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24.日本の台頭

 ペリーが開国を要求して以来、尊王攘夷運動が起こり、折からの13代家定の将軍継嗣問題が絡んで、日本中は騒然となっていった。'58年井伊直弼が大老になるや、日米修好通商条約等を調印(米蘭露英仏と調印し、安政五カ国条約と言われる。治外法権、関税自主権の喪失などを規定する不平等条約)、反対派を抑圧すべく安政の大獄を引き起こした。井伊は吉田松陰、橋本左内らを処刑、連座者は公卿・大名・志士百余名に及んだ。その後江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士に暗殺された('60年)。
 この後、'62年老中安藤信正は公武合体を推進し、皇女和宮の降嫁を実現したが、同年江戸城坂下門外で水戸浪士に襲撃され負傷、辞職した。一方、公武合体を掲げて示威上洛した薩摩の島津久光は、これを機に同藩内の尊攘派を弾圧(寺田屋事件)し、勅使大原重徳を奉じて江戸に向い、幕政改革(将軍後見職一橋慶喜、政治総裁松平慶永)を実行した。しかし、島津久光はその帰途、横浜で行列に行き会って下馬しなかった4人のブリテン人を殺傷するという事件を起こした(生麦事件)。

 朝廷では長州藩と三条実美(権中納言・議奏)ら尊攘派が実権を握り、京都市中では「天誅」という名の暗殺が繰り拡げられた。'62年11月尊攘派は、勅使三条実美を江戸に派遣、幕府に攘夷の断行を迫り、幕府は攘夷の実行と将軍家茂の上洛を約束させられた。将軍上洛に先立ち、尊攘派対策として京都守護職が設置され会津藩主松平容保が任命された。また、浪士組を組織し京都警護を行わせ、以後新撰組として徹底した佐幕過激派として行動した。'63年3月家茂が上洛、家茂は攘夷期限を5月10日に約束させられた。これにより朝廷の政治的地位が上昇した。
 長州藩では攘夷期限の日、馬関海峡を通行中のアメリカ商船などを砲撃したが、6月米軍艦によって砲台はあっさり破壊され、長州海軍軍艦も撃沈されて長州海軍は全滅した。このため、高杉晋作は藩防衛のため、正規軍とは別に新たな軍隊を編成するよう建言し、同月「奇兵隊」が結成され、その後多くの新軍隊が結成された。
 また、前年の生麦事件に対し、幕府・薩・英間の交渉が解決せず、英艦隊は鹿児島を砲撃、薩摩藩もこれに応戦した(薩英戦争)。11月横浜で和議、薩摩は軍備の近代化を痛感し、ブリテンも薩摩の実力を評価、この事件以後薩英は提携するに至る。

 '63年8月、会津・薩摩両藩を中心とする公武合体派は、長州藩を中心とする尊攘派を京都から追放した(文久3年8月18日の政変)。長州藩兵は御所警備の任を解かれて京都を追われ、三条実美他尊攘派公卿7名は長州へ落ちた(七卿落ち)。また、一橋慶喜・松平慶永・山内豊信・島津久光ら6名による参預会議が設置された(同年暮〜翌3月)が、すぐに分裂・解体してしまう。
 '64年7月、前年の政変で京都での地位を失墜した長州藩は、勢力回復のため七卿の赦免を願ったが許されず、また池田屋事件(同年6月、新撰組が攘夷派を襲った事件)の報復のため、三家老が兵を率いて上京、蛤御門付近に会津・薩摩両藩と戦って破れ、指導者の藩士久坂玄瑞が自刃(禁門の変)、第一次長州征伐の発端を作った。
 '64年8月、禁門の変における長州藩の皇居への発砲を理由に、幕府は長州追討の勅許を得、諸藩の軍を進めようとしたが、薩摩藩西郷隆盛は長州藩の分裂政策を主張し、また長州側が同月2度目の四国連合艦隊下関砲撃により、藩内に保守派が台頭、ついに三家老・四参謀を切って幕府への恭順を示したため、幕府軍は戦わずして撤兵した(第一次長州征伐)。

