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26.東南アジア前史

 東南アジアは現在の国名でミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、シンガポール、インドネシアの十カ国からなる。
 気候はモンスーン気候と呼ばれる。これは赤道付近で地球を一周するように吹いている季節風の影響で引き起こされる。季節風(赤道西風という)は西から東に流れ、インド洋で水蒸気をたっぷり吸収し、高い山脈にぶつかって激しい雨を降らせ、平地でも大地の輻射熱で空気が暖められて上昇気流が起こり積乱雲を発生させるので、激しい雨を降らせる(スコール)。赤道西風は夏には南インド洋高気圧の発達のため北に押し上げられる。そのため東南アジアの北半分ではこの時期が雨期となり、南半分は乾期となる。冬はシベリア高気圧の勢力が強くなり、赤道西風は南に押し下げられて、北半分は乾期、南半分が雨期となる。しかしインドネシアのスマトラ島、カリマンタン島、マレーシア南部一帯は、一年中赤道西風に覆われるので一年中雨期となる(アリソフの分類によるEE気候帯)。

 かつて最後の氷河期(ウルム期、約5万〜2万年前)には、マレー半島・スマトラ・ジャワ・カリマンタン島は陸続きとなっていた(スンダランドという)。多量の水が氷河に固定されたため地球全体の海面が低下していたためだ。一方海を隔てて、ニューギニアやオーストラリアが陸続きだった(サフルランドという)。この時期の先住民はオーストラロイド(肌が黒褐色・縮毛)と総称される人々で、オーストラリア原住民、ニューギニア、その東のメラネシア人、及びネグリト、プロト・マレーと呼ばれる人々だ。
 その後、モンゴロイドが移住してきて、東南アジア各地に住みついた。また、モンゴロイドのうち一群の人々は海をわたってポリネシアやミクロネシアにも移住した。

 言語はモンゴロイドで群島部に住む人々及びオーストラロイドの人々がオーストロネシア(南島)語族に属し、台湾・インドネシア・フィリピン・マレーシア・オセアニアが含まれる。モンゴロイドで大陸部に住む人々はオーストロアジア(南アジア)語族に属し、ベトナム・カンボジアが含まれる。7・8c頃の新しい時代に中国の山岳地帯から東南アジア平地部に進出してきた人々は中国語に近く、タイ・カダイ語族に属するタイ・ラオス、チベット・ビルマ語族に属するビルマ・チベットを含む。

*人種:現世人類はホモ・サピエンスというただ一種の人種に属する。ネグロイド、コーカソイド、モンゴロイド、オーストラロイドの4つに大別することが多い(5ないし6に分類することもある)。近年のDNA鑑定では、ネグロイドからコーカソイドが分岐し、コーカソイドからオーストラロイドとモンゴロイドが分岐したといわれる。オーストラロイドははっきりしない面が多いが、アボリジニ、パプア人、メラネシアン、ネグリト人、ヴェッダ人、タミル人などがオーストラロイドであるとされる。太平洋の島々でもポリネシア、ミクロネシアの人々はモンゴロイドだ。一方、語族とは比較言語学的な言語の違いによる区分で、人種とは無関係。

 東南アジアの国家建設はインド商人の来航がきっかけとなった。インドではクシャーナ朝(インダス流域、1c後半〜3c半ば)とサータヴァーハナ朝(デカン高原、2c始め〜3c半ば)が栄えていた頃、西のローマ帝国との貿易が盛んだった。このためインド商人は、地中海世界が買い求める香料、香木、樹脂などを探し求め、またインド自体が要求する金(マレー半島では砂金を産出した)を求めて、東南アジアと交易するようになった。その結果、東南アジア各地の沿岸、河岸に、風待ち、物産の集散、真水補給などのため港市が栄えた。港市はまた、インドと中国との交易の中継点ともなって発展(マレー半島のクラ地峡を横断するルート)、やがて国家の体裁を整えていく。
 港市にはインド人の居留地が作られるようになり、彼らによってシヴァ・ヴィシュヌ神、仏教などのインド文化が伝えられ、地域の発展に大きな役割を果たした。こうして東南アジアのインド化が始まる。さらに、4cインドにグプタ朝(320〜520頃)が興ると、グプタ文化が祭司階級のバラモンによって東南アジアに伝えられた。バラモンは王権と結びついて国家の行政組織・宗教儀礼を作っていった。
 この時期の港市国家として、ビルマ南部のタトゥン、マレー半島には東西湾岸のいくつかの港市、シャム湾に面しオケオを外港とする扶南、インドシナ半島東岸のチャンパなどが成立した。

 一方、ベトナム北部は中国の影響下にあった。前221年秦の始皇帝が中国を統一、前214年南方に軍隊を派遣して、南海郡(広東省)、桂林郡(広西省)、象郡(北部ベトナム)を置いた。しかし、前210年始皇帝が没し、やがて秦が滅びると、この三つの郡はいったん放棄され、このとき南海郡尉(知事)の趙佗(チョウダ)が独立して南越国を建てた。
 次いで、漢の武帝(在位前141〜78年)のとき、前118年南越国を征服し、その領土に七郡を置いた。その範囲は現広東省から中部ベトナムに及び、まとめて交州と呼んだ。


カンボジア

 カンボジアでは扶南が3c前半に強大になり、4・5cに最盛期に達した。その後7・8cクメールが強勢となり、9cにアンコール朝へと覇権が推移した。

(扶南国、1c末〜7c始め頃)

 扶南国は1c末メコン川下流域に興った。扶南国の建国神話では、混填(コンテン)というバラモンが来航し現地の女王と結婚して国を造ったとあるが、これは後世の創作で、実際には、来航したインド人を土地の有力者が自分の娘などと結婚させ、定住していったものを脚色したものらしい。
 建国説話混填王から数え4代目范蔓(ハンマン)王は扶南大王と号し、強力な艦隊を擁してマレー半島の中小諸国十余国を征服したが、金隣(キンリン)国(ビルマ南部か)を討とうとする途中病に倒れた。
 扶南の外港オケオは中継貿易の拠点として栄えた。海岸から25キロ内陸の港市だが、メコン川デルタの肥沃な平野を抱え、同水系の中小河川を通じて物産が集散し、シャム湾を介して世界の物産の集散地でもあった。オケオの考古学調査は第二次大戦中にもかかわらず、フランス人研究者によって実施され、南インドのアマラーヴァティ様式の仏像、ローマ貨幣など様々なものが出土して、繁栄ぶりが実証された。

