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28.ヴェルサイユ体制

 第1次大戦後'19年1月、パリで戦勝国による講和会議が開催された。会議は大戦中の'18年1月にアメリカ・ウィルソン大統領が提唱した14ヶ条を基礎とするもので、秘密外交の廃止、海洋の自由、軍備縮小、植民地問題の解決(ただし宗主国の既得権は考慮を払う)、ベルギー・東ヨーロッパの諸民族の自立、国際平和機関の設立などを謳っていた。実質的には米ウィルソン、英ロイド・ジョージ、仏クレマンソーが会議を行い、フランスの安全確保を主張するクレマンソーが米英と激しく対立した。
 この結果6月ヴェルサイユ条約で、ドイツは領土の一部を周辺諸国に割譲、海外領土の放棄、巨額の賠償金を課せられた。またロシアと同盟諸国の単独講和条約(ブレスト・リトフスク条約、'18年3月)は破棄され、旧帝政ロシア領からポーランド、フィンランド、バルト三国の独立を決定した。
 オーストリアに対しての講和条約(サン・ジェルマン条約、'19年9月)では、オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、オーストリアは小共和国に零落、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアなど民族国家の独立が承認された。
 東ヨーロッパの民族自決を認めたのとは逆に、トルコに対するセーブル条約('20年8月、3年後新しいトルコ政府とのローザンヌ条約となる)では、従来のトルコ支配地域の民族自決を回避するため国際連盟委任統治が施行され、シリア、レバノンはフランスの、イラク、ヨルダン、パレスチナはブリテンの委任統治下に入った。

 東ヨーロッパ諸国に民族自決を認めたのは、英仏がソヴィエト社会主義革命の防疫線としての役割を、ロシアとの間の国々に期待したためだ。このため以後この地域は「東欧」として認識されることになる。
 ところで、戦争中両陣営は自陣営強化のため、各地の民族運動を利用した。例えば、ドイツがロシア革命を持続させるためレーニンをロシアに送り届けたり、ポーランド国家の再興を宣言したり、あるいは英の揺さぶりを狙ってイスラーム世界の民族運動を支援したりした。戦勝国側でも、'16年5月サイクス=ピコ協定で英仏間の中近東での勢力圏を定め、戦後の中東を線引きしてクルド人問題など少数民族問題の原因を作った。また、ブリテンが'15年アラブ人に独立を約束したフサイン=マクマホン協定と'17年11月ユダヤ人国家建設を支持したバルフォア書簡は、正反対の内容でアラブ人とユダヤ人双方にパレスティナ国家を約束したため、現在まで尾を引くパレスティナ問題の原点となった。

 講和はフランスの反対で、ウィルソンの理想とはかけ離れた結果となったが、ジュネーブに本部を置く国際連盟が結成された('20年)。しかし国際連盟を提案した肝心のアメリカでは、世論が条約を支持したにも拘わらず、条約批准の権限を持つ上院によって、アメリカが国際的な義務を負うことや主権を制限されるという理由で批准が否決されてしまった。この結果国際連盟は、原提案国が加盟しないという奇妙な結果となった。しかも、ドイツとソヴィエトは除外されていた。

ドイツ

 敗戦国となったドイツは、'18年11月キール軍港での水兵の反乱を経て、軍事体制打倒、皇帝退位要求へと向かった。この運動は陸軍を巻き込み北ドイツ、西ドイツ各都市に拡大し、労働者大衆、党・労働組合が参加して、各地で労働者・兵士協議会が成立した。これを一般にドイツ革命といい、既存の支配層からの抵抗はほとんどない無血革命だった。政府マックス宰相は皇帝の退位を発表し、ヴィルヘルム2世はネーデルラントに亡命、社会民主党のエーベルトに後をゆだねて辞職した。エーベルトの人民委員政府は休戦協定の締結とその規定履行を遂行した。
 '19年1月、初の男子普通選挙による国民議会選挙が実施され、エーベルトが大統領に就任した。しかし、各地で労働者のストライキ、左翼急進派の蜂起が続き、政府は旧軍将校を中心とする義勇軍を使ってこれを抑え込んだ。義勇軍はスパルタクス団(ドイツ共産党)の脅威を宣伝、革命を憎悪しながら、一方で政府をも軽蔑してその統制を無視し、スパルタクス団指導者ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトを惨殺するなどの逸脱行動を繰り返した。

