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26.第一次世界大戦

大戦前のヨーロッパ世界

 19c末から諸列強は経済発展のもと、自由主義体制を継続させていたが、ドイツではビスマルク時代にフランスの孤立化を狙い、1873年三帝同盟、'82年三国同盟、三帝同盟が崩壊した後'87年独露再保障条約、露土戦争('77-8)では仲介役を買ってフランス以外の国と良好な関係を築いた。しかし、'88年ヴィルヘルム1世が死去すると、後を継いだヴィルヘルム2世はビスマルクの複雑な外交術が理解できず、ビスマルクと度々衝突して'90年ビスマルクを解任した。
 ヴィルヘルム2世はその後3B政策(ベルリン、ビザンチウム、バクダードを鉄道で結ぶ)を推進してブリテンと対立するようになり、独露再保障条約の更新を拒否してロシアとも対立、ビスマルクが最も恐れていたドイツ包囲網を作らせてしまった。この結果三国協商を形成させ、三国同盟対三国協商の対立関係を生んだ。
 また、ヴィルヘルム2世はフランスのモロッコ進出に反対し、フランスと対立したが、英仏同盟でブリテンがフランスを支持したため、フランスのモロッコ支配が確定した。ロシアは日露戦争の敗戦で、極東支配をあきらめ、バルカン半島への進出を重視したが、すでに3B政策で進出していたドイツとの対立が深まった。
 一方でドイツは、国内的には工業大国へのし上がり、多くのノーベル賞受賞者を出して電機・化学の新工業部門で世界のトップに立った。かつて大量の移民を合衆国へ送り出したが、今や東欧地域から季節労働者を招く労働力輸入国へと変貌していた。

 フランスでは第三共和制オポルチュニスト政権下で植民地拡張政策が実施され、ドイツとの摩擦を避けながら、アルジェリア、タヒチ、ニューカレドニアなど従来からの植民地に加えて、フランス領西アフリカ、赤道アフリカ、インドシナ連邦、ラオス、シリアなど次々に支配下に収めていった。この結果第1次大戦前には、ブリテンに次ぐ一大植民地帝国にのしあがった。
 経済面でも、鉄道網・運河網の拡充、港湾の近代化などを強力に推し進めて、国家主導の国民経済建設に取り組んだ。やがて植民地政策が、資本・商品輸出市場と原料供給地の確保という経済的目的にも合致していく。この結果19c後半年6%の高い成長率を記録し「ベル・エポック(良き時代)」と呼ばれた。'89年にはパリ万博が挙行され、メイン会場のシャン・ド・マルスに出現したエッフェル塔が、フランスの科学技術水準と近代性を誇示した。
 一方ドイツ・ヴィルヘルム2世がロシアと距離をおく政策をとったため、フランスの孤立が解消されると共に、'91年露仏同盟が成立した。さらに1904年には英仏協商が成立した。

 ブリテンではヴィクトリア時代が国際経済の覇者として、世界情勢はパクス・ブリタニカ(ブリテンによる平和)の中にあった。しかし世紀転換期には、工業化を成し遂げたアメリカ合衆国・ヨーロッパ諸列強・新興日本が、世界市場において激しく競い合い、植民地獲得競争に狂奔して相互に同盟関係を築くようになった。その結果ブリテンの国際的地位は低下、1900年中国で義和団事件が起こると、ロシアの中国進出を牽制するため、「光栄ある孤立」を捨て'02年日英同盟を締結するに至った。
 しかし、合衆国やドイツの台頭でさすがに「世界の工場」たる地位を失ったものの、ブリテンは世界の貿易・金融センターへ変身し、なお繁栄を謳歌する余裕があった。'08年には労働者の要求を入れ社会保険が整備され、大戦直前にはアイルランド自治が認められた。
 また'04年英仏協商、'07年英露協商を成立(英仏露三国協商の完成)させた。

