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4.スペイン(太陽の沈まない帝国)

 1469年カスティリア王国のイザベラ女王とアラゴン連合王国フェルナンド2世が結婚し、ローマ教皇アレクサンデル6世から「カトリック両王」という称号を与えられたスペインだが、この結婚でただちにスペイン王国が誕生したわけではなかった。それぞれ独立の王国のままであり、政治体制も、社会や経済のあり方も、別々のままだった。スペインとは、ごくゆるやかな連邦国家以上のものではなかった。
 アラゴン連合王国は、伝統的に地中海の交易で繁栄してきたカタルーニャを中心に、シチリアやサルディーニャを領有、カスティリアは羊飼いと遊牧民の国で、羊毛をフランドルに輸出していたが、戦闘的な貴族たちは1492年イスラーム教徒の最後の拠点グラナダを陥落させた。同年ジェノバ人コロンブスがイザベラ女王の援助を得て新大陸を発見、レコンキスタはアメリカの探検と征服に拡大していった。

 イザベラが1504年亡くなると、その遺言によりフェルナンドはカスティリアの共同王位を剥奪されてしまった。しかし、アラゴンに退き復権の機会を狙っていたフェルナンドは、やがてカスティリアの摂政となりスペインを統治した。フェルナンドは、長年フランスと紛争が絶えなかったピレネー山脈沿いの係争の地ナヴァル王国を1512年征服併合、一方で、反フランス政策のためイングランド、ポルトガル、ハプスブルクとの政略結婚を行った。
 長女イザベラはポルトガル皇太子に嫁したが早くに寡婦となり、改めてポルトガル国王と結婚、しかしその1年後に亡くなった。次女マリアはそのやもめの国王の後妻になった。跡取り息子ファンはハプスブルク家の娘と結婚したが、半年後に亡くなった。三女ファナは同じハプスブルク家のフェリペ(フィリップ)と結婚、男子を産んだ(後のカルロス1世/カール5世)。末娘カタリーナはイングランドのヘンリ7世の息子アーサーに嫁ぎ、アーサーがすぐ死んだためその弟(ヘンリ8世)と結婚した。また次女マリアが生んだ娘のイザベラは、後に三女ファナが産んだカルロス1世と結婚、その息子フェリペ2世は後にポルトガル王を兼ねる。こうしてフェルナンド2世の思惑を多分越えて、アラゴンの家系がヨーロッパに君臨することになる。
 とはいっても、スペインはやはりカスティリアが主体となって帝国を形成していった。

   フェルナンド2世亡き後、スペインはカルロス(ハプスブルク家フェリペとスペイン王女ファナの子)が受け継ぐことになった(カルロス1世、在位1516〜56年)。カルロスの父方の祖父はハプスブルク家6代当主のマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝在位1493〜1519年)、祖母が仏ブルゴーニュ公女のマリアで、カルロスはブルゴーニュ公領フランドルの古都ヘント(ガン)で育った。
 さらにマクシミリアン1世亡き後ハプスブルク家も、他に継承者がいなかったため継承することになり、同時に神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519〜56年)と称した。これによりヨーロッパに突如として巨大なハプスブルク帝国が誕生し、オーストリア、スペイン、ネーデルラント、南イタリア(アラゴン領ナポリ王国)、アメリカ大陸という広大な領土が彼のものとなった。
 ハプスブルク家神聖ローマ皇帝としてのカール5世は、ルターの宗教改革(1520)で異端の徒と戦い、オスマン帝国のウィーン包囲(1529)に対して聖戦を戦い、ヨーロッパの覇権をかけてはフランスとひっきりなしに戦った。
 アウグスブルクの宗教和議(1555)を収めた後引退、オーストリアの領地と神聖ローマ皇帝を弟のフェルディナントに譲り、スペイン、ネーデルラント、南イタリア、アメリカ植民地を息子フェリペに譲った。これによりハプスブルク家は、オーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクに分かれた。

