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29.第二次大戦(1939-45)

ファシズムの台頭

 イタリアは第一次大戦の戦勝国だったが、戦後激しいインフレに見舞われ、労働者が急進的な改革を求めた。その中で早くからムッソリーニが勢力を拡大させた。ムッソリーニは'19年ミラノで戦闘者ファッショを設立、'21年国家ファシスト党に改組し、弱体政府を批判して、地主・資本家・軍人の支持を集めた。そして'22年黒シャツ隊を率いてクーデタを起こし(ローマ進軍)、政権を樹立、史上初のファシズム政権が成立した。'26年国家ファシスト党以外の党をすべて解散させ、一党独裁が完成。'29年イタリア統一以来対立関係にあったローマ教皇と和解し、バチカン市国の独立を認め、国民の支持を得た。
 大恐慌後、国民経済の活路を対外侵略に求め、アルバニアを保護国化したのち、伊領ソマリランドとエチオピアの衝突事件を口実に、'35年宣戦布告無しにエチオピアに大軍を出兵、国際連盟初の経済制裁も機能せず、'36年エチオピアを併合した。

 ファシズムとはこうしてムッソリーニが自身の思想・政治に名付けた、極端なナショナリズムによって階級を超えた民族の結束(ファッショ)及びファシスト党に起因する。ファシズムは超国家主義とも呼ばれ、全体主義体制、一党独裁政治を指し、そのためには政治的自由を抑圧し、国民の精神力と労働力のすべてを国力増強に動員した。

 大恐慌で大打撃を被ったドイツは、'30年から共産党とナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の両勢力が勢力を持ったが、ヴェルサイユ条約破棄、植民地の再分配、ドイツ民族の優秀性とユダヤ人の排斥を訴えたヒトラー・ナチスが'32年の選挙で第1党となり、ヒンデンブルク大統領の下、ヒトラーが'33年1月首相に就任した。
 ヒトラーは組閣後、全権委任法を成立させ一党独裁を達成、また再軍備が認められないことを理由に国際連盟の脱退を宣言した。'34年ヒンデンブルクが死去すると、大統領制を廃止、大統領と首相の権限を持つ総統(フュラー)職にみずから就任した。そして、ドイツを神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に続く第三帝国と位置づけた。
 '35年住民投票の結果ザール地方がドイツに併合され、その直後ヒトラーはヴェルサイユ条約破棄、再軍備宣言を出した。これに対し英(チェンバレン)仏はナチスが反共であることに期待し、宥和政策を採って、ドイツの再軍備を認めた。'36年にはイタリアとベルリン−ローマ枢軸を結成、日独防共協定も調印した。  再軍備宣言後、ドイツは軍事偏重の経済政策を採用、'36年には完全雇用を達成、逆に労働力不足に陥った。同時に消費財産業がおざなりにされた結果、物価・賃金が急騰し、生存圏の拡大か軍備の制限かを迫られることになり、ヒトラーは生存圏の拡大を選択する。またヒトラーは、「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、国民の圧倒的な支持を得ていく。

 第1次大戦で中立を保ったスペインは、'23年クーデタで軍人独裁政権となったが、これを支持したためブルボン朝の国王アルフォンソ13世は国民の支持を失った。
 大恐慌の波及は、共和主義・社会主義勢力を増大させ、'31年選挙で共和派が勝利、国王は退位して亡命、共和制のスペイン共和国が成立した(スペイン革命)。しかし、政局は安定せず、旧勢力の支持を受けた反動勢力と、これに対抗して新政権を立てたアサーニャのスペイン人民戦線内閣('36年2月)が対立した。
 '36年7月フランコ将軍の反乱が起きると、ドイツ・ヒトラーとイタリア・ムッソリーニはこれを公然と支援し、武力介入を行った。他の欧州諸国が不干渉の態度を採る中、ソ連や国際義勇軍が共和国防衛のため戦い、第二次大戦の前哨戦の様相を呈した。'39年には反乱軍の勝利で終わる。その後40年間フランコの独裁が続く。

第二次大戦

 '37年日独伊三国防共協定が結ばれ、戦争へと始動した。生存圏拡大政策により、'38年ドイツはオーストリアを併合、さらにドイツ人が多いチェコスロバキアのズデーテン割譲を要求し、ドイツに対し宥和政策を採る英仏はこれを黙認した。
 '39年にはチェコスロバキアを解体、ボヘミアとモラビアを併合、スロバキアを保護国とした。これと並行してイタリアはアルバニアを併合した。さらにドイツはポーランドに対してダンツィヒとポーランド回廊の返還を要求、ポーランドはこれを拒否した。このとき英仏はすでに宥和政策を捨て、軍備の増強を急ぐと共に、次の侵略目標と予想されたポーランドに支援を約束した。一方ソ連は、自国の安全保障のため英仏及びドイツの双方と交渉していたが、前者との交渉は進展せず、ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、世界を震撼させた。

 これに力を得てドイツは'39年9月1日ポーランド侵攻を開始した。英仏はポーランドとの相互援助条約に基づきドイツに宣戦、第二次大戦の火蓋が切って落とされた。ポーランド側は40個師団、1100両の戦車、740機の飛行機を擁していたが、ドイツは57個師団、倍以上の戦車・飛行機を擁し、その戦法は急降下爆撃機と戦車部隊を先行させ、その後大量の機械化歩兵部隊が続くもので、驚異をもって電撃戦と呼ばれた。ポーランド軍は2週間で壊滅的打撃を受け敗退、9月17日にはソ連軍もポーランドに侵攻、ドイツとソ連によって東西に分割占領され、ここにポーランドは再度消滅した。ドイツ軍の占領地域では、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連はさらにバルト三国を併合、領土交換要求を拒否したフィンランドとも開戦した。この行動でソ連は国際連盟を除名された。英仏はドイツに宣戦布告したものの、本気でポーランドを救うは気はなく、軍を送ることもなかった。

