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15.大ブリテン産業革命

産業革命前後の政治

 イングランドは名誉革命(1688年)後1702年まで、ウィリアム3世・メアリ2世の共同統治でネーデルランドとの同君連合となった。また権利の章典('89年)によって議会の多数派が内閣を組織、国王の補佐機関として機能した。ウィリアム3世死後、メアリ2世の妹アン女王の治世(在位1702-14年)には、女王に代わり、内閣が行政を担当する責任内閣制が成立した。この間の1707年スコットランドを併合、グレートブリテン連合王国(United Kingdom of Great Britain、以下UKをブリテン、イングランド固有の意味合いはイングランドと記述)が成立した。
 アン女王には子が無く、1714年遠縁のドイツのハノーヴァー家(ハノーヴァー選帝侯)から、ジョージ1世(在位1714〜27年)を王として迎えた(スチュアート朝断絶、ハノーヴァー朝)。英語を解さず、ブリテン国内政治に関心が薄かったジョージ1世の下で、責任内閣制がますます発達、王は「君臨すれども統治せず」と言われることになった。
 ジョージ1世は1721年以降、大蔵府を率いる第一大蔵卿のロバート・ウォルポールをその首班として政治を行わせることとなり、これ以降第一大蔵卿が内閣の首班としてブリテンの政治を行うようになった。ブリテンの政党は17c末葉以来、ホイッグ、トーリーの二政党が議会を牛耳っていたが、ホイッグ党のウォルポールは'42年までの長い期間ホイッグ寡頭体制をしき、政治は安定した。

 *この時代、イングランドの支配階級は貴族とジェントリだった。貴族は爵位保有の大土地所有者、ジェントリは爵位を持たない地主で、両方あわせても全人口の1.5%ほどだが、貴族は上院(貴族院)を、ジェントリは選挙によって下院(庶民院)をほぼ独占的に支配した。

 ジョージ2世(ジョージ1世の子、在位1727〜'60年)は、ウォルポール退陣後オーストリア継承戦争(1740-48年)、七年戦争(1756-63年)など様々な対外戦争に巻き込まれた。インドでは'57年プラッシーの戦いで、東インド会社軍がフランス・ベンガル土候連合軍に勝利し、ブリテンのインド覇権が確立した。

 ジョージ3世(ジョージ2世の孫、在位1760〜1820年)は、議会権限の制約をはかったため、政治体制が反動化し汚職・腐敗が進行した。このため国王専制に対する批判が続出、'90年代以降は国王勢力は後退、議会主導の政治が復活した。
 この間大陸ではフランス革命が勃発(1789年)、ときの首相トーリー党の小ビット(ジョージ2世の下で一時首相となった大ビットの子、1783〜1801年・1804〜'06年組閣)は、3次に及ぶ対仏大同盟を組織した。またビットは、革命の影響を受け自治権獲得運動を起こしたアイルランドに対して、グレート・プリテンへの統合(1800年合同法、グレートブリテン及びアイルランド連合王国)を行なった。しかし合同は19cを通じて「ブリテン内政の癌」と言われ、今日なお問題を残している。

 1830年頃まで(国王はジョージ4世、在位1820〜30年)フランス革命を支持したホイッグ党が劣勢となってトーリー党の政権が続いた。トーリー党リヴァプール政権(1812〜27年)は、ウィーン体制(1815年〜)の一翼を担い、反動的な正統主義に立脚した。これに逆らう民族独立運動や改革運動は、襖普露英四国同盟によって弾圧することが取り決められた。
 同政権はまた、ナポレオンの大陸封鎖の反動で、一転して急落した穀物価格を保護するため、'15年穀物法を制定、やがて展開される自由貿易運動はこの穀物法を撤廃することを最大のターゲットとすることになる。
 一方でリヴァプール政権は綿花・綿製品の関税引き下げ、航海法の規制緩和を行った。さらに、折から中南米で進行したメキシコ、ペルー、ブラジルなどの独立を承認して、反動的なウィーン体制から列強で唯一脱退し、'24年には団結禁止法(1800制定)を廃止した。同じトーリー党ウェリントン内閣も'28年審査法(非国教徒に対する差別法)を廃止した。しかし、こうした前向きの政策にも拘わらず、トーリー党内では自由派と保守派が対立し、'30年ついにホイッグ党のグレイ内閣が成立、トーリー支配が終焉した。

 約半世紀ぶりに政権に復帰したホイッグ党は、新興中産階級の意を体し、グレイ内閣('30〜34年)は自由主義的改革を矢継ぎ早に打ち出した(国王はウィリアム4世、在位1830〜37年)。その最大の改革が、'32年の第1次選挙法改正だ。この改正で、従来大土地所有者の農村に偏在していた選挙区(財産として相続・売買することもできたため腐敗選挙区と言われた)を剥奪して、人口増加の著しい工業都市に配分すること、有権者資格の拡大が盛り込まれた。ただし、この選挙改革は中産階級に参政権を与えることによって、貴族・ジェントリーの体制内に彼らを取り込んだもので、労働者階級は阻害されていた。以後1830年代からホイッグ党は自由党へ、トーリー党は保守党へと脱皮していった。

