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13.ポーランド分割

ヤゲロ朝(1386〜1572)

 ポーランドは14c末ヤゲロ朝(リトアニア・ポーランド)が創設され、1454年からは十字軍の落とし子ドイツ騎士団との間で行われた13年戦争に勝ち、東欧の強国となって王国繁栄の基礎を築いた。ドイツ騎士団はこの戦争で、東ポモジュ(後の西プロイセン)を失い、東プロイセンを領してポーランド王の臣下となった。
 当時ポーランドは穀物や木材を、ヴィスワ川の水運を利用して西ヨーロッパに輸出、河口のグダンスク(ドイツ名ダイツィヒ)にはネーデルラント、イングランドの商館が立ち並び、バルト海貿易の拠点として繁栄した。

 しかし1505年議会の優位が確定、ヤゲロ朝王権は衰退してシュラフタ共和制へと移行した。シュラフタとはポーランド語で貴族を意味する。ポーランドではシュラフタを名乗る人々が人口の10%前後を占め、同時代のイングランド、フランス、ロシアの貴族が1〜2%、かなり多いスペインが5%ほどだったのに比べ、その社会層の厚さは他国の比ではない。同時代のヨーロッパ諸国がそろって中央集権化に移行しつつあったそのとき、シュラフタたちはその力を背景に、直営農場経営のため農民を土地に緊縛(再版農奴制)し、穀物輸出の関税免除などの諸特権を手にして、16c半ばには名実ともにシュラフタ共和国となった。
 当時のジグムント1世(在位1506〜48年)は、クラクフのヴァヴェル宮に内外の人文主義者を集め、学芸を奨励したルネサンス君主として知られる。彼は一時期、常備軍と近代的な税制の導入に熱意を示したが、シュラフタによって阻まれた。

選挙王政

 ジグムント2世(在位1548〜72年)が亡くなりヤゲロ朝が途絶えたとき、選挙王政が採用され、新しく国王に選出されたのはフランス・ヴァロワ家のアンリ(ポーランドでヘンリク)だった。このとき、シュラフタたちは貴族の諸特権の維持、議会の定期的召集、国王世襲権の拒否・貴族による国王選挙権、信仰の自由と国王に対する忠誠拒否権などを盛り込んだ「ヘンリク条項」を認めさせた。しかし、当のヘンリクはクラクフを脱出して、祖国フランスへ逃げ帰ってしまい、ポーランドの人々は呆気にとられてしまった。国王の逐電として知られるこの事件は、兄シャルル9世の訃報に接したアンリが、その後継を狙ってポーランド国王の椅子を棄てたもので、当時フランスはユグノー戦争の真っ只中、祖国へ帰ったアンリは3世として即位したものの'89年暗殺され、ヴァロワ朝最後の国王となった。

 宗教改革の波はポーランドにも押し寄せ、ルター派はポーランド諸都市のドイツ系市民の間に深く浸透した。しかしシュラフタたちはカルヴァン派を支持し、国王自身はカトリックのままだったが、「寛容の精神」から諸宗派を許容した。一方でイエズス会も活動を開始し、国王ステファン・バトーリ(在位1576〜86年)、ジグムント3世(在位1587〜1632年)によって保護・推進された。こうした積極的な対抗宗教改革の推進の結果、シュラフタたちも再びカトリックへと戻ってきた。こうしてポーランドはイエズス会の活動が成功した地域の代表格となった。

 ポーランド経済は17c中葉になると、ヨーロッパ各地でジャガイモの栽培が始まって、穀物輸出が下降線をたどりはじめた。このため農民の生活は著しく悪化し、逃亡する者が続出した。こうした中、1648年ウクライナのザポロジェ・コサックが反乱を起こした。ウクライナは1569年以来ポーランド領となり、シュラフタが進出、彼らの収奪にさらされていた。これに反乱軍は勝利し、コサックはロシアのツァーリに臣従を切り換え、'54年ドニエプル川左岸はロシア領に編入された。
 これが原因でポーランドはロシアとの戦争に突入、'55年から三十年戦争の勝者スウェーデンがこれに介入して、瞬く間にポーランド全域を支配下においた。スウェーデン軍はこのとき、ポーランド人の崇敬の対象となっていたヤスナ・グラ修道院を包囲して、逆にポーランド人の怒りを買い、包囲を解いて撤退した。しかしスウェーデン軍の侵略は'60年まで続き、ポーランド全域で絶え間ない戦乱が続いた。戦争とペストによって、ポーランドの人口は約4分の1を失ったという。「クオ・ヴァディス」で知られるポーランド作家シェンキェヴィチは、この時代を人類の腐敗に対する神の怒りだとして、「大洪水」(1886年)を著した。シュラフタ共和国ポーランドの没落が始まった。
 戦争による荒廃に加え、ポーランド議会は悪名高き「リベルム・ヴェト(自由拒否権)」という政治的隘路に陥った。この制度の下では、議事は全会一致が原則なので、たった一人の反対で審議がストップした。これによって国政の中枢機関が機能麻痺に陥り、没落に一役買ってしまったのだ。

