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1.ルネッサンス(14c〜16c)

 19c半ばのスイスの歴史家ブルクハルトは名著「イタリア・ルネサンスの文化」で、「ルネサンスによって発見された近代こそが、すべての近代人が享受しつつある現行のヨーロッパ文明の起源に他ならない。自然科学も技術文明も、啓蒙理性も合理思想も、みなルネサンスにふるさとを共有する。」と言い、「世界と人間の発見」こそルネサンスの合言葉とした。
 再生を意味するルネッサンスは、ヘレニズム文化たるギリシア・ローマ文化の復興を目指し、神中心の倫理観・世界観から脱皮しようとする動きだ。
 ヨーロッパ中世の文化はキリスト教会の文化であり、学問といえば神学、美術は教会絵画や教会建築などだった。しかし、十字軍を通じて封建社会が解体し、教皇・教会の権威が低下する一方、北イタリアの都市が発展、この間、イスラム文化・ビザンツ文化との接触によって、そこで継承されているヘレニズム文化がヨーロッパに還流してきた。
 ルネッサンスを担った人々にとって、文芸・建築・彫刻・絵画などのジャンル区分はあまり問題でない。彼らは詩作、科学、美術など現在の区分線をこえて研究、制作したため、中にはダ・ヴィンチのような万能人も多く輩出した。

幕開け

   ルネッサンスはダンテ「神曲」(地獄・煉獄・天国の幻想世界の遍歴を書いた。元フィレンツェ市の執政官のひとりで失脚し亡命、14c初頭)、ペトラルカの詩「アフリカ」(ローマ時代の属州アフリカを題材にしたラテン語長編詩。トスカナ生まれ後仏アヴィニョン、ローマに移る、14c半ば)、ポッカチオ「デカメロン」(下世話な人間たちを描いた短編集。パリ生まれ後ナポリ、フィレンツェに移る、14c半ば)などの人文主義者たちの活躍で静かに幕を開けた。しかし、これらはまだルネッサンスの序曲に過ぎない。
 1347年、すでに東方の国々を攻撃していたペストが、シチリア島からピサ、ジェノバに上陸、そして翌年春にはほとんどすべてのヨーロッパの町がペストの支配下に入った(〜'49年)。その後いったん終息したかに見えたが、その後も間歇的に再燃した。ペストでヨーロッパの人口は半減したとも言われる。その死の経験がルネッサンス(再生)に与えた影響は大きい。

 14c末から15cにかけての北イタリア諸都市は、絶え間ない騒乱に包まれていた。ミラノ公国、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ(教皇領)、南イタリアのナポリ王国(アラゴン支配)五列強の覇権争いの他、都市の内政も、一族同士の勢力争いや、ローマ教皇とドイツ皇帝のいずれに加担するかの党派争いで、対立と混迷に満ちていた。
 ミラノ公国では14c後半から公領を拡張し、14c末からヴィスコンティ家が統治した。イタリアでは貨幣経済の発達から早くから傭兵が使われたが、ミラノでもヴィスコンティ家に傭兵隊長スフォルツァ家のフランチェスコが取り入って縁戚を結び、最後には公位をものにしてしまった。
 砂州の上に成長した海上貿易都市ヴェネツィアも15cから領土を拡大した。ここでは傭兵隊長バルトロメオ・コレオーニが活躍し、ヴェロッキオ作の騎馬像が市内に残されている。
 フィレンツェは15c初頭ピサを屈服させた後メディチ家が市政を掌握し、その庇護の下ルネッサンスが本格的に開花することになる。
 ローマ教皇領は、ローマの他ウルビーノ、ポローニャ、ペルージアなどの半独立の都市が横並びとなるゆるやかな連合体だった。ウルビーノは教皇領の傭兵隊長だったフェデリコ・モンテフェルトが各地を転戦して勇名をはせ、教皇から公位を受けて出身地に建設した都市で、ここに珠玉のような宮廷を建て、画家ラファエロや多数の人文学者を輩出した。
 ナポリは13cからしばらくフランス王家につながるアンジュー朝が支配していたが、王統が途絶えた1442年シチリアを領有するアラゴンに編入された。
 これらの都市では騒乱と、最低の政治に満ちていたが、富を蓄積した人々は好んで新しい芸術文化運動のパトロンになった。