 フェリペ2世(在位1556-98年)はこうして治世の始めからスペイン国王として君臨した。責任感が強く、膨大な量の執務をこなし、カスティリア人から「もっとも思慮深い国王」と称されたという。1561年それまでは移動する宮廷だったカスティリアの首都をマドリードに固定した。母親がポルトガル王家出身だったため、1580年ポルトガル王位がころがりこんできてポルトガル王も兼ねた(同君連合〜1640年)。これによって全世界にスペインの領土があることになり、この時代のスペインを「太陽の沈まない帝国」と呼び、史上初の世界帝国が誕生、スペイン絶対主義の最盛期を現出した。さらに英王メアリ1世と結婚し、イギリスをも勢力下においた(ただし5年間)。

 スペイン帝国はカルロス1世とフェリペ2世の時代、精緻な帝国統治システムを完成させた。その原型はアラゴンの統治システムで、アラゴンはシチリア、サルディーニャ、ミラノを統治するにあたり、副王(現地の派遣官僚)の制度を設けていた。16c半ばまでにスペインの副王職はアメリカの植民地を合わせて9つになった。中央のカスティリア宮廷には、それぞれの地域を統括する諮問会議が国王の下に設けられた。諮問会議は副王の監視にあたると共に、各地域の利益代表を兼ねた。これによりスペインの中央集権体制が維持された。
 アメリカ大陸からは銀がどんどん運ばれ、スペインの国力の象徴となったが、父王の時代からのうち続く戦費がすでに財政を圧迫しており、銀は国王に資金を貸し付けているジェノヴァの銀行家への支払いに、そのほとんどが消えていってしまった。しかもフェリペの戦争も果てしなく続き、フランスとの間の長いイタリア戦争(1449年〜)が1559年に一段落したものの、1550〜80年代のオスマン帝国との間の軍事行動(1571年レパント海戦)、ネーデルラントの反乱(1566〜1648年)、1588年のイングランド侵攻(アルマダ海戦)と続いた。そのため数回に及ぶ王室の破産宣告を出し、債務金利の引き下げを行ったほどだ。

 *レパント海戦で向かうところ敵なしだったオスマン帝国海軍を破り、地中海の制海権を確保したスペイン艦隊は、これ以後アルマダ海戦でイギリス艦隊に惨敗するまで、無敵艦隊(アルマダ)と呼ばれた。
 *アメリカ大陸からの銀の流入によって、16cから17c半ばまでの160年間に、ヨーロッパの銀の保有量は3倍になったと推定される。アメリカの経済学者ハミルトンは1929年に発表した論文で、これがヨーロッパに価格革命をもたらしたという仮説を立てた。しかしこれには反対意見もあり、16cの西ヨーロッパ全体の物価は、それ以前よりほぼ5倍になったのは確かだが、その真犯人は急激な人口増加(16cに2倍になった)で、そのため食糧価格が激しく上昇し、生産力を上回ったのだという。

 17cに入りフェリペ3世(在位1598〜1621年)が跡を継ぐと、1598年フランスのアンリ4世と、1604年イギリスのジェイムズ1世と相次いで講和し、さらに'09年ネーデルラントと休戦協定を行った(ネーデルラントの事実上の独立)。しかし三十年戦争勃発('18年)に際して、皇帝軍支援のため介入('19年参戦)、スウェーデン、ネーデルラント、フランスと戦った。'48年ウェストファリア条約で三十年戦争終結(フェリペ4世、在位1621〜65年)、ここに至ってさしものスペインは力が尽きた。それより前'40年カタルーニャでの反乱、同年その隙をついて勃発したポルトガルのクーデタで同君連合は解消され、'47年ナポリ王国とシチリアが反乱した。'48年ウェストファリア条約調印後もフランスと戦い続けたスペインは、'59年ピレネー条約でフランスに屈し、スペインの時代は完全に終焉した。