 '19年6月政府は連合国とのヴェルサイユ講和条約に調印、ドイツは領土の一部を周辺諸国に割譲、海外領土の放棄、巨額の賠償金(2年後のロンドン会議で最終的に1320億マルクという膨大なものとなった)を支払うことを求められた。一方、同年8月には世界で最も民主的な憲法と言われたワイマール憲法が公布されたものの、市民がヴェルサイユ条約に憤激し、新生共和国に敵意を示すようになったため、この憲法は誕生直後から捨て子同然になってしまった。
 こうしてドイツは'20年代はじめの数年間、支払い能力を超えた膨大な賠償金と、実物賠償として船舶・鉄道車両・機械・石炭など多くの物資を諸国に引き渡さなければならず、さらにフランスが賠償不履行を責めてルール出兵('23年1月)を行ったため、ドイツは生産停止で対抗、物資の欠乏は破局的なインフレをもたらすことになった。究極的に物価は時間単位で高騰して天文学的なものとなり、人々は買い物をするために、紙幣を手押し車に載せて運ばなければならないほどだった。

 インフレはシュトレーゼマンの挙国一致内閣('23年8月成立)が、ゼネスト中止、新貨幣レンテンマルクを発行することによって克服した。レンテンマルクは、発券銀行として「レンテンバンク」を設け、農業用地や工業資産から一定の利子を受け取り、それを元本にして銀行券を発行する仕組みだった。それまでの通貨の一兆倍の価値を持つ新通貨の発行により、インフレは急速に収まった。この「レンテンマルクの奇跡」によって、ドイツ経済はようやく復興への道を歩み始めた。また、'24年始めアメリカが私人として派遣したドーズを議長として、英仏を中心とする賠償委員会が設置され、賠償問題の解決策が模索された。これによって作られたドーズ案(同年8月)で賠償金支払方法や期限が緩和され、ドーズ公債が起債されてアメリカなどの民間資本が投入された。この結果ドイツ経済は好転したが、それでもドイツにとって賠償金の負担は大きく、'29年には第二の賠償緩和政策としてヤング案が成立した。しかし、同時に発生した世界恐慌により、ドイツ経済は再び強烈な不況を迎えることになった。

大恐慌(1929-33)

 アメリカは国際連盟に加盟はしなかったものの、外交面では世界をリードした。ハーディング大統領(共和党、'21-23年)は'21-22年アジア・太平洋地域の戦後秩序を形成するため「ワシントン会議」を開催、各国が軍艦の建造競争をしないよう、保有比率を米:英:日:仏:伊=5:5:3:1.67:1.67と定めた(ワシントン海軍軍縮条約)。また、日本の中国における影響力の増大を懸念し、中国への門戸開放政策、中国の主権尊重・領土保全を確認する九カ国条約(五カ国プラス中国・ベルギー・ネーデルラント・ポルトガル)が結ばれた。これをワシントン体制と言う。
 国内では、アメリカは大戦に参加した期間が短く、国土が戦場になることもなかったことと、参戦前・参戦後とも軍需物資を連合国に輸出して、軍需景気をもたらした。これによって大戦後アメリカは好況を呈し、黄金の20年代を現出、自動車、ラジオ、電気が家庭に普及し、摩天楼がそびえ立った。