アメリカの世界強国としての台頭

 1890年代から、ヨーロッパ列強によるアフリカ、中東、アジアに向けた世界的な帝国主義への動きが活発化する中、アメリカでは'98年、スペイン領キューバの独立運動を助けるという名目で、ときのマッキンレー(共和党)政府は、スペインに宣戦布告(米西戦争)し、キューバのみならず太平洋の彼方フィリピンにも艦隊を送り、マニラを制圧した。
 国務長官ジョン・ヘイは、パリ条約(同年)で、フィリピンをスペインから2千万ドルで譲り受けることを約し、またキューバの管理権とプエルトリコ、グアムを取得した。また同じ年ハワイも併合し、恒久的な海軍基地を建設した。
 ヘイはまた、中国に対する機会均等原則を主張した覚え書き「門戸開放通牒」を、英仏露独日に対して送付した('99年)。
 しかしマッキンレーは、1901年9月暗殺された。彼の後を継いだのは、同じく共和党でマッキンレーの副大統領だったシオドア・ローズベルトだった。彼もまた「強健な国家」を目指し、合衆国は20世紀初頭、世界強国として台頭した。

 ローズベルトは、「白色艦隊」と呼ばれる合衆国海軍の大艦隊を整備し、その政権末期にはイギリスに次いで世界第2位とされる海軍力を備えるに至った。
 艦隊増強とからみ、'03年パナマ運河建設を推進すべく、コロンビアからパナマを強引に独立させ、翌年パナマ政府との協定により、合衆国政府事業として建設を開始した('14年完成)。
 '02年にはキューバは独立したが、事実上は合衆国による保護国化だった。また、キューバ、パナマ、ドミニカといったカリブ海諸国に繰り返し、軍事的・政治的介入を行い、カリブ海全域に植民地化を伴うことのない勢力圏を拡大した。ローズベルトはその行動を、「文明的社会」を守るための合衆国の責任として正当化した。

大戦のきっかけ、バルカン半島とサライェヴォ事件

 1908年オスマン帝国で青年トルコ革命が起こったとき、その混乱に乗じ同年ブルガリアがオスマン帝国から独立し、オーストリアも管理下にあったボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。
 さらに'12年ロシアの仲介で、セルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロ4カ国がバルカン同盟を結び、オスマン帝国と対戦した(第1次バルカン戦争)。当時オスマン帝国は、イタリア=トルコ戦争、アルバニア、マケドニアでの民族運動にも悩まされており、オスマン軍32万に対し、バルカン同盟側70万の兵力のため、オスマン側の劣勢は明らかだった。ブルガリアはバルカン半島中東部のトラキア地方でオスマン主力軍と戦い、セルビアとギリシアはアルバニア・マケドニア地方に進出した。モンテネグロも隣接するアルバニアに進出した。翌年春までにはオスマン側(以下トルコと記述)の敗北がはっきりとし、ヨーロッパ列強が介入、同年5月ロンドン条約が締結され、休戦した。この結果、列強がアルバニアの独立を認めたため、セルビア、ギリシア、モンテネグロは占領したアルバニアから撤退しなければならなかった。

 次いでバルカン諸国の関心は、トルコが撤退して真空地帯となったマケドニアに向けられた。ここにブルガリア、セルビア、ギリシア三国の領土的要求が衝突し、'13年6月ブルガリアがセルビア、ギリシア両国を攻撃、第2次バルカン戦争が始まった。これに利害関係から、モンテネグロ、ルーマニア、トルコがセルビア・ギリシア側に立って参戦、ひと月も経たないうちにブルガリアの敗北が明らかとなった。同年8月ブカレスト条約が結ばれ、敗戦国ブルガリアはマケドニアの大部分をギリシアとセルビアに割譲、モンテネグロ、ルーマニア、トルコもバルカンの一部を獲得した。しかし、それぞれに領土的不満を残し、バルカン諸国は対立をいっそう強めることになった。

 第2次バルカン戦争の勝利で、セルビアは統一運動を加速させ、スロヴェニア・クロアティアを支配していたオーストリアと対立を激化させた。背景は、ロシアやバルカン同盟諸国が反オーストリア・汎スラブ主義を掲げ、スラブ人の団結・統一を目指したため、汎ゲルマン主義のオーストリアと対立したからだ。

 サライェヴォ事件はこうした中で'14年6月発生した。ボスニアの州都サライェヴォを訪問したオーストリア・ハプスブルク家の皇太子夫妻がセルビアの暗殺者集団に狙撃され、死亡した(サライェヴォ事件)。