 '40年4月ドイツは中立国のデンマーク、ノルウェーを、5月にはネーデルラント、ベルギーを制圧した後、難攻不落と言われた巨大要塞マジノ線を迂回、アルデンヌ地方の森を突破して、洪水のようにフランスになだれ込んでいった。フランスが巨費を投じたマジノ線はこうしてまるで役に立たず、ドイツ軍は破竹の進撃を続けた。大西洋沿岸に追いつめられたフランス軍を救うため、ブリテン(直前にチェンバレンからチャーチル挙国一致内閣に代わった)はダンケルクの戦いを展開、6月仏英軍34万の救出作戦を完了した。この際、ブリテン軍は3万の捕虜を出し、ダンケルク周辺に多くの兵器を廃棄した。ヒトラーは救出作戦の妨害に戦車部隊を投入しなかったが、ブリテンと戦いたくなかったのだと言われる。しかし、英チャーチルはドイツと断固戦い抜くことを表明した。
 ドイツ軍は直後パリ無血入城を果たしフランス(レノー首相)は降伏、中部ビシーに対独協力のペタン内閣が成立した(第3共和制消滅)。一方ロンドンで、ド・ゴールが自由フランスを樹立、レジスタンス運動を開始した。9月三国同盟が締結され、日本軍は仏領インドシナに進駐した。

 イタリアは戦争準備が不十分だったが、ムッソリーニはパリ陥落を見て参戦を決意、'40年6月対英仏参戦した。古のローマ帝国再興を夢見たムッソリーニはイタリア領リビアから、大軍をエジプトに向け進撃させた。10月ドイツ軍が油田の確保を狙ってルーマニアに進駐すると、遅れじとばかりアルバニア国境からギリシアとの戦線を開いた。しかし、ギリシア軍は予想外に強く、数日のうちに大打撃を受け押し戻されてしまった。また、11月タラント湾に停泊中のイタリア艦隊が、英空母から飛び立った雷撃機により攻撃され、壊滅してしまった。12月には北アフリカでの戦線も、ブリテン軍の反撃に合い、総崩れとなった。さらに、ギリシア軍はアルバニアの半分位を占領しつつあった。こうしてイタリア軍はその弱体を露呈し、ヒトラーは同盟国を助けないわけにいかなくなった。

 一方'40年7月頃より、ヒトラーは対英上陸作戦の前哨戦として、対英航空戦を開始した。ブリテン政府はドイツ軍の侵攻に備え、王室と政府をカナダへ撤退させる準備を開始すると共に、学童疎開を本格化させた。ドイツ空軍の昼夜を問わない連日の爆撃に対し、ブリテン空軍戦闘機は実用化がなされたばかりのレーダーを駆使して爆撃機を攻撃し、ドイツ空軍に大打撃を与えた。この結果、ヒトラーは英上陸作戦を無期延期にせざるを得なくなり、独空軍司令官ゲーリングも、被害の大きい昼間爆撃も中止して、事実上ブリテンが勝利を収める。
 この間、ヒトラーはスペインを対英戦に引き込もうとしたが、総統フランコは要請を拒み、英ジブラルタル要塞を陥れるためのドイツ軍の領土通行も認めなかった。
 '41年3月アメリカ・ローズヴェルト大統領は「武器貸与法」を成立させ、中立法を改正して英仏支援を決めた。

 一方、バルカン半島ユーゴスラヴィアではクーデタが起き反独政権が誕生した。ヒトラーはユーゴの政変に激怒しつつ、4月対ソ戦の準備とイタリア支援のため、大軍でユーゴスラヴィアとギリシアに侵攻した。瞬く間にギリシア軍を蹴散らし、ユーゴスラヴィアへは爆撃と機甲師団を投入して、再び親独政権を樹立させ、6月までにバルカン半島全域を支配下に置いた。
 ギリシア政府と英軍は一時クレタ島に避難したが、ドイツは落下傘部隊と空軍でこれを攻撃(ドイツは地中海に海軍がなく、イタリア海軍は壊滅状況だったため)、約10日間の激戦の末、英海軍は大損害を被り、英・ギリシア軍は半数以上が戦死・捕虜となった(クレタ島の戦い)。一方のドイツ軍も空挺部隊に多くの死者を出し、以後二度と空挺作戦を行うことはなかった。
 北アフリカにはイタリア軍支援とリビアを保持するためロンメル中将(後大将から元帥)が派遣された。ロンメルのドイツ・アフリカ軍団は、歩兵が防御し装甲師団が迂回包囲する「一翼包囲攻撃」を多用して善戦した。

 さて、6月22日ドイツは独ソ不可侵条約を廃棄、152個師団をもってバルバロッサ作戦と称する史上最大の陸上作戦たるソ連侵攻作戦を開始した。レニングラードを攻略する北方軍団、モスクワを陥れる中央軍団、資源地域ウクライナを奪い取る南方軍団の三方面からの攻撃だ。これに対するソ連軍は、兵力はほぼ同数、戦車や空軍力では圧倒的に勝っていた。しかし、スターリンが各方面から事前の警告を受けながら、ドイツの攻撃はこの時点であり得ないと決めつけ、前線に何も伝えていなかったことと、'37-8年のスターリンの粛正で軍の優秀な幹部が一掃され、赤軍を救いがたく弱体化していたため、ドイツ侵攻の前に赤軍は恐慌を呈して遁走した。独ソ戦の開始により、以後大戦は「民主主義対ファシズム」の戦争へと転換する。
 ヒトラーは最初の一撃でソ連軍は崩壊するだろうと楽観していたが、ソ連軍主力が配置されていたウクライナで苦戦、最強の中央軍団から装甲戦力の半分を引き抜き南方軍団に回した。これにより資源地域ウクライナのキエフを攻略したものの、改めてモスクワ攻略を開始したとき、秋期の長雨で路面は泥濘と化し、やがて寒気の到来に冬支度を怠っていたドイツ軍の進軍は停止した。また、レニングラード攻略のための北方軍団も、目的を達することができなかった。こうして、戦略目標を分散し、補給を困難にしたソ連侵攻作戦は頓挫した。
 この間に、ブリテンがソ連に対する援助を開始、ドイツの諸都市を空爆してドイツ軍を牽制、アメリカ・ローズヴェルトも8月末ソ連に対する援助を命じた。開戦当初茫然自失となったスターリンも指導力を回復、この戦争を「大祖国戦争」と呼んで、国民の徹底抗戦を促し、後退に際しての「焦土作戦」を命令した。また、リヒャルト・ゾルゲの情報により、日本の参戦は無いと確信、シベリア・極東方面の精鋭部隊を投入し、体制を立て直したソ連軍は冬季攻勢に移った。これにより、ドイツ軍は大戦で初めての敗北を喫したが、ヒトラーは各軍に死守命令を下し、必死の抵抗を行ったため、戦線は維持された。