 第一次長州征伐直後、長州藩では高杉晋作が馬関(下関)に挙兵し、保守派を押さえて反乱に成功、討幕派の政権となった。そこで幕府は'65年4月第二次長州征伐を発令、勅許を得たものの、諸藩に再征反対の空気が強く、薩摩藩は出兵を拒否、'66年6月に至って戦闘が開始された。しかし、幕府軍の戦況は悪く、8月兵を解いて長州征伐は失敗に終わった(第二次長州征伐)。このため幕府の権威はまったく失墜した。これより前、土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎は薩長に働きかけ、'66年1月京都で長州木戸孝允・薩摩西郷隆盛との間に秘密軍事同盟が結ばれていた。これにより討幕運動が本格化する。薩長はブリテンを中心とする国際勢力の支持を得て討幕を画策し、一方の幕府はフランスと結んだ。

 第2次長州征伐の最中家茂の死により将軍となった慶喜は、討幕運動の出鼻をくじくべく、'67年10月土佐藩の建白になる大政奉還をなしたが、一方の薩長は同じ日に討幕の密勅を得た。
 大政奉還後の'67年12月、薩長討幕派はクーデターを敢行、摂関・幕府の廃絶、総裁・議定・参与の三職設置、施政方針として神武創業のはじめに復することを新政の理想として掲げた大号令を発した(王政復古の大号令)。同日慶喜に内大臣辞官と領地返納を命じ、そのため翌1月鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争の発端となった。
 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗れ、中立諸藩も次第に討幕側についた。諸外国はブリテン公使パークスのあっせんで局外中立を宣言、この間3月五箇条の誓文が発せられた。4月討幕軍は江戸城を接収、慶喜は恭順の意を表したが、幕府主戦派は上野・彰義隊など関東各地で抵抗し、東北では仙台・米沢藩を中心に奥羽列藩同盟さらに奥羽越列藩同盟を結成して、会津戦争に発展した。9月新政府は年号を明治とし、列藩同盟は会津落城と共に降伏した。他方、品川から逃れた榎本武揚ら旧幕府海軍は函館五稜郭で最後の抵抗を試みたが、'69年5月投降、これによって戊辰戦争が終結した。

維新政府の歩み

 維新政府は、当初薩摩・長州・土佐・肥前など倒幕諸藩の連合政権で、王政復古、五箇条の誓文に掲げた「万機公論」の採用以外、今後に確たる方針があったわけではなかった。しかし、維新を推進したのは、外圧に危機感を抱いたこれら諸藩の下級武士たちだったため、様々な紆余曲折・試行錯誤を繰り返しながらも、産業を興し、国力を充実させ、旧勢力を棚上げにする方向で、次第に形を整えていく。一方、維新推進に与った武力を解体したため、その不満のはけ口を外征に求めていった。同時に列強も日本をアジアの尖兵に仕立てようとしたことから、日本は帝国主義時代の一翼を担っていく。

 まず諸藩への政府の統制力を強化しようとして、木戸孝允・大久保利通らの間で計画が進められた版籍奉還が行われた。'69年1月薩長土肥の4藩主が、版(土地)と籍(人民)を朝廷に返納する版籍奉還の建白を提出、3月までに大部分の藩がこれにならい、6月に藩主を逐次知藩事に任命した。これ以後藩の独自性は次第になくなり、'71年廃藩置県に至る。
 次いで、'69年3月天皇を東京城に迎え太政官を京都より移して、首都とした。京の公家らを政府に口出しできないようにするためのもので、守旧派の反対を押しきってなしくずしに実行された。

 '71年7月廃藩置県が断行された。全国の藩を廃して府県に統一し、中央政権を確立するもので、維新以来薩摩に引き上げて腰を上げない西郷を呼び戻し、木戸・大久保の他板垣退助・大隈重信らで政府の中枢を固め、薩長土より徴した親兵約1万を東京に集めて、廃藩を命じた。旧藩主たる藩知事は家禄と華族の身分を保障されて東京に移住、諸藩の年貢・負債は政府の手に移ると共に、府知事・県令が派遣された。
 さらに政府は同年10月右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、木戸・大久保及び伊藤博文を副使とする遣欧使節団を送った。幕府が結んだ不平等条約の最初の改正時期が'72年にくるため、新政府の悲願である条約改正交渉を目的としたが、欧米先進諸国の態度は硬く不成功に終わった。だが、政府の主だった人間が2年間もの間留守にして西欧を見聞するという思い切った訪欧は、その後の日本の発展に非常に有益となった。使節団の他に金子堅太郎・団琢磨・中江兆民・津田梅子ら60余名の留学生が同乗した。

