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22.ブリテン・ヴィクトリア時代

 ヴィクトリア女王(在位1837〜1901年)は64年の長きにわたってブリテンの王座に君臨した。ヴィクトリア時代は、ブリテンが工業化によって経済最先進国となり、世界各地に広大な植民地を持つ帝国となった黄金時代と重なり、この国の栄華を思い起こさせる時代となっている。
 1851年第1回万国博覧会がロンドンで開かれた。万博の象徴は、全館ガラス張りの大展示館で水晶宮(クリスタル・パレス)と呼ばれた。そこにはハイド・パークにもとからあったニレの木がそのまま中に収められ、5ヶ月半の開催期間中の観客数は延べ600万人に達し、先進工業国ブリテンの威光を世界に示して成功裡に終了した。

 また19cブリテンでは、この時期の大陸諸国に見られた革命が起こらず、相対的に平穏だった。その原因は着実な経済成長に支えられたこと。この国には19c始め以来、王が存在しても絶対王政でなく、議院内閣制が国政の中軸として確立されていたこと。工業化の進行とともに三次にわたる選挙法改正によって、中流階級、次いで熟練労働者階級へと選挙権が順次拡大され、中流階級が加わった自由・保守二大政党によって議会が運営されてきたこと、などが最大の理由だ。さらに19c末には、今日の労働党の前身たる労働代表委員会の成立も見た。

 この間、この国で18c以来農業制度の基盤をなす大土地所有制も健在だった。1860年代から70年代にかけて全国の土地調査が行われたが、土地調査はかつて1066年ウィリアム征服王が行った全国検地(ドゥームズデイ調査という)以来のもので、それゆえ第二次ドゥームズデイともいわれる。その結果驚くべきことに、イングランドとウェールズにおいて、全人口の1%に満たない貴族・ジェントリーが、国土の53〜4%を領有していた。
 上院は相変わらず地主貴族によって占められ、下院においてもジェントリーの圧倒的な優位は変わらなかった(ブルジョワ出身議員は1/4程度)。中産階級・労働者階級は、19c前半議会改革・穀物法廃止をめぐって、貴族・ジェントリーと激しい階級闘争を演じたものだが、繁栄のためにすっかり闘争性を失い、穏やかな存在になってしまった。

 特に中産階級(ブルジョワ)はロンドンの金融・証券業者を筆頭に、田舎に所領と館を購入し、執事や大勢の召使いを雇用して、カントリー・ジェントルマンの外貌をすっかり整えてしまった者もあった。彼らはジェントルマンへの上昇を願い、息子たちにオックスブリッジ(大学)やパブリック・スクール(大学進学のための予備教育機関でいずれもジェントルマンに必須の教育課程)でジェントルマンの教養を身につけさせた。召使いを雇うことがステイタスシンボルとなり、彼らは競って召使いを雇ったため、農業労働者よりも多く全労働の15%を家事使用人が占めるに至った('81年)。
 一方労働者階級も、よい身なりで歩き、機械工・大工指物師・石工・ボイラー工などの熟練工は労働貴族と呼ばれるようになって、収入も下層中産階級と変わらなくなった。かつて労働者階級の参政権を求める運動はチャーティスト運動などすべて挫折したが、今や労働者階級は基本的に階級協調の立場に立っていた。

自由貿易

 ブリテンの自由貿易は'46年穀物法廃止、'49年航海法廃止によって確立した。穀物法廃止以来、この時代の政権を担当したのは自由党だ。
 '60年英仏通商条約(コブデン=シュヴァリエ条約)が結ばれ、両国の関税障壁は大幅に切り下げられた。以後これを基点に他の諸国との間にも、自由貿易の原則に立つ通商条約が相次いで結ばれ、60年代のヨーロッパには自由貿易体制が広がった。