 しかし、のちに「暗黒の木曜日」と名付けられた1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街の株式取引所で株価が突然暴落した。この日は売り一色になったものの、ウォール街の大手株仲買人たちが協議、買い支えを行うことで合意したため、相場は値を戻し数日間は平静を保った。 実際に株が激しく暴落したのは10月29日(「悲劇の火曜日」)で、投資家がパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。これによりアメリカの経済恐慌は全世界に及んだ。
 大恐慌の原因については定説が無い。'29年フーヴァー(共和党)が大統領に就任すると株価が高騰、人々は乗り遅れるまいと株を買いあさり、中には借金をしてまで買う者までいた。つまり最初にバブルがあり、後にこれが崩壊したのだ。一般には、1.独占資本が発達し投機熱による生産過剰になったこと、2.欧州経済が復興し過大投資が行われたこと、3.各国の高関税率政策が輸出不振につながったことなどが、原因としてあげられている。

 大恐慌に際してフーヴァー大統領は、レッセ・フェール(自由放任主義)をとり無策だった。'31年ようやくフーヴァー・モラトリアム(英仏に融資した戦債の返済を1年間猶予)を発表したが、すでに各国からアメリカ資本が続々と引き上げられ、各国の準備金が激しく流出、金融パニックの様相を呈するようになった。
 金本位制の維持が困難となったため、'31年9月ブリテンが金兌換を停止、各国もこれに追随した。金本位制に留まった国も、関税障壁を高くし、平価を切り下げるなどした。
 恐慌のピークは'32年後半から'33年春にかけてだったようで、工業生産は1/3以上低落、米国内で1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。世界貿易の取引量も70%減少したという。閉鎖された銀行は1万行に及び、'33年2月にはついに全銀行が業務を停止した。

 恐慌対策を公約して大統領となったF・ローズベルト(民主党、'33-45年)は、ニューディール(新規まき直しの意味)政策を実施し、新しい概念の資本主義を誕生させた。民間の経済活動に政府権力を介入させ、制御したのだ。具体的には全国産業復興法と農業調整法で生産調整を行い、大土木事業(テネシー川開発など)の実施、労働者の団体交渉権を認めるワグナー法を制定して購買力拡大を図った。ただ、ニューディールが恐慌に対してどれほど効果があったかは、今日でも賛否両論があり、アメリカ経済の本格的な回復は、第2次大戦による軍需景気を待つこととなる。

 大恐慌の影響でブリテン、フランス、アメリカなど植民地を持つ国は封鎖的経済圏(ブロック)を作った。すなわち、スターリングブロック(英)、フランブロック(仏)、ドルブロック(米)だ。そのため、世界経済から締め出されたドイツ、日本、イタリアなどは暴力的な政治を展開するようになり、植民地獲得を前面に押し出して軍国主義化した。

英仏

 戦勝国ブリテンは戦後不況に見舞われ、経済活動は容易には回復しなかった。英国各地でストライキが頻発、第1次大戦中に挙国一致内閣を組織したロイド・ジョージ(自由党、自由・保守連立内閣、'16-22年)は非常事態措置法をもってこれを弾圧した。このため自由党の求心力は低下、'22年アイルランドの事実上の独立、中近東の外交的失敗が加わって、'22年10月保守党が連立を解消、内閣は辞職した。
 '24年には労働党初のマクドナルド内閣が成立したが、その10ヶ月後に内閣不信任案が可決されて総選挙を実施、敗れて保守党に政権交代した。マクドナルドはその後'29-31年、第2次労働党内閣を組織、米発大恐慌勃発に際してマクドナルドが失業保険の削減を提案し、与党である労働党が反対、総辞職した。このため、マクドナルドは保守・自由と協力し、'31年挙国一致内閣を組織(-35年、第3次マクドナルド内閣、保守・自由との連立)、同年金本位制を廃止した。これにより各国は金本位制廃止に追随した。さらに、英連邦を法制化(ウェストミンスター憲章、同年末)、翌年オタワ連邦会議で排他的関税ブロックであるスターリング・ブロックを形成、保護貿易へと移行した。このことは米仏の同様ブロックと共に、持たざる国が軍国主義化する原因となった。

