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17.フランス革命、ナポレオン、ウィーン体制

フランス革命(1789年)・第一共和制('92年)

 ルイ15世の死によりルイ16世が即位(在位1774-92年)したとき、ヨーロッパや植民地での戦費が膨大なものとなっており、これらは税収でまかなえず借り入れに頼ったため、国家財政はすでに危機に瀕していた。ルイ16世は当初、啓蒙思想家のテュルゴを財務長官に任命し、貴族の免税特権廃止や地方関税の廃止など、財政改革から政治改革に及ぶ広範な自由化路線を推進しようとした。しかし、王妃マリー・アントワネット(ハプスブルク家マリー・テレジアの娘)を筆頭に、宮廷費の削減・免税特権廃止に反対する宮廷貴族らの反対にあい、折から各地の都市で食糧暴動が起こり('75年)、これが自由化路線全体の反対に利用されて、チュルゴは'76年罷免されてしまった。
 '87年財務長官となったブリエンヌも貴族たちと対立し、貴族の牙城となっていたパリ高等法院の数名の議員逮捕状を発した。これに対して高等法院は「国王の命令も、ただちにしかるべき司直の手に委ねられるのでなければ、だれも逮捕されえない」として、絶対王政に反抗した。高等法院はさらに、長らく開かれなかった三部会の開催を求めたため、民衆さえ貴族である高等法院を支持した。
 こうして「三部会」が開催されることとなり、これをきっかけとしてフランス革命が勃発する。

 三部会は第一身分聖職者、第二身分貴族、第三身分平民の各代表者たちから成り、'89年4月選出された議員たちがヴェルサイユに集まったが、議決方法をめぐって紛糾、第三身分の議員たちが自分たちを、真に国民を代表するものであることを宣言して国民議会と名乗り、憲法制定まで解散しないことを誓った(テニスコートの誓い)。
 ところが、国王は武力解散を図ったため、パリ市民は自衛のため市民軍を編成し始めた。市民軍は弾薬を求めてバスティーユ監獄を襲撃して占領した(フランス革命勃発、1789年7月)。バスティーユ司令官と数名の守備兵、市長などが市民軍に虐殺され、首を槍の先にさらされ、市内を引き回された。
 革命が勃発した波紋は農村に飛び火した。農村の各地で、都市からはみ出した浮浪者の群れが襲ってくる、とか貴族がならず者を雇って畑に火をつけにくる、などの流言が広まって農村は大パニックとなった。農民たちは先手を打とうと、領主の館に押し掛け、館に火を放ち、証文を焼き払った。
 農村の混乱は、国民議会が「領主の封建的身分の廃止」を宣言して、ようやく収まった。さらに国民議会はラファイエット起草になる「人権宣言」を採択した。これ以後、否定すべき過去の政体はアンシアン・レジーム(旧体制)と呼ばれるようになる。しかし、国王は譲歩する気はさらさら無く、封建制廃止の法令と人権宣言に裁可を与えなかった。
 ここで、再びパリ民衆の運動が事態の展開を促した。女たちがパンを求めてベルサイユに行進した。市民軍を改称した国民衛兵たちもあとを追った。女たちは議場になだれ込み、窮状を訴え、ついに国王は封建制廃止と人権宣言を承認、小麦の放出を約束した。国王は群衆に取り巻かれてパリに移動し、政治の中心はパリに移った。

 パリに移転した議会は、立憲王政の実現に向かって動き出した。'91年9月人権宣言を前文とする憲法が制定された。憲法は三権分立、一院制の立憲王政を採用、旧来の州は解体され、新たに県が行政区分の基本となった。さらに教会財産の没収、ギルド(職工組合)の廃止と経済の自由、度量衡の統一(メートル法のもと)などの政策を実施された。これに先立つ'91年6月国王一家が逃亡して捕らえられ、その権威は地に墜ちた。