 遣欧使節団帰国直後の'73年10月、征韓論争をきっかけに明治6年の政変が起こった。これに先立つ日清修好通商条規('71年7月)締結後、欧米列強は対東アジア政策を模索する後発の日本をアジアの尖兵に仕立てようとし、維新政府は高圧的な対朝鮮外交を進めた。これに対し朝鮮政府が反発し緊張が高まり、居留民保護のため軍の派遣が問題となったためだ。
 板垣は即時出兵、西郷は全権大使として自分が赴くことを主張した。一方大久保は内治に専念することを主張、正院決定は西郷派遣に決定された。しかし、岩倉が天皇に上奏する際個人の意見として反対論を語ったため、天皇はこれを裁可しなかった。この結果、西郷賛成派は下野した。いわゆる征韓は西郷の真意では無かったと言われるが、この政変が自由民権運動、士族反乱、そして朝鮮侵略の出発点となった。
 政変により翌月内務省が創設され、大久保利通が内務卿となり、大隈・伊藤と結んで「有司専制」体制が確立した。一方、福島種臣・後藤象二郎・板垣・江藤新平らは「愛国公党」を結成し、翌1月「民選議員設立建白書」を提出した。

 一方政府は当初から、富国強兵の基礎として、工部省を設置し近代産業の移植を企図した殖産興業政策を推進した。特に内務省設置以来、大久保利通により本格的に推進され、鉱山・鉄道・通信などの官営化、製糸・紡績などの官営模範工場設立、輸入機械払い下げ、助成金交付による私企業育成など多くの政策がとられた。この際、法外な高額給与を払って外国人を招いた。官営の個々の事業は必ずしも成功ではなかったが、'81年鉄道・通信以外の事業は三井・三菱などの政商的民間資本に払い下げられ、産業資本の育成・大資本集中の基礎を作った。
 地租についても、政府は'72年土地永代売買の禁(1643田畑永代売買禁令、家光治世)を解き、旧来の農民保有地に私的所有権を認め、地券(壬申地券)を発行した。この後、'73年7月地租改正(地租改正条例など)を行い、旧年貢高を元にした壬申地券を改め、新たな土地調査に基づき地券を交付し、地租を算定地価の3%(金納)とした。だが、政府は反収量の目的額を押しつけたため、'76年農民は各地で地租改正反対一揆を起こして抵抗した。そのため、'77年1月地租率は3%から2.5%に引き下げられた。

 さて征韓論争後征韓反対派だった大久保らは、結局不平士族の目を外にそらすために台湾出兵計画を進め、西郷従道を台湾事務都督に任じ出兵準備に入った。しかし米英の反対、政府部内での異論に遭いいったんは中止を決定したが、西郷従道の強硬意見で出兵、台湾を制圧した('74年5月)。台湾の領有をめぐって、同年9月より全権大使大久保と清(当時台湾は清の管轄内)との間で数回にわたった交渉は難航し、決裂した場合には日清開戦もあり得るという緊迫した状況になったが、10月ブリテン公使ウェードの斡旋で和議が成立し、台湾出兵は義挙であるとして銀50万両を補償金として獲得した。

 一方で政府の開明的諸政策や士族解体策に対し、'74年2月佐賀の乱(江藤新平がかつがれて処刑された。)、'76年10月熊本神風連の乱・福岡秋月の乱・山口萩の乱などの不平士族の反乱が続いて起こったが、いずれも数日で鎮圧された。下野していた西郷も鹿児島の私学校党に擁立され'77年2月熊本鎮台を攻撃、政府は直ちに徴兵令による軍隊で鎮圧に向かい、9月西郷らは戦死又は自刃し(西南戦争)、最後の士族反乱となった。