*アイルランドでは、'16年ダブリンで発生したイースター蜂起を経て、'19年シン=フェイン党がアイルランド独立を宣言した。第1次大戦後の'22年ロイド・ジョージ内閣は、連邦内自治領としてアイルランド自由国を認めた。このとき北アイルランド(アルスター地方)では住民の多数がプロテスタントだったため、連合王国にとどまる道を選択した。その後、アイルランド自由国は'37年国名をエールと改称して事実上独立、第2次大戦後の'49年アイルランド共和国として、連邦からも離脱し、完全独立した。一方、北アイルランドでは、カトリック系住民がIRAを組織、'31年から非合法化され、次第にテロ行為に走り出した。

 '35年ボールドウィン挙国一致内閣(保守党主体)を経て、これを引き受け'37年に成立したチェンバレン挙国一致内閣(同党)は、ドイツに対し宥和政策を行う反面、軍備大拡張を行った。

 戦争被害の大きかったフランスは、ドイツへの報復姿勢が強く、パリ講和会議でクレマンソー('17-20首相、過去'06-09にも首相となった)はドイツへの制裁、重い賠償義務を課そうとした。この結果アルザス=ロレーヌ地方を取り戻し、鉄鋼・石炭などの生産が拡大したため、多少は経済回復に有利となった。続くポワンカレ('13-20大統領、'22-24,26-29年首相)もドイツに対する強硬姿勢を継続、'23年1月ドイツの賠償不履行を理由に、ベルギーと共にルール(ドイツ最大の石炭産地)出兵を強行した。しかし、ドイツが無血抵抗・ゼネストで対抗し、占領は失敗に終わった。対独強攻策の失敗によりポワンカレは支持を失い、左派連合内閣(首相エリオ)が成立した。その内閣で外相を務めたブリアン('21-22首相)はドイツとの協調に転じ、'25年10月ロカルノ条約を締結、独仏関係の好転に努力した。しかし、左派連合内閣は国内のインフレを克服できず、'26年ポワンカレ挙国一致内閣が成立した(-29年、外相は引き続きブリアン)。ポワンカレは蔵相を兼任、インフレと財政危機の克服に努め、フランス経済は急速に回復した。また外相のブリアンは不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定、'28年)を提唱して国際平和に貢献した。

*ロカルノ条約:フランス・ベルギーの国境現状維持、ラインラント非武装の確認、国際紛争を軍事によらず仲裁裁判で解決することを決めた。これによりドイツは国際連盟に加入、ヨーロッパは束の間の安定期を迎えた。ブリアンはこの功績によりノーベル平和賞を受賞した。

 米発大恐慌に際しては、'32-36年の間に13の内閣が交代、フラン・ブロックを形成したものの、小党分立で思い切った対策をとれなかった。この間ドイツの再軍備宣言を受け、'35年仏ソ相互援助条約を締結、これを受けドイツはロカルノ条約を破棄した。
 '36年成立のブルム人民戦線内閣('35年コミンテルン主導の反ファシズム人民戦線結成を受け、フランスでも社会党と共産党の連携が実現した、-38年)は、大規模な公共事業、軍事産業への多大な支出により、不況からの脱出を図った。また、週40時間労働制、有給休暇制などの労働政策を行った。しかし、フラン平価切り下げ('36年)、スペイン内乱(同年)を巡る政策での人民戦線内部での対立から、政治は混迷、そのまま第2次大戦に突入する。