 3c前半范旃(ハンセン)王の治世にはインド・クシャーナ朝へ使者を派遣した。また、中国三国時代の呉からは通商使節が訪れ、この国の情報を中国に提供している。その後中国とは疎遠になったが、357年以来数回にわたって扶南王が中国に朝貢し、484年には安南将軍扶南王に列せられた。扶南国は4〜5cにかけて最盛期に達したとみられる。
 しかし6cに入ると、メコン川中流域に興った真臘(シンロウ)国(カンボジア)の攻勢により弱体化したが、7c前半までわずかな命脈を保ち続けた。

(クメール・真臘、6c半ば〜)

 クメール(真臘)ははじめラオス南部に興起し、イーシャナヴァルマン王によって7c前半までに扶南国を征討、首都をイーシャナプラとした(現カンボジア中部サンボール・プレイ・クック遺跡)。ヒンズーのヴィシュヌ・シヴァの合祀神ハリハラを信仰した。この時代、インド文化はカンボジア独自のものに発展し、古クメール語が登場した。以後クメールはカンボジアの代名詞となり、後のアンコール朝も別名クメール帝国といわれ、カンボジア語はクメール語ともいう。一方、政治体制は地方割拠的で、その結果706年頃北部の陸真臘、南部の水真臘に国内は分裂した。その後水真臘はジャワ勢力の支配下に入った。

(アンコール朝、9c始め〜)

 ジャワ勢力の支配からカンボジアを独立させたのが、アンコール朝を創始したジャヤヴァルマン2世(在位802〜834年)で802年アンコール平野北方の丘プノン・クレーンに本拠を構えた。バラモンのシヴァカイヴァールヤを召し抱え、転輪聖王(チャクラヴァルテン、正義をもって世界を治める王)たる祭儀を執り行なわさせた。
 インドラヴァルマン1世(在位877〜889年)のとき、アンコール地域の大規模な水利事業を行い、インドラタターカという人工の大貯水池を造った。この王のとき、支配地域はカンボジア南部からタイ東北部にまで及んだ。
 次のヤショヴァルマン1世(在位889〜910年)のとき、アンコールに最初の都城を建造し、以後5c半にわたりアンコールがカンボジアの首都として定着した。都城の東北に東バライ(7×1.8km、注)という大貯水池を造り、各地への給水、耕地への配水を行った。またこの時代に、バンテアイ・スレイというヒンズー寺院が造られ、約100m四方という小さい寺院ながら、建築・彫刻の美しさで名高く、アンコール時代の珠玉の寺院と言われる。

*現在も膨大な水をたたえるのは西バライ(8×2km、ウダヤーディティヤヴァルマン2世(在位1050〜65年)の開削)で、東バライは干上がっている。アンコール地域は乾燥した熱帯性気候で、年間雨量1500ミリ前後、雨は短時間に過剰に降るため、排水と乾期のための貯水が歴代の王に要求された。アンコール文明は雨水を自由に調節するこの困難な事業に成功し、年3回の田植えが可能になった。

 スールヤヴァルマン2世(在位1113〜50年)の1145年チャンパ(ベトナム南部)の首都ヴィジャヤを陥れ、ヒンズー寺院の最高傑作アンコール・ワットを30余年かかって建立した。しかし、強引な征服戦争と大伽藍の造営で王朝にほころびを生じさせ、また王自身が戦闘で行方不明となり、各地で反乱を招き、ついにチャンパ水軍の侵攻を受けて1177年アンコール都城は占拠された。

 ジャヤヴァルマン7世(在位1181〜1220年頃)は1181年チャンパを追って、即位した。次いで'90年チャンパの首都を攻撃、チャンパを30年間併合した。また、各地を攻略し、北方・西方に勢力を伸張した。熱烈な仏教徒だった王は、五つの城門、中央にバイヨンを配した壮麗な都城アンコール・トム(アンコール・ワット北方1.5kmにあり、合わせてアンコール遺跡となっている)を完成させた。バイヨン寺院はアンコール芸術の集大成と言われ、石像の巨大な四面仏顔、300mに及ぶ回廊浮き彫りが名高い。
 王の時代クメールに最盛期をもたらしたが、王は大寺院を各地に建立し、重税と賦役を民衆に課したため、王国は疲弊し、その死後チャンパ、スコータイ地方、チャオプラヤー流域、マレー半島から撤退、チャオプラヤー流域からタイ系諸族が勢力を伸張していった。しかしカンボジア本土では王国は揺るぎなく存続した。


ベトナム

(チャンパ、3c〜15c)

 インドシナ半島はチャオンソン(安南)山脈に沿って大きくS字状に湾曲するが、そのS字の出っぱりの沿岸平野部にチャンパは興起した。もとサフィン文化を基盤とした土着勢力だったが、数世紀にわたるインドとの交易を通じて文物を受け入れ、後にサンスクリット語でチャンパ(インドの花の名)と呼ばれる王国となった。北は中国の交州(ベトナム北部を含む)、南はメコン川デルタ(カンボジア)に接し、中国・インドとの貿易によって栄えたが、その実体はチャム人の連合王国だった。
 中国史料によれば2c末区連という者が、漢の後退に乗じ、林邑(チャンパ)を建国したという。4c後半にはサンスクリット名バドラヴァルマンという王が登位し、サンスクリットの碑文を刻み、王とシヴァ神との合体彫像を残した。またグプタ様式の仏像も発見されている。5c〜8cにかけてはガンガラージャ王家、9c末〜10cにはインドラブラ王家(ドンズオン)が覇を唱えた。

