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27.ロシア革命

エカテリーナ2世後のロシア

 ロシアではエカテリーナ2世没後、パーヴェル(在位1796〜1801年)が即位した。エカテリーナから冷遇され祖母に育てられたパーヴェルは、父ビョートル3世殺害への母の加担と不貞を憎み、即位後さっそく母の寵臣たちを追放し、母の治世を否定する施策を取り始めた。
 まず帝位継承を男系男子に限るとする法律を発布、エカテリーナが流刑にしていたポーランド人革命家コシチューシュコらに特赦を与えた。しかし、エカテリーナが貴族に与えていた特権を破棄し、専制政治を行ったため、貴族の反発を買い、1801年自らの寝室で謀殺された。

 続いてエカテリーナの孫アレクサンドル(1世、在位1801〜25年)23才が即位した。アレクサンドルは父謀殺の計画を知っていたと言われる。エカテリーナに溺愛され、皇帝になるべく養育された彼は、即位後「法と祖母エカテリーナの精神にしたがって」統治することを宣言した。そのため、その即位は熱烈に歓迎された。
 アレクサンドル1世の治世の始めは、貴族勢力を打破し、ツァーリ自身による立憲君主制を整備して、国内改革を行うべく、昔からの友人で啓蒙思想を摂取していた4人を側近として招き入れ、秘密委員会を組織して諮問機関としたことだ。ノヴォシリツェフ(ブリテン33才)、コチュベイ(ドレスデン32才)、チャルトリスキ(ナポリ31才)、ストローガノフ(ロシア29才)の面々だ。一方十数名の貴族からなる常設の国務会議を設置した。しかし、改革構想は貴族との対立の中で妥協を余儀なくされ、秘密委員会の若き友人たちは、自分たちの献策が実現できないことに失望し、'07年にはツァーリの下から去っていった。唯一、ブリテンをモデルとして八つの省と各省大臣による大臣委員会を創設し、各省は議会の存在しないロシアにあって、皇帝にのみ責任の負う役所となった。これらの省はその後行政機関としての権限を獲得していった。
 友人たちが去り、その後のツァーリの改革志向を支えたのは、正教神学を学び内務省コチュベイの下で手腕を認められたスペランスキーだった。スペランスキーは憲法制定、立法・行政・司法三権を担う機関の整備、三権を統括するためのツァーリが任命する国家評議会設置などの改革案を作成したが、貴族の猛反対にあい、'12年やむなくアレクサンドルは彼を流刑にした。その直後、ナポレオンのロシア遠征が始まった。

 それより前、アレクサンドルは'05年ブリテンが提唱する第3次対仏大同盟(英襖露)に参加、ナポレオンはトラファルガー沖でネルソンの英艦隊に破れたため、戦闘を大陸に集中し、12月アレクサンドルとオーストリア・フランツ1世同盟軍がアウステルリッツでナポレオンに大敗を喫した(アウステルリッツ三帝会戦)。会戦後、'06年7月ナポレオンは西南ドイツにライン同盟を形成、神聖ローマ帝国は瓦解した。ナポレオン軍は続いてプロイセン軍を撃破、ポーランドに侵攻し、国なきポーランドの民から解放者として迎えられた。'07年6月ネマン河畔ティルジットで、アレクサンドルはナポレオンと会見、ロシアは対仏大同盟を破棄し、ナポレオンの大陸封鎖に参加する講和を結んだ。しかし、大陸封鎖によるブリテン貿易の停止は、ロシア経済に大きな打撃を与え、密輸が横行して、業をにやしたナポレオンが'12年ロシア遠征を決意したのだった。

