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18.アラブ帝国の成立〜ウマイヤ朝

 ムハンマドによって創始されたイスラームは、正統カリフの時代にアラブを席巻、巨大帝国を形成した。その後のウマイヤ朝までは、アラブが支配階級として君臨、アッバース朝以後のイスラーム帝国に対してアラブ帝国と呼ばれる。なお、ヨーロッパ側からは、一貫してサラセン帝国の呼称で呼ばれた。

ムハンマド

 イスラームの創始者ムハンマド(570?〜632)はアラビア半島のメッカで生まれた。メッカのある半島西側をヒジャーズ地方といい、小さなオアシス都市が点在する。アラブ人はこうしたオアシス都市で隊商貿易を営んでおり、メッカはクライシュ族という部族集団によって営まれていた。小さい頃父母を亡くしたムハンマドは叔父に育てられ、隊商貿易の商人として成長した。当時ビザンツ帝国では、北アフリカ総督の子ヘラクレイオス(位610-641)が前帝を追って皇帝位につき、その政局の混乱に乗じたササン朝のホスロー2世(位590-628)が、小アジアに侵入し全面戦争に突入ていた(610〜630)。両帝国の戦いによって東西の貿易路の安全が失われたため、アラビア半島の南を迂回し、イエメンからメッカを経由してシリアに至るルートが脚光を浴びるようになっていた。

 成長したムハンマドは、正直な人柄を見込まれてハディージャという裕福な未亡人からシリアへの隊商貿易をまかせられ、後彼女と結婚した。何不自由のなくなったムハンマドは好んで瞑想をしたが、ある日大天使ガブリエルから神の啓示を受け、自分を神の使徒と自覚したという。
 神の啓示を受けたムハンマドは614年頃から公の伝道を開始し、メッカの若者たちは、富の獲得にはしる富裕者を糾弾し、弱者への救済を説くムハンマドに、新鮮な社会正義を見い出した。やがてクライシュ族の指導者から、このままムハンマドがメッカの支配者になってしまうのではないか、との恐れを抱かれ弾圧されるようになる。

 622年7月16日ムハンマドとその信者たち70人は弾圧を逃れて、メッカから400キロほど北にあるメディナという都市に移住した。この地は以前からムハンマドを使徒と認め、彼の移住を促していた。これをイスラーム史では特に「ヒジュラ(聖遷)」と呼び、第2代カリフのウマル(後述)によってアラビア暦1月1日と定められた。
 当時メディナの町はアラブ人、ユダヤ人が住み、部族間やアラブ人とユダヤ人との対立があって、ムハンマドはここで調停者としての役割を期待された。そこでムハンマドはアラブ人、ユダヤ人と「メディナ憲章」と呼ばれる条約を結び、イスラームに改宗したメディナの住民はひとつの共同体「ウンマ」を形成し、ユダヤ教徒は、利敵行為がないかぎりウンマとの共存が許される、とした。

 624年大規模なクライシュ族の隊商がシリアからメッカに戻ってくるという情報を得たムハンマドは、莫大な商品を奪うため出撃し、救援にかけつけたメッカ軍に対して圧倒的な勝利を収めた(バドルの戦いという)。この勝利に自信を得たムハンマドは以後、「神の使徒」に加え、「預言者」とも称するようになる。クライシュ族は復讐のため、大軍をもってメディナに迫ったが、決着をつけることができず、次第にメッカとメディナの立場は逆転していった。

 さて、メディナに移住した当時のムハンマドは、ユダヤ教とキリスト教の区別を知らず、自分の聞いた神の声もモーセやイエスのメッセージとまったく同じものだと考えていた。そのためメディナのユダヤ教徒も自分のことを神の使徒と認めてくれるだろうと期待した。しかしユダヤ教徒は、旧約聖書すらろくに知らない人間を、モーセと同格の「神の使徒」と認めなかったので、ムハンマドはユダヤ教徒の一部族をメディナから追放、他の一部族は男子すべてを殺し、女子供を奴隷とした。
 ユダヤ教徒と決別したため、それまでユダヤ教徒の習慣に習い、エルサレムに向かって礼拝していたものをメッカへと改め、メッカのカーバ神殿をアブラハムによって建設されたものとみなした。ユダヤ教の「贖罪の日」に行っていた断食も、バドルの戦いを記念して、ヒジュラ暦9月に1ヶ月断食するものと定めた(ラマダーンという)。