 '45年アイルランドのジャガイモ大飢饉が発生すると、一時政権に返り咲いた保守党のピール内閣('41〜46年)は、保守党政権でありながら自由党が主張する穀物法廃止に同調し、翌年穀物法は廃止された。しかし、これによってピール派は自由党に移り、以後ヴィクトリア時代(ヴィクトリア女王、在位1837〜1901年)は自由党が政治を主導する。'49年には航海法も廃止され、自由貿易が確立され、ブリテンは世界経済の覇者となって黄金時代を築いた。

産業革命

 ブリテンでは1770年頃から、綿工業を中心に機械によって生産を行う工場制度が導入された。それより以前、ブリテンといえどもいまだ農業を基本とする社会だった。1770年頃から19c前半にかけ工業化社会への転換が行われ、資本主義が本格的に成立する。綿工業を基点に鉄工業、石炭業が発展、運河・鉄道の建設が進み、各地に工業都市が生まれた。この時期に起こった経済・社会上の一連の変化を「産業革命」という。それ故にブリテンは、経済力において他国を圧倒し、国際経済の覇者となった。
 産業革命は技術革新だけでなく、資本の蓄積、労働力、資源が必要だった。問屋制や工場制手工業(マニュファクチュア)が発達し、植民地貿易によって資本が蓄積していたこと、第二次囲い込みによって地主が小作人を締め出し、農村から都市に流入した人々が労働力となったこと、イングランド西北部には鉄や石炭など豊富な資源が産出されたこと、などの条件が揃っていた。

 綿布(キャラコ)はもとインドからの贅沢な舶来品としてブリテンにもたらされ、大流行した。その後アフリカ向け奴隷貿易の対価としても利用されるようになり、ブリテンでも生産が開始された。18c後半には西インド諸島のプランテーションから、19cにはアメリカ合衆国南部のプランテーションから奴隷を使った安価な原綿の供給を受け、工場制の大量生産によってコストが切り下げられて、世界的な需要が見込まれたため、産業革命の主導部門となっていった。
 綿工業の技術革新は、1733年ジョン・ケイによる飛びひの発明に始まり、ハーグリーブズのジェニー紡績機('64年)、アークライトの水力紡績機('69年)、クロンプトンのミュール紡績機('79年)など紡績工程における相次ぐ発明、織布行程ではカートライトの力職機('89年)が発明された。さらに、ワットが蒸気機関('81年)を発明すると、ミュール紡績機や力職機に取り付けられた。
 綿工業の技術革新の中、困窮した労働者が集団で機械を破壊する行為がしばしば起こった。その有名なものに、1811〜3年にイングランド北部・中部の繊維産業地帯に生じたラダイト運動がある。これに対して、ビットは反体制運動を抑圧する団結禁止法(1800年)をもって応じた。

 製鉄業では、まず鉄鉱石を高炉で熔解して銑鉄をつくる製銑行程で、従来の木炭から石炭のコークスを用いる技術を18c前半製鉄業者のダービー親子が開発した。次いで、銑鉄を鋳鉄や鋼に鍛える製錬工程で、コートが反射炉を用いるパドル法の開発と圧延技術を編み出した('84年)。石炭業はこうして高炉の溶鉱材として、さらには後述の蒸気機関の熱源として、また家庭用の燃料としても使われ、発展した。

 石炭や鉄、穀物などを運ぶため、ネーデルランドに習って運河が造られるようになる。ブリッジウォーター公爵は、自分の炭鉱とマンチェスターを結ぶ7マイルほどのブリッジウォーター運河を建設した('61年)。これが引き金となって、以後19c初頭にかけて運河が数多く建設された。ランカシャーはバーミンガム(鉄工業の都市)を中心とするミッドランドと大幹線運河で結ばれ、首都ロンドンとミッドランドがグランド・ジャンクション運河で結ばれた。

 運河建設の延長上に鉄道がある。また鉄道によって産業革命も完成した。鉄道はレール、鉄橋、機関車その他に大量の鉄材を必要とし、他にも大量の資材、膨大な労働力を必要とする。それ故、鉄道の全国的な普及は、ブリテンの産業と経済に計り知れない活力を与えた。
 実用的な蒸気機関車を発明(1814年)したのは、もと炭坑火手の技術者ジョージ・スティーブンソンだった。鉄道は1825年に蒸気機関車・馬車両用の営業線が初めて敷設され、'30年にリヴァプール−マンチェスター間に蒸気機関車専用線が初めて開通した。以後30〜40年代と鉄道建設がブームとなり、19c中葉には全国の主要都市は鉄道で結ばれた。
 都市はマンチェスター(綿工業)、バーミンガム(鉄鋼・機械)、リヴァプール(商業)などの都市が栄えた。