*サライェヴォ事件:今日でもそうだがボスニアは民族の混住地で、中でもサライェヴォはその典型都市だった。民族とはいえ言語は同じで、宗教によって分かれるだけだ。ムスリム人、セルビア人、クロアチア人がいるが、それぞれイスラーム、ギリシア正教、カトリックかで分かれる。それはボスニアが1787年の露土戦争後、ハプスブルク帝国の軍事占領下に置かれた時期に、隣接するセルビア王国やハプスブルク帝国内のクロアチアから、ボスニアの正教徒やカトリック教徒に対して民族的な働きかけが活発になり、正教徒はセルビア人、カトリックはクロアチア人として意識化されたという理由による。このときムスリムも宗教を基盤として民族意識を強めた。
 一方で、ボスニアの青年たちの間には、宗教の違いを越えて南スラブの統一をめざす学生の運動が展開された。これを「青年ボスニア」といい、サライェヴォを始めとするボスニアの諸都市で文学・政治サークルとして活動が行われた。ハプスブルク帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアに駐留するハプスブルク帝国軍の演習を観閲するため、サライェヴォを訪問することが決定されると、青年ボスニアのメンバーによって大公の暗殺計画が立てられた。彼らに軍事訓練を行い、武器を提供したのは「大セルビア」をめざす秘密組織だったという。'14年6月28日メンバーのひとりプリンツィプが大公を射殺した。当時の緊迫した国際環境の中で、この事件が青年ボスニアの楽観的な見込みを遙かに越えて、第1次世界大戦を引き起こすきっかけとなった。

大戦勃発

 オーストリアはサライェヴォ事件を好機として、スラブ系民族の自立運動に歯止めをかけ、列強として多民族国家のたがを引き締めるべく、セルビアとの戦争を遂行しようという強硬論が支配した。特に陸軍参謀総長コンラート・ヘッツェンドルフがその先頭に立った。しかしセルビアにはその守護者を自認するロシアの後ろ盾があった。そのためオーストリア単独では戦争ができないので、同盟国ドイツの支持を必要とし、7月はじめヴィルヘルム2世の無条件支持という確約を得た。一方ドイツの思惑は、戦争がオーストリア・セルビア間に限定されればオーストリアの勝利は確実だろうし、ロシアやフランスが参戦しても戦争のリスクを引き受けられると考えた。
 オーストリアは事件の背後で糸を引くのはセルビア王国だと非難し、セルビアが到底受け入れられない主権抵触条項を含む最後通牒を突きつけた。セルビアがこれを拒否すると、開戦を既定方針としていたオーストリアは28日宣戦布告した。

 ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世が「ドイツにもはや党派なし、ドイツ人あるのみ」と演説、同じ時フランスのポワンカレ大統領も「この時にあたり、もはや党派はない。ただ一つの、平和を求める断固としたフランスがあるのみ」と言って、両国には早くも挙国一致の体制が作られた。

 ドイツの作戦はシュリーフェンによって、短期に迅速に決着をつける計画が立てられていた。まず主力をフランスに集中して破った後、動員が遅れるだろうロシアと戦う予定だった。
 戦争はドイツの攻勢で始まった。シュリーフェン計画に従って、8月時計仕掛けのような正確さで160万のドイツ軍が中立国ベルギーに侵入、そこからドイツ・フランス国境地帯に展開したフランス軍を背後から包囲する作戦だった。フランスは緒戦に敗北したが、9月マルヌ会戦でフランスが総反撃に移って激戦となり、砲弾消費量は予想を遙かに超え、両軍とも弾薬不足に陥った。シュリーフェン計画は破綻、モルトケはショックから立ち直れず退陣、ファルケンハインに後を譲った。

 一方東部では、ドイツの予想と裏腹に早くも8月ロシア軍がドイツ東端部に侵入、参謀総長モルトケは急遽予備役の老将軍ヒンデンブルクを起用し、タンネンブルクの戦いでロシアを撃破、ロシアを本国へ追い返した。この戦いでヒンデンブルクは一躍英雄となった。ところが、もっとも戦争を望んだはずのオーストリアは、8月のセルビアへの侵攻に失敗、セルビア全土から追われ、ロシアとの戦いではガリツィア東部を占領された。オーストリア軍は多民族構成で11もの言語を使用しなければならず、兵器・士気とも劣悪で、近代戦を戦う能力がなかったためだ。