 メディナの支配権を確立したムハンマドは、628年千数百名のムスリム(イスラーム教徒)を率いてメッカへの巡礼に出発した。メッカはいったんムスリムたちが町に入ることを拒絶したが、1年後の巡礼を盟約し、翌年ムスリムたちは無事メッカ巡礼をすませることができた。メッカの住民のなかには、この光景に感動し、イスラームに改宗するものが少なくなかったといわれる。
 翌630年メッカ征服のため、ムハンマドは1万の軍勢をもってメッカを包囲、おびただしい軍勢を目の当たりにしたクライシュ族は戦意を喪失して、ムハンマドに屈服した。カーバ神殿の鍵を受け取ったムハンマドは、中にあったすべての偶像を破壊し、神殿そのものは集会所・礼拝所として残した。その当時のカーバ神殿には男神や女神の石像がまつられ、古くから巡礼の地としてあがめられていたが、イスラームはユダヤ教やキリスト教と同じ一神教なので、偶像崇拝を行わないからだ。

 メッカの征服者、預言者としてのムハンマドの名声は、いまやアラビア半島のすみずみにまで行きわたった。各地のアラブ部族は、ある者はイスラームを受け入れ、ある者は税の納入だけを約束して、ムハンマドと盟約を結ぶようになった。
 メッカ征服を果たしたムハンマドは、すでに60歳を越え、体力の衰えを感じはじめた。ヒジュラ10年の巡礼月(632年3月)、ムハンマドは最後のメッカ巡礼を行った。これを「別離の巡礼」と呼び慣わす。4万人あまりのムスリムが同行し、このときムハンマドが行った巡礼の仕方にならって、現在までつづく巡礼の作法が定められた。 メッカ巡礼から戻ったムハンマドは、急に健康が衰え、同年6月息を引きとった。


ムハンマドの後継者(正統カリフ時代、632〜661年)

 ムハンマドが没した日、長老のウマル(のち第2代カリフ)を始めメディナのムスリム全員が、最年長の長老アブー・バクルに対する忠誠の誓い(バイア)を行い、バクルが初代カリフ(正しくは神の使徒の代理ハリーファ・ラスール・アッラーフ、カリフはハリーファのヨーロッパなまり)に就任した。バクルはこのとき60歳、ムハンマドの古くからの友人で、その温厚な人柄ゆえに人々の信頼の厚い人物だった。
 ムハンマド死後半島各地のアラブは、盟約がムハンマド個人との間に結ばれたことを理由にウンマから離脱する動きを示した。特に、ナジュド高原(半島中央部)南部のハニーファ族のムサイリマが自ら預言者を称したため、バクルは633年将軍ハーリドを討伐軍司令官に任命し、ムサイリマを討伐した。この後、各地のアラブはメディナとの盟約に復帰した。

 またバクルは北方のシリアに対しても征服軍の派遣を決定した。そこで各地のアラブに聖戦(ジハード)を呼びかけ、ビザンツの素晴らしい戦利品が神のために戦うことによって得られる、と意義づけた。こうしてイスラームは聖戦の名で新天地を求め、大征服時代が始まった。
 633年秋、将軍アムルらは3000の軍を率いてシリアに向かったが、ビザンツ側の守りはかたく、各地で苦戦を強いられた。
 一方ムサイリマを破った将軍ハーリドは、勢いをかってそのままイラク平野へと転戦、ササン朝の首都クテシフォン(バクダートの南30キロにある)に迫る勢いを示したが、バクルはハーリドにイラクからシリアに転戦するよう指示し、後任の司令官にサードを任じた。
 シリアに向かったハーリドは、635年9月には古都ダマスクスを手中におさめ、その後も快進撃をつづけて主要都市を陥落させていった。これに対してビザンツ皇帝ヘラクレイオスは、636年ヤムルーク渓谷(ヨルダン川支流、ヨルダンとゴラン高原の境)に5万の軍を集結させ、2万5千のハーリド軍がこれを迎え撃った。戦いはアラブ軍の一方的な勝利に終わった。逃げ場を失ったビザンツ兵は、次々とヤルムーク渓谷へ追い落とされ、ヘラクレイオスは撤退した。ヤムルークの戦いによってビザンツ帝国はシリアの全領域を失い、二度と取り戻すことはなかった。