 独ソ戦開始直前、日ソ中立条約を締結し背後を固めた日本は、石油資源を求めて南方に進出し、南方からの即時撤退を要求するアメリカと対立、'41年12月ハワイの真珠湾攻撃によって、アメリカ、ブリテンに宣戦布告(太平洋戦争)、大戦は新段階に入った。
 アメリカにとってパール・ハーバー奇襲は、それまでの参戦反対論を一掃し、一夜にして挙国一致の雰囲気を作り出した。孤立主義者のリーダーとして議会で論陣を張ってきたハミルトン・フィッシュも奇襲の翌日、ローズヴェルトの最後通牒も支持し、日本をやっつけろと訴えて、一夜にして変身した。国民は、これを自衛の戦争、野蛮な枢軸国から民主主義文明を防衛する「Good War(良い戦争)」として意識した。
 日米開戦は、日本の対ソ参戦を期待し、米ソ二正面作戦を避けたいドイツにとって好ましいものではなかったが、日本の緒戦での勝利に感動したヒトラーは、イタリアとともに対米宣戦を行った。ここにヨーロッパとアジア・太平洋の戦争は一体化し、文字通り世界大戦となった。

 対日開戦後の'41年12月、米英は共同宣言を発表、連合国(United Nations)を結成した。米英は共同参謀長会議を設置、共同の作戦計画を立案することを合意した。'42年1月ワシントンに26カ国代表が集合、「連合国共同宣言」に署名した。

 モスクワ攻防戦が膠着すると、ドイツ軍は戦線の膠着を打破すべく、'42年4月以降ソ連南部に主力を集中させていった。7−8月にはドイツ軍は、バクーやイランの石油の要衝となる北カフカースの占領に成功した。ここに至って東部戦線はその中心都市スターリングラードの攻防が一大焦点となった。ヒトラーはカフカースとスターリングラードの両面作戦に固執したが、ドイツ陸軍参謀総長ハルダーはドイツ軍の兵力からそれが不可能だと警告した。9月スターリングラードで激しい市街戦が展開され、一進一退を繰り返した。同時にカフカース方面は行き詰まりを見せ、ヒトラーは担当のA軍団司令官リスト元帥を更迭、リストを擁護したヨードル将軍と気まずくなった。以後ヒトラーは軍幹部との接触を避けるようになり、ハルダーも解任してしまう。一方、ソ連ではドイツののびきった兵站の弱点をつく作戦が練られ、11月南北から挟撃、包囲・殲滅する総攻撃が開始された。この結果、ドイツ軍主力の第6軍25万人が孤立、ヒトラーは現地司令官の撤退次いで降伏要請を却下したが、飢えと寒さと病気に悩まされた現地軍は翌2月降伏した。スターリングラード攻防戦で、ドイツ軍は150万近い死傷者と捕虜を出し、当初の目的を果たせず、敗退した。この結果、東部戦線の主導権はソ連側に移った。
 スターリングラードの敗北で、ヒトラーは'43年1月「総動員令」を発動、宣伝相のゲッペルスは総力戦への協力を熱狂的に訴えた。

 この間、'41年9月スターリンはチャーチルに、大陸のどこかに第二戦線を作るよう強く要請していたが、ブリテンはその生命線(スエズ運河)がある地中海域の主導権確保を優先したため、西部戦線でのドイツ戦力の強固さや、ブリテン側の準備不足を理由にこの要請を断っていた。日米開戦によってアメリカが対独参戦した後も、米英側は対独戦の主力を北アフリカに置き、いっこうに第二戦線を開設する気配を示さなかった。もっとも当時参謀本部作戦部長だったアイゼンハワーや陸軍参謀長マーシャルは北フランス上陸作戦の早期実施を求めており、'42年5−6月にかけて米英を訪問したソ連・モロトフ外相の要請に対し、ローズヴェルトは42年中の開設を約束した。しかし、英側がこれに同調せず、枢軸側が北アフリカでの軍事行動を拡大させたいたため、北アフリカ上陸作戦を先行させるよう主張、結局ローズヴェルトも妥協し、11月米英軍による北アフリカ上陸作戦が実行された。つまり、ソ連軍が東部戦線の天王山スターリングラードの激戦を戦っている最中でも、米英軍は第二戦線の開設には応じなかったため、ソ連は米英に対する不信感を強めていった。

 その北アフリカでは、ロンメルがスエズ運河をにらみ、'42年6月トブルク要塞を攻略、アレキサンドリアから100キロに迫るエル・アラメインに迫ったが、補給に苦しんだ末、10月エジプトの英モントゴメリーが反転攻勢を開始し、11月米アイゼンハワー率いる米英連合軍がモロッコとアルジェリアに上陸、ロンメルを挟撃した。ロンメルはヒトラーにしばしば援軍を要請したが、スターリングラード攻防で守勢に立たされていたヒトラーに余力が無く、結局翌'43年5月独伊軍は降伏、北アフリカ戦線は連合国の勝利となった。(ロンメルは'43年3月撤退先のチェニジアからアフリカを去った。)

 '43年7月連合軍はイタリア本土侵攻の前段階として、モントゴメリーの英第8軍・パットンの米第7軍がシシリー(シチリア)島に上陸した。このときイタリア国内では、アフリカでの敗北によって反ファシズム勢力が台頭し、7月25日王権と軍部が結託してクーデターが起こった。ムッソリーニは首相の座を追われて逮捕され、代わって首相に就任したバドリオ元帥は、密かに米英と休戦協定を結んだが、これを察知したドイツはただちに北イタリアを軍事占領、バドリオ政権は南部に移動し、ドイツに対して宣戦を布告した。一時北イタリアでムッソリーニが復権したものの、国民解放委員会が組織され、広範なレジスタンス運動を展開した。'44年6月連合軍はローマを解放、国民解放委員会を含み新たにボノーミ政権が樹立された。'45年4月ムッソリーニがパルチザンによって逮捕・処刑され、5月にはイタリアのドイツ軍が降伏、イタリアは終戦した。
 こうして、イタリアは大戦末期に連合国側に転換したため、連合軍によるイタリア占領は形式的なものとなった。イタリア占領にあたって、米英はソ連の影響を排除すべく、進駐軍を派遣した国が排他的に占領統治を実施する原則を定めた。このため、ソ連によって解放された東欧の占領は、ソ連の影響下で進行することになった。なお、イタリアではムッソリーニの独裁を助長した王権の責任が問われ、'46年6月賛成多数で王政の廃止を決定した。

 '44年6月連合軍により、史上最大の上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦が行われた。ヨーロッパ方面連合軍最高司令官アイゼンハワーのもと、モントゴメリーの総指揮で、米ブラッドレー将軍(アメリカ軍担当の2管区を指揮)、英デンプシー将軍(ブリテン軍担当の3管区を指揮)が計47個師団、上陸用舟艇4000、艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6000を超える艦艇が投入され、オマハ・ビーチなど苦戦を強いられた上陸地もあったが、最終的に300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってノルマンディーに上陸した。作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空爆と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧には、ドイツ軍の必死の抵抗により二ヶ月以上要したが、フランス各地でレジスタンスが蜂起、8月25日米第3軍によってパリは解放された。