 10c後半北方の勢力は中国から独立したベトナムに代わり、また西ではアンコール朝が強勢となり脅威を及ぼし始めた。特に1069年ベトナム(李朝)が、この当時のチャンパの中心地ヴィジャヤ(現ビンディン省南部)を陥落させ、王を捕らえた。王は北部をベトナムに割譲して釈放された。1145年一時アンコール朝の軍勢がヴィジャヤを占領したが、1177年逆にチャンパがアンコール都城を陥落させ、再興した。しかし、アンコール朝・ジャヤヴァルマン7世によって、チャンパは1190年から30年間併合されてしまった。1220年頃独立を回復したが、その後ベトナム(当時陳朝)やモンゴル(元朝、1284年)の攻撃を受ける。14c前半には再びベトナム・陳朝に屈服した。1407年中国・明朝がベトナムに侵攻し一時的にベトナムが明に併合されたため、その機会にチャンパは旧領土の一部を取り戻したものの、1428年明軍を破りベトナムを統一した黎朝が1446年及び'71年ヴィジャヤを陥れ、チャンパは大打撃を受けた。以後チャンパは各地に分散し、16・7cにはイスラーム化し、貿易によって存続した。
 現在チャム人はカンボジア、ベトナム、その他東南アジア各地に居住する。ダナンにはチャンパ美術館があり、その歴史的変遷を見ることができる。

(李朝・ベトナム、1009〜1226)

 ベトナム北部は約千年の長きにわたり、中国の領土の一部としてその支配下にあった。中国・唐朝の没落が始まると、土豪たちが独立して混乱したが、李公蘊(リーコンウァン、李太祖、在位1009〜28年)が王位について李朝を開始、昇竜(タンロン、現ハノイ)を首都とした。各地方には在地土豪勢力がそのまま存続し、王朝は李朝の旗の下に形式的に従った。王朝は禅宗系仏教を保護し、道教も入ってきた。
 1044年と'69年にチャンパに遠征、多くのチャム人を捕虜とし、財宝を略奪した。'75年には北宋の侵攻を迎え撃ち、勝利した。1174年中国・南宋から「安南国王」に封ぜられた。
 13cに入ると地方反乱が続発、これを収拾できず、実権を持つ陳(チャン)氏一族に政権を譲渡した。

(陳朝ベトナム、1226〜1400)

 李朝末期の実力者陳守度(チャントウド)は李朝に見切りをつけ、陳朝を創始した。陳朝は儒教的官僚国家を建設し、紅河デルタの大規模な開拓を行った。首都は引き続き昇竜で、大きな都城となり、商工業が発達した。また黎文休(レーヴァンヒウ)により「大越史記」(1272年)が著された。


東南アジア群島部

 東南アジア群島部(ジャワ、バリなど)に関するもっとも早い記録は、中国人僧侶法顕(ホッケン、東晋時代長安からインドに仏教戒律を求めて旅し、旅行記「仏国記」を著した)の記録で、帰途セイロン島から耶婆提国(ヤバダイ、中部ジャワか)に達し、ここに5ヶ月滞在した(411年)。ここでは、外道(シヴァ・ヴィシュヌ神)のみで仏法はない、と述べている。また、宋書南蛮伝や梁書海南伝によれば、5c前半から6cにかけ、いずれもサンスクリットの王名を名乗るジャワ島・バリ島などの国王が朝貢した。
 6c後半(中国の陳、隋時代)中国側史料は乏しく、隋書南蛮伝には林邑(チャンパ)、赤土(マレー半島)、真臘(カンボジア)、婆利(バリ島)の記述しかない。これらの諸国ではバラモンが重要な地位を占めていた。

(シュリヴィジャヤ〜シャイレンドラ、7c半ば〜9c)

 群島部で7c半ば有力になったのがシュリヴィジャヤ(尸利仏誓国シリブッセイ、現スマトラ・バレンバン付近)だ。それまでマレー半島を横断していた貿易ルートが、インド船、アラブ船、ペルシア船がマラッカ海峡を通過して直接中国広州・泉州に直行するようになり、扶南国オケオの貿易港は放棄され、マレー半島、インドシナ半島東海岸さらに北部ベトナム(中国交州)の重要性が低下した。シュリヴィジャヤは中継貿易の基地、港市として発展した。
 「大唐西域求法高僧伝」の著者義浄は、671年広州からベルシア船に便乗してインドに向かい、シュリヴィジャヤに6ヶ月滞在した。そこでサンスクリット語を学んでから、インドのナーランダー僧院などで13年間勉学した後、仏典多数を携えて帰国した。それによれば、仏逝(仏誓に同じ)では仏教(大乗仏教)があつく信仰され、僧侶が千余人いて、学問に励み、托鉢を熱心に行っているという。

 新唐書南蛮伝では、640年から訶綾国(カリョウ、現ジャワ島プカロンガン)がたびたび唐に入貢したことが知られる。時期を同じくして、近くのディエン高原に一群のシヴァ教寺院が建てられ、シヴァ教の聖地となった。
 8c中頃になると、アラブ・ペルシアのダウ船を改良し中国でジャンクという船が生まれた。これにより中国船の海外への進出が始まった。スマトラやジャワの港市が繁栄するのは、特に中国船の来航が始まってからのようだ。
 この頃中部ジャワ現在のジョグジャカルタ(ムラピ火山がある)に古マタラム王国が勃興した。732年紀元のあるシヴァ教寺院のチャンガル碑文にはサンジャヤ王の名がある。また8c後半には同地にシャイレンドラという王朝があった。この時期のジャワから767年北部ベトナム、774年と787年チャンパを船隊が攻撃した。後にアンコール朝創始者となるジャヤヴァルマン2世も捕虜としてジャワに連行されたことがある。
 さて、シュリヴィジャヤ、訶綾国、古マタラム国、シャイレンドラは一連の王国であるらしい。アラブ人アブー・ザイドが916年に著した「シナ・インド物語」の補遺の中に、ザーバジ(ジャワ)について詳しい記事を残している。その王の称号はマハーラージャ(インドの王号)で、シュリヴィジャヤ、ケダを含むジャワからマラッカ海峡両岸の広大な領土を支配しており、マハーラージャが住む島はきわめて豊かで人口が多く、集落が切れめなく続いている。またザーバジの王がクメールの首都を攻撃、国王を殺害したという。