 ブリテンは自国の植民地だけでなく、アジアや中南米諸国も通商の相手としたが、ブリテンはこれら発展途上国に対し、必要とあらば武力に訴えて自由貿易を強要する砲艦外交を辞さなかった。歴史家は自由主義時代におけるブリテンのこの政策を「自由貿易帝国主義」と呼ぶ。そのもっとも辛辣な例が2回のアヘン戦争だ。
 当時ブリテンは中国から大量の茶を買い付けていたが、貿易は常に入超で銀の流出に悩まされていた。そこで利用されたのが、東インド会社がベンガルで独占的に生産していたアヘンだ。ブリテンは清朝政府の禁令にも拘わらず、私商人の密貿易という形で、アヘンを中国に売り込んだ。'40年に清朝政府がアヘンの没収とその焼却を命ずると、ブリテンは自由貿易の名のもとに中国に宣戦し、圧倒的な武力で中国を屈服させた。当時中国は日本と同様鎖国状態で、外国貿易を広州一港に限定していたが、アヘン戦争の結果南京条約('42年)で香港の割譲、広州・上海・寧波(ニンポー)・廈門(アモイ)・福州の五港を開港させられた。
 第二次アヘン戦争たるアロー戦争('56-60年)は、香港船籍のアロー号におけるブリテン国旗侮辱事件という些細な出来事を口実に引き起こされ、'60年北京条約で、九龍の割譲、天津以下11港の開港に同意させられた。以後中国は列強による半植民地化の道を歩むことになった。

 ロシアの南下政策によって'53年11月ロシアとオスマン帝国の間で始まったクリミア戦争に対しては、ロシアの進出を阻止するため'54年2月フランス(ナポレオン3世)と共にオスマン側で参戦、'55年ロシアを破った。これによりオスマン帝国での英仏の利権が拡大した。
 インドでは東インド会社が自らの軍隊を用いてシンド、アウド、ビルマ低地を次々と併合した。ところが'57年東インド会社のインド人傭兵が中心となって反乱が起こった(セポイの反乱)。このときムガル帝国が再興されたが、ブリテン軍の反撃によって鎮圧され、これを機会に東インド会社は廃止されてインドはブリテンの直轄領となった('58年以降インド省の管轄、現地の統治機関はインド政庁)。
 この間、植民地オーストラリアでは囚人植民地から自由な移民の植民地への転換が進み、50年代自治が拡大された。ニュージーランドでも移民が本格化した。カナダも'67年に自治領となった。

 内政面では、保守党の下院指導者ディズレーリ(保守党ダービー内閣)により、'67年第二次選挙法改正が成立、戸主選挙権(地方税の納入が要件)が認められ、ブリテンの有権者は約2倍になった。このときの自由党指導者ロバート・ロウの言葉「今や我々は、我々の主人である大衆を教育しなければならなくなった」がよく知られている。
 70年代始め自由党の第1次グラッドストン内閣('68-74年組閣)も、自由貿易、自由放任の安価な政府を標榜した。この政権下アイルランド国教会の廃止('69年)、初等教育法('70年)、大学審査法・労働組合法('71年)が成立、公務員試験制度改革がほぼ完成した。
 労働者階級は'68年には労働組合会議(TUC)を結成し、活発な議会攻勢を展開しており、労働組合法はその結果として成立した。これよって労働組合の法的地位が認められた。また初等教育法の成立は、大衆の義務教育への道を開いた。

 一方ブリテンの農業は、この時期合衆国からの安価な穀物が大量に流入したことにより、農業大不況に陥った。しかし、自由貿易が国策となり、政府は何もせずに成り行きのままに放置されたため、穀物生産の農業はすっかり衰退し、農業人口全体が激減した。

帝国主義時代(ディズレーリとグラッドストン)

 1870年代から世紀末に至る時代は「帝国主義の時代」といわれる。この時期、世界情勢は大幅に変わった。イタリア王国成立('61年)、普襖戦争で敗れたオーストリアがハンガリーと二重帝国を形成('66年)、普仏戦争の結果ドイツ帝国が成立('71年)、アメリカ合衆国の経済大国としての台頭、日本が明治維新を行い工業化への道を歩み始めた。こうして70年代に諸列強がほぼ出そろい、以後20c初頭にかけて熾烈な植民地争奪戦を繰り広げる帝国主義の時代となった。