日本

 第一次大戦前の日本の世相は、平塚らいてうが'11年創刊した婦人文芸雑誌「青鞜」に「元始、女性は実に太陽であった」という言葉を掲載、時を同じくして文芸協会の演劇(帝国劇場で松井須磨子がイプセン「人形の家」のノラ役で好演)、さらに文芸誌「白樺」に集う武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎など白樺派の活動が新しい時代を予感させていた。
 そんな中、第1次護憲運動に発した大正政変('13年、政党・新聞記者・群衆の力で第3次桂太郎内閣を倒壊させた)以後、大正デモクラシーの風潮が起こる。護憲運動は議会・政党を政治の中核に置くことを目的としたが、これに理論的根拠を与えたのが、吉野作造の民本主義(政治理論)、美濃部達吉の天皇機関説(憲法学説)だ。民本主義の語は天皇主権の制約の中で政治の民主化を主張するため、吉野が考え出したもので、普通選挙・政党内閣制を目的とした。天皇機関説は国家を法人とみなし、統治権は天皇のためにあるのではなく、国家の共同目的のためにある(国家が統治権の主体)とした。

 第一次大戦が勃発('14年)すると、ときの外相加藤高明(第2次大隈重信内閣)は、日本がアジアで覇権を確立する天佑として参戦決定に持ち込んだ。'14年8月対独宣戦、ドイツ極東艦隊の根拠地山東省青島(チンタオ)、独領南洋諸島を占領した。次いで'15年5月中国袁世凱政府に対し、山東半島のドイツ権益の譲渡、満蒙権益を柱とする「21ヶ条要求」を提出、最後通牒を発して主要部分を認めさせた。以後中国ではこの日(5月9日)を国恥記念日とし、抗日運動の発端となり、また日本の行動は列強の強い警戒心を呼び起こすこととなった。

 大戦で独襖の帝政が崩壊したが、これがデモクラシーの勝利とされた。またロシア革命も日本のインテリに思想的影響を与えていった。こうして従来の政治体制の根本的変革を目指す政治団体が、終戦後('19年)から組織されていった。これらの運動の当面の課題は普通選挙の実現だった。吉野作造らの黎明会結成、大逆事件以後逼塞していた社会主義者・無政府主義者の活動、労働組合・小作人組合の組織が拡大され、被差別部落の解放運動が活発化する一方、反デモクラシーの日本変革を目指した北一輝・大川周明の老壮会も活動を開始した。また平塚らいてう・市川房枝が新婦人協会を結成、婦人参政権運動を展開した。'21年にはコミンテルン日本支部として日本共産党が秘密裡に結成された。これらが大正デモクラシーの一翼を担う。

 さらに第1次大戦は日本に大戦景気をもたらした。造船・海運が著しく発達、電力が普及し、綿織物・生糸の輸出が増大した。景気は船成金を輩出し、中でも商社として出発した鈴木商店は、大戦で船舶を大量購入して巨利を博し、旧来財閥に肩を並べる大財閥となった。その一方で景気はインフレをもたらし、労働賃金の上昇がそれに追いつかなかったため、労働者は困窮した。また米需給が逼迫、米の売り惜しみ・買い占めが行われたため、各地で米騒動が勃発した('18年)。
 米騒動の責任をとって寺内正毅内閣が総辞職すると、政友会原敬が元老山県の同意により初の本格的な政党内閣を組織、国民は原が藩閥や華族ではない初めての首相だったため「平民宰相」と呼んで期待した。折しも朝鮮で三.一運動(原敬内閣が武力弾圧)、中国で五四運動の民族運動が勃発('19年)、世論は日本の威信を示すべしと主張して止まない中で、一部黎明会や白樺派の知識人が民族解放運動に理解を示すのみだった。同時期アメリカでワシントン会議開催、しかし原敬は政友会の腐敗に憤激する青年に'21年暗殺された。直後長年元老として君臨した山県も死去、以後元老は西園寺公望ただ一人となる。