 ジョグジャカルタ北西40キロには有名な世界遺産ポロブドゥル寺院群がある。その最も有名なポロブドゥルは775年頃シャイレンドラ王家のダルマトゥンガ王によって建設が始められた。内部空間を持たず、一辺120mの方形の上に5層の方形檀、その上にさらに3層の円形檀を持つ階段ピラミッド状の構造で、方形檀の回廊には仏教説話に基づくレリーフが施されている。また、3層の円形檀には釣り鐘状のストゥーパ(仏塔)が築かれ、ストゥーパ内部や回廊の窪みなどに多数の仏像が納められている。
 さらに、ジョグジャカルタのすぐ北東にはもう一つ有名な世界遺産プランバナン寺院群がある。その代表プランバナンは9c半ばに作られたシヴァ教寺院だ。しかし、926年頃ムラピ火山が大噴火を起こし、中部ジャワの平野は一時的に人が住めなくなって、16cマタラム王国(新)が成立するまで放棄されることになる。

 さて中国史料によると、ジャワから三仏斉(サンブツセイ)国が、唐末(904年)から宋朝を通じて(960年〜1095年、及び1156・1178年)朝貢している。この国はバレンバンのシュリヴィジャヤの後身で、宋側がシュリヴィジャヤ、アラブ、ペルシア、インドとの国々と密接な関係を再開した結果と見られる。しかしシュリヴィジャヤは、南インド・チョーラ朝が1025年頃シュリヴィジャヤに艦隊を派遣し、各地を略奪したことで弱体化した。この結果、シュリヴィジャヤ北方にあるジャンピが台頭する。
 趙汝かつ(チョウジョカツ)が著した「諸蕃志」(1225年東南アジア諸国の事情に関する重要な史料)によると、三仏斉は15の州を統轄しているといい、王国の有様を詳しく紹介している。ここでいう三仏斉はジャンビだと考えられている。

(クディリ王国、10c?〜1222)

 クディリ王国は古マタラム王国の後身として、古マタラム王国の有力者シンドク(在位927〜47年)が東部ジャワ・プナングンガン山のふもとに居を定めて王位についたのが最初とされる。ヒンドゥー教を奉じた。しかし、東部ジャワを完全に統一したわけではなかった。その後ダルマヴァンシャ(在位985〜1006年頃)の990年頃、一時シュリヴィジャヤを攻撃するほどだったが、地方領主の反乱によって殺害された。
 続いてダルマヴァンシャの女婿とされるエルランガ(在位1019?〜49年)が体勢を立て直し、1037年頃全ジャワを統一、治水事業を行い、海外交易を振興し、文芸を保護した。彼はまたシュリヴィジャヤの王女と結婚、宮廷詩人がこれを記念し、エルランガ王を主人公とする戯曲「アルジュナ・ヴィヴァーハ」を著した。これは現在でも舞踏劇として上演される(インドの「マハーバーラタ」風のもの)。しかし、先にあげた「諸蕃志」闍婆(ジャバ)国に関する記述では、東部ジャワにはいくつかの国があった趣旨の書き方をしており、強力な支配を及ぼしていた国の存在を伝えていない。エルランガは晩年、王位継承争いを防ぐため王国を、プランタス川河口のジャンガラ王国と、内陸のクディリを中心とするパンジャル王国(狭義のクディリ王国)に分割した。ジャンガラはほどなくパンジャルに吸収された。

  (シンゴサリ=マジャパヒト王国、1222〜)

 マジャパヒト王国はジャワ最後のヒンドゥー国家で、その前身はケン・アンロクがトゥマプル(ジャンガラ地方)に1222年建国したシンゴサリ王国だ。ケン・アンロクは前トゥマプル領主のトゥンガル・アムトゥンを殺害し王位についたが、後アムトゥンの子がケン・アンロクを殺してシンゴサリ王国を継承する。この王国はクルタナガラ王を最後として1292年まで続いたが、強力な支配を及ぼしていた形跡は、クディリ王国同様なさそうだ。
 クルタナガラは1292年、クディリ王国の末裔とされるジャヤカトゥンの反乱によって殺されたという。時にモンゴル(元)がジャワに来攻した。シンゴサリ王国が朝貢を拒否したためだ。このとき、ラーデン・ヴイジャヤという者が元軍と同盟し、ジャヤカトゥンを滅ぼした。ラーデン・ヴィジャヤは、クルタナガラの二人の娘と結婚し、元軍をジャワから追い、王位についてマジャパヒト王国を建てた。これによって、シンゴサリ王国はマジャパヒト王国によって継承されたことになった。一連の王国はしばしばシンゴサリ=マジャパヒト王国とも呼ばれる。しかし、この王の治世も各地で反乱が頻発しており、統一というにはほど遠い状況だったらしい。


ビルマ

パガン朝(9c頃〜1287)

 かつて下ビルマにはモン人の国タトゥン(金地国)があり、インド人が来航して、インド文化が受容されていた。上座仏教は11c始めスリランカからタトゥンに伝えられ、やがてビルマ、タイ、カンボジア、ラオスに受容され、これら4カ国は文化的統合をなしている。
 パガン朝は上ビルマにまばらに住んでいたモン人を追って、エーヤワディ川中流の広大な扇状地チャウセー地方に興った。アノーヤター王(在位1047〜77年)のとき、タトゥンからモン人の高僧シン・アラハンを招き、説法を聞いて上座仏教に帰依した。王は各地を征討し、チャウセー地域の灌漑工事を行った。またタトゥンを攻略し、マヌハ王と約3万のモン人をパガンに連行、下ビルマまでも支配領域とした。パガンに移り住んだモン人を通じ、モン文化(ヒンドゥーの影響も大きい)が取り入れられ、パガンにおけるもっとも古い建築物マヌハ寺院・ナンパヤー寺院はマヌハ王により建立された。
 3代チャンシッター王(在位1084〜1112年頃)の時代、パガン朝の最盛期を迎えた。王はビルマ寺院の最高傑作アーナンダ寺院を建立した。一方王宮内の祭儀にはバラモン僧が関与し、ヒンドゥー供儀が執り行われた。都城下ではヴィシュヌ信仰、大乗仏教、上座仏教が共存した。王の活動を記したミヤゼーディ碑文には、ビルマ語・モン語・パーリ語・ピュー語で同じ内容が刻まれている(注)。

