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3.宗教改革

 ドイツ・ザクセン選帝公領の神学教授ルター(1483-1546)は、ローマ教皇レオ10世がサン=ピエトロ大聖堂の改築工事の費用捻出のため、ドイツで免罪符を発行したのに対し、1517年「95ヶ条の論題」というローマ教会に対する質問状をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼り付けた。内容は免罪符販売の批判、人は信仰によってのみ義とされるはずで、聖書に書いてある通りにすることが信仰だ、というもの。
 これが発表されると、すぐにヨーロッパを二分する大論争に発展した。発明されたばかりの印刷術で、ヨーロッパ中にパンフレットが流布されたからだ。もちろんローマ教会はルターに自説を撤回させようとしたが、1520年ついにルターは、平信徒と聖職者の間に本質的な差異は存在せず、一介の信徒も光明に達することができるとする「万人司祭説」をもって、ローマ教会と教皇の権威を公然と否定し、教皇はルターに破門状を送った。そのときルターは破門状を学生たちの目の前で破いて燃やしてしまった。ドイツ人の圧倒的多数もルターを応援した。
 ローマ教会と協力関係にあった神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王でもある)もルターに自説の撤回を迫ったが、ルターは応じなかったので、皇帝は「一切の権利を奪われる刑」つまり法の保護が及ばないようにした。そのためザクセン候フリードリヒがルターを城にかくまってしまった。以後ルターは世間から姿を隠し、もっぱら聖書のドイツ語訳に専念し、一方でローマ教会とは別の宗派を立てた(ルター派教会)。

 ルターの宗教改革をきっかけに、ルターを熱烈に支持し、没落しかけていた騎士たちがかつての地位を取り戻そうとして、ローマ協会側諸侯の領地を奪い取るため起こした騎士戦争(1522-23)を始め、ドイツ諸侯がローマ教会支持諸侯とルター派諸侯に分かれ、領地の分捕り合戦を始めた。また、ミュンツァーという指導者の下農民を組織し、領主の支配に抵抗したドイツ農民戦争(1524-25)も起こったが、ルターはこのとき農民を弾圧する領主側につき、反乱は領主側に鎮圧された。こうしてドイツ中は騒然となった。
 ここにオスマン帝国が攻め込み、ウィーンを包囲するという大事件が起きた(1529年第1次ウィーン包囲)。ウィーンはハプスブルク家の本拠地、カール5世はルター派諸侯の救援を得るためルター派の信仰を認めたが、オスマン帝国がウィーンを攻めきれず撤退すると、再びルター派を禁止してしまう。これにルター派諸侯が抗議したため、彼らは以後「プロテスタント」(抗議する人の意)と呼ばれるようになった。現在ではルター以後の新しい宗派を一括してプロテスタントといい、新教ともいう。これに対してローマ教会はカトリック又は旧教という。
 カール5世が退位し弟が即位した1555年、神聖ローマ帝国はルター派の諸侯と都市に信仰の自由を認めた(アウグスブルクの宗教和議)。ただし個人の信仰の自由ではない。

 ルターの宗教改革に影響され、各地で宗教改革者が現れた。カルヴァン(1509-64)はフランス生まれだが、スイスのジュネーブに招かれて宗教改革を行った。ジュネーブに神権政治を実施し、飲酒・賭博など聖書の教えに背く不道徳なことを許さなかった。
 主著「キリスト教綱要」(1536年)で「予定説」を説き、われわれ一人一人が天国に行けるかどうかあらかじめ決定しているとし、一方で職業的成功が救済の証拠だと説いた。だから新興の市民階級に広がった。彼らの生活は質素で倹約的で、商工業が発達する地域ネーデルランド、フランス、イギリスなどにカルヴァン派は広がった。
 ヨーロッパ各地でのカルヴァン派の呼称はネーデルランドがゴイセン、イギリスがピューリタン、フランスがユグノー、スコットランドがプレスビテリアンという。

 イギリスの宗教改革は信仰の問題ではなく、国王の離婚問題が発端となった。チューダー朝ヘンリ8世は妻カザリン(スペインのイザベラ女王の娘、神聖ローマ皇帝カール5世はカザリンの甥)と離婚し、カザリンの侍女アン=ブーリンと結婚したくて、1534年国王至上法を制定しローマ教会を抜け、イギリス国教会というのを作ってしまった。それだけならまだしも、アンーブーリンに男子が生まれなかったため、別の女性と結婚、邪魔になったアン=ブーリンをロンドン塔に幽閉したうえ処刑してしまった。結局死ぬまで6回結婚し、そのうち二人までを殺した。
 しかし、ヘンリ8世の国王至上法に対し、ジェントリという地方有力者層が国王を支持した。なぜかというと、ローマ教会からの離脱にともなって、国王はイギリス国内の修道院の土地財産を没収し、ジェントリに払い下げたので、彼らの利益になったからだ。

 ルター派、カルヴァン派、イギリス国教会などが分離して、ローマ教会の勢力は衰えた。これに危機感をもったローマ教会は、組織改革に取り組んだ。これを対抗宗教改革という。しかし、そのために開かれたトレント公会議(1545-63)では、教皇至上権の確認、異端の取り締まり強化が決定されただけ。イタリア半島やイベリア半島などローマ教会の勢力が強い所で、宗教裁判、魔女狩り・魔女裁判が頻繁に行われた。
 一方、1534年組織されたイエズス会はアジアで積極的に布教活動を行った。ヨーロッパで衰えた勢力を世界への布教で挽回しようとしたのだ。設立者イグナティウス=ロヨラが、フランシスコ=ザビエルら同士6人で結成した。イエズス会の特徴は軍隊的組織にあり、総長の命令には絶対服従だった。
 イエズス会はポルトガル王の保護の下で、ポルトガル商人の出入りするアジア地域に進出し、ザビエルは日本にも布教を行った。その結果、九州にキリシタン大名が生まれ、1582年には4人の少年による天正の遣欧使節がローマ教会に派遣され、ヨーロッパで大歓迎された。