバリケードが築かれ、市街戦となった。5日間の戦いで犠牲者は300を超えたが、オーストリア軍は寸断され、反乱は成功した(ミラノの5日間という)。この結果臨時政府が樹立された。

 ミラノ蜂起によりサルディーニャ国王カルロ・アルベルトは3月23日オーストリアに宣戦、軍を出動させた。この動きはイタリア諸国に反響を呼び、教会国家では義勇軍が組織され、その総司令官ドゥランドは、教皇ピウス9世(注)が禁止したにもかかわらず、国境を越え参戦した。トスカーナ大公国も軍隊の派遣を決定、各地から多数の志願兵も馳せ参じた。しかしピウス9世は4月末、カトリックの長としての普遍性の立場から、オーストリアとの戦争には加われないことを公式に表明した。教皇の姿勢に対して、ローマ政府は抗議の意を表して辞職した。

*ピウス9世:トリノ出身の聖職者ジョベルティは著書「イタリア人の市民的優越」(1843年)の中で、現存諸国家の連合というゆるやかな方式でのイタリア統一を論じ、国家連合の首長にはローマ教皇がふさわしいことを提唱した。彼はイタリアにはローマ教皇の存在と、ナショナルな意識の融合という、他の国には望めない条件が準備されており、これがイタリアの優越を保証していると言った。おりしも教皇ピウス9世が'46年即位、こうした世論を背景に、教会国家の諸改革に着手した。行政職・司法職への平信徒の登用、諸課税の軽減、出版検閲の緩和、政治犯の恩赦などを矢継ぎ早に実行し、たちまち改革教皇の評判を得た。また北イタリアにおけるオーストリア支配の現状にも遺憾の意を表明し、ナショナルな教皇として人気が上昇、ピウス9世を祝福する市民集会の光景がイタリア各地で見られた。しかし、教皇への期待が高かった分、独立戦争での教皇の姿勢に世論は失望し、急速に人気が失われ、教皇を首長とするイタリア連邦構想も消滅した。

 オーストリアに対する戦争は当初サルディーニャ王国が優勢と見えたが、ラデッキー元帥は堅固な要塞を築いて援軍を待ち、6月に入って攻勢に転じた。7月下旬クストーザの戦いでオーストリア軍が勝ち、ミラノに侵攻した。8月サルディーニャ軍はミラノから撤退、報復を恐れた市民6万がこれに従った。なかばゴーストタウンと化したミラノに翌日オーストリア軍が入城した。
 勝利を祝うオーストリア側では、8月末ウィーンでラデッキー元帥凱旋祝賀会が催され、ヨハン・シュトラウス(1世)は「ラデッキー行進曲」を捧げた。

 第1次独立戦争後、ローマでは教皇ピウス9世任命になる穏健な政府が成立したが、11月の議会再開日に政府の実力者ロッシが民衆に取り囲まれ刺殺されるという事件が起きた。これを皮切りに大規模な民衆デモが発生、教皇への請願のためクイリナーレ宮に押しかけた。身の危険を感じた教皇はローマを脱出、ガエタに避難した。民衆の要求により、21歳以上男子普通選挙による制憲議会選挙が翌年1月実施され、2月開会した議会はローマ共和国の成立を宣言、憲法制定作業に着手した。
 トスカーナでは民主派の運動がとりわけ活発だったため、大公レオポルド2世が教皇の後を追ってガエタに亡命、教皇とレオポルド2世共にオーストリアに軍事介入を要請した。
 サルディーニャでは敗戦後、政府が6度交代するなど不安定な状態が続いたが、イタリア諸国で民主派の勢いが増してきたこと、オーストリアの軍事介入の気配が濃厚になってきたことを受け、主導権回復をかけて国王カルロ・アルベルトは再度オーストリアと戦う決断をした。3月オーストリアに対し宣戦したが劣勢は明らかで、自国領内で大敗を喫し、10日足らずで戦争は終わった。アルベルトは退位し、代わってヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が父王を継いで即位した。

 一方ローマ共和国議会は教皇の世俗権を無効とした他、聖職者財産の国有化、司法・教育制度の改革、出版の自由、税制の改革などの処置をとった。サルディーニャ王国がオーストリアに敗北したとの報が届くと、非常事態として三頭執政体制を導入、マッツィーニ(注)もその一人に選ばれた。
 しかし、列強は互いに牽制しながらローマ教皇の復権を画策し、フランス大統領に就任したばかりのルイ・ナポレオンは、オーストリアの介入を制するため軍の派遣を決定、'49年4月ローマ共和国を攻撃した。ローマではガリバルディ(注)らの指導下に正規兵・義勇兵らが迎え撃ったが、1ヶ月に及ぶローマ市内での攻防の末、フランスが勝利を収め、共和国は崩壊した。
 またトスカーナでは4−5月、オーストリア軍が制圧して大公を復権させ、シチリアではナポリ軍が攻め入って両シチリア王国を復活させた。
 マニン指導下のヴェネツィアは、その後8月オーストリアの攻撃の前に、ついに力尽きて降伏した。これを最後にイタリア諸革命は終息した。

