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16.合衆国独立

北アメリカへの植民

 北アメリカにはインディアン諸部族が暮らしていた。狩猟を主たる生活手段とする部族や農耕を行う部族など様々で、言葉や生活様式もまちまちだった。宗教は多神教、個人の土地所有という概念はなかった。
 北アメリカにはスペイン人に始まり、17cに入ってフランス、ネーデルラント、イングランドが進出した。特にイングランドの植民地は他の植民地に比べ、定住の農業社会を作り上げたため、インディアンとの間に深刻な衝突を惹き起こした。

 イングランド人の探検の最初はウォルター・ローリーが1584年に派遣した探検隊で、現ノースカロライナ州ロアノーク島に行き、この島をヴァージニア(処女王エリザベスにちなむ)と名付けた。その後共同出資会社ヴァージニア会社を作り本格的な入植を行う。
 ヴァージニア会社は1606年入植者を募り、ジェイムズダウン(ジェイムズ1世にちなむ)の建設を行った。指導者のジョン・スミスは入植者に軍事訓練を行い、食糧不足を補うため、武力でインディアンに食糧供出を強制した。スミスは金銀などの財宝を探すのに見切りをつけ、農作物生産の植民地としてこの地を発展させた。この方針はジョン・ラルフがたばこの商品化に成功したことで実を結んだ。また植民地では国教会を公定教会とした。

 1620年にはピューリタンのピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号で渡り、プリマス植民地を建設した。ピューリタンでも英国国教会から分離しない一派(非分離派)は、指導者ジョン・ウィンスロップの下'30年マサチューセッツ湾植民地を建設した。'32年にはボルティモア卿がチェサピーク湾岸メアリランドを建設、カトリックなど信仰の自由を認めた。コネティカットはピューリタン牧師トマス・フッカーが'36年建設した。非分離派を批判してマサチューセッツを追放された牧師ロジャー・ウィリアムズは、ユダヤ教徒まで含めた信仰の自由を確保したロード・アイランドを'44年建設した。このように宗教的共和国を目指した植民地が各地で建設された。
 '63年建設されたカロライナでは、北部アルマバール領でヴァージニアから入植した人々がたばこを生産し、南部(サウスカロライナ)では西インド諸島バルバドスから入植した人々が砂糖生産を開始した。両カロライナでも、入植者確保のため信仰の自由を認めた。

 ネーデルラントは1626年ニューアムステルダムを建設し、新大陸貿易の拠点としていたが、'64年ネーデルラントを締め出すため、イングランドはこの地を征服してニューヨークと改称した。ここにはすでに民族と宗教が異なる多くの人々が住んでいたため、領主のヨーク公はネーデルラント時代の土地所有権を認めると共に、宗教的寛容を保証した。
 ペンシルヴァニアはクエーカー教徒のウィリアム・ベンが自らの理想を実現するため1681年に建設し、他の宗教的迫害に苦しむ人々を受け入れた。クエーカー教徒はニューイングランドやニューヨークでも迫害され、信仰の自由を確保することが、何にもまして切実な問題だったのだ。またネーデルラント人、スウェーデン人、フィンランド人、アイルランド人、ドイツ人など大勢の移民が押し寄せた。

*アメリカの各植民地の建設は次の通り。ヴァージニア(1606)、プリマス('20、'91マサチューセッツに併合)、マサチューセッツ('30)、メアリランド('32)、コネティカット('36)、ロードアイランド('44)、カロライナ('63、1729南北に分離)、ニューヨーク('64、ニューアムステルダムを征服・改名)、ニュージャージー('76東西に分裂、1702再統一)、ニューハンプシャー('79)、ペンシルヴァニア('81)、デラウェア(1704ペンシルヴァニアから分離)、ジョージア(1732)