*上座仏教は、11c始めスリランカから下ビルマのタトゥン(モン人の国)に伝えられ、11c半ばビルマ(11c半ば)に伝えられた。パーリ語は上座仏教語。

 ナラパティシードゥー王(在位1173-210年)のとき、上座仏教のマハー・ヴィハーラ派(大寺派)がモン人僧侶チャパタによって伝えられ(1190年)、王家が帰依したため発展した。チャパタ死後大寺派は三分派に分立するが、仏教を選良の宗教から庶民宗教として在家に浸透させた。この結果、大寺派はビルマに定着し、ビルマを拠点としてタイ・カンボジア(13c後半)、ラオス(14c後半)へと伝播、東南アジアの精神価値体系は上座仏教に塗り替えられた。

 パガン朝末期の諸王は、仏教に帰依し、寺院建立に打ち込んだ。しかし中国元朝が雲南地方を併合した後、パガン朝に入貢と臣従を求めたが、最後の王ナラティハパテ(在位1254-87)はこれを拒絶した。そのため、元軍はパガンを1287年攻略した。こうして仏塔建築王朝の異名を持つパガン朝であったが、「仏寺成って国亡ぶ」こととなった。


モンゴルの影響

 モンゴル帝国は4代モンケ(在位1251〜59年)のとき、弟フビライに南宋攻略、その弟フラグに西征を命じた。フラグは1258年バグダードを攻略しアッパース朝を滅ぼす。
 モンケが1259年突然死去すると、フビライが自らクリルタイ(ハン選出会議)を開きハン位に就いた(1260年)。フビライはそれまでの遊牧生活から定住生活へと方針を転換することにし、首都をカラコルムから、内モンゴルの上都('64年)とした。'67年には中国北部に大都(後の北京)を建設し、上都を夏の都に、大都を冬の都とした。また'71年には国名を中国風に大元と改めた。
 一方、2代ハン・オゴタイの系流ハイドゥが、1269年チャガタイ家、ジュチ家の支持を得てハン位に就き、フビライに宣戦布告した。ハイドゥの乱という。この戦いはフビライ死後1310年まで続いた。これによりモンゴル帝国は解体、ジュチ家によるキプチャク=ハン国(ロシア地域)、チャガタイ家によるチャガタイ=ハン国、フラグによるイル=ハン国(イラン地域)、ハイドゥのオゴタイ=ハン国(モンゴル西部)、フビライの「元」に分裂した。オゴタイ=ハン国はハイドゥが1301年に死去すると、チャガタイ=ハン国と元に併合されてしまう。

 さて、フビライは国名を元と改名した1271年南宋攻略を本格化し、'76年首都臨安を攻略、'79年完全に南宋を滅ぼした。引き続き東南アジア方面へ侵攻、チャンパ('82〜85年)、陳朝ベトナム('84・87年)、ビルマ・パガン朝('87年)、ジャワ('93年)を攻撃した。このうち、陳朝ベトナムは元の侵攻を巧みな戦法で撃退、チャンパも海路侵入する元軍を2年後敗走させた。ジャワではシンゴサリ王国が滅亡、代わってマジャパヒト王国が成立し、元軍を追い払った。しかし、ビルマではパガン朝が滅亡し、元によって傀儡政権が樹立された。すでに弱体化していたカンボジアのアンコール朝は恭順の使節を派遣した('85年)。全体としては、東南アジア侵攻は大きな成功を収められなかったと言ってよい。

 なお、フビライはアフマドらイスラム教徒の財務官僚を登用し、専売を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積するシステムを作り上げた。東南アジア侵攻は成功しなかったが、イル=ハン国と連携し、スマトラ北部・マレー半島・インドなどの港市国家へ艦隊を派遣し、自ら貿易活動を行って海路イスラム社会と中国を直結させた(海のシルクロードとも言う)。陸路は大都から上都に幹線道路を造り、カラコルムからのシルクロードを整備、一定の距離ごとに駅をおいて馬や食糧を補給させる駅伝制(ジャムチ)を作った。これら海陸路によって東西交通が盛んになり、ムスリム(イスラム教徒)商人が多数中国に訪れるようになった。西方の人々を一括して色目人と言ったが、ヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロもフビライ治下の中国に訪れている。

 東南アジアへの元の侵攻は、ビルマ・パガン朝を滅亡させた他、元を撃退した南部ベトナムのチャンパ、北部ベトナムの陳朝の衰退を招いた。その間隙をぬい、インドシナ半島ではタイ系諸族が発展拡大する。北部チェンマイ王国(ラーンナータイ)、中部スコータイ王国とそれに取って代わったアユタヤ朝、メコン河上流域のランサン王国(ラオス)などだ。元への恭順を示したアンコール朝へは1296年答礼使節を送り、同道した周達観が真臘風土記を著した。しかし、アンコール朝はタイ・ベトナムに挟撃され亡国の危機にさらされるようになる。ベトナムの陳朝はやがて黎朝に取って代わられ、その黎朝はチャンパを攻めてメコン河デルタまで南進する。