 ブリテンは参戦を巡って賛否が分かれていたが、中立国ベルギーへのドイツ侵攻で、8月対ドイツ宣戦に踏み切った。イタリアは独仏が開戦した場合、ドイツ支援の三軍団をライン地域に派遣することになっていたが、まず政府は中立を発表した。トルコは同盟国側で11月参戦、戦域はバルカン半島から中近東へ拡大した。

 ブリテンは'14年11月対ドイツ経済封鎖を実施した。北海を交戦海域と宣言し、機雷を敷設、中立国の船には臨検できるようにドーヴァー海峡を通過するように指示し、ドイツ向け軍需物資を没収する旨通知した。アメリカは反発したが、ブリテンが没収した商品損失分を補償すると約束したため、アメリカの実害が無くなり、反発は弱められた。一方ドイツはブリテンの海上封鎖に対抗すべく、'15年2月ブリテン周辺を交戦海域に宣言、侵犯船をUボート(潜水艦)で攻撃すると警告した。3ヶ月後、ブリテン客船ルシタニア号が無警告で魚雷によって撃沈された。1260人が死亡、そのうち1割はアメリカ人だった。その後もたびたび客船が沈められ、アメリカ世論は次第に開戦に傾いていった。

総力戦

 マルヌ会戦などで飛躍的に砲弾消費量が増え、武器弾薬や軍需品の大増産が開始されると、各国とも一転して労働力不足に直面した。兵役についていた熟練労働者が工場に送り返され、各国とも女性労働者が導入された。
 さらにドイツでは経済封鎖実施後、軍需のみならず工業全般、さらに農業や国民生活全般にわたって戦時統制経済を実施していった。またオーストリアは工業水準の低さから、新兵器・新装備をドイツから購入、財政面でもドイツの銀行から借り入れを続けた。そのドイツでは「勝ったら敵から取る」という考えの下で戦費はすべて国債でまかなった。ドイツ・オーストリアの戦時統制経済の与えた影響の一つに食糧配給制の導入がある。召集によって農村の労働力は急速に不足し、馬も軍馬として供出させられたため、大戦後半には生産が半減、ジャガイモが配給制になり、パンは小麦粉以外のものの混入を義務づけられた戦時パンになった。売り惜しみ、ヤミ市、農村への買い出し、教会の鐘を含む金属回収など、第2次大戦中の日本とそっくりの光景があった。
 ドイツでは'15年末「愛国的労働奉仕法」が採決され、17〜60才の全男子に必要な労働を命じる権限が国家に与えられ、労働者の職場移動も原則禁止された。この法律によりドイツでは総力戦の段階に入った。

 ブリテンでは'15年春軍需省を新設、担当大臣にロイド・ジョージをすえた。彼は軍需省の主要ポストに民間人を起用、受注量を陸軍省を介さず、直接前線に問い合わせるなどの大胆な方法で、生産増強を推進した。またブリテンは戦時財政を高額所得者への課税を強化して、できるだけ租税でまかなう方法をとった。さらにブリテンとフランスでは海外植民地の存在が、大戦中も海外との通商を維持し、また連邦諸国からの援助、後にはアメリカからの兵員・物資をあてにできた点で、戦時経済体制は危機的な状態にはならなかった。
 ブリテンでは女性労働者を導入するにあたり、熟練労働者から成る労働組合は、女性の導入による労働の質の低下を理由に反対したが、戦時中に限るとする協定が政府の介入で労使間で結ばれ、以後労働組合も生産に協力した。またフランスと共に海外植民地からの労働者も動員できた。

 イタリアは'15年5月同盟側から協商側に鞍替えして参戦した。しかし戦争準備はほとんどなく、将校の不足や兵士の軍服不足を、英仏軍の来援と軍需物資の提供によって、何とか戦争を継続できた。

 さて西部戦線では初期機動戦の後戦線は膠着、塹壕戦となった。火炎放射器、毒ガス、タンク、航空機が使用され、戦争は果てしなき消耗戦となった。特に'16年2月ヴェルダンの戦いでは、強力な毒ガス、大規模な飛行機の参加があり、戦場はクレーターとなり、死傷者がドイツ軍34万、フランス軍36万に達した。ヴェルダン戦続行中の7月ソンムの戦いでは、ブリテンの攻勢が始まり、塹壕から前進した結果、塹壕で待ち構えたドイツ軍により1日で死傷者6万を出す最悪の結果となった。こうした無益な攻撃が4ヶ月も続き、塹壕には泥水がたまり、ネズミが死体をあさり、シラミが泥まみれの兵士を苦しめた。毒ガス攻撃が塹壕内のネズミやシラミを殺す点では、歓迎されたほどだった。