 一方、革命の波及を恐れたオーストリア(レオポルド2世)とプロイセン(フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世)は、革命への干渉を決定した。フランスは制限選挙による立法議会の成立を経て、ジロンド派(共和派)が内閣を組織、オーストリアに対し宣戦を決定する('92)。しかし緒戦は惨敗、革命が危機に瀕している、として再び民衆が立ち上がった。7月、各地の国民衛兵たちはパリにのぼり始める。このときマルセイユからの兵は道々「さあ行こう、わが祖国の子らよ、栄光の日は来たり」と歌ってきた。これがのちフランス国家となった「ラ・マルセイエーズ」だ。一方パリのセクション(地区ごとの民衆組織)が蜂起して「蜂起コミューン」を宣言したり、民衆によって牢獄が襲われ、収監者の虐殺が行われる(9月の虐殺)など、パリは混乱した。
 9月の虐殺の後、パリ民衆は大挙して義勇兵に志願、同月バルミーの戦いで義勇軍がオーストリア・プロイセン連合軍を退けて、革命軍は初めて勝利を手にした(9月20日)。その日、立法議会に代わり普通選挙で国民公会が召集され、王政の廃止・共和制の樹立が決定された(第1共和制という)。

 翌93年1月、国民公会がルイ16世を処刑すると、ブリテンが反革命の側につき、首相ピット(小ピット)が革命の打倒、封じ込めを目指して対仏大同盟を提唱した。対してジロンド派政府は2月ブリテン、ネーデルラントに宣戦布告するが、ベルギー戦線で敗退、国内ではヴァンデ地方で農民の大反乱も発生した。危機が高まる中、ロベスピエールら山岳派(後ジャコバン派と通称されるようになる)がジロンド派を排除して政権を掌握した。ここにジャコバン独裁体制が成立し、行政・軍事を担当する公安委員会と、治安維持を担当する保安委員会に強力な権限が与えられた。また革命裁判所が設置され、王妃マリー・アントワネットや政敵ジロンド派を次々と断頭台に送る恐怖政治が出現する。
 恐怖政治はやがてジャコバン派内部に政敵を求めるようになる。ロベスピエールはエベール、ダントンらも粛清して独裁を強化するが、対外危機が薄れた'94年7月、自らもテルミドールの反動クーデタで断頭台の露と消えた。

 その結果、95年憲法が制定され、10月二院制が採用され総裁政府が樹立したが、バブーフの陰謀('96年5月)やフリュクチドール18日のクーデタ('97年9月)などクーデタが繰り返された。'99年には第2次対仏大同盟が結ばれた。政府は機能不全を起こし、強いリーダーシップが待ち望まれた。

ナポレオン・第一帝政(1800〜'14年)

 ナポレオンは、ジャコバン政権時代の'93年12月トゥーロン軍港奪還で、若き砲兵大尉として初めて注目を浴びた。テルミドール反動後はロベスピエール派とみなされて左遷されていたが、総裁の一人バラスに起用され、'95年10月王党派の武装蜂起の鎮圧で功績を買われて、26才の若さで国内軍司令官に抜擢された。
 さらに'96年にはイタリア方面軍司令官として赴任、イタリア戦線で勝利をあげると共に、早くからメディアを操作してフランス民衆の心を捉えていた。'98年ブリテン方面軍司令官に任命されると、からめ手から戦果をあげるべく、エジプト遠征を実行した。上陸作戦は成功したものの、オスマン帝国の参戦、ブリテン・ネルソン艦隊によって苦戦を強いられた。
 この際ナポレオンは、この遠征に学術探検遠征の目的を持たせ、100名以上の学者・技術者が同道、ロゼッタ・ストーン発見などの成果をあげたことが有名だ。

