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12.プロイセン王国(1701)

 三十年戦争後、神聖ローマ帝国は名目だけの存在となったが、その中で力をつけてきたのが、北方のプロイセン公国だ。

 プロイセン公国の前身は、十字軍から帰還し、ドイツの東方植民に従軍していたドイツ騎士団領で、1511年ホーエンツォレルン家から君主を招き、プロイセン公国となった。その血統は1618年に絶え、一族のブランデンブルク選帝候がこれを相続し、ブランデンブルク=プロイセン公国となった。
 1640年フリードリヒ・ヴィルヘルムがブランデンブルク選帝候国の君主となり、三十年戦争終結のウェストファリア条約('48年)で、ボンメルンの継承に全力を注いだが、スウェーデンによって西ボンメルンを奪われてしまった。そのためフリードリヒの課題は軍事力の強化となった。
 一方プロイセン公国はポーランドの宗主権のもとにあり、ユンカー貴族たちはポーランドを後ろ盾として自立的に領邦を治めていた。しかし'55年からスウェーデンがポーランドに侵攻すると、フリードリヒはこれに介入、スウェーデン側についてワルシャワの戦いでポーランドを破り、後スウェーデンが不利になるや、ポーランド側に立って戦った。この結果、'57年にはプロイセンに対する宗主権を獲得した。
 かくしてフリードリヒは、両国貴族に対し軍隊維持のための租税を徴収し、従来の傭兵軍から常備軍へと切り替えをはかった。また、'85年フランスでルイ14世がナント勅令を廃棄し、ユグノーが国外移住を余儀なくされると、フリードリヒはこれを積極的に受け入れ、市民権を与え、商業、手工業がブランデンブルク、ベルリンで発達していった。こうして近代ドイツの基礎が築かれていく。

 1701年スペイン継承戦争が始まると、ブランデンブルク=プロイセン公国は、皇帝側に立って参戦し、フリードリヒ1世は王号を認められ、プロイセン王国が誕生した。
 プロイセン王国は、続くフリードリヒ・ヴィルヘルム1世とフリードリヒ2世の時代に列強の仲間入りをする。
 北方戦争の最中に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713-?年)は、華やかな宮廷生活と訣別し、行財政の合理化と軍備の拡張にのりだした。後に「兵隊王」と呼ばれた彼は、'33年「徴兵区」という制度の徴兵制を実施し、総人口220万のうちの1/30の8万という常備軍を作り上げた。プロイセンの軍隊は、現在も行われる長い一列横隊で歩調を合わせて行進する訓練を発明した。また、身長2メートル以上の兵隊を集めた連隊を作り、これを閲兵して楽しんだという。

 跡を継いだフリードリヒ2世(大王、在位1740-86年)は、兵隊王の父と違い、繊細で、フランス風の文化と教養を身につけ、父に反抗してイングランドに逃亡しようとしたことがあった。だが計画は発覚し捕らえられ、行動を共にした友人は目の前で斬首された。その後は厳しく監視され、軍隊勤務をさせられたが、夜は学者・文人と語り合うことを許され、知識を深めた。こうして啓蒙君主として育っていった。
 フリードリヒは、父の死によって国王となったその年、ハプスブルク家の継承問題に介入し、軍隊をいきなりシュレージェンに派遣、マリア・テレジアはこれによく抵抗したが、これを打ち砕いてついにシュレージェンの領有を認めさせた(オーストリア継承戦争、1740-48)。
 しかしマリア・テレジアは、宿敵ブルボン朝フランスと手を結ぶという、当時ヨーロッパ世界が驚いた外交政策をとり、さらにロシアと結んでプロイセンに攻撃をかけた(7年戦争、1756-63)。戦いはプロイセンの敗色が濃くなったが、ちょうどロシアの女帝エリザヴェータが亡くなり、跡を継いだピョートル3世がフリードリヒ大王の崇拝者だったため、一方的に兵を引き、この思いがけない僥倖「ブランデンブルクの奇跡」で、シュレージェンを守りきることができた。
 またフリードリヒ2世は、3回にわたるポーランド分割で領土を拡大した。

 フリードリヒ2世はポツダムに「サン・スーシ(無憂宮)」と呼ぶロココ風の宮殿を建て、フランス人の芸術家や文人を集め、会話はすべてフランス語で談話を楽しんだ。ヴォルテールもここに招かれた一人だ。フリードリヒ2世はまた自身の「反マキアヴェリ論」で、「君主は、彼の統治下にある人民の絶対的な主人であるどころか、彼自身がその第一の下僕にすぎない」という有名な言葉で、啓蒙君主としての名をヨーロッパ中に知らしめた。
 プロイセンが強大になったのは、当時としては珍しい非宗教国家で、フランスからユグノー教徒の商工業者の移民を促し、遅れていた産業を活発にしたこと、贅沢な宮廷生活を排したことなどが、原因としてあげられる。また伝統的地主貴族のユンカーの勢力が強かったが、彼らがプロイセン軍の将校団となって、軍事力を支えたことも寄与した。