 しかし、工業化によって社会が質的にあきらかに変わったと認識するようになるのは1830〜40年代で、産業革命という言葉もこの時期にジョン・スチュアート・ミルやフリードリヒ・エンゲルスによって初めて使われるようになる。
 経済力を身につけた中産階級(ブルジョワ階級)は、従来の支配階級であった貴族・ジェントリと正面から渡り合った。'32年には第1次選挙法改正、'46年穀物法廃止はその最大のハイライトとなった。

 一方、産業革命が進行すると労働問題や公害といった問題が生じてきた。
 そもそも産業革命当初は労働者を保護するという考えはなかった。資本家はなるべく安い賃金で長時間労働者を働かせるので、低賃金や長時間労働、さらには児童労働が大きな社会問題となった。炭鉱は繊維工場以上に劣悪で、爆発や落盤の危険の中で児童や女たちが働かされた。
 また都市の人口が増大する中、住宅や上下水道などの整備が追いつかず、労働者は極端な貧困生活を送るようになり、スラム街が発生した。19cに入って外来のコレラが登場するが、30〜60年代にかけ4回のコレラ大流行があったが、その温床ともなったのがスラム街だった。
 またロンドンでは屎尿や汚物によってテムズ川にヘドロが堆積し、40〜50年代には死の川となった。大気汚染などの公害も発生した。

 産業革命の最中の19c初期は、営業の自由、自由放任の風潮が広がっていた。しかし、労働問題や公害問題の発生は、公共の福祉の立場から自由をどう制限していくかが政府の重要な課題となった。この観点から様々な改革がなされたが、福祉国家政策の先駆けをなすこれら諸改革を国家干渉政策と通称する。
 ピール首相の父のロバート・ピールは'19年、'25年の工場法制定に尽力したが、その執行を治安判事にまかせたため効果をあげ得なかった。その後アシュリー卿の尽力で'33年工場法が制定され、初めて実効ある法律となった。ここでは9歳以下の児童労働を禁止、若年者の労働時間制限などを定め、工場監督官制度を導入してこれに実効性を持たせた。また、'42年にもアシュリー卿の提案になる鉱山法が可決、女性と十歳未満の児童の鉱山・炭鉱における雇用を禁止した。
 都市の衛生改革はコレラの大流行をきっかけとしてチャドウィックが運動を展開した。彼は'42年に「英労働人口の衛生状態に関する報告書」を公刊して、都市労働者の窮状を広く知らしめ、'48年最初の公衆衛生法を成立させた。しかし、衛生改革が実をあげるには、なお幾多の歳月を必要とした。

 産業革命による工業化・都市化の過程で労働者階級(プロレタリアート)の形成は進んだが、その内容は一様ではなく、1830〜40年代にはなお綿工業をはじめとする繊維産業に限られ、その他の産業では徒弟制度(法的には'14年に廃止された)の慣行に従って技術を習得する職人が代表的な労働者だった。
 '24年の団結禁止法撤廃によって、都市部では各産業部門で労働組合が一斉に結成された。'32年第1次選挙法改正の際の運動で、労働者階級急進派は中産階級と共に闘ったが、普通選挙など労働者の目的は遂げられなかった。そこで彼らは30年代後半から40年代にかけて、自ら大規模な政治闘争を行った。これをチャーティスト運動という。運動はウィリアム・ラヴェットを中心に、男子普通選挙、議員の財産資格の撤廃などを掲げた「人民憲章」を'38年に採択、全国代表者会議(コンヴェンション)を設立し、議会への請願運動を展開する形で展開した。
 しかし、運動はやがてラヴェットを中心とした道徳派と、機関誌「ノーザン・スター」を発刊したオコンナーの暴力派の対立が顕在化し、後者が主導権を握るに及んで、'42年にはランカシャー・プレストンでの点火栓引き抜き暴動(各工場の蒸気機関の点火栓を引き抜いてまわった)が発生した。だが42年以後は、景気の回復や鉄道建設大ブームの訪れと共に、チャーティスト運動は急速に衰退していった。

 産業革命の波及はアメリカではだいぶ早く1810年代から始まり、'07年にはフルトンの発明になる蒸気船がハドソン川を航行、'11年にはミシシッピ川を運航するようになっていた。1825年の機械輸出解禁の後はヨーロッパに波及、ベルギー、フランスが1830年代、ドイツで1850年代、ロシアと日本で1890年代に始まった。

 産業革命期の経済について、アダム・スミスは「国富論」(1776年)を著し、封建制の終焉、重商主義を批判し、「見えざる手」が経済を動かす、と述べた。見えざる手はまた、「需要と供給」という古典派経済学の重要な概念を作り、近代経済学へと発展する端緒となった。
 功利主義者ベンサムは「最大多数の最大幸福」で、公共の福祉のために自由の制限を促した。その跡をついだ功利主義者のジョン・スチュアート・ミルは「自由論」('59年)において、社会の成員に迷惑をかけないための自由の制限は必要だが、その制限は必要最小限にとどめなければならない、として自由擁護の立場をとった。
 社会主義思想も登場し、ロバート・オーエンは'25〜29年にアメリカ・インディアナ州に理想郷ニュー・ハーモニーを建設し、空想的社会主義の実験を試みた。