 '74年総選挙で保守党は、ドイツ帝国の出現とロシアの膨張主義に対抗して、ブリテンの国際的指導力を維持することの重要性を強調し、穀物法廃止('46年)以来の低迷を脱して政権に復帰した。ディズレーリ内閣('68年、'74-80年組閣、ユダヤ人の家系に生まれ小説家でもある)は、特に本国とインドを結ぶ通称エンパイア・ルートの防衛と強化策を展開した。それは'75年スエズ運河買収により実現した。オスマン帝国エジプト副王はスエズ運河株44%を保有していたが、この運河建設や鉄道建設で財政難に陥っており、全株式の売却を欲した。そのニュースに接したディズレーリは、時間的余裕がなかったためとはいえ、議会に諮ることなく、必要な資金を同じユダヤ系の金融資本家ロスチャイルドから借り入れて、電撃的に買収した。
 またディズレーリはヴィクトリア女王に愛され、彼女にせがまれて'76年国王尊称法を成立させ、インド皇帝に推戴した('77年)。

 '76年オスマン帝国に対するブルガリアの反乱が起こり、ロシアがキリスト教徒保護を口実にオスマン帝国に宣戦(露土戦争)、オスマン軍を破ってサン・ステファノ条約を締結した。この条約はブルガリア公国を設立するなどロシアのバルカン半島への影響力を著しく増大させる内容だったので、英襖が激しく反発、ディズレーリは陸軍予備役を召集、インド軍を地中海に派遣してロシアに圧力をかけた。ここでドイツ帝国宰相ビスマルクが国際会議の開催を提唱、ロシアが応じ、'78年ベルリンで列国会議が開催された。ディズレーリは自ら会議に臨み、サン・ステファノ条約の形骸化、オスマン帝国に対しては領土保全の責任を負う代償としてキプロス島のブリテンへの割譲を承認させた。こうしてエンパイア・ルートは保全・強化された。
 バルカン半島で南下を阻止されたロシアが、一転してアフガニスタンへの南下を策すると、ディズレーリはこれをインドへの脅威と受け止め、アフガニスタンへ軍を進めた(第2次アフガン戦争、'78〜80年)が、この戦争はインド財政の大きな負担となった。

 自由党グラッドストンはこの機をとらえ、ときに議会をさえ無視するディズレーリの帝国主義に対し、大遊説を展開、このときの演説が新聞で全国に報道され、国民に大きな影響を与えた。これは議会政治の大衆化に対応した新しい選挙運動となり、80年総選挙は自由党の圧勝に終わり、第2次グラッドストン内閣('80〜85年)が成立した。
 グラッドストン政権はただちにディズレーリの帝国主義政策の精算にとりかかり、アフガニスタンと'81年和解して軍を撤退させた。しかし帝国主義へと始動した潮流は変えようがなかった。エジプトではスエズ運河株を売却しても財政は好転せず、'79年以降英仏など西欧諸国の共同管理下に置かれていたが、この状況に対して'81年アラービー・パシャ率いる反乱が発生、翌年反乱軍はアレクサンドリアの外国人居留区に乱入して50人余りの西欧人を殺害した。グラッドストンは西欧諸国に共同干渉を呼びかけたが応ずる国はなく、やむなく単独でアレクサンドリアに軍を上陸させ、エジプトを占領した。

 さらにエジプトに南接するスーダン(過去60年間エジプト支配下にあった)でも、'81年エジプト支配からの解放を求めるマフディー(救世主)教徒の反乱が勃発し、エジプト軍守備隊が窮地に立たされた。グラッドストンはエジプトから守備隊を撤退させる目的で、中国太平天国の乱('51〜54)で常勝軍を指揮し功績をあげたゴードン将軍を派遣したが、ゴードンはグラッドストンの訓令に反し撤退作戦ではなく反乱軍の撃滅作戦に取りかかった。その結果反乱軍に包囲され窮地に陥ってしまった。ブリテンではヴィクトリア女王始めゴードン救出を求める世論が起こったが、グラッドストンは始め訓令違反に怒り増援軍の派遣を認めなかった。世論に押され救援軍を派遣したとき、首都のカルトゥームはすでに反乱軍の手中にあり、ゴードンは殺されていた。このため、グラッドストンはゴードンの虐殺者として、評判が地に墜ちてしまった。

