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11.ロシア・ロマノフ朝(1613-1917)

 ロシア(ルーシ)は200年以上にわたってモンゴル(キプチャク=ハン国)の支配を受けていたが、1380年のクリコーヴォの戦い以後はモスクワ大公を大ハーンの許しを得ることなく相続していた。イワン3世(在位1462-1505年)は、1472年ビザンツ最後の皇帝の姪ソフィアと、ローマ教皇の仲介で結婚、ギリシア正教の庇護者となった。他方1480年大ハーンへの歳貢を停止、モンゴルはルーシを大軍で攻めたが、ウグラ川での対陣の後飢えと寒さのため軍を引き返した。ここにタタールのくびきから解放されることとなり、イワン3世は始めてツァーリを称したという。

 イワン4世(雷帝、在位1533-84年)は3歳で即位したが、'47ツァーリとして戴冠し実際に政権を担当した。全国会議が始めて召集され、行政官アダシェフを中心とする「選抜会議」が行政と税政の整備にあたった。対外的にはカザン・ハーン国、アストラハン・ハーン国を併合、南方のクリミア・ハーン国にも遠征軍を派遣した。これらを記念して'53年から7年の歳月をかけ、モスクワにあざやかな色彩と独特の形をした屋根をもつ聖ヴァシリー教会を建立した。しかし'58年リトアニアとのリヴォニア戦争(〜82年)の際に、自軍の総司令官が敵に寝返ったことをきっかけに恐怖政治に突入した。裏切り貴族の世襲領は没収され、封地は士族に分け与えられた。士族は軍事力の強化のためイワン3世以来養成され、軍役を担う他、中央官庁の幹部となっていき、後貴族化した。雷帝の晩年は息子を口論の末打ち殺すなど、常軌を逸した行動をとったが、一方で農奴制を形成(農民の移転の制限を行った)して、ロシア的専制政治(ツァーリズム)を強化した。さらに、コサック隊長イェルマークにシベリア進出を行わせた。

*タタールのクリミア・ハーン国はオスマン帝国に臣従していたが、しばしばロシア人の町や村を襲い、1571年にはモスクワへ数万の軍勢で押し寄せて、略奪を行った。彼らに征服の意図はなく、捕虜を連れ去り、身代金を要求し、政府は彼らの買い戻しのため捕虜税を設けなければならなかったほどだ。歴代ツァーリ政府はタタール防衛に大きな力を注ぎ、17c後半に20年かけて建設された「ベルゴロド線」は全長800キロに及ぶ防御線だった。この建設以後、肥沃なロシア南部は本格的な開拓が始まり、18c以降ロシアの穀倉地帯となった。

   イワン4世死後、フョードル1世が即位したが、病弱で知能が劣っていたため、妃の兄で新興貴族のポリス・ゴドゥノフが権力を握り、フョードル死後ツァーリとなった(在位1598-1605年)。ゴドゥノフはフョードル時代以来から政権を担当し、意欲的な政策を行ったが、1601年大飢饉が始まり、その上ペストが襲ったため、'03年にはフョードルの弟と名乗る者(偽ドミトリー)が反乱を起こし、混乱の中でゴドゥノフは急死、その息子も暴動の中で殺された。このとき偽ドミトリーが即位するなどの、王位をめぐる動乱を経て、'13年全国会議でミハエル・ロマノフがツァーリに選出され、ロマノフ朝の祖となった。しかし、この時代は動乱時代の荒廃から立ち直るだけに費やされた。
 2代アレクセイ(在位1645-76年)の時代、全国会議が「会議法典」を編纂し、貴族の特権的農民支配が強められた。貴族の要求が受け入れられると、全国会議は召集されなくなり、治世の後半にはツァーリの専制的傾向が強められた。側近会議が作られ、官僚制が充実し、軍隊が増強され、ピョートル大帝専制への基礎が築かれた。
 1670年強化された農奴制に対して、ドンのコサックと逃亡農民が結んで反乱を起こしたが(ステンカ・ラージンの乱)、すぐに鎮圧され、その後の農奴制はますます厳しいものとなった。

ピョートル大帝

 第4代ツァーリのピョートル(大帝、在位1682-1725)は、即位当初イワン5世(在位1682-89年)と二人ツァーリ体制となり、イワン5世側が実の姉ソフィアを摂政として実権を握った。ピョートルの若者時代はそのため野に下っており、モスクワのお雇い外人居住地に出入りし、操船術や軍隊ごっこにあけくれていた。彼の組織した遊戯連隊は本物の武器、大砲を装備、将校のもとでピョートル自身も一兵卒として戦闘訓練を学んだ。
 実質的に皇帝になってからの1697年にも、西欧の先進軍事技術、文化を学ぶ大使節団を派遣し、ピョートルも匿名で参加、アムステルダムの東インド会社の造船所で自らハンマーを手にして働いた。このときハンマーをふるう王様の評判ができあがった。また、翌'98年ロンドンにわたり、海軍についての多くの事柄を学んだ。ここでは夜大酒を飲み騒ぎ、一行が帰国した後、提供された宿舎の持ち主が、そのあまりの荒れように高額な被害届を政府に出した、などのエピソードがある。
 西欧視察団は約800人にのぼる各種の専門家・技術者を雇い、連れ帰った。多くは二流以下の人々であったが、彼らによってロシアの西欧化、富国強兵が着実に進められた。また、貴族たちの服装を西欧風に替えさせ、伝統の長いあごひげを切ることを命じ、従わない者にはひげ税を課したという。