 アメリカ(ハーディング大統領)の呼びかけで開催されたワシントン会議('21-22年)で、英米仏日四カ国条約、九カ国条約、海軍軍縮条約などの諸条約が締結された。中国の主権尊重・門戸開放・機会均等が改めて確認されると共に、英米日仏伊の主力艦保有量の制限(英米5:日3:仏伊1.67)が決められた。同時に日英同盟は廃棄、日本は山東省の旧ドイツ権益を中国に返還(21ヶ条の修正)し、シベリア撤兵(ロシア革命への干渉失敗が明らかになった後も出兵を継続し、列強の不信感を強めていた)を宣言した。こうしてアメリカは日本の膨張を抑制することに成功し、列強は緩やかな協調関係を作った(ワシントン体制という)。

 大戦景気後の'20年、欧州諸国が復興したため輸出が減退し、日本は戦後恐慌に見舞われた。追い打ちをかけるように関東大震災が発生('23年)、経済界が混乱した。これに対して井上準之助蔵相(第2次山本権兵衛内閣)はモラトリアムを実施、日本銀行の融資による震災手形を発行し銀行の損失を一時的に穴埋めした。しかし、ここに戦後恐慌で生じた不良債権が多数持ち込まれ、金融恐慌の遠因となる。

*関東大震災では、流言飛語によるマスヒステリーが発生、多くの朝鮮人が虐殺されたり、社会主義者が検挙され、警察・憲兵隊によって大杉栄らが殺害されるなどの凶行が行われた。

 '24年枢密院議長清浦奎吾が貴族院を基盤として内閣を組織したことを発端に、護憲三派が結び、倒閣運動を展開した(第2次護憲運動)。結果'24年総選挙で憲政会総裁加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立、'25年には公約通り普通選挙法(25歳以上の成年男子)を制定した(第1回普通選挙の実施は'28年)。その一方で共産主義を警戒し、治安維持法を成立させた。また護憲三派内閣の成立以後、衆議院の多数党が内閣を組織する政党内閣制が慣行として続いた。即ち'24〜31年の間、元老西園寺公望の推挙を受け、衆議院の多数党党首が内閣を組織したことを、「憲政の常道」と称した。しかし、その政党内閣の政策も、貴族院・枢密院・陸海軍の動向に左右され、とりわけ陸海軍の動向が憲政の常道を崩壊に導いていく。

 一方、震災後の首都の復興は目覚ましく、'25年の大正末期から昭和初期('28年頃)にかけ、デパート・劇場・映画館などのビルが建ち並び、官庁・学校・公園などの施設も一新された。さらにラジオが登場、マスコミも新聞・雑誌が発行部数を大幅に伸ばした。円タク(1円タクシー)・円本(1円の本)、歌謡曲レコード、トーキー映画、ジャズやダンスが流行、大衆演劇が全盛期を迎えた。これらが大正デモクラシーの最後を飾る。

 しかし、震災手形の処理をすすめる中、'27年片岡直温蔵相(第1次若槻礼次郎内閣)の失言によって一部の銀行の不良な経営状態が明らかになり、取付け騒ぎが起こった。同時に台湾銀行が鈴木商店に対して巨額の不良債権をかかえていることが明らかになり、鈴木商店が倒産に追い込まれ、台湾銀行も破産の危機に直面した。こうした結果、取付け騒ぎは全国に拡大、十五銀行(華族の出資)など休業する銀行が相次いだ(金融恐慌という)。
 若槻内閣に代わり、田中義一内閣の蔵相高橋是清はモラトリアムを実施、日本銀行の特別融資により金融恐慌を沈静化させたが、金融恐慌により中小銀行の多くは経営破綻に追い込まれ、さらに'27年制定の銀行法によって整理されていった。その結果、普通銀行の数が著しく減少すると共に、預金は財閥系の三井・三菱・住友・安田・第一銀行の5大銀行に集中、財閥は金融面からの産業支配力を強めていった。また、'28年初の普通選挙に際して、共産党関係者を治安維持法で一斉検挙した。

