トップページに戻る

6.三十年戦争(1618-48)

 神聖ローマ帝国内では、カトリック諸侯とプロテスタント諸侯の対立が続いていた。1618年新教徒が多いボヘミアでハプスブルク家の旧教強制に対して反乱が起き、これをきっかけとして両派諸侯、近隣諸国を巻き込んだ三十年戦争が始まった。三十年戦争はヨーロッパ史上初の国際戦争で、それを終結させたウェストファリア条約も史上初の国際条約だった。

 ルドルフ2世(在位1576〜1612年)が神聖ローマ皇帝になったとき、ハプスブルクの首都をウィーンからプラハ(ボヘミアの首都)に移したが、プロテスタントが多数を占めるボヘミアではこの国の事情に配慮して、ゆるやかな宗教政策をとっていた。しかし、1617年フェルディナント2世('19より神聖ローマ皇帝〜'37年)がボヘミア国王になると、ボヘミア議会はプロテスタント弾圧の兆しを感じとり、信仰の自由を認めたルドルフ2世の約束を再確認するため、王宮のプラハ城に赴いて留守を預かる顧問官に直談判を行った。このとき激昂したプロテスタントたちは、執務室の窓から顧問官たちを放り出した。このプラハの窓外放出事件('18年)が発端となって、三十年戦争が起こる。

 ボヘミア議会はフェルディナント2世の廃位を決定、ライン=ファルツ選帝候を新国王に指名すると共に、ドイツのプロテスタント諸侯に救援を依頼した。一方ハプスブルク家側は、すぐさまスペインがネーデルラント駐留のフランドル軍をライン地方に展開、南ドイツ・バイエルンも皇帝軍支援のため挙兵した。プラハ投出事件から2年後、ボヘミア反乱はスペイン軍によって鎮圧され、ハプスブルクはボヘミアの王位を回復した。ライン=ファルツ選帝候はネーデルラントに亡命、選帝候位はバイエルン公のものとなった。ここまでは皇帝側の圧勝だった。

 しかし'09年から休戦していたネーデルラントとスペインの休戦協定期限が'21年に切れると、両国は再び戦争状態となり、'25年ネーデルラント中部のブレダがスペイン軍によって陥落した。また'25年からデンマーク(かねてから北へ勢力伸張をはかるハプスブルクと対立していた)が参戦したが、'29年ボヘミア貴族ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍に撃破された。同年スペインとフランスは、かねてよりフランスとハプスブルクの係争の地北イタリアで、小国マントヴァ公の継承問題をきっかけに衝突(マントヴァ戦争)、三十年戦争の新たな戦線となった。
 さらに'30年スウェーデン(バルト海に領土を拡大しつつあった)が参戦、天才的な軍人国王グスタフ・アドルフは、大砲を野戦に用い鉄砲の斉射戦術など斬新な戦法で破竹の勢いで進撃した。しかし、'32年ライプツィヒ南のリュッツェンの戦いで戦死。スウェーデン宰相オクセンシェルナはひるまず、プロテスタント勢力をまとめてドイツ遠征を続行させたが、'34年ネルトリンゲンの戦いでスウェーデン軍は初めてスペイン軍に大敗を喫した。
 ここでフランス宰相リシュリューが危機感を抱き、オクセンシェルナの要請に応じて'35年ライン地方に侵攻し参戦、戦局は一挙にプロテスタント側に有利となった。三十年戦争の最後の十年間、神聖ローマ帝国内はフランス軍とスウェーデン軍の破壊的な侵略の餌食となった。

 1648年1月ウェストファリアでスペインとネーデルラントが講和条約に調印、ネーデルラントは独立国となった。また同年10月スウェーデン軍にプラハを包囲された皇帝(このときフェルディナント3世)もウェストファリア条約に応じ、三十年戦争が終結した。この結果、西ボンメルン(バルト海沿岸)をスウェーデン、アルザス・ロレーヌをフランスに奪われ、帝国内の領邦主権が確認されて、神聖ローマ帝国は名目上の存在となった。信仰の自由については、帝国内で個人の信仰の自由を認めた(それまでのアウグスブルク宗教和議(1555)での信仰の自由は、個人ではなく領主に決定権があった)が、三十年戦争の発端となったボヘミアでは、戦時中土地は荒廃しプロテスタントは逃亡、戦後ハプスブルク領として再カトリック化が進んだ。