   ポーランド最後の輝きは、'83年第2次ウィーン包囲が起こったときのこと。このときポーランド国王ヤン・ソヴェスキが皇帝救援軍として参戦、オスマン帝国は決定的な敗北を喫した。

ポーランド分割(1772、'93、'95年)

 ロシアがスウェーデンと北方戦争(1700-21年)を戦ったとき、当時のポーランド国王アウグスト2世はデンマークと共にロシアに与したが、ロシアはスウェーデンの若き天才軍人国王カール12世に惨敗を喫し、デンマークはロシアとの同盟から離脱、ポーランドにはスウェーデンの傀儡政権(国王スタニスワフ・レスチンスキ)が生まれた。しかしポーランドでは貴族たちが反スウェーデン戦を戦った。この間激しい戦争の舞台となったポーランドは荒廃し、何より国王の選出が大国の意向に大きく左右されるようになった。
 スウェーデン敗退後、ピョートル大帝の支持を受け、アウグスト2世が復位した。しかし、その死後ポーランド議会が再度スタニスワフ・レスチンスキを担いだため、ロシアとオーストリアがアウグストの息子アウグスト3世(在位1733-63年)を担いで、ここにポーランド継承戦争が起こった。結局アウグスト派が勝利を収めたものの、ポーランドの無政府化が進行した。

 '63年アウグスト3世が亡くなると、スタニスワフ・ポニャトフスキ(2世)が新国王になった。新国王はかつてロシア・エカチェリーナ2世の愛人であり、女帝もこれを支持した。しかし、彼は王権の強化などの改革に着手、ロシアの意向に反して行われた改革に、女帝が圧力をかけ、プロイセン・フリードリヒ2世がこれに同調した。フリードリヒ2世はかつてプロイセン公国がポーランドに封建的従属をしており、ポーランドの強大化を恐れ、現在のポーランドの無政府状態を監視して、その分割を夢みていたという。もとよりエカチェリーナ2世も、ポーランドに野心的な計画を持っていた。プロイセンとロシアは条約を結び、オーストリアが加わって'72年最初のポーランド分割が行われた。オーストリアはヨーゼフ2世がフリードリヒ2世の提唱する分割に同調し、母親のマリア・テレジアは最初はひどくいやがっていたが、次第にためらいがなくなった。この分割で、プロイセンはかつてドイツ騎士団時代の1466年に手放した王領プロイセンを領有、ロシアはポーランド領リヴォニアとベラルーシの一部、オーストリアはガリツィア地方の一部を獲得した。かくしてポーランドは国土の30%と人口の35%を失った。

 危機感の高まるポーランドでは、'91年フランス革命の影響を受けた憲法が制定された。憲法は従来のシュラフタによる国王選挙、自由拒否権などを否定し、世襲的立憲君主制、三権分立、一般兵役義務などを制定した。しかしこの試みに対して、またしてもロシアとプロイセンの武力介入が行われた。新憲法に反発した保守派がロシアに武力干渉を要請し、さらにプロイセンも派兵したのだ。このときオーストリアは革命フランスの圧力を受けており、ポーランド問題に関与しないことを宣言していた。'93年二国による第2回ポーランド分割が実施された。このとき残る領土の65%が失われ、ポーランドは事実上国家としての機能を停止した。これに対してポーランド人は蜂起、アメリカ独立戦争に参加した軍人コシューシコが'94年反乱を起こしたが、当てにしていたフランスからの援軍を得られず敗北した。コシューシコは捕らわれ、ポーランド国王スタニスワフ2世は退位させられた。

 '95年ロシア、プロイセン、オーストリアにより、残るすべての領土を対象にした第3回ポーランド分割が行われ、ポーランドは地図上から消滅した。こうして16cには中東欧でもっとも豊かだった大国ポーランドは、悲劇的な結末を迎え、同時に当時ポーランドに住んでいた多くのユダヤ人も三分割されて、次の150年間「東欧ユダヤ人」はポグロム、ホロコーストという未曾有の受難を迎えることになる。一時期ナポレオンによってワルシャワ大公国が成立するものの、ポーランドが歴史に再登場するのは第1次大戦後のことだ。