 インディアンとの衝突は各地で起こった。ヴァージニアにはポウアタン率いる部族連合が存在していて、当初入植者はこの連合のインディアンに入植を助けられたものだが、ジョン・スミスが食糧供出を武力で強制して以来、両者は互いに戦うようになった。たばこの栽培を指導したラルフが、ポウアタンの娘ポカホンタスと結婚して平和がもたらされ、彼女はイングランドに渡ってアン王妃にも謁見したが、その翌年亡くなってしまった。その後を追うようにポウアタンも死去、ポウアタン連合を継いだポカホンタスの弟オペチャンカナウは、インディアンの土地が侵略され、キリスト教に改宗される危険を恐れて、1622年連合を率いヴァージニア植民地を攻撃した。植民地は人口の四分の一を失ったが、反撃体勢を固め'44年のオペチャンカナウの攻撃を退けた。
 また、ワムパノアグ族の長メタカムがプリマス植民地で処刑された部下の報復のため、他2部族を糾合して'75年ニューイングランド全域の植民地を攻撃した。52のタウンが襲撃され、うち12のタウンが壊滅したこの戦いは、メタカムの英語名にちなんでフィリップ王戦争と呼ばれる。植民地連合軍は防戦を強いられながらも、ミニットマンと呼ばれる対インディアン奇襲部隊を活用して、翌年メタカムを殺害し、インディアンを平定することができた。
 しかしこれらの戦いを通じて、植民地人はインディアンを敵視するようになり、以後も残虐な戦闘を繰り返すようになった。

 植民地では民主主義が当初から導入された。ヴァージニア会社は国王ジェイムズ1世から、植民地人及びその子孫は英本国の国民と同じ自由や権利を享受できる、という特許状を授けられていた。これにより英本国より早いペースで民主主義が発達した。1619年ヴァージニアには最初の議会が招集された。
 また、ヴァージニアでは1675年頃までに、たばこが大きなプランテーションで生産されるようになり、プランター層が形成された。彼らはイングランド・ジェントリ層の植民地移植版で、ヴァージニア支配層を形成し、プランターの屋敷を中心にプランテーション自体が一つの社会を形成した。
 プランテーションの労働力はイングランドやフランスなどヨーロッパ諸国から下層の民衆が年季奉公人として送り込まれたが、'70年以降は年季奉公人に加えて、次第に黒人奴隷が導入されていった。
 イングランド植民地で黒人奴隷を最初に導入したのはサウスカロライナだった。ロードアイランドのニューポートは奴隷貿易が盛んで、商人がラム酒をアフリカに運んで奴隷を買い、西インド諸島で奴隷を売り、そこで糖蜜を買ってラム酒を製造するという三角貿易を行っていたが、イングランド植民地にも奴隷を供給するようになったのだ。
 この他、カロライナで米作、インディゴの栽培が行われ、18cにはペンシルヴァニアやニュージャージーで鉄、ボストンやフィラデルフィアで造船業が発達した。
 18c中盤になると、植民地の人々は不動産会社を設立し、大規模な西部開拓にも意欲的に取り組み始めた。その最初はヴァージニアのプランターが1747年に創設したオハイオ会社で、その後サスケハナ、ミシシッピなどの各会社が設立された。これらの会社はフランス人やインディアンと土地の所有権をめぐって対立を生じさせていった。

独立戦争

 本国のイングランド(1707年スコットランドを併合してグレートブリテン連合王国、以下ブリテンと記述)は七年戦争(1756-63年)に勝利、七年戦争と連動したインドでのプラッシーの戦い('57年)ではインドの覇権を確立、同じくアメリカ植民地でのフレンチ・インディアン戦争('63年)でフランス勢力を一掃した。これによりブリテンはヨーロッパ最強の国家となった。しかし戦費負担による財政難から、アメリカ植民地での「有効なる怠慢」政策を改め植民地への介入を強化、'65年印紙税法を制定した。
 これに対して植民地側は「代表なければ課税なし」として、植民地の代表がいないブリテン議会には、植民地に対する課税権がないと主張、印紙税法の撤廃を求めて本国政府への請願を採択した。
 同時にブリテン製品の輸入禁止を行う植民地も現れ、民衆が抗議運動に参加したため、翌年本国政府は印紙税法を撤廃するに至る。しかし、その後も植民地の茶、ガラス、紙などの輸入に関税を課すなどの諸法を定めたため、植民地はこれらに抗議し、本国政府は茶への課税だけを残して、'70年諸法を撤廃した。