 この間中国では、'24年第1次国共合作が成立、翌年孫文が死去、蒋介石が実権を握ったが、反面華北は各地で軍閥が割拠しており、蒋介石は'26年これら軍閥を打倒すべく北伐を開始する一方、共産党を弾圧・追放し、南京に国民政府を樹立した。田中内閣はそれ以前の幣原外相(加藤・若槻内閣で外相、浜口内閣でも外相を務めた)の方針に比べ、中国に対してより強硬な姿勢を示し、関東軍による三次にわたる山東出兵('27-8年)を行った。しかし、'28年関東軍が暴走し張作霖を爆殺('28年奉天事件)、真相発表に反対する意見が閣内で強く、関係者を軽い行政処分に付すだけとした。その処分に昭和天皇は不信感を示したため、田中内閣は'29年総辞職した。一方、中国では後を継いだ張学良が国民政府に帰順したため、中国の統一が完成した('28年)。

 西園寺は後継首相に立憲民政党(憲政会と政友本党の合同)党首浜口雄幸を推薦した。'29年アメリカ大恐慌が世界恐慌に発展する中、浜口内閣は国際金本位制への復帰を目指し、井上準之助蔵相によって'30年金解禁を断行、このため日本経済は二重の打撃を受けることになった。輸出が激減、企業の倒産、労働者の解雇・賃金引き下げが相次ぎ、昭和恐慌となった。そうした中アメリカ向け生糸輸出が激減し養蚕農家が大打撃を受けると共に、'30年豊作による米価暴落、続く'31年東北・北海道冷害による大凶作によって、農業恐慌が発生した。都市からの失業者の帰農が合わさって、農村は困窮し、子女の身売り・欠食児童が増加した。また労働争議・小作争議が激増した。

 一方、浜口は外相に幣原喜重郎をすえ、中国の関税自主権を承認するなど、国際協調外交をすすめ、満蒙の権益を確保する努力を行った。張学良は、満鉄に代表される権益を中国へ取り戻そうとする動きを見せたため、中国と日本・ソ連との間に紛争が頻発、日本国内では「満蒙は日本の生命線」との立場から、幣原外交を軟弱と攻撃する動きが強まった。
 さらに補助艦を制限するロンドン海軍軍縮条約('30年、全権若槻礼次郎・海相財部彪)で英米:日=10:6.975を締結、対米7割を確保できなかったため、海軍軍令部が反発、統帥権の干犯だとして浜口内閣を攻撃した。政友会・枢密院の一部は軍部に同調、浜口内閣は強引に条約批准を実現させたが、11月浜口首相は右翼に狙撃されて重傷を負い、翌31年死去した。

 跡を継いだ第2次若槻礼次郎内閣(幣原喜重郎外相)だったが、中国で張学良らの権益回収をはかる民族運動が高まるなか、日本の満蒙権益は維持が困難となり、やがて関東軍が柳条湖事件を起こし、満州事変が勃発した。国民はその行動を熱狂的に支持し、内閣や元老西園寺・昭和天皇も英米との衝突に発展しないとわかると、これを追認していった。'36年には北京郊外の廬溝橋で日中両軍の軍事衝突が起き(廬溝橋事件)、日中戦争の泥沼へとのめり込むことになる。

*内閣の変遷:[桂園体制、'01]桂太郎(藩閥)→西園寺(立憲政友会)→第2桂→第2西園寺→第3桂→[大正政変以後政党内閣、'13]山本権兵衛(政友会援助)→第2大隈(立憲同志会援助)→寺内正毅(超然内閣)→原敬(政友会・本格的政党内閣)→高橋是清(政友会)→加藤友三郎(中間)→第2山本(中間)→清浦奎吾(貴族院・中間)→加藤高明(護憲三派連立)→第2加藤高(憲政会)→若槻礼次郎(憲政会)→田中義一(政友会)→浜口雄幸(立憲民政党)→第2若槻(立憲民政党)→犬養毅(政友会)→[非政党内閣、'32]斉藤実