 連合軍のノルマンディー上陸後、ドイツ内部ではクーデターによりヒトラーを除去し、ベック退役上級大将を元首にする計画が練られた。7月予備役総司令部幕僚長シュタウフェンベルク大佐がヒトラー爆殺計画を実行、総統本部でヒトラーの座るテーブルに時限爆弾をしかけたが、ヒトラーは軽傷を負っただけだった。シュタウフェンベルクは即座に逮捕・処刑され、逮捕者は7000人に達した。ロンメル元帥も陰謀荷担を疑われ、自殺を強要された。

 パリ解放後、連合軍はドイツを目指し、西から米英軍、東からソ連軍が進撃した。'45年2月米英軍はライン川に到達、ソ連軍はオーデル・ナイセ両川に到達した。
 この間の'45年2月ルーズベルト、チャーチル、スターリンは、戦後処理の討議のためヤルタ会談を行い、対独戦後処理、ソ連の対日参戦が合意された。

 一方、ヒトラーはあくまで降伏を拒否、あらゆる軍事施設などの破壊を行う焦土作戦を命じた。4月米ローズヴェルトが脳溢血で死去、連合国側に衝撃を与えたが、4月ウィーン陥落、5月ベルリン陥落、ドイツは無条件降伏した。
 日本に対しても4月米軍が沖縄上陸、日本本土侵攻準備に取りかかった。ソ連は参戦を早め、日ソ中立条約を破棄して、すぐさま満州を攻略した。アメリカは8月広島・長崎に世界初の原爆を投下、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏、ここに第二次大戦は終了した。

日本の戦争

満州事変('31年(昭和6年))

 張作霖爆殺事件以後、その子帳学良は国民政府の指揮下に入り日本に抵抗する態度を示した。これに対して関東軍は満州の軍事占領を画策、'31年9月参謀石原完爾を中心に奉天郊外で満鉄爆破事件を起こし(柳条湖事件)、これを帳学良軍のしわざであるとして、ただちに奉天における帳学良の本拠を攻撃、満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した(満州事変)。
 さらに政府の不拡大方針を無視して軍事行動を拡大、日本の権益がない北満州までも侵攻して満州全土を占領した。石原ら暴走した関東軍幹部が責任を問われることなく、逆に英雄扱いされ、出先機関はますます暴走していく。
 中国国民政府・蒋介石は、中国共産党を掃討することを優先させ、日本へは不抵抗の姿勢をとる一方、日本の行動は九か国条約・不戦条約違反だとして、国際連盟に提訴した。

 関東軍はさらに国際世論を満州事変からそらすため、参謀板垣征四郎が抗日運動の激化する上海で、'32年1月、日蓮宗僧侶を中国人に依頼して襲撃させる謀略事件を起こし、日中両軍の武力衝突に発展した(第1次上海事変)。
 次いで、当初満州を日本へ併合する計画だった関東軍は、国際世論への配慮から独立国家づくりへと変更・推進、'32年3月清朝廃帝溥儀を執政とする満州国の建国宣言を発した。そこで「五族協和・王道楽土」の理想を掲げたものの、その実態は行政の実権を日本人官吏が握り、任免権を関東軍司令官が有する、関東軍の傀儡国家だった。

 中国の提訴を受けた国際連盟は、英米仏伊独5か国構成のリットン調査団(英リットン団長)を派遣した。リットン調査団報告書は、関東軍の行動を自衛のための行動とは認めず、満州国も満州住民による自発的なものとは認めなかった。一方で日本の既得権益の擁護を確認し、満州を日本も含めた列国の国際管理下に置くことを提案した。ところが'33年2月国際連盟がその報告書にもとづき、日本軍の満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告案を臨時総会(日本全権松岡洋右ら)で、日本を除く全賛成で可決したため、日本は3月国際連盟から脱退した。

 この間国内では軍人・右翼による国家改造運動(ファシズム運動)が高まっていた。'31年桜会(陸軍軍人橋本欣五郎ら)と大川周明らによるクーデター未遂、'32年血盟団(日蓮宗僧侶井上日召を指導者とする)による井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井)暗殺、また同年、海軍青年将校と愛郷塾(橘孝三郎ら)による五・一五事件では、首相官邸で犬養毅首相が暗殺されるなど、テロ・クーデターが続発した。

 ファシズムが激化する中、元老西園寺公望は、政党では軍部を抑えこむことができないと判断、'32年5月穏健派の海軍軍人斎藤実を首相に推挙し、政党・官僚の「挙国一致」内閣を組織させた。ここに政党内閣制の慣行(憲政の常道)が終焉する。斉藤内閣は'32.9月日満議定書を結んで満州国を承認した。
 共産党も厳しい弾圧を受ける中で、'33年獄中の共産党幹部佐野学・鍋山貞親が転向したのを始め、共産主義運動から離脱する者が続出、'35年共産党の組織的活動は停止した。
 '35年には岡田内閣が軍人・右翼の攻撃に屈服し、国体明徴声明を発して天皇が統治権の主体であることを確認し天皇機関説を否認した。こうして天皇の権限を無制限なものとする憲法解釈が公認され、議会政治の根拠が葬り去られた。同時に統帥権の独立を背景にした陸海軍の政治力が拡大した。
 国民意識の面でも、天皇の神格化が進み、自由主義・個人主義をも危険な思想として排斥する傾向が強まっていった。

 軍部の政治的発言力が増大するに従い、陸軍内部の指導権争いが激化した。概ね、統制派(永田鉄山・東条英機・武藤章ら)と皇道派(真崎甚三郎・荒木貞夫ら)の対立があり、これに幕僚・青年将校たちのグループが絡んでいた。統制派の軍務局長永田鉄山は、機関説問題を皇道派の陰謀とみて真崎教育総監らを更迭、皇道派を一掃しようとしたが、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された。さらに、'36年皇道派青年将校に率いられた第1師団・近衛師団の兵1400が、首相官邸や警視庁などを襲撃し、岡田首相はかろうじて難を逃れたものの、大蔵大臣高橋是清・内大臣斉藤実・陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた(二・二六事件)。皇道派政権の樹立、北一輝「日本改造法案大綱」の具体化をめざして武装蜂起したのだ。しかし昭和天皇が即刻鎮圧の姿勢を明確にしたため、クーデターは失敗に終わり、首謀者の青年将校と彼らに思想的な影響を与えた北一輝らが銃殺に処せられ、真崎甚三郎ら皇道派の将官が陸軍から一掃された。