 折から第2次対仏大同盟が結成され、総裁の一人シエイエスのクーデタの可能性が伝えられた。そのため急きょ帰国して主導権を握り、'99年11月クーデタにより総裁体制が終焉、ナポレオン、シエイエスら三名による統領制が発足した(ブリュメール18日のクーデタ)。
 共和暦第8年憲法が制定され、ナポレオンは第一統領となった。軍事力を背景とした強力な権限のもと、行政システムを安定化させ、中央銀行としてのフランス銀行を設立するなど、財政再建を促進した。民衆も強力な指導力を発揮するナポレオンを次第に信頼するようになっていった。
 オーストリア、ブリテンに和平提案を拒否されたナポレオンは、1800年5月第2次イタリア遠征を行った。留守中シエイエスらは権力復活に向け策動したが、ナポレオンが流した戦勝報告に腰砕けに終わった。後日ダヴィッドに描かせた、遠征時の「アルプス越えをするボナパルト」は、ナポレオンの肖像画として最も有名なものとなった。
 反革命諸国との和平交渉がねばり強く行われ、'01年2月にオーストリアと、'02年3月にはアミアン条約でブリテンと講和が成立した。この間'01年7月にはローマ法王とも和解、フランスにおけるカトリック教会の復権が承認される代わり、教会は革命の土地改革を追認した。
 また'02年8月には「共和暦10年憲法」を制定、みずから終身統領となり、実質的に独裁権を掌握した。

 ナポレオンは陰謀事件を巧みに利用、世論を誘導して、暗殺計画や王政復古計画などを駆逐した後、ついに国民投票により'04年5月皇帝となった。ときのローマ法王ピウス7世は、教会に有利な状況が作れるかもしれない、という期待をもって12月の戴冠式に望んだが、ナポレオンは自身の手で戴冠を行った。このときの光景を、やはり自分の手でジョゼフィーヌの頭上に冠をおいた、有名な絵がダヴィッドによって描かれた。
 これに先立つ'02年5月、ナポレオンはレジオン・ドヌール勲章を制定、旧王政下の身分階層ではない貢献による階層秩序の形成を目指した。また、'04年3月のちに「ナポレオン法典」と呼ばれる民法典を発布、信仰や労働の自由、私的所有権を認め契約の自由などを定めた。

 しかし、'03年5月ブリテンはアミアン条約を破棄、また'05年8月には第3次対仏大同盟が英、襖、露の間で結ばれた。ナポレオンはブリテン本国に侵攻する準備にかかったが、同年10月トラファルガー沖でネルソン提督のブリテン艦隊に破れてしまった。
 そこでナポレオンは戦闘を大陸に集中し、12月アウステルリッツの三帝会戦で、襖・露の両皇帝軍を撃破した。こうして第3次対仏大同盟は崩壊し、神聖ローマ帝国も瓦解、フランス従属下に西南ドイツにライン同盟を形成した。これに危機を感じたプロイセンが参戦してきたが、フランス軍は'06年10月ベルリン入城、さらにポーランドに侵攻した。この結果、プロイセンは賠償金を支払い、エルベ川以西はフランス軍占領下に置かれた。
 次の焦点はブリテンだった。ナポレオンはブリテン国力の基盤となっている商工業に打撃を与えるべく、'06年11月大陸封鎖令を実施、ブリテン商品の大陸市場からの締め出しをねらったが、多少の打撃を与えたもののうまくいかなかった。それはプロイセンやロシアのように、ブリテンへの穀物輸出などでブリテンとの交易を重視していたからだ。これらの諸地域は反発し、密輸が横行した。

 ナポレオンによる大陸支配は長く続かなかった。西ドイツ、イタリアには傀儡政権をおき、プロイセン、オーストリア、スペインを同盟国としたが、従属国の元首に自分の身内をあて、身びいきを始めた。スペインには兄のジョゼフを国王に任命したが、農民たちが各地でよそ者に対してゲリラ戦を起こし、これをスペインの封建貴族が利用して、情勢は泥沼化していった。
 スペインでの混乱に乗じてオーストリアが反攻に出たが、正規軍同士の戦いはいまだ強く、ナポレオンはこれを制圧した。勝ったナポレオンはジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリ・ルイーズと結婚する。