開花、フィレンツェ

 ルネッサンスは、まず古代を、文献を通して受容することから始まった。ホメロス、アリストテレス、プルタルコス、そしてプラトンがギリシア語からラテン語に翻訳された。そのためのギリシア語講座が各地で開催された。
 特に1434年以降フィレンツの市政を掌握したメディチ家のコジモはプラトン学院を開設、人文主義者の研究を保護した。オスマン帝国によってビザンツ帝国が滅亡(1453年)すると、イタリア商人たちはコンスタンティノープルで写本文献を住民から大量に購入、亡命学者がたずさえた文献も合わせ、プラトン学院の蔵書も潤ったという。
 マルシリオ・フィチーノは29才でプラトン学院の当主となり、コジモ、ロレンツォ2代の庇護の下、1477年プラトン全著作のラテン語訳を完成させた。彼は3cエジプトはプロティノスの「新プラトン主義」を受け入れて、これをキリスト教に適用(プラトン神学)、新プラトン主義は一躍ルネッサンスのブームとなった。前後して紀元前後のエジプトのヘルメス文書をラテン語訳した。ヘルメス文書は神秘の技術を扱い、占星術、錬金術を扱っていた。これが新プラトン主義と分かちがたく結びつき、ブームとなっていった。
 この頃の作品には、ボッティチェリ「春、ヴィーナスの誕生」(フィレンツェの職人の子、ロレンツォの庇護を受けた。15c末)、マキァヴェリ「君主論」(フィレンツェの書記官、15c末〜16c始め)、ブルネレスキ設計のフィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の大ドーム設計(15c半ば)など。

*メディチ家:元薬種業だったともいう、やがて金融業を営んで財をなし、15cコジモの代にフィレンツェの実力者となった。コジモのとき造られた館は現在メディチ−リッカルディ宮殿として残る。次いで息子ピエロ、さらにその子ロレンツォとジュリアーノが継いだが、1478年反対派のパッツィ家はロレンツォとジュリアーノの暗殺を謀り、ジュリアーノは死に、ロレンツォは九死に一生を得た。その後パッツィ家に対して粛清の嵐が吹き荒れ、首謀者の処刑が行われた。ロレンツォのとき最盛期となり、その庇護の下イタリア・ルネッサンスを推進する主役となった。1492年ロレンツォ死後、フランスのイタリア侵入により、長男ピエロは失権、フィレンツェを追放された。しかし、メディチ家は1512年フィレンツェに復帰、一族の努力によってジョヴァンニ(ピエロの弟)がローマ教皇(レオ10世)となる。レオ10世はローマでルネッサンスのパトロンをつとめたが、サン=ピエトロ大聖堂の改築工事の費用捻出のため、ドイツで免罪符を発行、ルター宗教改革の原因を作った。一方フィレンツェのメディチ家は手狭になった宮殿をリッカルディ家に譲り、ピッティ家所有の館を改修(現ピッティ美術館、ラファエロの名作で知られる)した。また1569年には共和制を廃止、トスカナ大公として王侯の地位に収まった。宮殿もピッティから数百メートル先にウフッツィ宮殿を造営した。

爛熟、ローマ

 都市間の小競り合いは15c半ばオスマン帝国の脅威によって、にわかに終息した。1453年コンスタンティノープル陥落、その翌年五列強は暫定の和議を成立させた。交渉の地、北イタリアの都市の名をとってローディの和と呼ばれる。この体制は1494年まで40年続いた。
 しかし、1494年フランス国王シャルル8世が、突如軍勢を率いアルプスを越えてイタリアに侵入した。ナポリの王権をアラゴン(合併してスペイン)から取り戻そうという目的だった。ミラノのスフォルツァ家やロレンツォが亡くなった直後のフィレンツェ・メディチ家はなすすべもなく、フランス軍の通過を見送った。フランス軍はナポリに至り、当初の目的は達成されなかったが、意気揚々と帰国していった。しかし、このためメディチ家は失権、ローディ体制は瓦解した。
 フィレンツェの政治情勢が不安定になると、ルネッサンスの中心はローマやや遅れてヴェネツィイアに移り、教皇ユリウス2世や、レオ10世(メディチ家出身)の保護を受ける。
 この頃の作品には、ラファエロ「小椅子の聖母、アテネの会堂」(ウルビーノ生まれローマで活躍、16c初頭)、レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ、最後の晩餐」(トスカナ生まれフィレンツェ、ミラノ、ローマ、フランスに転ずる。16c初頭)、ミケランジェロ「ダヴィデ像、最後の審判」(フィレンツェ生まれロレンツォの保護を受け、後ローマに移る、16c半ば)など。建築ではサン・ピエトロ大聖堂の設計をユリウス2世がブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロに相次いで設計を託した。