 内政面ではグラッドストン政権'84-5年の第3次選挙法改正により、第2次選挙法改正で都市選挙区の熟練労働者に与えられた戸主選挙権が州選挙区に拡張され、農業労働者・炭鉱労働者にも戸主選挙権が与えられた。また選挙区が原則として人口比に基づくこととなり、現在の1選挙区1議員の小選挙区制が始まった。有権者数は500万へと拡大、ただし戸主選挙権であって普通選挙権でなく、女性はまだ疎外されている。選挙をめぐり'72年に秘密投票法が制定されていたが、'83年「腐敗と不正行為防止法」が成立し、従来の金権選挙(買収・饗応)は罰則の対象となり、以後次第にクリーンな選挙が行われるようになった。

 労働運動は80年代から活発化した。従来の労働貴族たる熟練労働者のみならず、社会主義者の支援の下に不熟練労働者が活発な運動を展開するようになり、'88年ロンドンのマッチ工場の女性労働者と、'89年ロンドンのガス労働者が、賃上げ・労働条件の改善を求めて争議をおこし、いずれもその要求貫徹に成功した。この闘いを契機に、90年代にかけて不熟練労働者の組織化が始まり(一般組合として)、労働組合員の総数は70万から一挙に150万へと倍増した。またスコットランドの炭鉱労働者ケア・ハーディは、'92年総選挙で初当選し、ただちに全国的規模での労働者政党の設立準備にとりかかり、翌年独立労働党を結成した。彼は社会主義への志向を明示すると共に、労働組合と積極的に提携する方針を打ち出し、1900年この独立労働党、フェビアン協会、社会民主連盟の三社会主義団体と労働組合代表によって労働代表委員会が結成され、この組織が1906年以降成立し、今日の二大政党のひとつ労働党の母体となる。

アイルランド問題

 アイルランドは1800年合同以後も、相変わらずプロテスタント地主とカトリックでケルト人の借地・小作農から成る農業社会だった。また半植民地だったこともあって産業革命の恩恵を受けることもなかった。しかも'45年のジャガイモ大飢饉の後、地主たちは経営の合理化を行い、地代の引き上げに応じない借地農・小作農を追放した。さらにアイルランド国教会はカトリック農民に1/10税を強要し続けた。このような情勢の下で、アイルランドではアメリカ移民として人口が流出していった。

 第1次グラッドストン内閣の時アイルランド国教会を廃止し('69年)、借地農の保護を目的とする土地法('70年)を成立させたが、事態は改善しなかった。70年代アイルランドは農業大不況の影響をまともに受け、地主と借地農の対立は「土地戦争」と称されるまでに激化した。
 これを背景としてパーネルを指導者とするアイルランド国民党が結成され('73年)、借地農を糾合して'80年総選挙では一躍下院内の第三党にのし上がった。この政党は猛烈な議事妨害戦術で知られ、あらゆる議題にアイルランド問題を持ち込んだ。

 第3次グラッドストン内閣('86年組閣)はアイルランドにカナダなみの自治を認めるアイルランド自治法案を下院に上程したが('86年)、議会は与党も含め、帝国の統合を揺るがしかねないこの法案に真っ向から反対し、法案は否決された。グラッドストンは総選挙に訴えたが、ホイッグ及びチェンバレンの新急進主義派が自由統一党を結成して自由党から離れ、総選挙は保守党の大勝に終わった。
 その後'92年に第4次内閣を組織したグラッドストン('92-4年組閣)は、アイルランド問題に執念を燃やし、再度アイルランド自治法案を上程したが、下院は通過したものの上院の圧倒的多数で否決された。
 こうしてグラッドストンの熱意も空しく、アイルランド自治は成立しなかった。以後アイルランド問題は、宗教対立・民族対立が加わって、アイルランド自治を目指したテロの原因が形作られていった。

南ア戦争(ボーア戦争)