 革命終息後、イタリア諸国家は憲法を破棄して48年以前の体制に戻った。ただサルディーニャ王国だけが、前国王カルロ・アルベルトの発布した憲章を存続させ、議会制に基づく自由主義的政治を継続した。諸国政府が革命の加担者に対する弾圧を強める中、サルディーニャ王国は亡命活動家たちを受け入れ、イタリアにおける自由主義とナショナリズムの中心地となった。しかし民主主義派の指導者たちは受け入れられず、再びイタリア外に亡命した。マッツィーニはスイスからロンドンへ、マニンはパリ、ガリバルディは各地を転々とした。

*マッツィーニ:当初カルボネリーアのメンバーだったが、'30年末に逮捕され、翌年2月サルディーニャ王国から追放された。マルセイユに亡命したマッツィーニは、秘密結社による運動の限界への反省と批判から、これに代わる「青年イタリア」を組織した。青年イタリアは秘密結社の位階制や儀礼に立たない新しい組織形態を有した。その政治目標は明瞭で、イタリアに単一の共和制国家を樹立することだった。またスペインのゲリラ方式を戦闘形態として採用した。マッツィーニの組織は青年層を引きつけ、イタリア内にも急速に浸透した。青年イタリアは'33年前半にはピエモンテでの蜂起計画を立てたが、警察に事前に察知され、弾圧された。マッツィーニもフランスから追放され、亡命地をジュネーヴに移した。
 ジュネーヴ亡命中マッツィーニは、次ぎにサヴォイアにスイスから攻め入って蜂起する計画を立てた(サヴォイア遠征計画)。これには'31年ポーランド蜂起でスイスに亡命中の多数のポーランド人の協力も取り付けた。またサヴォイア蜂起に合わせて、ジェノヴァでの同時蜂起計画を立て、この実行をガリバルディに託した。しかし両計画は、老革命家ブォナローティ(主として北イタリアで活動し、カルボネリーアとは別の秘密結社を組織していた)が、近い将来フランスに共和革命の起こる見通しがないので、青年イタリアの蜂起計画に加わってはならない、という指令を発したため、'34年2月失敗に終わった。マッツィーニはその後亡命先をイギリスに移した。
 第1次イタリア戦争に際しては、4月始め17年ぶりにイタリアに戻り、ミラノで活動した。ローマ共和国成立後、補充選挙で議員に選出され、三頭執政体制で執政の一人となった。共和国崩壊後再び亡命。

*ガリバルディ:マッツィーニの「青年イタリア」のメンバー。サヴォイア遠征計画の失敗で、欠席裁判で死刑判決を受け、南アメリカに亡命した。第1次イタリア戦争に際し、6月14年ぶりにイタリアに戻り、ローマで義勇軍を組織して8月いっぱいオーストリア軍に抵抗した。マッツィーニとガリバルディはこの間ミラノで初めて顔を合わせたが、あまり友好的ではなかったらしい。サルディーニャ王国の敗戦後、ヴェネツィア共和国に結集するべく、アペニン山脈越えでヴェネツィアに向かったものの、サン・マリノ付近でオーストリア軍の攻撃を受け、その後も執拗に追われて果たせなかった。が、ガリバルディはローマ共和国防衛と、アペニン越えによって、それまでほとんど無名だった名を知らしめた。イタリア統一('61年)の功労者(後述)。

イタリア統一(1861)

 ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の下で、首相となったトリノ貴族出身のカヴール('52-9組閣)はサルディーニャの近代化を推進した。彼の制度改革は、関税引き下げによる自由貿易、鉄道・海運・銀行など諸事業推進、反教権主義・修道院財産接収などにわたった。これらは保守派の貴族、聖職者ら旧勢力を押さえ込み、一方で民主主義派(注)の活動を封じ込めながら、自由主義的改革を行うものだった。この結果、イタリア統一を共和主義にこだわらず、サヴォイア朝の立憲君主国家のもとで受け入れようとする現実論が浮上することになる。

*民主主義派:19cの政治においては自由主義と民主主義が対抗した。自由主義は教養と財産を基準にし、民衆の政治参加を制限するが、民主主義は民衆の政治参加によって共和制を目指した。
 しかし第1次独立戦争後民主主義派の一部から、立憲君主制の下で自由主義的改革の進むサルディーニャ王国の動向を見て、オーストリアからの独立を達成するためには、サルディーニャ王国の軍隊に依存せざるを得ないという判断と共に、サルディーニャ王国が再び先頭に立つなら、共和制にこだわらずサヴォイア朝の君主によるイタリア統一を受け入れてもよいとする考えが台頭してきた。ミラノからの亡命者パラヴィチーノやマニンらは、こうして'57年8月「イタリアとヴィットーリオ=エマヌエーレ」をスローガンとしたイタリア国民協会を発足させ、ガリバルディもこれに加わった。