 この間、ムスリム商人の手によって東南アジアの一部地域にイスラーム国家が出現する。中国とインド間の交易が盛んとなり、スマトラ北部の寄港地が重要になった結果、サムドラ=パサイ(現アチェ州)が港市国家として栄えた。サムドラ=パサイ王国はイスラーム神秘主義を受け入れ、東南アジアにおけるイスラーム信仰の中心地となった。
 一方13c〜14cにかけインドシナ半島中央部では、上座仏教が民間に広まり、宗教用語としてサンスクリットに代わりパーリ語が登場する。これは、インドにイスラーム王朝が成立、大乗仏教の聖地ナーランダー僧院がムスリムによって破壊されてしまった結果、東南アジアの大乗仏教も現地の固有の信仰と融合したり、ヒンドゥー教と融合して現地化が進んだことも影響した。タイ、ラオス、ビルマ、カンボジア4ヶ国では上座仏教を保護しながら、政治的支配の正統性を主張していく。


タイ系諸王朝

(スコータイ王国、1238?〜1438年)

 スコータイ王国はタイ人首長が、スコータイ地方のクメール人太守(アンコール朝)を追って独立、最初のタイ人王国が成立した。
 3代ラームカムヘン王(在位1279?〜99年)はインドシナ中央部にタイ人の支配権を確立し、王の事績を讃えたラームカムヘン碑文(1292年)はタイ語で刻まれた最古の碑文だ。碑文はさらに、当時の城内外の様子、仏教儀式、日常生活、社会規範、政治など詳しく説明する。王はスリランカから仏教を受け入れると共に、クメール文字草書体から派生したシャム文字を創始した。また王の時代、中国元朝から移住してきた陶工により磁器の技術が導入され、スワンカローク焼(日本では宋胡録(スンコロク)焼という)が発祥した。この焼き物は重要な交易物産として、下流域のアユタヤ地域、フィリピン、インドネシアなどに輸出され、桃山時代から日本でも輸入されたが、17cには終焉したという。
 ラームカムヘン後の諸王は仏教へ献身的に帰依する余り、政治がおろそかになり、リタイ王(在位1347〜74年頃)のとき、アユタヤ朝に降伏、王国は存続したものの以後スコータイ朝の版図は徐々に奪われていった。1438年にはアユタヤ朝の一地方政権となったが、王家は存続した。
 現在のスコータイ遺跡は、熱帯のジャングルに覆われ放置されていたものをタイ政府とユネスコの共同発掘・修理したもので、ワットマハタートの大仏(アユタヤ時代のものとされる)他多数の遺跡群がある。スコータイの宗教建築は、スリランカ、ビルマ、タイ南部のモン人、カンボジアのクメール人などの文化要素を取り入れ、タイ独自の境地に発展させたもので、スコータイ様式と呼ばれる。

(チェンマイ王国(ラーンターナイ王国)、1296〜年)

 チェンマイ王国は同様にタイ人首長のマンライがモン人を駆逐し、チャオプラヤー河支流のピン川流域の都市チェンマイを首都として建国した。
 パー・ユー王(在位1336〜55年)のとき、チェンマイ都城を拡大、約7キロの城壁と環濠を作った。また、都城内には仏教寺院ワット・プラ・シンが建立された(1345年)。その息子のク・ナー王はスリランカから上座仏教を招来し、ワット・プラ・ユンを建立した(1369年)。

(アユタヤ朝、1351〜年)

 アユタヤ朝はチャオプラヤー河と支流パーサック河の交わる要衝に建国された。元々物産の集積地で、貿易をもって王朝の隆盛を築いた。創建者はラーマディボディ1世(在位1351〜69年)、王は国内統一のため、スリランカから仏僧を招いて上座部仏教を国家の公式な宗教とするとともに、ヒンドゥーの法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元に「三印法典」を整備した。この三印法典は近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として機能することになる。その後も後継諸王は上座仏教を手厚く保護した。
 ボロマラーチャー2世(在位1424〜48年)のとき、カンボジア・アンコール朝を壊滅させ('32年)、スコータイ朝を併合した('38年)。その息子のトライローカナート王(在位1448〜88年)は、副王の創設と中央官庁に似た組織を作り、個人に帰属する田地の広さを定めた「サクディナー(位階田)制」を制定するなどの諸改革を実施し、中央集権制を強化した。

 ラーマディボディー2世(在位1491〜1529年)のとき、西欧勢力が来航する。1509年ポルトガルのアルブケルケがアユタヤ朝に使節を送り、2年後マラッカを占領した。1516年ポルトガルはアユタヤと条約を結び、アユタヤはポルトガル人の首都やマレー半島西岸テナセリムへの居住、カトリックの布教を認めた。また、王はジャンク船がアユタヤまで入港できるよう土木工事を行った。王が建立したワット・プラ・シー・サンペットは、スコータイ様式から影響を受け高塔を細長くした仏塔だ。
 16c西隣ビルマにタウングー朝が興り、アユタヤに侵攻、1569年アユタヤが陥落、数千人がビルマに連行され、アユタヤは15年間ビルマの属領となった。
 その後、ナレースエン(在位1590〜1605年)がビルマの内紛に乗じ、アユタヤを再度独立に導き、2度ビルマへ遠征して勝利を収め、テナセリムやその北方タヴォイを占領、カンボジアの首都ロヴェックを陥落させた。

 17cアユタヤは港市国家として王室管理貿易を行い栄華を極めた。アユタヤにはその後背地、また日本や中国からも多くの商品が集積し、ヨーロッパ商人にとっても絶好の商業港となった。1608年ネーデルラント・東インド会社と国交を開き、アユタヤ王はハーグに使節を送った。アユタヤ都城内には外国人町が作られ、中国人、ヨーロッパ人その他が居住、日本人町も作られ1500人以上の日本人が居住した。山田長政もソンタム王(在位1611〜28年)の信任を得たが、王の死去で後継者争いの渦中にあって10才の王子を即位させたが、次代の王となるプラサートトーンの側近に退けられ、戦闘中に受けた傷に毒を塗られて'30年死去した。