自由民権運動

 明治6年政変で征韓論に敗れ下野した板垣退助・後藤象二郎らは'74年1月民選議院設立建白書を提出したが、これが大きな反響を呼び、国会開設・憲法制定を要求する自由民権運動となった。それまでの維新政府の政体は昔ながらの太政官制、国会・憲法は近代政府に必要不可欠だからだ。
 同年4月、板垣らは高知に立志社を設立、同様の結社が四国・九州の各地に生まれ、これらは愛国社に結集した。また豪農層の支持を得て自由民権運動は全国的に拡大し、'80年愛国社は国会期成同盟と改称した。これに対し、政府は集会条例で弾圧を加えたが、自由民権運動が議会開設を要求し、多くの私擬憲法が発表された。

 この間、西南戦争の翌'78年大久保が不平氏族らに暗殺され、有司専制の一翼を担っていた伊藤・大隈は国会開設の時期をめぐり、漸進論・伊藤と急進論・大隈として対立していった。折しも黒田清隆の北海道開拓使官有物払い下げ事件が大隈によって漏洩され、民権派の政府攻撃が高まった。このため薩長閥は大隈追放を計画、岩倉・伊藤・井上毅(コワシ)を中心に天皇の巡幸帰還を待ち決行した('81年10月、明治14年の政変という)。大隈追放と共に、政府も国会開設・憲法発布を約束せざるを得なくなって、'90年を期した国会開設・憲法発布の方針を決定した。下野した大隈は立憲改進党を創設して自由民権運動に参加した。これを契機に板垣退助も自由党を結成した。

 伊藤は'85年太政官制を廃止、内閣制度を採用して、自ら初代総理となり、しばらく薩長藩閥による内閣が組まれた。一方プロシア君主制憲法を参考に'87年より草案の審議作業に入り、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らと共に'88年2月起草、同年4月憲法審議のため伊藤を議長とする枢密院を設置した。まず皇室典範が審議され、6月より憲法審議が行われ、'89年2月大日本帝国憲法として発布した。これにより'90年7月第1回衆議院選挙、同年11月憲法施行、国会が開設された。
 憲法は貴族院・衆議院の二院制、責任内閣制・司法権の独立・臣民の権利義務などを規定したが、神聖不可侵の天皇が統治権を総覧するという天皇主権を基本原則とし、枢密院・貴族院など特権的機関をおき、大臣も天皇に対して責任を負い、独立命令・緊急勅令・非常大権など議会によらない立法手段が天皇大権として残され、議会制の機能は制約されていた。また軍は天皇に直属し、内閣の統制外に置かれた(統帥権の独立)。

 自由民権運動は'82年福島事件(福島県令三島の自由党弾圧事件)、'84年群馬事件・加波山事件・秩父事件など、自由党地方党員による武力闘争を通じ、同年自由党が解党、改進党も運動は沈滞した。'87年言論の自由・地租軽減・条約改正を要求する三大事件建白運動、また大同団結運動として高まったが、急きょ公布施行された保安条例で弾圧され、片岡健吉・星亨ら自由党首脳は投獄され、尾崎行雄・中江兆民らが公民権を剥奪された。
 一方大隈は井上の後任として外務大臣となり、改進党は準与党となって懐柔され、民権運動の闘争力は弱まった。'90年11月憲法施行・国会開設時には旧自由党は先に公民権を剥奪された片岡らを含め板垣の下に愛国公党→立憲自由党→自由党と組織され、立憲改進党と併せて衆議院での多数議席を得、星亨は衆議院議長に就任した。
 '98年に至り初めて政党内閣(隈板内閣)が誕生、以後藩閥・政党内閣が交互に組閣される。

日清戦争(1894〜5年)

 朝鮮国王高宗の王妃閔(ミン)氏は、1873年政権を大院君(高宗の実父)から奪取すると、日本は朝鮮に対して高圧的に開国を迫ったが、朝鮮政府が反発し緊張が高まり、日本政府内では居留民保護を名目として軍の派遣をするか否かで征韓論争が起こり、これにより明治6年政変が起こったのは先に見た通りだ。
 '75年9月開国を拒む朝鮮に対して挑発を行い、江華島事件を引き起こした。この事件は、朝鮮沿岸の江華島沖で海路調査と称して飲料水補給に上陸しようとしたのに対して朝鮮側が砲撃、日本軍は永宗島の砲台を破壊した。翌2月日本は黒田清隆・井上馨を全権大使として、軍事的圧力と米英の支持を背景に開国・通商を要求、日本に領事裁判権を認めるなどの不平等条約である日朝修好条規を調印した。