 6月ナポレオン軍60万はロシア国境ネマン川を渡ってヴィリノに集結、対するロシア軍18万もここに到着したが、明らかな劣勢で戦争計画も完了していなかったロシア軍は、後退作戦をとらざるを得なかった。それを追うナポレオン軍は、退却するロシア軍が焦土作戦をとったため、食糧の補給ができず、赤痢に苦しめられ脱走兵も出始めた。モスクワに110キロと迫ったボロディノで両軍は激突、このときロシア軍13万、ナポレオン軍も同じ兵力となっていた。双方数万の犠牲を出したが雌雄は決せず、再びロシア軍は後退、モスクワの住民を避難させ火が放たれた。ナポレオンはモスクワに入城、ペテルブルクのアレクサンドルに講和を呼びかけても返事が無く、飢えと寒さの中で1ヶ月後やむなく撤退を決意した。往路と同じ道を戻るナポレオン軍は追撃するロシア軍や農民パルチザンに襲われながら、12月ようやくネマン川を渡ったときには、その数3万に過ぎなかった。
 アレクサンドルはその後、みずから対仏大同盟を復活させ、翌'13年10月オーストリア、プロイセンと共にライプツィヒの戦いでナポレオン軍を破り、'14年3月パリに入城した。ここにナポレオンは廃位され、アレクサンドルはオーストリア・メッテルニヒが主導するウィーン会議にみずから参加、神聖同盟を提唱し、ポーランド王位を兼ねることになった。またウィーン会議後、ロシアも他の参加諸国と共に反動化した。一方、13〜14年の転戦で西欧社会の現実を目の当たりにした青年将校たちは、祖国ロシアの変革の必要性を痛感することになる。'25年11月アレクサンドルは南ロシアを旅行中に急死、子供のいなかった彼の跡は、遺言によりニコライが継いだ。

 ニコライ(1世、在位1825〜55年)は、即位にあたり兄コンスタンチン(カトリック教徒のポーランド人女性と結婚して帝位を辞退していた)が公式に帝位の辞退を声明するよう求めたため、三週間もの空位期間が生じた。この混乱に乗じて、国内変革を求めていた自由主義者の青年将校たちが蜂起した。蜂起は統制がとれず、即座に鎮圧された(デカブリストの反乱)ものの、以後ロシアのみならず広くスラヴの革命運動の精神的支柱となっていった。
 一方ニコライは南下政策を推進し、ギリシャの独立運動の支援('27年ナヴァリノの海戦)、カージャール朝イランに対してカフカース割譲などを約したトルコマンチャーイ条約('28年)を受け入れさせた。
 '30年ポーランド・ワルシャワでの11月蜂起を鎮圧、また'48年「諸国民の春」には「ヨーロッパの憲兵」と銘打って、ポーランドやハンガリーの独立運動を鎮圧した。
 '53年には南下政策の延長上、オスマン帝国との間にクリミア戦争が勃発、まもなく英仏両国がオスマン側で参戦した。その結果は英仏の先進的な軍事力に屈し、農奴解放の遠因となった。

*ポーランド蜂起(11月蜂起):1830年パリで七月革命、ブリュッセルでベルギー独立革命が起こると、ニコライ1世はポーランド軍も動員して革命への軍事干渉を企てた。しかしワルシャワの民衆は凶作による物価騰貴に苦しんでいたため、11月この出兵に抗議して蜂起した。ポーランド総督コンスタンチン大公(ニコライ1世の兄)は、ロシア部隊を撤退させざるを得なかった。翌'31年1月ポーランド議会は、ニコライ1世のポーランド王位からの退位と王国の独立を宣言、かつてのアレクサンドル1世の若き友人たちの一人チャルトルスキを首班とする、穏健的な国民政府を樹立した。しかし、独立と自由もつかの間、ロシアは増援部隊を派遣、秋にはロシアの厳しい軍政下に置かれた。蜂起参加者でロシア軍に編入された者たちはシベリアへ送られ、亡命者たちは「自由の戦士」として各国で迎えられた。シュトゥットガルトで蜂起の敗北を知ったショパンは、激しくも痛切な祖国愛を込めてエチュード「革命」を作曲した。