移転、フランス、ネーデルラント、ドイツ

 この頃から地中海を利用した東方貿易が衰え、イタリアの経済力が低下してきた。そのためルネッサンスは、中心をアルプス以北に移していった。北方ルネッサンスという。その傾向は知性的・批判的傾向が強い。
 また、フランスではフランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチを招き(3年ほどで世を去った)、その後パリはフォンテンブローの城館がルネッサンス芸術の花開く場となった。ベンヴェヌート・チェリーニ(フィレンツェ生れ、胸像がフィレンツェのヴェッキオ橋に据えられている)もやってきて彫金細工の工芸品を作成した。ルネッサンスという語は、この時代の芸術文化に対して、歴史家ミシュレが与えた名前に始まる。
 この頃の作品には、エラスムス「痴愚神礼讃」(ネーデルラント、16c始め。人々の無知をよいことに偽善をはたらく聖職者たちのぶざまさを痛快にこきおろした。)、トーマス=モア「ユートピア」(英、16c始め)、モンテーニュ「随想録」(仏、16c後半)、セルバンテス「ドン=キホーテ」(スペイン、16c末)、シェークスピア「ヴェニスの商人、ハムレット、ロメオとジュリエット」(英、16c末〜17c始め)など。絵画ではデューラー「アダムとエヴァ」(独、16c始め)、ブリューゲル(ネーデルラント、16c半ば。農民の牧歌的な生活風景を描いた)、エル=グレコ(スペイン、16c末〜17c始め。宗教画家)など。科学分野ではコペルニクス「天球の回転について」(ポーランド、16c前半。ヘレニズム時代のアリスタルコスの地動説を知り、地動説を発表した。ローマ教会を恐れて、死ぬその日に出版。)、ジョルダーノ=ブルーノ(伊、16c末。「宇宙は無限だ」と公言。コペルニクスの地動説に賛成したため火あぶりの刑にされた。「裁かれている私よりも、裁いているあなた方の方が、真理の前におののいているではないか」との言葉が有名。)、ケプラー(独、17c前半。惑星運行の法則を発見。コペルニクスの地動説を実証した。)、ガリレオ=ガリレイ(伊、17c前半。振り子の等時制、落体の法則発見。木星の惑星、土星の輪、金星の満ち欠け、太陽の黒点を次々と発見した。宗教裁判で地動説を放棄させられサインしたが、「それでも地球はまわっている」とつぶやいた。)など。

三大発明

 なお、ルネッサンスの三大発明と言われるものがある。活版印刷、羅針盤、火砲だ。
 活版印刷術は、ドイツ人のグーテンベルクが実用化した(1456年)という。製紙法が伝わっていたので大量印刷を可能にした。このため、ルネサンス期の学者文人の本や宗教改革のパンフレットがヨーロッパ中に広まった。
 羅針盤は古代ギリシアに始まりイスラム世界で改良され、さらにヨーロッパ人に伝えられた。13c末には船に装備されて地中海航海を容易にしていた。その後精巧化されて大航海時代を可能にした。
 火砲(鉄砲、大砲)は中国で発明された花火用の火薬を改良し、イタリア人が殺傷力の高い武器に作り替えた。当初は大砲が投石機の代用として、数十センチの石を砲弾として登場、加えて15c末に鉄砲が発明され、攻城戦での大砲、遭遇戦での鉄砲というように戦場で効果をあげた。16cに入ると本格的な銃兵部隊が編成されるようになり、大砲の砲撃に耐える城壁や堡塁などの防衛建築が考案された。17cの三十年戦争中の1631年、スウェーデンのグスタフ・アドルフがブライテンフェルトの戦いで斉射戦術を採用し「スウェーデン戦法」と呼ばれた(日本ではそれより前1575年長篠の戦いで織田信長が同じ戦術を展開していた)。その後ヨーロッパは軍拡競争に明け暮れたため、大量の火器が使用され続けた。