 '82年ソウルで、日本の指導下に進められていた軍政改編に対して抗日暴動が発生、日本公使館が包囲され公使らが避難を余儀なくされると、この暴動で閔氏政権が崩壊、大院君が政権に返り咲いた(壬午軍乱)。これに対して日中両国が介入した。宗主国清朝は李鴻章の大規模な軍隊を派遣してソウルを占領、大院君を逮捕・閔氏政権を復活させた。日本もただちに派兵し、閔氏政権と交渉、82年済物浦(チェムルポル)条約を結び、日本に対する謝罪、ソウルの日本公使館護衛のために駐兵権を認めさせ、これが後日日清戦争の際の日本軍出兵の法的根拠となった。一方、清は宗主権を条文化、また袁世凱を派遣して朝鮮支配権を強化した。

 次いで'84年金玉均(キムオッキュン)ら親日的急進改革派は、清仏戦争に乗じて、日本の支援の下クーデタを起こし閔氏政権を倒して親日政権を樹立した(甲申事変)。しかしこの政権は、袁世凱率いる清朝軍によってわずか1日で崩壊させられ、再び閔氏政権が再建された。このとき日本公使館は焼き討ちされ、多数の日本人が殺害されて、金玉均は日本に亡命した。日本は伊藤博文を中国に派遣して李鴻章と交渉し、85年天津条約において、両国軍隊の朝鮮からの撤退、将来朝鮮に派兵する際には、事前に相手国に通知することを定めた。

 '94年全羅道の農民蜂起を発端とする東学党の乱が勃発すると、朝鮮政府は宗主国清に対して援軍を要請したが、日本は居留民の保護を名目にして朝鮮出兵を決定した。日本が上陸したとき反乱はすでに終息に向かっていたにも拘わらず、日本は清に対し、日清両国平等で朝鮮の内政改革を進めようと提案した。当然清はこれを拒否、日本は清との開戦を決意しつつ増兵した。
 日本軍は王宮を占拠、大院君を執政とする傀儡政権を樹立した。この結果日清両国は互いに宣戦布告、平壌で両軍は対決し、僅か1日で山県有朋率いる日本軍が勝ち、黄海海戦においても日本軍は清の最新鋭鑑に大損害を与えた(日清戦争)。
 こうして清は新興日本に敗れ、'95年3月日本全権伊藤博文と清国全権李鴻章が下関条約を締結、清は朝鮮の独立承認、日本に賠償金2億両を支払い、中国4港の開港、遼東半島・台湾の日本への割譲などを約束させられた。列強は一斉に清の利権獲得に乗り出す。先陣を切ったロシアは、フランスとドイツを誘い、日本が下関条約で獲得した遼東半島を清に返還するよう干渉(三国干渉)、日本がしぶしぶ返還に応じると、ロシアはその見返りとして即座に東清鉄道の敷設権を獲得した。

日露戦争(1904〜05)・韓国併合(1910)

 中国で義和団事件(日本では北清事変と呼ぶ、1900年)が勃発したとき、日本は列強中最大の軍隊を派遣した。一方ロシアは義和団鎮圧を名目に満州を軍事占領し、その後も軍団を駐留させ、列強を警戒させると共に日露間に緊張が高まった。その上朝鮮に対しても野心を露骨化したため、日本の同地域への侵略意図と衝突、危機感を抱いた日本は'02年日英同盟を締結し、ロシアの南下に備える一方、満州はロシア、朝鮮は日本の勢力圏とする旨の提案をなしたが、ロシアはこれを拒否した。この結果日露は'04年激突した(日露戦争)。
 まず、東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍基地の旅順閉鎖作戦を敢行、陸軍は大山巌・児玉源太郎下4軍15個師団に及ぶ兵力を投入、8月遼陽会戦、10月沙河会戦など、いずれも苦戦の末勝利を得た。'05年1月乃木希典率いる陸軍が多数の犠牲を払って203高地を奪取し、旅順を占領した。3月両軍とも30万人の大軍を結集させた奉天会戦でも多くの犠牲を出してロシア軍を退却させた。5月対馬海峡における日本海海戦で日露両艦隊が激突、ロシア・バルチック艦隊が壊滅した。
 折しもロシアでは'05年1月血の日曜日事件に端を発した暴動や軍隊の反乱が起き、その鎮圧が急務となり、また打ち続く敗戦に士気を喪失していた。8月米大統領ルーズベルトの斡旋によりポーツマス講和会議が開かれ、日本全権小村寿太郎とロシア全権ヴィッテにより、日本は朝鮮に対する監督権、満州の租借権、南樺太の領有などをロシアに認めさせた。