 二・二六事件の鎮圧後、陸軍は事件の威圧効果を利用して発言力を強め、軍部大臣現役武官制を復活させた。陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況が再びおとずれたのだ。政局が混迷するなか、元老西園寺・政党・軍部勢力の期待を担い、'37年貴族院議長近衛文麿が組閣した。
 この間、国際連盟を脱退した日本は、'36年末にワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約が失効したのを機に、無制限な海軍拡張へ向かった。'37年には日独防共協定(ソ連・コミンテルンに対する共同防衛)が成立、ここに国際的なファシズム陣営(枢軸陣営)が成立する。

支那事変(日中戦争、'37年(昭和12年))

 '37年7月北京郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた支那駐屯軍の一部隊が中国軍から銃撃をうけ、これをきっかけとして日中両軍が交戦した(盧溝橋事件)。近衛内閣は不拡大方針を閣議決定したにもかかわらず、内地3個師団派兵を発表、北支事変と称した。さらに陸軍の要求がないにもかかわらず、北支事変予算を決定した。9月上海事変(第2次)が起こり戦争が華中へ拡大すると、近衛内閣は全面戦争への突入姿勢を明確にし、同月北支事変を支那事変と改称した。これに対して中国では国民政府・共産党が第2次国共合作を結び、抗日民族統一戦線を成立させて徹底抗戦した。11月大本営設置。しかし近衛首相の大本営参加主張は軍部に容れられず、軍事に関する重要政務は大本営政府連絡会議を経ることになった。

 '37年12月南京占領、国民政府は重慶に移って抗戦を続けた。'38年1月御前会議は支那事変処理根本方針を決定、ドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針だったが、直後に近衛内閣は和平交渉の打ち切りを閣議決定、「爾後国民政府を対手とせず」と声明し(第1次近衛声明)、自ら和平の道を閉ざした。以後、蒋介石の国民政府を否定して、親日派による新しい中国政府の育成へと向かう。
 なお南京占領に際し、日本軍は投降兵や捕虜の中国軍兵士を殺害、非戦闘員を含めて多数の中国人を虐殺、国際的な非難をあびた(南京虐殺事件)。日本国民はこうした事実を知らされず、戦勝ムードに沸き返った。だがこのとき、日本の兵器弾薬・資材等は不十分極まりない状況だった。

*トラウトマン経由で伝えられた日本側条件に対し、蒋介石は北支の宗主権、領土保全権等を提示して、和平交渉のテーブルにつくことを了承していた。しかし、南京攻略に伴い、近衛首相・広田外相ら政府内は強気のムードに支配されていた。逆に多田参謀次長ら統帥部は作戦継続に自信が持てないことを暗に主張し、国民政府否認には反対したが、政府は交渉打ち切りを決定、満州国の正式承認、賠償金支払いなどの加重条件を加え、蒋介石の回答がないまま「対手とせず」の声明を発した。

 日中戦争の進行に伴い、'37年近衛内閣は物資不足の解決・戦争批判を圧殺するため、国民精神総動員運動を展開した。挙国一致を強調、尽忠報国を掲げて戦争での犠牲を正当化、堅忍持久の名のもとに生活規制がはかられ、節約や貯蓄奨励が叫ばれた。運動の末端組織として町内会・部落会・隣組の整備が進められた。これと並行して、労働組合の解散とともに産業報国会が組織されて労資一体による戦争協力が推進された。また、戦争遂行の妨げになると判断された思想・学問を弾圧した。
 さらに近衛内閣は'38年10月国家総動員法を制定、政府は議会の承認なしに人的・物的資源を統制運用する権限を獲得し、勅令を次々と発令して労働力・物資・資金・施設・メディアなどあらゆるものを戦争へと動員していった。他方、衣料・食糧など生活必需品が不足し、配給制・切符制がしかれて消費は制限され、国民生活は圧迫を受けるようになった。特にメディアは検閲を受け、論調は政府・軍部に迎合、果ては戦争を煽る態度に変化していった。

 朝鮮・台湾では朝鮮人・中国人を完全な「皇国臣民」に同化させ、日本人として戦争協力体制に組み込むため、皇民化政策が進められた。とりわけ朝鮮では,「私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス」などからなる「皇国臣民の誓詞」が制定されて学校や職場で日常的に斉唱することが義務づけられ、神社参拝や学校での朝鮮語の使用禁止・日本語の常用が強制された。

 日本軍は'38年10月までに徐州・広東・武漢・三鎮を占領し中国の工業地帯を手中に収めたが、広大な中国全体からみれば「点」と「線」を維持したに過ぎなかった。しかも、中国共産党軍(八路軍)は、日本軍が進出した背後の空白地帯にゲリラ的に展開し、地下の解放区を作っていった。こうして日中戦争は解決の糸口がつかめないまま泥沼化し、日本の国力はその負担に困窮し始めていた。
 すでに従前の戦時動員計画を上回る兵力を投入した日本軍はここで一応侵攻作戦を打切り、同年11月近衛内閣は対中政策を転換、日本の戦争目的は日満支(中)3国提携により東アジアに新秩序を建設することだと声明した(東亜新秩序声明=第2次近衛声明)。この結果中国国民党の実力者汪兆銘を重慶からハノイに脱出させ、南京政府を樹立させたものの、汪は人望・指導力の面で蒋介石に及ばず、戦争を終結に貢献することはなかった。
 日本の東亜新秩序建設構想は、中国権益を圧迫されることになる米英を刺激した。これにより従来も、蒋介石政府に支援を与えていた米英は、中国支援を本格化、東南アジア経由で支援を強化した(援蒋ルート、なおソ連も別ルートで中国を支援)。
 さらに'39年日本が抗日運動の拠点と見なした天津の英仏共同管理の租界を封鎖するに及び、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告した。これは石油・鉄などの軍需物資の大半をアメリカに頼る日本にとって致命的な打撃となることを意味した。'39年1月近衛内閣は総辞職。

 一方満州事変以降、日本の基本戦略は極東におけるソ連の脅威を排除することだったため、ソ連との局地的な軍事衝突がしばしばおこっていた。'39年5月満州国とモンゴル人民共和国との国境で、関東軍が陸軍中央の制止を無視し、国境紛争に対して大部隊を投入、後方基地を爆撃したため、ソ連はモンゴルとの相互援助条約により空軍・機械化部隊を繰り出して日本軍に壊滅的打撃を与えた(ノモンハン事件)。国民にこの事実は知らされなかったが、この事件により軍部内で強く主張されていた対ソ開戦論は後退した。