 チェンバレンは実業家として産を成し、'76年バーミンガム市長になりスラム街の除去、ガス・水道の公営化事業を推進して名を馳せた。'86年自由党を脱退し、ホイッグ貴族と結んで自由統一党を結成。'92年以降の社会主義政党の出現に危機感を抱き、大衆の反体制化を防止して国民を統合し同時に福祉を実現していく方策を、積極的な植民地拡大の帝国主義に求めるようになった。この方策は今日社会帝国主義といわれる。'95年保守党が大勝すると、保守党と合体して統一党を結成、第3次ソールズベリー内閣('95〜1902年)が成立、自ら植民地相として入閣した。その結果南ア戦争が引き起こされる。

 南アフリカ・ケープ植民地は17c後半ネーデルラント東インド会社が開き、この地に移住したネーデルラント人はボーア人(農民の意)と呼ばれた。ナポレオン戦争でネーデルラントがフランスの支配下に入ると、ブリテンはこの地を占領、ウィーン会議によって正式にブリテン領となった。1833年奴隷制度を廃止したブリテンは、その政策をこの地にも適用し、これを嫌った一部のボーア人は北東部に移動し、トランスヴァール共和国('52年)、オレンジ自由国('54年)を建国した。
 60年代末オレンジ自由国でダイヤモンド鉱脈が発見され、ここではセシル・ローズが70〜80年代にかけてダイヤモンド鉱山の経営で大成功を収め、'90年には経済力を背景にケープ植民地の首相に収まった。また'89年ブリテン政府から特許を得て南アフリカ会社を興し、トランスヴァール北方一帯の土地をローデシア(ローズの土地)と名付けて、この地域の開発権を手中にした。'86年にはトランスヴァール共和国で金鉱脈が発見された。トランスヴァール共和国には一攫千金を夢見るヨーロッパ移民が殺到し、ヨハネスブルクが出来上がった。

 一方トランスヴァールで'83年以来大統領だったクリューガーは、移民に重税を課して国を富ませたが、彼らに代表権を与えなかったので、移民の間に不満が高まっていた。ブリテン植民地相に就任したチェンバレンとローズは、露骨にトランスヴァールへの圧力を強めていった。ローズはクリューガー打倒を企て「ジェームソン侵入事件」を引き起こした。この事件は、ヨハネスブルクの移民不満分子を蜂起させ、これに呼応して南アフリカ会社の騎馬警官隊を不法侵入させるというクーデタ計画だったが、指揮官のジェームソンが移民不満分子の蜂起を待たずに警官隊を侵入させてしまったため、計画は失敗に終わった。この責任を問われてローズは失脚した。
 しかしチェンバレンは、トランスヴァール共和国に対し内政干渉の度合いを高め、ついに'99年堪忍袋の緒が切れたトランスヴァール共和国はオレンジ自由国と同盟し、ブリテンに宣戦南ア戦争が始まった。いざ開戦するとボーア人の抵抗は以外と強く、ブリテンは苦戦を強いられた。そのため正規軍の他オーストラリアやニュージーランドの援軍など45万もの大軍を投じ、ボーア人の執拗なゲリラ戦を克服して1902年ようやく勝利を得ることが出来た。1910年ボーア人の二つの国は南ア連邦に統合された。

ブリテン時代の終焉

 1870年代に帝国主義時代が始まったとき、ブリテンは国際経済の覇者として絶頂期にあり、世界情勢は自由主義の名の下、パクス・ブリタニカ(ブリテンによる平和)のなかにあった。しかし、30年後の世紀転換期には、工業化を成し遂げたアメリカ合衆国とヨーロッパ諸列強・新興日本は、世界市場において激しく競い合い、植民地獲得競争に狂奔し、相互に同盟関係を築くようになった。'82年ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を締結、これに対抗してフランスとロシアが'94年露仏同盟を結んだ。ブリテンは「光栄ある孤立」を維持し続けたが、世紀転換期にはブリテンの国際的地位の低下はもはやおおいがたく、1900年中国で義和団事件が起こると、ロシアの中国進出を牽制するため、1902年日英同盟を締結するに至った。ヴィクトリア女王は、転換期さなかの1901年その生涯を閉じた。まさにブリテン時代の終末を象徴するできごとだった。