 この間、ネーデルラントが貿易を拡大し、皮革貿易の独占権を獲得するなどしたため、ナライ王(在位1657〜88年)は、ネーデルラントの膨張を押さえるため、ギリシア人フォールコンを登用、対抗勢力としてフランスを引き込もうとした。このため、フランス・ルイ14世は'87年1400の兵を伴う大使節団を送った。翌年王が死去すると、外国勢力の拡張に危機感を持ったペトラーチャ王(在位1688〜1703年)はフォールコンを処刑、フランス人とイエズス会関係者を追い出した。ネーデルラントがタイ貿易を独占することになる一方、ヨーロッパ諸国との活発な通商時代は終幕となり、18cのアユタヤは外国に対する警戒を強めながら鎖国の方向に向かう。一方でこの時期、アユタヤは絶頂期にあり、多くの仏教寺院が建立され、アユタヤ美術が隆盛を極めた。
 しかし、1752年ビルマのアラウンパヤー王によってコンバウン朝が興起すると、ビルマ軍により'67年アユタヤが陥落、王宮や寺院は焼け落ち、都城は焦土と化した。住民約1万人が捕虜として連行された。

(ランサン王国(ラオス)1353〜年)

 伝承では、タイ人の一派ラオ人の王ファーグムが1353年、メコン河上流ラオスのルアンプラバンに建国したという。その子サーム・セーン・タイ(在位1373〜416年)のとき、国家の組織作りを行った。この王の死後一時王族同士の対立で、東隣の大越から侵入を受けるなどしたが、交易によって発展し、代々篤く仏教に帰依し、仏教寺院を建立した。
 1563年セーターティラート王のとき、メコン河中流のビエンチャンに遷都、都城を造営し、版図が最大となって隆盛したが、'74年ビルマとの戦闘でビエンチャンが陥落しビルマに屈した。'91年独立を回復したものの国は混乱を続けた。
 スリニャウォンサー王(在位1637〜94年)の下再び平和がもたらされ、大越と同盟を結び、ネーデルラント東インド会社のファン・ウストッフ及びイエズス会士J・M・レリアの見聞録が、ラオ人社会の発展ぶりを記している。しかし、王の死後は王国が三つに分裂(北部ルアンブラバン、中部ビエンチャン、南部チャンパサック)抗争したため、衰微した。
 1804年アヌ王がビエンチャンを解放し、一時の賑わいを取り戻したが、アユタヤ朝を攻略しようとして失敗、処刑され、ビエンチャンは徹底的に破壊された(1827年)。
 19cラオ人社会は地域割拠的で、近代的な国民的まとまりのない社会だった。

ビルマ

 パガン朝滅亡後のビルマでは、約3世紀にわたり、多くの民族集団が割拠した。ビルマ人、下ビルマのモン人、上ビルマのシャン人(シャム人、タイ系諸族)などだ。中で下ビルマ・モン人のバゴー(ペグー)朝(1287〜1539年)では、ダンマゼーティー王が1476年カルヤーニー戒壇を設立、分裂していた上座仏教を大寺派を正統として諸分派の抗争を終結させた。こうしてバゴーは仏教の聖地となった。同時にバゴー、マルタバン、シリアム、バセインなど王朝の各港市には、諸外国から商船が来航し活況を呈した。しかし、繁栄を狙ったタウングー朝により、1534年バゴーが陥落させられ滅亡した。
 タウングー朝(1531〜1752年)は、もとパガンとバゴーの中間地点にあるビルマ人の城塞都市で、長らくシャン人の支配下にあったが、タビンシュエティー王(在位1531〜51年)によって創建された。王はポルトガル人傭兵に助けられ、1538年モン人の都バゴーを陥れ下ビルマ・中部ビルマを平定した。2代バインナウン王(在位1551〜81年)は、チェンマイ、アユタヤ、ビエンチャンなどを征服、ビルマの版図を最大にした。首都バゴーは繁栄し、上座仏教の寺院が立ち並んだ。しかし、うち続く戦役に民衆は疲弊し、王の死後はその征服地がほとんど失われたばかりか、国内は内戦状態に陥り、無政府状態になった。その後、アナウペッルン王(在位1605〜28年)のとき再建され、この王の治下ネーデルラントやブリテンがバゴー、シリアムなどに商館を開設、次のタールン王(在位1629〜48年)は外国勢力を嫌って内陸アヴァへ遷都した。この後バゴーのモン人土候によりアヴァが陥落するまで100年にわたり王朝は維持された。この間、バゴーはモン人の中心地として、諸王により手厚い保護を受け続けた。

カンボジア

 クメール人のアンコール朝はジャヤヴァルマン8世(在位1243〜95年)のとき元フビライに朝貢、元は'96年答礼使節を送り、同道した周達観が真臘風土記を著した。この頃のアンコール朝は周達観によれば、「人々はせん人(シャム人)と闘うことを強いられ、村落はみな荒廃するに至る」と述べている。また、ビルマから上座仏教が浸透し、アンコール王権の拠り所となっていたヒンドゥー教が衰退した。1351年タイ・アユタヤ朝が勃興すると、タイの攻撃は激烈となりクメール人は頑強に抗戦したが、1432年アユタヤはアンコール都城を占拠した。アンコール朝は'34年プノンペンに都を移転したものの、王朝は権力闘争に明け暮れ、タイとベトナムが政争に介入、領土は次第に両国に蚕食されていった。都も移転を繰り返した。アンコール・ワットは15c後半から上座仏教寺院に衣替えして存続した。

ベトナム

 元が南海諸国の船舶を支配する目的をもってチャンパを征討しようとしたとき(1282年)、チャンパは首都陥落にもかかわらず果敢に抵抗し、'85年元軍を撃退した。元が増援のため派遣した軍団も、'84年大越を横断しようとして、陳朝軍により敗走させられた。陳朝は'87年海路侵入した元軍を白藤(バクダン)江の戦いで破った。民族の団結と卓越したゲリラ戦によるものだった。しかし、徹底抗戦によって農業の多くの働き手を失い、田地が荒廃したため、大越社会は疲弊してしまった。追い打ちをかけるように、山岳部族の反乱、ラオ人やチャム人の侵攻が続き、絶え間ない戦争は租税及び賦役を民衆に強制することとなって、農民は没落し、税や賦役を逃れて田庄(荘園)に逃れて奴隷となっていった。一方、官僚たちは農民たちの田地を横取りして肥え太った。
 陳朝末期、デルタ地帯で忍従してきた人々がいっせいに蜂起し、一連の農民反乱を起こした。特に1344年から17年間続いた呉陛(ゴベー)の反乱は鎮圧されたものの、陳朝を著しく弱体化させた。1400年には土豪の胡李りい(ホクイリイ)が帝位を簒奪(陳朝滅亡)、土地の所有を制限し、奴隷の所有を制限するなどの一連の改革を実行したが、官僚たちの利権を侵害したため、彼らを敵にまわすことになった。また、明が陳朝の再興を口実に1406年大軍を送り込んできた。胡軍はあっけなく降参、大越は明の支配するところとなった。