 '39年8月ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結んだ。日本は独伊と共にソ連に対抗するために防共協定を結んでいたはずなので、日本にとっては寝耳に水だ。平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職した。同年9月ドイツがポーランドに侵攻、英仏がドイツに宣戦して第2次大戦が勃発した。阿部内閣・続く米内光政内閣は、欧州戦争へは介入せず日中戦争の解決に専念するとの態度をとった。

 '40年4月ドイツがノルウェー、デンマークに侵攻、翌月にはベネルクス三国に侵攻し、6月パリが陥落した。陸軍は軍部大臣現役武官制を利用して米内内閣を総辞職に追い込み、'40年7月対米強硬派の松岡洋右を外相、東条英機を陸相とする第2次近衛内閣が発足した。ドイツの勢いを好機と見た第2次近衛内閣は、表向き大東亜共栄圏建設を目指し、援蒋ルートの遮断と石油などの資源の確保を目指して、南進を本格化させた。世界情勢に眩惑され、今や日中戦争は収拾されるどころか、泥沼の中に拡大していった。9月フランス政府(ペタン傀儡政府)了承の下、フランス領インドシナの北部地域を軍事占領(北部仏印進駐)、同じ月日独伊三国同盟が締結(松岡全権)された。日本は決定的に米英の敵側に立ち、太平洋戦争へと始動する。

 この間近衛文麿をはじめとする陸軍・革新官僚らにより、一国一党体制を主唱する新体制運動が起こっていた。すべての合法政党を自主的に解散させ、8月民政党の解散をもって政党が存在しなくなり、議会制民主主義は死を迎えた。しかし一党独裁は国体と相容れないという批判もあって、独裁政党の結成には至らず、10月近衛首相を総裁として大政翼賛会が結成されたが、近衛は「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。このため大政翼賛会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まることになった。結局、大政翼賛会は政府の決定を伝達するための機関(上意下達機関)に留まり、のちには町内会・部落会・隣組が下部組織に編制された。また、産業報国会の中央組織として大日本産業報国会が創立された。

 '41年4月南進を進める上でソ連の脅威に備えるべく日ソ中立条約(松岡、モロトフ)を締結した。6月独ソ戦勃発、三国同盟を締結している手前、対応が検討された。7月御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡外相と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二面作戦展開にあった。独ソ戦争の推移次第ではソ連に攻め込む準備をする一方、南方に対しては7月南部仏印への進駐が実行された。

太平洋戦争(大東亜戦争、'41年(昭和16年))

 この期に及んでなお、近衛首相は日米間の対立を調整すべく、駐米大使野村吉三郎にハル国務長官と交渉を訓令した。しかしアメリカの態度は当然のごとく中国、仏印からの撤退を要求するものでしかなかった。そこで近衛は対米強硬派の松岡外相を除いただけの第3次内閣を成立させたものの、すでに決定されていた南部仏印進駐は実行に移したため、アメリカは日本に対する石油輸出を全面禁止し、在米日本資産を凍結するなどの経済制裁を行った。そこで9月御前会議において、「帝国国策遂行要領」を決定、日米交渉成立の期限を10月上旬とし、10月下旬をめどにして米・英・蘭との開戦準備を整えることとした。
 一方、ハル国務長官は満州事変以前の状態への復帰を要求(ハル・ノート)、これを最後通牒とした。アメリカの真の狙いは、日本から開戦させることによって、戦争の名分を得ることだった。この間、交渉の妥結を主張する近衛首相と撤兵を拒否する東条陸相が対立し、近衛内閣は総辞職、木戸幸一内大臣の推挙により、対米最強硬派の東条英機陸相が後継首相に就任した。

 東条内閣と軍部は12月1日御前会議で開戦を決定、同月8日日本軍はハワイ真珠湾(山本五十六大将の連合艦隊、実戦は南雲忠一中将の機動部隊)とマレー半島(山下奉文中将の第25軍)を奇襲攻撃した。米英蘭に対して宣戦布告(太平洋戦争の開始)、日中戦争を含めて「大東亜戦争」と称した。ドイツ・イタリアも三国同盟にもとづいてアメリカに宣戦布告、対して'42年1月米英ソ中などが共同宣言を発して連合国(the United Nations、すなわち国際連合の前身)を結成した。
 緒戦は日本側に有利に進んだ。ブリテンの拠点香港・シンガポールを陥落させ、'42年春までにフィリピン・ビルマ(今のミャンマー)・ジャワなど東南アジア・西太平洋地域を占領した。この間日本の国民は、絶え間なく入ってくる戦局の朗報に沸き返った。

*真珠湾攻撃は宣戦布告文書の手渡しが、在米大使館の翻訳が手間取ったため、攻撃後となってしまった。これは騙し討ちとされ、"Remember Pearl Harbor!!"の合言葉の下、米国民が戦意高揚した。

*マレー半島攻略はマレー作戦と称した。マレー半島北端コタバル上陸作戦は真珠湾攻撃の2時間前に決行された。同月10日のマレー沖海戦でブリテン東洋艦隊を航空攻撃で撃破し、制海権は日本に移った。その後、驚異的な速度でマレー半島を進撃、開戦70日でブリテンの東南アジア支配の拠点シンガポールを攻略(2月)した。パーシバル将軍指揮下のブリテン軍は弾薬・食糧が尽き無条件降伏、10万人が捕虜となった。こうして日本軍の南方作戦は順調なスタートを切り、南西太平洋では、ニューブリテン島(ビスマルク諸島)のラバウルやソロモン諸島のブーゲンビル島が占領された。ブリテン軍はビルマに退却して抵抗を続けていたが、3月ラングーン陥落、同月ネーデルラント軍が降伏し、蘭領インドネシアが日本の支配下に入った。5月始め北ビルマ・マンダレーも占領、南方作戦の目的を達した。一方でシンガポール陥落後、日本軍による抗日華僑大量処刑事件が発生、禍根を残した。

*フィリピンは本間雅晴中将の第14軍が12月23日ルソン島リンガエン湾に上陸、米極東軍司令官マッカーサーは翌日、マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島のコレヒドール要塞に立てこもった。そのため、日本軍は翌1月2日にマニラを無血占領した。マッカーサーは3月12日"I shall return" の言を残してオーストラリアに脱出、4月10日米軍は8万の捕虜を出して降伏した。輸送用トラックに事欠く日本軍は、自らに数倍する捕虜を炎天下の中、6-70キロ後方に建設した捕虜収容所まで歩かせ、多くの犠牲者を出し、「バターン死の行進」と呼ばれた。