 カヴールは外交面でも手腕を発揮し、フランス・ナポレオン3世と同盟しオーストリアと戦う密約を交わした。その上で'59年イタリア北部を領有するオーストリアと先端を開き、イタリア統一戦争に突入した。ナポレオン3世も自ら軍を率いて参戦、オーストリア側も皇帝フランツ・ヨーゼフが陣頭指揮に立ち、ソルフェリーノ、サン・マルティーノ両所で決戦、かろうじて同盟軍が勝利を収めた。しかし、ナポレオン3世はカヴールに諮らず、7月単独でフランツ・ヨーゼフと休戦協定を結んだ(ヴィッラフランカの和約)。この協定で、オーストリアからフランスにロンバルディアが渡され、フランスがそれをサルディーニャに与えることが決められた。カヴールはこの休戦協定に怒り、同日首相を辞任した。
 イタリアにとっては独立への決定的な機会を逃したことになり、特にオーストリアに残ったヴェネツィアには大きな不満が残った。一方、独立戦争進行中に、中部イタリアのパルマ、モデナ、トスカーナなどで反乱が起こり、それぞれ臨時政府が樹立され、いずれもヴィットーレ・エマヌエーレを国王に戴く方針を示した。
 こうした動きの中で、マッツィーニが亡命地からイタリアに戻り、今こそ人民の蜂起の機会がきたことを訴え、またガリバルディも義勇兵を率いてローマに攻め入る計画を立てた。その気配に対し、ナポレオン3世とカヴールはそれぞれの立場から危機感を抱き、再び両者が接近した。その結果、サルディーニャ王国が中部イタリアを併合する代わり、サヴォイア家発祥の地サヴォイアとニースをフランスに譲渡することを合意した。カヴールは'60年初頭首相に復帰した。

ガリバルディのシチリア遠征

 北・中部での展開とは別に、ガリバルディがシチリアの亡命者グループからの要請を受け、慌ただしくシチリア遠征を準備した。ジェノヴァ付近の港から出港し、シチリア島西部のマルサーラに上陸したのは約千人、そのため千人隊とも、ガリバルディの赤シャツにちなんで赤シャツ隊とも呼ばれる。ガリバルディは「イタリア王ヴィットーリオ=エマヌエーレの名において」シチリアの独裁権を掌握すべく、シチリアの首都パレルモを目指して進軍、カラタフィーミの戦いで三千のブルボン軍と6時間余の死闘を制し、勝利を収めた。この後、地元民も参加してパレルモを制圧、ブルボン軍を追放してシチリア全島を掌握した。
 次いで同じブルボン支配のナポリを目指す頃には、遠征隊は北イタリアからの後続隊を糾合して1万人を越えていた。8月半島へ侵攻するが、ブルボン側がナポリでの決戦を避けたため、遠征隊は9月ナポリに無血入城、10月ナポリ北方のヴォルトゥルノ川で両軍(このとき双方とも約5万で互角)は決戦したが勝敗は決しなかった。

 一方サルディーニャ王はガリバルディのローマ侵攻に圧力をかけるため、自ら軍を率いてナポリに向け出動しており、ブルボン軍は挟撃されるのを恐れてガエタに移動した。10月ガリバルディはエマヌエーレ2世を出迎えるべくナポリ北方のテアーノに出向いた。両者の会見は多くの絵に残され神話化したが、実際の会見は冷ややかなものだったようで、国王はガリバルディ軍の正規軍への従属を求めた。ガリバルディは両シチリア王国を崩壊させたものの、今後1年間の両シチリア施政権を自分に与えてくれるようにとの申し出も却下され、失意のうちにナポリを去り、5万にのぼる義勇兵も冷たい扱いを受けた。ガエタに移動していたブルボン軍も、サルディーニャ正規軍の攻略によって解体した。

 2年間の激動を通じ、ヴェネトとローマを除くイタリアの大部分がサルディーニャ王国に併合された。イタリアの統一はこうして、諸力に押されてイタリアのサルディーニャ王国化として実現したのだった。'61年始め総選挙が実施され、イタリア各地から選出された議員たちがトリノに集まり、議会は3月ヴィットーリオ=エマヌエーレをイタリア国王とすることを決めた(イタリア王国成立)。
 なお、ヴェネトは'66年普襖戦争の際に、ローマは'70年普仏戦争に際してイタリアに併合され、そのとき首都もローマに移された。