 クリミア戦争敗北により、改革論者たちは、農奴制の廃止、グラスノスチ、立憲制などを要求し、直後に即位したアレクサンドル2世(在位1855〜81年)は、農奴解放('61年)を実行した。しかし、農民はただちに自営農民になったわけではなく、地代を支払わされ、その支払いは農村共同体の連帯責任と決められた。また領主層は国の行政機構のなかに組み込まれたので、共同体を介したツァーリの支配秩序が確立された。
 また2世は、行政、司法、財政、教育など様々な分野でも改革を実施し、鉄道建設の促進など工業発展を推進した。
 農村では多くの若い男女が、ロシア各地の農村に入り、教師、獣医、その他で働きながら、民衆を啓蒙しようとしたナロードニキ(民衆の中へ)運動が起こった。'74年運動が「狂った夏」といわれるほどの大波となったが、彼らの啓蒙は農村ではなかなか理解されず、冷たくあしらわれた。
 ヴェーラ・ザスーリチは、ナロードニキに身を投じ、デモや蜂起に対して残忍な弾圧をしてきたベテルブルク市長官トレポフを狙撃したが(トレポフ狙撃事件)、政府内にも彼の反対派が多く、陪審裁判で裁かれた結果無罪になった。これ以後彼女が属した結社「土地と自由」のテロ活動が頻発、そこから分裂した「人民の意志」派は'81年アレクサンドル2世を爆殺した。

 父の暗殺によりアレクサンドル3世(在位1881〜94年)が即位。父によって始められた大改革以来、工業は政府主導で行われ、モスクワ周辺や南ロシア・ザカフカースで発展した。特にザカフカースは豊富な石炭・鉄鉱石が埋蔵されていた。この結果、80年代には資本主義が大きく進展し、工業化が急速に進められ、特に'90年代には大蔵大臣ヴィッテの主導によって、鉄道建設のため外国資本・技術が導入され、重工業が成長した。これら外国企業はロシア革命で没収されるまで存続した。こうして20世紀に入る頃にはロシアは工業国の仲間入りを果たす。
 しかし農村では、高額な地代の他人頭税・地方税を支払いで、自分たちの食糧にも事欠いていた。さらに凶作(特に'91年大飢饉)や、コレラの流行、'90年代の重工業中心の工業化によって輸出用穀物を供出が強制され、農民は飢えに苦しんだ。

ニコライ2世(在位1894〜1917年)

 工業化は果たしたものの、ロシアはまだ憲法は制定されておらず、1901年にナロードニキの流れを汲む社会革命党、'03年にはマルクス主義に依拠するロシア社会民主労働党が結成されたが四分五裂を繰り返した。
 一方、シベリア鉄道を建設('05年完成)して極東進出を狙うロシアは日本の利害と衝突し、ブリテンと同盟を結んだばかりの日本との間に、'04年日露戦争が勃発した。戦争が起きると、皇帝専制政治に反対し、憲法の制定と戦争の中止を求める動きが活発になった。
 ロシアは旅順で敗北し、その直後「血の日曜日」事件が起こった。'05年1月、ロシア正教司祭ガポンに率いられたペテルブルクの労働者は、皇帝へ請願書を提出するため冬宮に向け行進、その数10万に達した。これに対して治安部隊が発砲、100名以上の死者、2000人以上の負傷者が出た。この結果、各地に暴動が起き、黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の水兵反乱も起こった。

   皇帝ニコライ2世はヴィッテの進言により十月勅令を発布、議会開設と憲法制定を約束し、事態を収拾した。勅令は自由主義者・資本家に熱烈に歓迎され、彼らは反政府運動から離れたため、政府は労働者・農民・兵士らの革命運動の弾圧に転じた。革命の波は退潮に向かい、政府は反動化した。
 '06年国会が開会したとき、自由主義者が第一党になったため、政府は勅令で国会を解散させてしまった。内相ストルイピンが首相となり、ストルイピン時代が到来した。
 ストルイピンはまず社会を安定させ、しかるのちに改革を行おうとした。軍隊や警察を動員し、労働組合を閉鎖、逮捕・投獄・流刑・死刑といった弾圧の嵐が吹き荒れ、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と評された。
 一方'06年11月から開始された土地改革は、従来の共同体に根ざした土地を解体し、農民が独立した農場を創設させようとしたものだったが、農民はこれに抵抗し土地測量を妨害、共同体を離脱しようとする村仲間に嫌がらせや暴力ざたを行った。ストルイピンも改革半ばの'11年9月キエフで観劇中に暗殺された。
 首相のストルイピンが暗殺されると、皇帝は態度を硬化させ、自由主義者の勢力は後退、急速な社会変革を求める社会主義者が非合法活動を行うようになった。ロシア社会民主労働党は、'12年レーニン率いるポリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂した。