 この後、日本は韓国への内政干渉を強化するようになり、3次にわたる日韓協約を締結した。第1次は日露戦争中の'04年8月、韓国政府は日本政府の推薦する財政・外交顧問を採用すること、重要な外交案件は日本政府と協議することを規定した。第2次は'05年11月、日本が外交権を握り、京城に駐在する統監(初代伊藤博文)が一切の外交事務を統轄することを規定した。第3次は'07年7月、ハーグ密使事件を機に韓国皇帝高宗(コジョン)を退位させ、その直後に日本政府の強圧下で調印させた。韓国の内政権は統監の指導監督下におかれ、韓国軍隊を解散させ、法令制定、高級官吏の任免に承認を必要とすることを規定した。
 これに対して韓国内では激しい反日闘争が展開されたが、日本は武力で鎮圧、'08年東洋拓殖会社、'09年韓国銀行創立により経済的支配もすすめ、'10年8月「日韓併合ニ関スル条約」により韓国を併合して日本の領土とした。このとき韓国の名称は廃され朝鮮となった。以後'45年まで朝鮮総督府による日本の支配が行われた。この間'09年伊藤博文は暗殺された。

大正デモクラシー、第1次大戦

 政府は1901年以後は桂太郎(藩閥)と西園寺公望(立憲政友会)が交互に組閣し、桂園体制と呼ばれ、桂内閣のとき日露戦争、韓国併合などが発生した。
 この間軍部の力が増大した。これには伊藤死後絶大な権力を持った山県有朋や大山巌・桂太郎など軍部出身者が元老として君臨した影響が大きい。'12年12月陸軍の強引な2個師団増設要求によって第2次西園寺内閣が倒壊し、桂が第3次内閣を組織するに及び、政党(政友会・国民党)・新聞記者で憲政擁護大会を開催(第1次憲政擁護運動)、'13年2月数万の民衆が議会を包囲する中で停会、群衆は政府系新聞社・警察を襲撃し、翌日桂内閣を総辞職に至らせた。これを大正政変という。以後内閣は中間派を含め政党政治が本道となった。

 第1次憲政擁護運動を出発点として大正デモクラシーの運動・思潮が起こった。藩閥・軍部の力を制限し、議会・政党を政治の中核に置くことを目的としたが、転じて普通選挙・婦人参政権の実現をも目指すようになった。理論的には吉野作造の民本主義、美濃部達吉の天皇機関説などが支柱となった。文化的には白樺派・人格主義がこれに呼応した。しかし第一次大戦後、労働運動・農民運動・社会主義運動が参加し、革命志向が現れるに及んで、大正デモクラシーも分解の様相を呈した。

 第一次世界大戦が勃発('14年)すると、日本は日英同盟を理由に、中国における利権拡大を目指して'14年8月参戦、山東省のドイツ利権の獲得と独領南洋諸島を占領し、'15年5月中国に対華21か条要求を認めさせた。また、欧米列強が戦争で供給できなくなった物資を日本が輸出したため、経済が大きく発展、産業が振興し戦争成金を輩出した。しかし、大戦景気はインフレを伴い賃金の上昇が追いつかなかったので、労働争議が多発し、米騒動が勃発した。

 '18年には、ロシア革命に日米英仏が干渉、日本はアメリカと共にシベリアに出兵した。総兵力は28000(日本12000)の協定だったが、日本は協定を無視して73000の兵力を送り東部シベリア要地を占領した。しかし、'19年秋には反革命のコルチャック政権が赤軍に敗北して、干渉の失敗は明らかとなり、'20年6月までに英米仏は撤兵、日本は出兵を継続したもののソビエト政権・人民の抵抗が強まり、日本国内での世論の反対、列強の不信感も高まって、'22年シベリアから撤兵した。