 しかし、'11年経済危機をきっかけに、ブリテンに対する穀物輸出をやめないロシアに制裁を加えるべく、'12年6月ロシア侵攻作戦を開始した。対してロシア軍は直接の戦闘を避け、自らの手で都市を焼き払ってひたすら退却した。追うナポレオン軍は糧食の補給が出来ず、赤痢が広まり、同盟国からの寄せ集めの兵士は志気があがらず、脱走兵も出る。9月モスクワの手前で、初めてロシア軍と会戦してからくも勝利し、モスクワに入城したが、もぬけの殻のモスクワにも火が放たれていて、焦土と化していた。冬の到来を前にナポレオンは撤退を決意した。しかし、来たときと同じ道を撤退する大軍は、飢えと寒さと、敵軍の奇襲におびえ、ばらばらになりながらロシアを脱出した。この侵攻作戦でのフランス兵の損失は、初期の67万のうち38万と見積もられている。
 ついに翌'13年10月襖・普・露他の同盟軍とのライプツィヒの戦いに敗れ、その敗戦の報にフランス支配下におかれていた地域も反旗を翻した。'14年始め、同盟軍はライン川を越えてフランス領内に攻め込み、3月パリに入城した。変わり身の早いタレーランらが、ナポレオンを切り捨て元老院が皇帝の廃位を宣言、ルイ18世の即位を決定(王政復古)し、ナポレオンはエルバ島に流された。

ウィーン体制(1814年)

 ナポレオンが退位すると、オーストリア宰相メッテルニヒ主宰の下、戦後処理のための会議がウィーンで開催された(ウィーン会議、1814年)。会議には、ブリテンのカスルリー、ロシアのアレクサンドル1世、プロイセンのハルデンベルク、フランスのタレーランなどが参加した。
 領土配分をめぐって諸国の利害が対立、話し合いが遅々として進まなかったため、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄された。
 ウィーン会議の紛糾をみて、ナポレオンは'15年2月1000名足らずの手勢を率いエルバ島を脱出、瞬く間にパリに駆けのぼり、兵士やパリ市民によって「皇帝万歳」が歓呼された。ウィーン会議に集まっていた諸国は妥協して会議をただちに調印、最後の賭けに出てベルギーに攻め込んだナポレオン軍は、ウェリントン率いるブリテン軍とワーテルローの戦い('15年6月)で敗れ、百日天下は終わった。再び王政復古となり、ナポレオンは大西洋の彼方セント・ヘレナ島に流刑、監視下に置かれ、その地で'21年に死んだ。その後'40年、「セーヌのほとりに眠りたい」という遺言にそって、遺骸はアンヴァリッドに移葬された。

 ウィーン会議の結果、もっぱら革命前の状態の回復を目指す正統主義と、ヨーロッパ諸国の勢力均衡という二大原則によって議定書が調印された。
 フランスがブルボン朝復活と1790年段階の国境に戻り、プロイセンはラインラントその他に領土拡大、オーストリアは南ネーデルラント(ベルギー)をネーデルラントに譲る代わりに北イタリアに領土拡大、ブリテンはネーデルラント領セイロン島とケープ植民地を取得、ワルシャワ大公国の大部分はポーランド王国としてロシアのものとなった。また、スペインも旧領土回復・ブルポン朝復活、スイスが永世中立国となり、オーストリア、プロイセン及び諸邦国・自由市から成るドイツ連邦が成立した。
 ウィーン会議によって設定されたヨーロッパの政治体制をウィーン体制といい、フランス革命以来全ヨーロッパに拡大していた自由主義・民族主義運動と、真っ向から対立する反動体制となった。ロシア皇帝アレクサンドル1世によって提唱された神聖同盟は、キリスト教の友愛精神をベースにした各国君主の協力を呼びかけ、ブリテン、トルコ、ローマ教皇を除くヨーロッパの全君主が参加し、また英・露・襖・普(プロイセン)は、軍事的政治同盟である四国同盟を成立させた(のち仏が加盟して五国同盟)。これらはウィーン体制の支柱となった。
 諸国は、メッテルニヒの指導の下に、各地の自由主義運動、革命運動を弾圧したが、ギリシアなどの独立、'30年、'48年の諸革命を通じて崩壊していった。