*ここでシリアというのは、現在のシリア、ヨルダン、レバノン、イスラエル(パレスティナ)のすべてを合わせた領域をいう。

 一方イラクへ向かった将軍サードは、637年カーディシーヤでササン朝ペルシャの大軍を打ち破り、その年のうちに首都クテシフォンを陥れた。642年にはニハーワンド(イランのテヘラン南方)の戦いでササン朝皇帝ヤズジダルド3世の軍を破り、ササン朝を崩壊させた。ヤズジダルドは逃亡を続けたが、651年部下によって殺され、ササン朝は完全に滅亡した。

 この間、メディナではアブー・バクルが没し、生前に指名のあったウマルが第2代カリフ(在位634-644年)に選出された。彼もまたクライシュ族の長老だった。かつてはメッカのムハンマドを迫害したが、のち改悛してムスリムとなり、アラブ国家の建設に力を尽くした。新カリフは征服活動をさらに積極的に推し進めた。

 ヤムルークの戦い後、シリア各地を転戦していた将軍アムルはエジプトに転戦した。639年1万の軍をもって、5千のビザンツ兵が守備するバビロン城を包囲し、翌年陥落させた。こうしてイラン、イラク、サウジアラビア、エジプトに巨大なアラブ帝国(キリスト教世界では野蛮人(サラセン)の帝国と言った)が出現した。この大征服を可能にしたのは、アラブ・ムスリム軍がイスラームによって十分に統制された、規律ある軍隊であったこと、被征服民に「コーランか剣か」の二者択一を迫らず、人頭税(ジズヤ)を支払いさえすれば従来通りの信仰を続けることを認めた、ことがあげられる。
 ウマルは征服が一段落した時点で、戦利品の分配方法を改めた。それまではムハンマドが定めたところに従い、共同体は戦利品の5分の1と土地のすべてを取得し、戦利品の残りの5分の4が戦いに参加した戦士たちの間で分配されていた。しかし、この方法では征服が一段落した後では、分配するものが無くなってしまう。そのため、戦士には税収入(人頭税)から一定の俸給(アター)を支払うことを定めた。
 また、ウマルはイスラーム独自のヒジュラ暦(既述)を定めた。

 644年ウマルが没すると、ウスマーンが生前の指名にもとづいて第3代カリフ(在位644-656年)に就任した。彼はクライシュ族のウマイヤ家出身で、ムハンマドとほぼ同い年の長老であった。ウスマーンは「コーラン」の編纂事業を行い、現在に伝わるコーランの原型がつくられた。
 ウスマーンの時代、大征服が一段落して、俸給への切り替えがさらに進行すると、下級兵士の生活が苦しくなった。イラクのバスラやクーファに駐屯する兵士たちは、地方公庫からの現金の分配を強く求めたが、在地の総督は要求をのまなかった。656年イラクやエジプトの不平急進分子はメディナに押しかけ、カリフの館を包囲して要求の貫徹をはかり、ウスマーンの命を奪ってしまった。

 混乱のうちにアリー(ムハンマドの従弟で、娘ファーティマの夫)が第4代カリフ(在位656-661年)に就任したが反乱軍がアリーを推戴したので、彼がウスマーン殺害の黒幕ではないかと疑われた。殺害されたウスマーンのウマイヤ家を継承したシリア総督ムアーウィヤは、アリーへの忠誠を求められたがこれをはねつけたため、怒ったアリーはシリアへと軍を進め、両軍は657年ユーフラテス上流のスィッフィーンで衝突した。
 戦いは始めアリーの軍が有利だったが、ムアーウィヤ軍のアムル(エジプトを征服した将軍)が、アリー軍に武力による決着を中止するように提案、アリーは軍を引き話し合いに応ずることを決定した。しかし、話し合いに不満をもった、アリー陣営の離脱者の刺客によって暗殺されてしまった。
 アリーの死によって正統カリフ時代は終わりをつげた。


ウマイヤ朝(661〜750年)

