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25.オスマン帝国の解体

オスマン朝略史

 オスマン朝は14c始めオスマン候国として成立、当時は小アジア・アナトリアのトルコ系諸侯国のひとつに過ぎなかった。ムラト1世(3代、在位1359-89年)のとき、バルカン半島に領土を獲得、ビザンツ帝国を圧迫した。彼はまた、イエニチェリという白人キリスト教徒の少年奴隷を軍事訓練した軍隊を作った。
 パヤズィト1世(4代、在位1389-1402年)は、ニコポリスの戦い(1396年)でハンガリーを破ったが、その後モンゴル帝国を再現しつつあったティムールがアナトリアにまで進撃し、アンカラの戦い(1402年)で捕虜となってしまい、ここでオスマン朝はいったん滅亡する。しかしティムールが死(1405年)んだためオスマン朝は再興された。

 復活したオスマン朝は、すぐにアンカラの戦い以前の領土を回復し、さらに領土を広げた(メフメト1世やムラト2世)。
 メフメト2世(7代、在位1451-81年)は1453年コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした。首都をコンスタンティノープルに移し、以後イスタンブルと呼ばれるようになる。また、多くのマドラサ(イスラム法学の高等教育機関)、図書館、病院、救貧院などを建設した。

 セリム1世(9代、在位1512-20年)のとき、イランのサファヴィー朝をチャルディラーンの戦い(1514年)で、大砲と鉄砲の威力で圧倒した。さらにエジプトのマムルーク朝を滅ぼした(1517年)。この頃からオスマン皇帝をスルタンにしてカリフと呼ぶようになる。この段階でアジア、アフリカ、ヨーロッパに領土を持つ大帝国に発展した。
 広大な領土は、バルカン半島、アナトリア、シリアの一部を直轄地とし、それ以外のエジプト、アラビア半島などは在地の有力者に統治を任せて、税金だけを納めさせるという、比較的緩やかな支配をした。直轄地ではティーマール制という軍事封土制を行った。これはセルジューク朝やマムルーク朝で行われていたイクター制の発展したもので、スィーパーヒーと呼ばれるオスマン朝の騎士に、一定の地域の徴税権を与える代わりに、軍事奉仕を義務づけたものだ。

 10代スレイマン1世(大帝、在位1520-66年)のときオスマン帝国は最盛期となる。1526年モハーチの戦いでハンガリーを破り属国とする。'29年カール5世の神聖ローマ帝国ハプスブルク家の都ウィーンを包囲した(第1次ウィーン包囲)。当時ドイツではルターの宗教改革が始まっていて、ルター派諸侯とカール5世が対立していたが、カール5世はオスマン帝国の攻撃をしのぐためルター派の信仰を認めた。結局オスマン軍はウィーンを陥落させることが出来ずに撤退した。
 しかし、オスマン帝国はヨーロッパの国際関係に大きな影響力を持つようになる。特にイタリアの支配権を巡って、ドイツ・スペインのハプスブルク家と対立関係にあったフランスのフランソワ1世は、オスマン帝国に接近して友好関係を結び、その見返りにスレイマンは、オスマン領内のフランス人に対する治外法権、港湾での通商権、イェルサレムでの守護権などの特権を与えた。この保護特権をカピチュレーションといい、このとき与えられたものはあくまでもオスマン朝からの恩恵として与えられたものだったが、19c以後フランスなどヨーロッパ諸国はこの特権を利用して、オスマン帝国に圧迫を加えるようになる。
 '38年プレヴェザの海戦で、スペイン、ヴェネツィア連合軍を破り、東地中海の制海権を確立。またチェニジア、アルジェリア、イラクを併合して、地中海を取り囲む大領土とした。また、壮大なスレイマン=モスクを建設した。

オスマン帝国の衰退

 スレイマン大帝死後帝国は衰退する。1571年レパントの海戦でスペイン艦隊に敗れた後、徐々に地中海の支配権を失い、1683年第2次ウィーン包囲を行って失敗、1699年カルロヴィッツ条約でハンガリーがハプスブルク支配となる。
 何しろ広大な領土だったため、諸民族の反乱も16c末から起き始めると共に、ロシア(エカテリーナ2世)の南下政策により、1768年の露土戦争以降、黒海の制海権やクリミア半島などを徐々にロシアに奪われていった。またフランス第1共和制下のブリテン方面軍司令官(当時)ナポレオンによってエジプトを侵略され(ナポレオンのエジプト遠征、1798年)、エジプトはその後ムハンマド(メフメト)・アリーが半独立王朝(メフメトアリー朝、1811年)を開始した。

 国内的には、スィーパーヒーによるティマール制(軍事封土制)が17cに解体が進み、徴税請負制が普及する。徴税請負人はその権限と富を利用して土地を集積し、私的な大土地が形成された結果、アーヤーンと呼ばれる地方名士層が台頭、19c初頭には、アナトリアとバルカンのほとんど全土(これらはオスマン帝国の直轄地)がアーヤーンの実質的な支配下におかれ、オスマン王家の支配力は著しく弱体化した。