 第1次大戦が始まると、セルビアの守護者を任じるニコライ2世は、自ら決断して総動員令を発し、'14年8月ドイツがロシアに宣戦布告したのに対し、即座にロシアもドイツに宣戦布告した。当初ロシア軍はハプスブルク領ガリツィア地方を占領したものの、'15年春ドイツ軍は反撃に移り、7月にはガリツィアから撤退、さらにドイツ軍にロシア帝国内のポーランド人地域に深く侵入を許した。
 参戦国すべてが総力戦の様相を深めていったとき、ニコライ2世は総司令官として陣頭指揮をとったものの、近代化が遅れていたロシアはたちまち弱点を露呈した。前線で戦う兵士に弾薬、衣料、食糧も満足に支給されず、国内でも極端な物資不足が続いた。
 また'16年末までに戦死者53万、負傷者230万、捕虜・行方不明者250万に達した。中央アジアやシベリアでは諸民族が徴用に対して大規模な反乱が勃発、前線では長期にわたる塹壕戦で兵士が厭戦気分を募らせ、戦線を離脱する者も出始めていた。

ロシア革命(1917)

 '17年3月、首都ペトログラードで繊維工場の女性労働者がパンを求めてストライキに入り、デモ行進が始まった。ストライキは全市に拡大して専制政治に反対する政治デモに発展、軍隊が発砲し、皇帝は戒厳令を発したが、軍隊でもデモ鎮圧を拒否する反乱が起き始めた。反乱を起こした兵士と労働者は革命の組織化にあたった。ペトログラード・ソヴィエト(メンシェヴィキの評議会)と国会は双方連絡を取り合い、帝政を見限る決断を下し、国会は立憲民主党のリヴォフ公を首班とする臨時政府を成立させた。ここに300年間続いたロマノフ朝は静かにその幕を閉じた(二月革命、ロシアでは旧暦2月だったため)。こうしてソヴィエトと臨時政府の二重権力構造が生み出され、臨時政府は戦争を継続した。

 戦争を継続する臨時政府に対し、ウクライナ、グルジア、中央アジアでは民族政権が成立し自治を求める一方、ソヴィエト内では「平和・土地・パン」を唱えるレーニンのポリシェヴィキが支持を得て多数派へと変化していった。

 レーニンが亡命先のスイスから帰国すると、11月トロッキーと共に武装蜂起して、臨時政府(首班ケレンスキー)を倒し、ソヴィエト政権を樹立した(11月革命)。レーニンは直ちに「平和に関する布告」で戦争の中止を訴え、単独講和を行った('18年3月プレスト・リトフスク条約)。
 ところが、普通選挙により選出された憲法制定議会は、社会革命党が圧倒的多数となったため、レーニンは武力で議会を解散、プロレタリア独裁を開始した。これに対して、社会革命党と帝政派はロシア全土で反革命運動を行い、各地に反革命政権が樹立された。 革命の波及を恐れた諸外国も、反革命政府を援助するため、ロシアへの出兵を行った。日本軍も'18年8月シベリアへ出兵した。ソヴィエト政府は赤衛軍を組織して反革命勢力を各地で打倒、'22年にはロシア全土を制圧し、12月ロシア、ウクライナ、白ロシア、コーカサス(グルジア)によるソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。

 ロシア革命による内戦と諸外国からの干渉戦争の際、レーニンは戦時共産主義を実行し、土地や企業の国有化、穀物の強制徴収などを行ったが、その結果国民の生産意欲が低下した。そのため、'21年からは資本主義を取り入れた新経済政策(ネップ)を採用、生産力回復に成功した。
 '24年レーニン死去、スターリンが政権を掌握する。'26年にはトロッキーが失脚、'28年スターリンはネップを廃止し、新たに第1次五カ年計画を策定し、社会主義計画経済を推進した。その結果、大恐慌にあえぐ資本主義諸国をしり目に生産の増大を実現することができた。農業ではコルホーズ(集団農場)が拡大しソフホーズ(国営農場)となった。
 国連加盟も'34年9月には実現するが、その陰では'34年2月からスターリンが大粛清を開始(〜'38年)、古参ポリシェビキ・一般党員、さらに一般市民までが粛清の対象となって、その犠牲者は一千万人とも二千万人ともいわれる。