トップページに戻る

7.ネーデルラント(1581〜)

 ネーデルラントは中世仏ブルゴーニュ公領として、フランドル地方が毛織物工業や中継貿易で繁栄していた。1477年以降ハプスブルク家が相続、1556年スペイン・ハプスブルク家・フェリペ2世がこの土地を父(カール5世)から継承した。フェリペ2世はネーデルラントの人々に重税を課し、またゴイセン(カルヴァン主義のこの土地での名前)を迫害した。ゴイセンはこれに対し'66年偶像破壊運動を繰り広げて反撃、スペインの弾圧は残虐を極めた。'68年から名門貴族オラニエ公ウィレムを中心として独立戦争に発展、北部7州はユトレヒト同盟を結び、'76年南部(現ベルギー及びルクセンブルク)も独立戦争に加わったが、カトリックの多い南部ではすぐにスペインに妥協して脱落してしまった。

 '81年ネーデルラントは連邦共和国として独立を宣言したが、統領ウィレムが'84年暗殺されるなど内部は深刻な対立を抱えていた。伝統的な君主制を望む勢力は、ホラント州の反対を押し切って、'85年イングランドのエリザベス1世と締結、レスター伯を君主格として招いたが、そのやる気の無さに失望して数ヶ月でレスター伯を追い返してしまった。しかしスペインのフェリペ2世はイングランドの介入に怒り、'88年イングランド侵攻作戦を計画した。この計画は無敵艦隊がイングランド艦隊に惨敗を喫して頓挫した(アルマダ海戦)。'98年にはフェリペ2世が死去したため和平の機運が生まれ、1609年休戦協定が成り(〜'21年)、ネーデルラントは事実上独立を果たした。
 しかし12年の休戦の後は三十年戦争と平行して(三十年戦争の戦線がネーデルラントに拡大したのだが)再燃、1648年三十年戦争終結の際のウェストファリア条約で、国際的にネーデルラントの独立が承認された。ここに至るまで独立戦争は計82年間も続き、ネーデルラント人はこれを「80年戦争」と呼んで、スペインのくびきから解放し自国の独立を勝ち取った偉大な戦いと考えている。

 さてネーデルラントでは、中世にはヘント、ブルッヘ(プリュージュ)などフランドル地方の都市がヨーロッパの商業中心地として栄えていたが、16cになると同じフランドル地方のアントフェルペンが胡椒取引や毛織物生産で、商業の一大拠点に成長した。しかし、スペインに対する独立戦争最中の1585年、アントフェルペンはスペイン軍の封鎖と焼き討ちにあい、商業都市としての機能を奪われた。南部の他の都市も同様に戦争で事業は行き詰まり、南部の商人や職人は80年代後半以降90年代にかけて、大量の難民となって北部ホラントやゼーラントに移住するようになった。この結果ホラント州の都市アムステルダムが、アントフェルペンの資本を受け入れ、経済の中心地として繁栄することになった。同時にネーデルラント経済が急成長することになる。

 一方1602年には7州連合東インド会社を設立、'09年の休戦協定が、スペイン・ポルトガルの海外植民地でネーデルラントが通商を行うことを容認していたため、ポルトガルのアジア交易圏に堂々と割り込んでいった。'19年ジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)を建設して根拠地とし、'23年にはモルッカ諸島の小島アンボイナで商館員同士が対立してイングランド商館員を虐殺(アンボイナ事件)、イングランドを香料諸島から駆逐した。また'24年には台湾を占領(〜'61年)、マレー半島のマラッカ('41年)、セイロン島(現スリランカ、'55年)をポルトガルから奪って、香辛料貿易を独占した。日本とも'09年平戸に商館を設置、後長崎出島に移され鎖国時代の貿易を独占した。たまたまホラント州出身の者との接触が最初だったので、日本ではオランダと呼ばれる。
 新大陸でも'21年西インド会社を設立した後、'26年ニューアムステルダム(現ニューヨーク)に拠点を置いて新大陸貿易を進め、アフリカでは'52年南端にケープ植民地を建設した。バルト海では、ハンザ商人やイングランド商人を蹴散らし、北海を北上してスカンディナヴィア半島を回り、当時ロシア唯一の窓であった白海のアルハンゲリスクにまで出向いて、その販路を広げた(それまでこのルートはイングランドの定期通商路だったが、ここでもイングランドは水をあけられた)。

 17c前半のネーデルラントが世界の海で見せた攻勢は、スペイン・ポルトガルを標的に強力な海軍を配備し、海上戦を想定した攻撃的な戦略を立てることによって遂行された。ヨーロッパの戦争で手一杯のスペインは防戦一方の劣勢に立たされ、'39年ネーデルラント艦隊がスペイン艦隊を英仏海峡のダウンズの海戦で圧勝、スペインの防衛力が頼りにならないと見たポルトガルの独立('40年)を促すはめになった。
 また国内産業では、レイデンの繊維業界が圧倒的な技術力で薄く上質の毛織物の製造拠点となった。農業でも、沿岸部の低湿地帯が干拓され、大がかりな農業改革が行われた。風車のある風景はこうしてこの時代に作られた。
 さらにネーデルラントには「信仰の自由」もあって、かつてスペインから追われたユダヤ人も、商売にいそしむことができた。政治的な事情から、デカルトやロックも亡命者としてやってきた。

 こうしてスペインとポルトガルに代わって、世界の貿易をリードし、「ネーデルラントの奇跡」と当時のヨーロッパ人が目をみはった大躍進が達成された。貿易の支配者としての地位は、これまで考えられていたよりもずっと長く、18c半ばまで、およそ150年間揺らがなかった。

 後イングランドがクロムウェル軍事独裁に移ると、積極的に海外進出を始め、イングランド植民地からネーデルラントの締め出しを狙って「航海条例」(1651年、後「航海法」)を定めた。この措置に対しネーデルラントは「海洋自由」の立場に立ち、イングランドに宣戦した(第一次英蘭戦争、'52-54年)。三次にわたった英蘭戦争(第2次'65-67年、第3次'72-74年)と、'72年に起こったフランス(ルイ14世)のネーデルラント侵攻の結果、アムステルダムは一時崩壊の危機に陥ったが、このとき統領職を復活オラニエ公ウィレム(後英王ウィリアム3世)が軍事面を指導して危機を切り抜けた。
 ウィレムは王政復古後のイングランドで国王(ジェームズ2世)不信が続いているのを好機として、'88年500隻の艦隊をもってイングランド侵攻を行い、イングランド人が呆然と見守る中、イングランド議会を押し切って国王の座に収まってしまった(ウィレムの妻メアリはジェームズ2世の娘)。これをイングランドでは名誉革命という。
 こうしてイングランドとネーデルラントは同盟国となり、ネーデルラントはかつての勢いはなくなったものの18c半ばまでは相変わらず世界の貿易をリードした。しかしイングランドがこれに勝る勢いで海外発展を行い、18cロンドンが巨大都市となり、今やネーデルラントに取って代わろうとしていた。