 マサチューセッツのサムエル・アダムスは、'73年ブリテン東インド会社のダートマス号が茶を満載してボストンに寄港したとき、植民地総督政府に茶の荷揚げを阻止する処置を求めたが、総督は強硬姿勢を崩さなかった。このため植民地人に決起を促し、インディアンの格好をした若者や水夫、商人が行進し、三隻の船に押し入って茶箱を海に放り投げた。これが世に言う「茶会事件」で、抗議運動の転換点となった。
 本国政府はマサチューセッツに対し、ボストン港閉鎖、参事会を総督任命(それまでは植民地人の選挙)とするなど、一連の懲罰処置を取った。
 これに対して'74年フィラデルフィアで第1回大陸会議が、ジョージアを除く12植民地の代表を集めて開催された。会議はマサチューセッツに対する本国政府の政策を批判し、本国との貿易停止(通商断絶大陸同盟)を敢行する方針を決定した。

 緊張が高まるなか、英米の武力衝突が'75年4月マサチューセッツのレキシントンとコンコードで、イングランド軍とマサチューセッツ民兵部隊によって引き起こされた。マサチューセッツはすぐさま本国との戦争を遂行すべく民兵を動員した。同5月フィラデルフィアで第2回大陸会議(ジョージアも参加)が開催され、大陸軍の創設を決定、最高司令官にヴァージニアの大プランター、ジョージ・ワシントンを任命した。
 また、大陸会議ではトマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムス(サムエル・アダムスの従弟)ら5名が独立宣言起草委員会を設置、ジョン・ロックの「社会契約論」に依拠しながら、'76年7月「13のアメリカ連合諸州による全会一致の宣言」(独立宣言)を採択した。
 トマス・ペインも同年「コモン・センス」(常識)で、「自由が旧世界のどこでも弾圧されている。人類の避難所を間に合うよう準備しようではないか」とアメリカの独立を訴えており、このパンフレットはベストセラーになっていた。

 アメリカ独立戦争の勃発に際し、フランスはブリテンへの対抗処置としていち早くアメリカ支援を決定、貴族のラファイエットが義勇軍を率いて参戦し、ポーランド軍人コシチューシュコも参加した。
 '77年ニューヨーク・サラトガの戦いではブリテン軍を降伏させ、フランスはアメリカの独立を承認した。またスペインがアメリカ側で参戦、'80年にはネーデルラントもアメリカ支援にまわった。'81年ヴァージニアのヨークタウンの戦いでイングランド軍が降伏、独立戦争が終結した。
 '82年米英間は和平交渉に入り、11月平和条約仮調印、アメリカは独立、ミシシッピ川以東の領土を獲得した。またスペインはフロリダを領有した。条約は'83年9月にパリで正式調印された。

合衆国憲法の制定

 '87年5月ヴァージニアのマディソンが根回しし、フィラデルフィアで連邦規約の改正を目的とした会議が開催された。この会議にはワシントン、フランクリン、ウィルソンらが出席、合衆国憲法の起草へと動き出した。
 連合会議は'77年末の連合規約で、連合会議が外交、軍事、州際の権限を持つ代わり、各州の主権を認めたが、この規約が13州全体の批准を受け発効したのは'81年3月のことだった。
 一方、州憲法としては、'76年ヴァージニアが権利章典を採択し、州憲法を制定したのを皮切りに、ペンシルヴァニア、ニューヨーク、マサチューセッツなどで制定されていた。
 フィラデルフィア会議での合衆国憲法草案は'87年9月起草、各州で驚きをもって迎えられ、翌年6月9州の批准により発効、最終的に11州が批准する急展開の運びとなった。
 合衆国憲法は、立法、行政、司法の三権分立を定め、連邦議会は2院制、議員定数は上院について各州平等、下院について人口に応じて配分する。また、上院は条約の批准、政府高官の任免権を有する。連邦政府は中央政府と位置づけられ、州間の国際機関から脱却した。政府の首班は大統領とし、大統領の拒否権を持たせる一方、上下両院による大統領の弾劾裁判権を定めた。ただし、権利章典を含んではいなかった。( 権利章典は'91年憲法修正10カ条として成立)
 第1回連邦議会は'89年3月に開催され、ワシントンが初代大統領に選出された。ワシントンの意向で、大統領の呼称はたんに「ミスター・ブレジデント」と呼ぶことが決まった。