(黎朝ベトナム、1428〜1789年)

 1418年土豪の黎利(レーロイ)が明に反旗を翻し、ゲリラ戦と野戦を巧みに使い分け、明軍を駆逐、'28年に黎朝を開いた。黎朝は農民への村落共有田(公田)を支給(均田法)し、地方行政村制度「社(サア)」を定めた。
 4代黎聖宗(レータイントン、在位1467〜97年)のとき黎朝は最盛期となる。'71年チャンパの中心地ヴィジャヤを占領、その領土の北半分を恒久的に占領した。'83年に定められた「洪徳条律」という刑法・民法の法典が黎朝刑律として集大成され、「大越史記全書」も編纂された。また軍人移民(屯田)が中南部に組織的に実施された。
 聖宗後は諸侯間に抗争が起き、1527年莫登庸(マクダンズン)という将軍によって王位が簒奪された。その後'92年黎朝再興派によって黎朝が再興されたものの、政権の実態は再興を助けた武人の鄭(チン)氏に握られた。莫氏は1677年まで中越国境のカオバン地方で抵抗した。その間、'27年再興派の有力者阮(グエン)氏が再興派から抜けて中部のフエで独立した領主となり、以来鄭阮氏が南北に別れる抗争時代に入る。

 その間にも阮氏の勢力は南に向かって伸張し、大規模な農耕民の進出を伴っていた。これによりチャンパはその領土を失っていった。
 1771年阮氏の政治の乱れに対し、ビンディン省タイソンの阮3兄弟が反乱を起こした。これを西山阮氏といい、対してフエの阮氏を広南阮氏という。'85年メコン河の戦いでタイ軍に助けられた広南阮氏の最後の生き残りが、西山阮氏のグエン・フエに破られ、ベトナム南部の実権は西山阮氏に移る。  グエン・フエはこの勢いで、北部鄭氏を駆逐し、黎朝の権威を復活させた。しかし、グエン・フエが引き上げた後、黎朝は中国・清の軍隊を後ろ盾に勢力を復活させようとして、かえって清朝官僚に実権を握られてしまう羽目になった。これを聞いたグエン・フエは直ちに清軍と戦ってこれを破って和睦を結び、黎朝は滅亡した(1789年)。

群島部

(サムドラ=パサイ王国、スマトラ北部、13c末-1521年)

 ユダヤ人ジャコブ・デ・アンコナは海路中国を訪れ、1271年サムドラの外港パサイに寄港した。その記録によれば、サムドラの王はイスラーム教徒で、港には市場や倉庫などが備わっているという。ヴェネツィア商人マルコ・ポーロも1292年海路フビライの使節に随行して1292年サムドラに滞在し、ムスリム旅行者イブン・バットゥータも1346年寄港している。当時サムドラ=パサイでは、この時期イスラーム社会で盛んになったイスラーム神秘主義の聖者が活動した結果、この地にイスラームが定着したらしい。バットゥータによれば、国王はスルタンを称し、シャーフィー派神秘主義を奉じて法律家を重く用いている。また、異教徒と戦ってこれを従わせ、異教徒は国王に貢ぎ物や人頭税を納めている。彼がサムドラを出航する際には、国王が船を準備し、食糧を送ってくれた、という。
 サムドラ=パサイでは、この頃からインドのマラバル海岸から移植されたと思われる胡椒の栽培が開始されている。元々の輸出品であった金もあり、何よりもインド・中国間の寄港地として経済的に発展した。文化はイスラーム的マレー文化が形成された。後のマレー半島の港市マラッカ王国は、サムドラ=パサイの文化を継承している。

(マラッカ王国、マレー半島)

 中国で明が成立すると、朱元璋(洪武帝)は元が行った対外政策を強化する手段として、海外貿易の利益を独占すべく民間の商船を海外渡航を禁止し、また朝貢のため来航する船を除き外国船の来航を禁止した。この一連の鎖国政策を海禁令という。これによって、中国船がインドまで渡航することがなくなり、南シナ・東シナ海の貿易圏は一挙に縮小、東南アジア各地の中国人町の人口も、新しい移住者が絶えたため次第に減少していった。

 マラッカ王国は14c末または15c始め成立した。ポルトガル人トメ・ピレス「東方諸国記」によると、建国者はパラメスワラというパレンバン(スマトラ)出身の王族で、1377年頃マジャパヒト王国がパレンパンを討伐した際に逃れ、彼に従う海民(漁業・海賊を生業とする)と共にマレー半島マラカ川上流に居を定め、その息子ムガト・イスカンダル・シャーが同河口の丘に王宮を建設したという。

 ときに明・永楽帝が宦官の鄭和に命じ、大艦隊をして東南アジア・西アジアを計7回に及び、示威と朝貢勧誘を目的とする歴訪を行わせた。鄭和はその第1回航海のとき、シャム・アユタヤ朝がマレー半島及びスマトラ各地に支配を及ぼしているのを知った。マラッカなどの訴えもあり、永楽帝はアユタヤにその活動に対する警告を発している。次いで第3回航海のとき、パラメスワラに銀印を授けてマラカ国王とすると共に、マラッカに艦隊の基地を設けた。

 15c前半明の鄭和艦隊の保護下にマラッカ王国が成立すると、南海貿易の中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国は衰退する。また15c以降イスラム教が浸透したことにより、16c始めマジャパヒトもイスラム勢力に滅ぼされるに至った。