 ウマイヤ家を継いだムアーウィヤは、アリーがまだ存命中の660年にエルサレムで自らカリフたることを宣言した。翌年アリーが暗殺されると、ムアーウィヤはダマスクスでおおかたのムスリムから忠誠の誓い(バイア)を受け、正式のカリフとして認められた。

シーア派とスンナ派の成立

 このとき前カリフ・アリーに忠誠を誓っていた人々は、ムアーウィヤを政権簒奪者、ムスリムの指導者などではなく、君主として臣民を見下した者として非難した。彼らを「アリーの党派」(シーア・アリー)といい、アリーを省略したシーア派の呼称で一般化し、今日に至る。
 アリーにはファーティマ(ムハンマドの娘)との間に生まれたハサンとフサインの2人の息子があった。長子ハサンはカリフ位を放棄するかわりに、ムアーウィヤから多額の報酬と年金を受け取り、メディナで享楽的な一生を送った。そのため、シーア派の人々は弟のフサインに望みをかけるようになった。
 ムアーウィヤが没しヤズィード(在位680〜683年)がカリフ位を継承すると、シーア派の重要拠点であるイラクのクーファがフサインに決起を促し、これに応じてフサインは680年約70名の一族郎党を率いてクーファに向かった。しかし、クーファの不穏な動きを事前に察知したヤズィードはシーア派弾圧に乗り出したため、動きを封じられたクーファの民は、フサインに呼応して決起することができなかった。
 結局フサインらはクーファ西北部のカルバラーで待ち伏せを受け、女・子供を残して全員殺されてしまった。預言者の血をひくフサインの悲惨な殉教は、シーア派ムスリムに罪悪感を植えつけ、シーア派ブワイフ朝政権(アッバース朝の分裂参照)以降、その殉教の日をアーシューラーとして哀たく祭を催すようになった。シーア派はその後いくつかの分派に分かれていく。
 対して、スンナ派は中立を守った多数派の人々をその起源とする。ウマイヤ朝の成立に際しては、ムアーウィヤのカリフ権は正統に委譲されたものであると承認する。そしてスンナ派は、預言者の正しい言行は、ムハンマドとともに暮らしてきた教友たちが語る伝承(ハディース)の中に見いだされると考え、学者たちはハディースを熱心に採集し、それらに検討を加えることに努力を傾けた。この成果は伝承学や「コーラン」の解釈学として成立している。

アルマリク時代

 683年ヤズィードが亡くなり、息子のムアーウィヤ2世がついだが、わずか数十日で急死した。このときメッカのイブン・アッズバイルという者が自らカリフを宣言し、ヒジャーズ地方並びにイラク、エジプトの民から忠誠の誓い(バイア)を受けた。彼はムハンマドの教友のひとりズバイルと初代カリフ、アブー・バクルの長女との間の子だった。
 一方ダマスクスでは、ウマイヤ家の分家マルワーン家のアブド・アルマリク(在位685〜705年)が第5代カリフとなった。アルマリクは将軍ハッジャージュを討伐司令官に任じ、692年メッカでカリフを僭称するイブン・アッズバイルを討伐した。ハッジャージュはその功により、イラク総督に抜擢された。

 総督府クーファはシーア派の拠点だったので、ハッジャージュはまずシーア派を徹底的に弾圧し、704年将軍クタイバを東方遠征司令官に任命した。クタイバはアム川をわたって、ブハラ、サマルカンドを征服した。クタイバの活躍によって、後に中央アジアがイスラーム化する端緒が開かれた。
 一方カリフ・アルマリクは将軍ムーサーを北アフリカ方面に派遣した。ムーサーはビザンツ勢力を北アフリカから駆逐し、チェニジアのカイラワーンを拠点にして、キリスト教徒の先住民ベルベル人の抵抗を排除しながら、いっきにモロッコまで勢力を拡大した。