 この年の7月ヨーロッパではフランス革命が勃発、フランスは革命の輸出を志向し、ヨーロッパ諸国がこれに反発、英首相ピットは対仏大同盟を提唱し合衆国も対応を迫られることになった。この間ブリテンは大西洋を航行する船舶の通商を制限、合衆国の船舶も臨検の対象となった。
 合衆国政府は対英関係を重視するワシントン、財務長官ハミルトン、副大統領ジョン・アダムスら政権主流(フェデラリスト党)と、ジェファーソン、マディソンら強硬なブリテンに反対するリパブリカン党が対立した。ハミルトンはブリテンの戦時処置を事実上容認したジェイ条約を'94年締結、その後'97年にはジョン・アダムスが大統領となり、アダムスは'98年治安立法を制定してリパブリカン党の言論を封じ込めた。
 しかし、対仏関係が緩んだ1800年、リパブリカン党は大統領選挙でジェファーソンが当選、以後リパブリカン政権が続いて強圧的政治はなくなり、党派的議論が許容される政治風土となった。

 1805年英ピットはナポレオンに対し、第3回対仏大同盟を結成、大西洋上のアメリカ商船に対しても再び厳しい制限を課した。ときのジェファーソン政権は、もともと強硬なブリテンに反対する立場だったため、これに抗議する出航禁止法を定め、対ヨーロッパ貿易断絶を行った。'09年政権を引き継いだマディソンは、'12年対英宣戦布告要請を連邦議会に提出、議会はこれを決定した。しかし、第2次英米戦争と呼ばれたこの戦いは、合衆国が戦争を遂行する能力があったわけではないため、戦闘は新大陸のみで行われ、合衆国艦隊はブリテンの海上封鎖によって釘付けとなり、ブリテンもナポレオンと戦っていて余力がなかった。ナポレオンの没落が決定的となった'14年イングランド軍はチェサピーク湾からワシントンに進軍、連邦議事堂とホワイトハウスを焼き払った。しかし、その年の12月には講和が成立、開戦前の現状を維持するものとなった。
 '12年戦争のさなか、合衆国の西進に抵抗して、エリー湖畔などでテカムセ率いるインディアン軍との戦闘が行われ、'13年10月テカムセは破れ、合衆国軍が勝利した。

産業革命の進行

 '12年戦争を契機として、ニューイングランドを中心に木綿工業、ペンシルヴァニアなど大西洋岸中部を中心に鉄工業、農機具製造、縫製・製靴・家具などの製造業が勃興した。まだ手工業ではあったが、いろいろな分野で小工場が姿を現してきて、大量の移民がその労働力となった。
 '07年にフルトンの蒸気船がハドソン川を航行し、'11年にはミシシッピ川を運航するようになった。ミシシッピ川を運航する蒸気船では、ショーボート専用に作られた豪華なものも出現し、一世を風靡したが、鉄道の発達とともに衰退していった。
 また'11年以降カンバーランド国道など基幹道路の建設が連邦政府によって着手され、ニューヨーク州では公共事業としてエリー運河(ハドソン川からエリー湖まで)の建設が'17年から'25年にかけて行われた。この運河の完成により、ニューヨークからハドソン川を上り、運河を経由してエリー湖に通ずる北部地域の中心動脈となった。この後、20〜30年代にかけて、道路、運河の建設がブームとなった。

 後述する合衆国の膨張と関連して、新たな交通手段、鉄道が次々と建設されていった。'30年最初の蒸気機関車「一寸法師(トムサム)号」がボルティモア−オハイオ鉄道を走ったのを皮切りに、'40年代から鉄道の建設がブームとなり、40年代半ばニューヨークとフィラデルフィアが結ばれた。'53年にはニューヨーク〜シカゴ間、60年代後半ペンシルヴァニア鉄道のフィラデルフィア〜シカゴ間が完成した。
 鉄道建設の拡大は、レールを初期主力製品とした製鉄・鉄鋼業を発展させ、またこれを基盤として、マコーミック社の刈り取り機('34年サイラス・マコーミックが発明)、シンガー社のミシン('46年イライアス・ハウ発明)、などに代表される金属加工・機械工業が発達した。'44年サミュエル・モースによる電信の成功は、巨大な空間にあるアメリカの土地同士、人間を結びつけた。