 ピョートルは海外進出を積極的に行った。まず清との国境確定(ネルチンスク条約、1689年)、黒海への進出を求めたアゾフ遠征を行い、クリミア・ハーン国とその宗主国オスマン帝国と戦って('95-96年)、創始したばかりの海軍力を用いて勝利した。
 またデンマーク、ポーランドと結んで、スウェーデンと北方戦争(1700-21年)を戦ったが、当初はスウェーデン若き天才軍人国王カール12世に惨敗を喫し、デンマークはロシアとの同盟から離脱、ポーランドにはスウェーデンの傀儡政権が生まれた。しかしポーランドでは貴族たちが反スウェーデン戦を戦い、この間にヨーロッパで初の「徴兵令」を発布して兵士を徴用し、体勢を立て直したピョートルは'09年ポルタヴァの戦いでスウェーデン軍に打ち勝った。
 その後もスウェーデンとの戦いは続いたが、'14年バルト海艦隊が勝利して、趨勢は定まった。これ以降ロシアはバルト海に面した新都ペテルブルクを建設した。こうして、従来の北極海アルハンゲリスクのルートよりはるかに近距離で安全なバルト海ルートを使い、西欧の商船が次々と貿易を行い、ペテルブルクは発展することになった。
 '18年にはカール12世が銃弾に倒れ(内部犯行説が有力視されている)、スウェーデンが疲弊して、'21年フィンランドのニスタットで和平条約締結、ロシアはバルト三国を手に入れた。スウェーデンはポンメルンの一部を除いて領土を失い、戦争末期にロシア側についたプロイセンも漁夫の利を手にした。元老院はピョートルに「大帝・皇帝(インペラートル)」の称号を送り、ここにロシア帝国が誕生した。

 ピョートルの後継者はアレクセイだったが、この父と子は対立し、ついには'18年に父によって死に追いやられた。腹違いの弟も幼くして病気で死んだ。ピョートル死後ピョートルの妻、アレクセイの息子、イワン5世の娘アンナ、大帝の娘エリザヴェータがツァーリを継承した。アンナとエリザヴェータとの間、女帝の支配が30年間(1730-61年)続いた。

エカチェリーナ2世

 1762年エカチェリーナ2世が即位(在位1762-96年)した。彼女はプロイセンの一将軍の娘として生まれ、15才のとき帝位継承者ピョートル(3世)に嫁いできた。すぐに正教に改宗、進んでロシア語を学び、ロシアの習慣に溶け込もうと努力し、また啓蒙思想の著作に親しんだ。
 夫のピョートル3世は即位('61)後の'62年、勝利目前の7年戦争で、その度が過ぎたプロイセン・フリードリヒ大王びいきから、占領中のベルリンから一方的に兵を撤退させた。この戦争では、それまでに30万人の人命と巨額な戦費を費やしていた。このため近衛軍を中心にクーデタが行われ、ピョートルは退位させられ、殺害された。この事件に対するエカチェリーナの関与は定かでないが、事はすべて彼女に有利に運ばれ、ときに33才の女帝の治世が始まった。

 啓蒙的な政治姿勢の中で、当初農奴制に批判的だった彼女だったが、プガチョフの農民反乱(1773-5)勃発によってその路線を根底から変更した。'73年コサックの町ヤイクで「ピョートル3世」を僭称する、ロシアの伝統ともいうべき偽ツァーリが現れた。本当の名はプガチョフ、良きツァーリのための、正義のための戦いと位置づけた彼の軍団は農民解放への期待から各地で歓迎され、急速に膨れ上がったが、政府軍によって壊滅させられ、プガチョフは処刑された。しかし、エカチェリーナの政府はその波紋の大きさに根底から揺さぶられ、農奴制継続、貴族体制を強化した。
 以後領土拡張に努め、露土戦争でクリミア半島を征服し黒海へ進出、3回にわたるポーランド分割に参加し、西方へも領土を拡張した。また極東へも進出、成果は得られなかったが鎖国中の日本へ軍人ラクスマンを派遣して、通商を求めた。

 彼女の時代、サンクトペテルブルクの人口は2倍に膨れ上がった。華麗な離宮(現エルミタージュ美術館)やエカチェリーナ宮(プーシキン市)を建て、大貴族シェレメーチェフもオスタンキノ、クスコヴォの館を建て、貴族の館の文化が開花した。彼女には12名の愛人がいたという。ポチョムキン公とは夫婦同然の暮らしをしていたし、ポーランド出身の美青年スタニスワフ・ポニャトフスキとの噂もあった。しかし、政治はきちんとこなしたので、その評価はピョートル大帝に劣らず高く、啓蒙君主として名高い。