 '16-7年各国は総力戦に対応できる政治・軍事体制への変更を余儀なくされた。ブリテンは'16年12月ロイド・ジョージを首相とする挙国一致内閣が成立、フランスでも同年末ジョッフルが更迭され、ポワンカレ大統領は'17年末老政治家クレマンソーを首相に起用した。イタリアでは、カポレットで捕虜30万人を出すなど失態を重ねた参謀総長カドルノが更迭された。一方ドイツでは、帝国議会とベートマン宰相の対立を軍部と保守派に利用され、宰相は罷免、皇帝はヒンデンブルクらの辞任恫喝に屈して人事権を失い、影が薄くなった。こうして文民側の敗北と軍部独裁が確立した。

 アメリカは戦争が始まってから3年近く過ぎた'17年4月に大戦に参加した。当時すでに世界最大の経済大国として、国民総生産、鉄鋼生産でブリテンやドイツの2〜3倍になっていた。アメリカは交戦国のいずれとも同盟関係になく、戦争に参加する根拠はなかった。しかも当時アメリカは、大戦直前の'14年4月メキシコに軍事介入しており(メキシコはその3年前から最初の革命の渦中にあって、いくつかの勢力が権力を争い混乱していた)、他に'12年8月からニカラグア、'15年7月ハイチ、'16年ドミニカに軍隊を派遣していた。
 '17年2月、ドイツは無制限潜水艦戦を宣言した。すでにアメリカ・ウィルソン大統領は'15年7月陸海両省に戦争準備計画の作成を命じ、'16年6月国家防衛法を成立させて、正規軍・国防軍(予備軍)を増強していた。こうした中ドイツの無制限潜水艦戦の宣言を受け、'17年3月アメリカ議会は参戦決議を決定した。

 アメリカの参戦で、連合国側が俄然有利となり、アメリカ軍は11月以降ドイツ軍との戦闘に入り、翌'18年5月シャトー・ティエリ、7月第2回マルヌ会戦、9月サン・ミエル、9〜11月セダンで戦い、ドイツ軍を撃退した。この間ブルガリア、トルコ、オーストリアが降伏、ドイツでもキール軍港の反乱を経て、共和国臨時政府が樹立され、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、11月臨時政府と同盟国の間で休戦条約が調印され、大戦は終了した。

 アメリカの参戦の影響は、黒人と女性が労働力として新たに工場に現れたことだ。それ以前は、黒人の大部分は南部で農業に従事していた。これが軍需景気の高まりとともに北部に移動し、軍需工場は白人が主体だったが、黒人は一般労働者として様々な分野に進出し、その数70万に近かったという。女性もまた工場などに進出し、その労働割合は戦前の10%から20%へと増加した。しかし戦後は復員兵に職を与えるべきだとする風潮が強まり、その多くは家庭に戻っていった。
 またアメリカでは戦費は主として国債で賄われた。戦費300億ドルと見込まれ、うち国債225億ドル、加えて連合国への貸付96億ドルが加わった。連合国への貸付はその後ほとんど返済されることはなく、アメリカの戦費となった。

 大戦中、日本はドイツの中国・山東半島における海軍力に打撃を与えることを名目に、'14年8月以降青島(チンタオ)を攻撃、11月には制圧し、ドイツ東洋艦隊を駆逐して、ドイツ領南洋諸島の赤道以北部分を占領した。そして、'15年1月中華民国・袁世凱政権に対し、「21ヶ条の要求」を提示した。その内容は、山東のドイツ権益を日本に移譲すること、を含む中国大陸権益を大幅に拡大するものであった。5月袁世凱は最後通牒を日本から突きつけられ、これを受諾した。
 ロシアは'17年3月ロシア革命が勃発、ロマノフ朝が滅び、'18年ブレスト・リトフスク条約で対独襖の単独講和を結び、大戦から離脱した。