合衆国の膨張

 ジェファーソン政権の1803年、フランスはナポレオンの時代となっていたが、多分にナポレオンの気まぐれにより、仏領ルイジアナを1500万ドルで購入することになった。このときまで、合衆国は独立時の13州からアパラチア山脈以西にできたケンタッキー、テネシーと、ニューイングランドに新たにできたヴァーモントを加えた16州となっていた。一方、現アメリカの他の地域はスペイン領(開発されているわけではないが)で、ルイジアナは1800年フランスがスペインから譲り受けていた。ルイジアナといっても、この時点ではニューオリンズから英領カナダ国境に至るアメリカの約三分の一の地域をいい、従来の16州の領土と同じくらいの広さに匹敵する。これを合衆国は首尾よく手に入れたわけだ。

 1812年戦争後、人々は大挙してアパラチア山脈を越え、19c中頃までにミシシッピ川までの地域が白人によって埋め尽くされていった。この動きを西漸運動と呼ぶ。この運動主体は一個人ないしその家族が移住を決意したものだが、中にはモルモン教徒らが家族的ユートビアを求めたもの、ロバート・オーエンら思想的ユートビアを求めたものも含まれていた。
 この間オハイオ('03)、インディアナ('12)、イリノイ('18)などの州が作られ、この地域からさらにミシガン('37)、アイオワ('46)、ウィスコンシン('48)、ミネソタ('58)などが州に昇格した。

 モンロー政権の'18年ブリテンとの間に北緯49度線をもってブリテン領カナダと合衆国との国境とする協定を結び、'19年スペインからフロリダの譲渡を受けた。
 '23年モンローは、米欧相互不干渉を謳った教書を議会に提出(モンロー宣言、1823)、その後の合衆国外交の基本方針となった。

 テキサスは'21年メキシコ政府が合衆国人の入植を認めたことで移住が始まり、'29年にはメキシコが移民を禁止したにも拘わらずその増加は止めようがなかった。この後アダムズ、ジャクソン両政権はメキシコ政府にテキサス買収を申し出たが、'35年メキシコ政府が拒否したのを機に、合衆国住民が武装蜂起し、'36年には一方的に独立を宣言した。その後'45年合衆国に併合された。
 なお'30年、ときのジャクソン政権は先住民移転法を制定し、ジョージアを中心に居住したチェロキー族などのインディアン部族を、ミシシッピ川の西オクラホマに確保した特別地域に強制移住させた。このときチェロキー族はわずかな衣服と食糧しか支給されず、冬の寒気の中で強行された移住のため、途中4千人もの人々が死亡した(「涙の道」と言う)。

 オハイオ、インディアナ、イリノイなど中西部への定住がほぼ完了すると、40年代にオレゴンが新天地として脚光を浴び始めた(当時太平洋岸はカリフォルニア地方がメキシコ領、その北部が領土未確定のオレゴン地方だった)。ロッキー山脈を越え、'50年までに8万人もの人々が、幌馬車隊を組んで移住した。
 このとき合衆国は圧倒的な膨張気運に包まれており、ニューヨークのジャーナリスト、ジョン・オサリヴァンは'45年、デモクラシーが大陸全土に拡大することをアメリカの「明白な宿命」と表現したが、この言葉が合衆国の領土拡張政策に利用された。
 ブリテンとの間で領土が未確定だったオレゴンは、ポーク政権の'46年ブリテンとのオレゴン領土条約によって、カナダ国境と同じ北緯49度線をもって決着した。同時に大西洋岸も同線をもって国境となり、獲得したのが今日のワシントン州となった。

 ポーク政権下、合衆国の領土的欲求から、'46年アメリカ=メキシコ戦争が勃発。合衆国軍はリオグランデ川を越え、メキシコ領内深くカリフォルニアに侵攻、さらに首都メキシコシティを占領した。'48年締結されたグアダルーペ・イダルゴ条約により、リオグランデ川を国境として承認させ、太平洋岸カリフォルニアに至る地域までをわずかな金額で買収することを認めさせた。これにより合衆国の膨張主義は完成を見た。

 その直前となるが'48年、カリフォルニア・サンフランシスコ東部のサクラメントで金鉱が発見され、人々は一攫千金をねらってサクラメントに押し寄せた。'48年末から'49年にかけてエルドラドに人々が押し寄せた様を「ゴールドラッシュ」という。カリフォルニアの人口は一挙に10万人に膨れ上がった。

   なお、日本に対するペリーの開国要求は、対メキシコ戦争の余波のなかで行われた('53年)。また、'67年にはロシアからアラスカを購入した。