 '42年4月房総沖のアメリカ空母から発した爆撃機が東京を空襲した。驚愕した政府は夏から戦局を転換、6月山本五十六長官が主張する本土・ハワイの中間点ミッドウェー攻略に向かった(南雲忠一中将率いる機動部隊)。しかし、日本の暗号を解読していた米艦隊(フレッチャー少将の第17任務部隊とスプルーアンス少将の第16任務部隊の両機動部隊)の待ち伏せに合い、日本海軍は空母4隻を失う惨敗を喫した(ミッドウェー海戦)。この戦闘で日本海軍は熟練搭乗員の多くを失い、以後回復することがなかった。

*アメリカ太平洋艦隊司令長官は当時、キンメル大将からチェスター・ニミッツ大将に交代。真珠湾攻撃で難を逃れていた第16任務部隊も、ハルゼー中将が病気のため、スプルーアンス少将が受け持っていた。ニミッツは日本の機動部隊がミッドウェーに来襲することを暗号解読で知り、第16・17両空母任務部隊を配置した。

 また8月米軍が突如日本のオーストラリア方面最前線基地、ソロモン諸島ガタルカナル島へ侵攻した。ここにはソロモン諸島の制空権を確保するため、7月以降日本軍がラバウル以南の最前線航空基地を建設しようとしていた。米軍侵攻に対して日本海軍は最寄りのラバウルから米艦隊に奇襲攻撃を行い(三川軍一中将の第8艦隊)、これを殲滅した(第1次ソロモン海戦)。しかし、日本には敵の補給線を断つという戦略が無かったため、米補給艦はそのままにされ、米上陸隊はここに易々と航空基地を建設した。
 米軍が1万もの大兵力と知らない陸軍は、ガ島の基地設営隊の保護と敵兵力撃破を目的として、一木清直大佐率いる一木支隊約9百をガ島に上陸させた。一木支隊は無謀な白兵突撃の後、壊滅した。8月24日南雲中将の第3艦隊は、上陸部隊(川口清健少将率いる川口支隊約3千)支援のためガ島攻撃を行った(第2次ソロモン海戦)が、成功しなかった。川口支隊はこのため、数次の駆逐艦輸送によりガ島に上陸したが、兵力を分散、壊滅した。
 ガ島奪回が容易でないことを認識した日本軍は第17軍等を派遣すると同時に、ラバウルから連日攻撃機を向かわせたが、ガ島で多くの戦死者・餓死者を出し、'43年2月ついにガ島から撤退、以後戦局の主導権を完全に連合国軍に奪われる。ときあたかもドイツ軍がスターリングラードでソ連軍に敗北したのと同時期だった。

 日本は東南アジア・西太平洋の広大な地域を占領するに際し、表向きは欧米による侵略からのアジアの解放・大東亜共栄圏の建設を主唱したが、占領地では征服者として君臨し、軍政を実施して石油・錫・鉄鉱石など重要資源の確保と現地軍の自活を優先させた。軍政担当者は軍票を乱発して物資を徴発、現地住民を軍用工事に労務者として強制労働させた。さらにタイとビルマをむすぶ軍用鉄道(泰緬鉄道)の建設工事には、連合国軍の捕虜を動員、劣悪な条件のなかで工事が強行されたため、多くの労務者・捕虜が死亡した。
 戦局の悪化とともに、民心を把握する必要から占領政策を転換させ、'43年ビルマ・フィリピンを独立させ、さらにインドの独立をめざして自由インド仮政府(首班チャンドラ・ボース)を樹立させた。そして同年11月占領地域の結束を誇示すべく、これらに加えて満州国、中国汪兆銘政府、タイの代表者を東京に招いて大東亜会議を開催した。しかし、占領当初は日本に協力的だった各地の民衆も、すでに日本軍支配に幻滅し、抗日の傾向を強めていた。

 国内では戦争の拡大とともに、学生の勤労動員、女子挺身隊を編成して軍需工場などに動員するなど、国民は戦争へ総動員された。'43年には大学生などの徴兵猶予が停止され、文科学生が軍に召集された(学徒出陣)。国内労働力不足により、'43年から中国人の強制連行が始まっていたが、'44年には朝鮮人労働者の移入も始まり、日本各地の炭鉱や土木工事現場で過酷な労働を強いられた。さらに'44年「女子挺身隊勤労令」によって、朝鮮では未婚女性が公然と従軍慰安婦として徴用された。

 一方、大陸では連合国と中国との連絡網(援蒋ルート)が復活していた。その理由はビルマ上空の制空権を連合国に奪われたためだ。'44年3月陸軍は、ブリテンの最前線基地インパール(ビルマに近いインド北東部の町)を攻略すべく、ビルマ方面軍第15軍司令官牟田口中将の立案になるインパール作戦を開始した。しかし、作戦は当初から補給線の問題が指摘されていた。牟田口は補給不足打開を、ジンギスカン作戦と称する牛・山羊に物資を背負わせ、必要に応じて糧食に転用することで補ったが、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死した上、行く手を阻むジャングルやアラカン山系の急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落、たちまち破綻してしまった。佐藤中将の第31師団が一時的にインパールの北の要衝コヒマを占領したが、7月までに作戦の失敗は明白となった。前線では兵が飢餓で次々と倒れ、佐藤は独断で撤退を決意、その退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の白骨死体が横たわるむごたらしい有様を、日本兵は「白骨街道」と呼んだ。

 太平洋では、'44年6月アメリカ軍が大挙マリアナ諸島に侵攻した。日本海軍は同月19、20のマリアナ沖海戦で大敗を喫し、サイパン島の日本軍は孤立、山岳地帯にこもって抵抗したが、7月7日壊滅した。この際、守備部隊を指揮していた第43師団長斎藤義次中将、南雲中部太平洋方面艦隊司令長官らは自決、多くの民間人もバンザイクリフやスーサイドクリフから海に身を投げた。飛び込み自決した。サイパン陥落により東京が連合国軍の空襲圏内に入り、年末からB29による本土爆撃が開始された。