 こうして18c末から19cにかけてオスマン帝国は「瀕死の病人」と称されるほどになった。フランス・ブリテンはかつてスレイマン大帝が与えたカピチュレーションを逆手にとって、オスマン朝から利権を獲得していった。帝国支配下のバルカン諸民族の覚醒も進み、解放運動が生じて、さらに列強が介入「東方問題」の主要な舞台となっていく。
 具体的には1817年セルビアが蜂起して自主公国として成立。1821年ギリシア独立戦争が始まり、'27年ナヴァリノの海戦で、オスマン帝国とエジプトの連合艦隊が、ギリシア独立を支援する英仏露三国艦隊に破れ、'30年独立を果たした。

青年トルコ党(1908)

 ここに至って近代化の必要性を痛感した帝国は、1839年からアブデュルメジト1世のもと'76年まで続く上からの恩恵的改革運動タンズィマートが開始された。軍事・行政・財政・文化・教育の欧化政策であったが、改革の膨大な費用は税負担でまかなわれたから、国民は不満を抱き、封建勢力は保守反動化したため、成果は上がらなかった。

 '53年にはクリミア戦争勃発。ロシアがモルダヴィア、ワラキア、ドナウ地方に進入して戦争が始まり、まもなく英仏両国がオスマン側で参戦した。しかし、この戦争はオスマン領土の分割をめぐる列強間の争いでもあり、列強の政治干渉と経済進出を増大させた。

*ナイティンゲール(英)がこの戦争で献身的に傷病者の救護を行い、赤十字運動の気運を生んだ。

 例えば'54年から行われた借款、外国資本によるイズミルとアイドゥン間の鉄道敷設、ブリテン資本によるオスマン銀行設立など。エジプトでも、'56年レセップスにスエズ運河開削権が与えられた。その後も、うち続く戦争の膨大な戦費が外債への依存を強め、'75年オスマン朝の財政が破綻、翌年エジプトでも英仏二元管理という名の破産宣告を受けた。さらに'75年ボスニア反乱、'76年ブルガリア反乱なども勃発した。

 '76年開明派の宰相ミドハト・パシャが立憲制を導入、憲法を発布した(ミドハト憲法)が、翌年発生した露土戦争を理由に、新スルタンのアブデュルハミト2世によって憲法と立憲制を凍結され、専制君主制に逆戻りしてしまった。
 '81年民族反乱であるウラービー・パシャの乱で、ブリテン軍が単独でこれを鎮圧、ウラービーはセイロンに流され、エジプトはブリテンの保護国とされて、1956年まで続くブリテン軍のエジプト駐屯が始まった。

 1904年東アジアの地で日露戦争が勃発し、日本がロシアを破ると、その衝撃と狂喜がオスマン帝国を席巻した。オスマン帝国の軍人たち、とくに青年将校たちは、ミドハト憲法の復活と門閥打破によって、日本に伍するような国家改造を断行できると信じるようになった。エンヴェル・ベイ少佐率いる部隊は1908年決起し、憲法の復活を認めさせ、アブデュルハミト2世を廃位した(通称青年トルコ革命)。

 しかし、この混乱に乗じて、同年('08)ブルガリアがオスマン帝国から独立し、オーストリアも管理下にあったボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。
 また'12年ロシアの仲介で、セルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロ4カ国がバルカン同盟を結び、オスマン帝国と対戦した(第1次バルカン戦争)。この結果バルカン同盟側が勝利し、帝国(以下トルコと記述)はイスタンブールを除くバルカン半島領を失い、アルバニアの独立を許した。

第1次大戦とその後

 トルコは第1次大戦で同盟国側にたって参戦し敗戦国となって、イスタンブールを連合国に占領された。トルコ支配下であった地域は民族自決を回避するため、国際連盟委任統治が施行され、シリア、レバノンはフランスの、イラク、ヨルダン、パレスチナはブリテンの委任統治下に入った。

*列強はヨーロッパで民族自決を推奨する一方、トルコに対しては反対の政策を行った。また、このとき中東諸国の国境は列強によって直線的な線引きが行われ、クルド人の民族問題の原因を作った。

 また、この状況下で、ギリシアがトルコに侵入、ギリシア・トルコ戦争が起こった('19年)。ケマル・パシャ指揮下のトルコ国民党はギリシア撃退のため決起し、翌年スルタンが屈辱的な講和条約であるセーブル条約を締結すると、アンカラを首都として新政府を樹立、ギリシア軍を撃退した。

 新政府は'22年スルタン制を廃止、'23年には連合国と対等な条件で講和条約を改正した(ローザンヌ条約)。講和では小アジアの領土保全とカピチュレーションの撤廃を勝ち取った。同年10月にはトルコ共和国の樹立を宣言、初代大統領にケマル・パシャが就任した。翌年共和国憲法公布、カリフ制廃止。
 ケマル・パシャはトルコの近代化に努力し、婦人解放(ベールの廃止)、婦人参政権、文字革命(アラビア文字の廃止)、政教分離(*)を達成し、'34年「アタテュルク」(父なるトルコ人)の尊称を授けられた。

*イスラム世界では、イスラム教によって理想的な世界を築こうと考えるので、法律はシャリーアというイスラム法にのっとり、政教一致を原則とする。