 アルマリクの時代、各地の総督(アミール)たちは、交通路の整備と安全の確保に努めたので、「イスラームの平和」(パクス・イスラミカ)が実現した。その結果、商人たちは、アフリカ、中央アジア、インド、東南アジア、中国へと活動の範囲を広げ、イスラーム世界の拡大に貢献することになった。
 アルマリクはまた、それまでササン朝のディルハム銀貨やビザンツのディーナール金貨が流通していたのを、アラブ貨幣に切り換えた。このときのアラブ貨幣は表に「コーラン」から「言え、彼はアッラーフ、唯一なるお方である」を刻み、裏にアルマリクの名を刻んだ金貨と銀貨であった。やはり、ディーナール金貨、ディルハム銀貨の名を継承したこの貨幣は、アッバース朝などその後のアラブ貨幣の手本となった。これによって貨幣経済の進展が加速され、官僚や軍隊の俸給(アター)も現金で行われるようになった。

 アルマリクの時代の成果に、もうひとつ行政用語をアラビア語に統一したことがあげられる。それまではイラン・イラクではイラン人の官僚たちがペルシア語で業務を行い、シリアではギリシア語、エジプトではコプト語で行われていた。これをアラビア語に変更したことで、官庁の役人も必然的に、異教徒の官吏からアラブ人になっていった。
 アルマリクはまた、ユダヤ教、キリスト教の聖地であるエルサレムに、金色の巨大な「岩のドーム」を建設した。八角形の底辺建物の1辺の長さ20M、ドームの高さ35Mのこの建築物は、687〜92年にかけて建てられ、ビザンツのモザイク技術やイラン、エジプトなど各地の技術・文化を融合した傑作として知られる。ドーム内部にある灰白色のごつごつした岩は、ムハンマドがある夜、メッカからエルサレムまで天馬に乗って旅をし、そこから天に昇るときに足をかけた石であるということにされた。こういうわけで、エルサレムはメッカ、メディナに次ぐ第三の聖地に定められている。
 こうして、アルマリクは「諸王の王」と呼ばれるようになった。

 次いで6代ワリード1世(在位705〜715年)は、聖ヨハネ教会を改修し、現在に残る壮麗なウマイヤ・モスクを作り上げた。壁面を飾る庭園のモザイクは、「コーラン」に描かれた天国の楽園をイメージしたものだという。
 この頃、ムーサー指揮下にあったベルベル人将軍ターリクは、711年ジブラルタル海峡をわたりイベリア半島に進出した。イベリア半島はターリクの支配下に入り、その勢いは732年トゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルによって食い止められるまで続いた。こうして8世紀前半までに、ウマイヤ朝の版図は最大となった。

*カール・マルテル:フランク王国の宮宰、イスラーム勢力を撃退したことで勢力を得、その子ピピンはカロリング朝を創始した。

ウマイヤ朝の落日

 しかし、イスラーム社会が拡大する一方で、内政面では大きな問題が生じていた。征服地では異教徒たちは多大な税負担を強いられた。アラブ人が1/10税(ウシュル)だけを納めればよかったのに対し、異教徒農民は収穫の半分の地租(ハラージュ)と現金による人頭税(ジズヤ)の納入を義務づけられた。もともと、聖戦による征服がアラブ人のために行われ、異教徒から財を得て潤うのを目的としたのだから、当然のことだった。しかし時が経つにつれ、彼らは重税を逃れるために、土地を捨て有力なアラブ人を頼ってイスラームに改宗し、アラブ人ムスリムと同等の権利を得ようとした。これらの新改宗者をマワーリーといい、その数が増大すると、各地の徴税官からは、国庫収入の減少が報告されるようになった。

 第8代カリフに就任したウマル2世(在位717〜720年)は、マワーリー問題の改革を行おうとしたが、カリフの治世がわずか2年だったこともあって失敗に終わった。
 10代ヒシャーム(在位724〜743年)の時代、724年中央アジアでチュルギシュ可汗国(トルコ系)のスールク(蘇禄)が、唐の援助を得て、アラブ政権への反撃を開始した。また、734年ホラーサーン地方(イラン東部)のアラブ軍が、スールクと組んで反旗を翻した。反乱はまもなく鎮圧されたが、マワーリーから人頭税を免除することを要求してのことだった。彼らはイラクから派遣されたアラブ人だったが、イランに定住してホラーサーン人と呼ばれ、アラブの特権を享受することができず、根強い不満を持ち続けてきた。
 また反ウマイヤ家の機運は、イラクのシーア派からも高まっていた。そんな中、預言者の叔父の系統をひくアッバース家が、カリフ権の正統な後継者であることを主張し始めた。