 マリアナ諸島を占領したアメリカの次なる目標はフィリピンだった。その奪回に固執したのはマッカーサーだ。彼は元フィリピン軍元帥だったし、何より"I shall return" の約束を守る必要があった。日本としてもフィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が途絶されることになるため、守り抜かねばならなかった。
 '44年9月ハルゼー大将の米第3艦隊機動部隊は、フィリピン各地を攻撃、米軍のフィリピン上陸を察知した日本は、これを阻止すべく10月「捷一号作戦」を発動した。日本海軍は栗田健男中将の遊撃部隊(大和・武蔵など戦艦7隻他)、小沢治三郎中将の機動部隊(空母4隻他)が総力を挙げ、対するアメリカも上陸輸送船団を護衛するハルゼー大将の第3艦隊の空母機動部隊(第38任務部隊という、空母17隻他)、キンケイド中将の第7艦隊(戦艦、護衛空母など多数)など太平洋上の全艦隊を集結、10月24・25の両日フィリピン・レイテ島沖で戦い(レイテ沖海戦)、史上最大の海戦となった。
 この海戦で日本海軍は瑞鶴・瑞鳳など空母4隻、武蔵など戦艦3隻他多数の艦艇を失って壊滅、これを最後に組織的抵抗を終えた。また、この海戦で初めて神風特攻隊の体当たり攻撃が実施された。
 海戦の圧倒的勝利でアメリカはレイテ島に足場を築き、12月ミンドロ島、'45年1月ルソン島に上陸、その後戦いの舞台は硫黄島、沖縄へと移っていった。

 一方、サイパンから発するB29爆撃機に対し、日本の硫黄島レーダー監視所は早期警報を発令し、また硫黄島から発する日本軍航空機がサイパンを攻撃することもあった。このため、アメリカは硫黄島の攻略を決定、合わせて損傷爆撃機の中間着陸基地、爆撃機を護衛する長距離戦闘機の基地としての役割を求めた。  '44年5月に小笠原地区集団司令官に赴任した栗林忠道中将は硫黄島を死守するため、島の全面的な要塞化を実現すべく、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道を建設、各所にトーチカを構築し、米軍上陸までに兵力も2万に増強された。
 '45年2月ここに米海軍護衛の下、ホーランド・スミス中将率いる海兵隊が上陸した。栗林中将は水際での防衛を行わず、米軍が内陸に侵攻した時点で一斉に攻撃した。また、日本本土からの特攻隊も米艦隊を攻撃、米軍は海陸合わせて大きな損害を出した。しかし、3月15日までに日本軍は玉砕、アメリカは日本空襲のための理想的な中間基地を手に入れた。
 この後アメリカは日本空襲活動を本格的に活発化させ、東京大空襲(3月10日)、名古屋大空襲(同12日)、大阪大空襲(同13日)を続けざまに実施した。東京空襲の後の横浜空襲からは硫黄島を基地とする長距離戦闘機P-51の護衛がついた。

 太平洋戦争も末期の'45年3月26日、米軍はついに本土侵攻の前線基地として沖縄本島へ上陸を開始した。対して日本は'44年7月、サイパン玉砕を受け、牛島満中将の下で沖縄守備軍を増強したが、レイテ戦で兵力を割かれ、米軍上陸時にはその兵力は学徒隊などを含め、12万ほどだった。また、現地の男子を陣地構築や飛行場の建設、はては戦場にまでかり出した。
 米軍は艦船からの艦砲射撃の後、易々上陸した。日本軍は持久戦のため、食糧を住民から供出させ、住民が食糧不足の原因になるため集団自決を迫ったり、壕に避難している住民を追い出して陣取ったりするなどの蛮行を行った。さらに4月サイモン・バックナー中将率いる18万のアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、日本軍は,中学校・師範学校の男子生徒を鉄血勤皇隊に組織して実戦に投入、高等女学校・女子師範学校の女子生徒をひめゆり部隊などに編成して従軍看護婦として動員した。この結果、多数の非戦闘員が犠牲になった。日本軍の絶望的な戦いは、体に爆雷をかついで米軍戦車に体当たりしたり、闇夜にまぎれて米軍陣地に切り込むなどの玉砕だった。また、菊水作戦と称する沖縄特攻、戦艦大和による海上特攻などを行い、壊滅した。
 米軍は6月18日バックナーが日本軍宛降伏勧告を行ったが、日本軍はこれを拒否、この日ひめゆり部隊が伊原の壕内で最期を遂げる。23日牛島中将が自決し、沖縄戦が終了した。この戦闘による日本側死者・行方不明者約19万(内民間人10万)という。

 この間、昭和天皇から絶対的な信頼を得ていた東条内閣も総辞職に追い込まれ、代わって陸軍軍人小磯国昭と穏健派の海軍長老米内光政が内閣を組織した(小磯国昭内閣)。沖縄戦の敗北がはっきりした段階で、昭和天皇もようやく終戦を決意し、'45年4月小磯内閣にかわって鈴木貫太郎内閣が成立。「一億玉砕」を掲げて本土決戦の態勢を整えつつ、天皇制護持に向けて終戦工作が進められた。一方、ヨーロッパでは5月ドイツが無条件降伏した。

 '45年7月連合国はベルリンで日本に対するポツダム宣言を発表した。しかし、鈴木内閣は軍部のクーデタを恐れ、「黙殺する」と発表、これがアメリカには「拒否」と伝えられた。アメリカは8月6日広島、続く9日長崎へ原子爆弾を投下、ソ連が宣戦布告して満州・朝鮮・樺太ついで千島に侵攻した。鈴木内閣は同日御前会議を開催、天皇の意見によってポツダム宣言受諾を決定した。10日これを連合国に通告、14日一部若手将校がクーデタを起こそうとしたが失敗、15日付で昭和天皇による玉音放送で「終戦の詔書」が発せられた。鈴木内閣に代わり、皇族東久邇宮稔彦が内閣を組織、軍内部の主戦論者の不満や敗戦にともなう国民の動揺を抑える意図だ。9月2日戦艦ミズーリ上で降伏文書に調印、連合国軍(実際はアメリカ軍)による日本占領が始まる。

*ポツダム宣言受諾は「国体の護持」を条件に8月10日連合国に打電した。翌11日アメリカ合衆国は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」と回答し、「降伏の時より、天皇および日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属すると回答した。国体がどうなるかの確証はないままに、14日の御前会議で宣言受諾が決定されて詔勅が発せられた。

*内閣の変遷:犬養毅→斉藤実→岡田啓介→広田弘毅→林銑十郎→近衛文麿('37)→平沼騏一郎→阿部信行→米内光政→第2近衛→第3近衛→東条英機('41.10)→小磯国昭→鈴木貫太郎→東久迩宮稔彦('45.8)→幣原喜重郎→吉田茂(自由党)