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6.中国殷・周・春秋戦国

殷朝以前

 殷(イン)の前に夏(カ)、その前に五帝の伝説あり。夏・殷・周の古代三王朝の始祖は黄帝(コウ、五帝の最初)の子孫とされた。夏は五帝の最後舜(シュン)から禅譲を受けた禹(ウ)を始祖とし、17代桀(ケツ)のとき殷の湯に滅ぼされた。これは史記の記すところだ。
 しかし、五帝伝説はもとより、夏王朝も後の戦国諸王になぞらえられたもので、夏墟は戦国諸王の都城に重なる。また、夏は「華」に通じ、中華を意味し、中華の概念が整えられるのも戦国時代だ。一方戦国時代、殷朝の前に夏朝あり、という歴史認識があったことも、「春秋左氏伝」「竹書紀年」などから間違いない。




 前1600年頃、湯王(天乙(テンイツ))は殷王朝を立てた。史記によると殷には30人の帝がたったとある。4代太甲のとき伊尹(イイン)の補佐を受けて国威を回復し、19代盤庚(バンコウ)のとき殷(いうところの殷墟)に定着した。22代武丁は傅説(フエツ)を登用して盛世を実現した。30代紂王(チュウオウ、辛(シン))に至り、周武王に滅ぼされた。
 殷朝の実在は20世紀に至り殷墟(河南省安陽県)が発見され、10万点にも及ぶ甲骨史料が出土し、史記の記述が根拠をもつことが確認されるとともに、その生活もかなり明らかになった。
 殷の国家体制は、大邑・族邑・属邑(小邑)が、塁層的に結びついた緩やかな連合体であった。邑(ユウ)とは四方を壁で囲んだ、人々の居住するところを意味する。大邑は王城で王や貴族の居城である。族邑は血族集団を基礎とする小型の国家であり、多数の小邑が属していた。大邑の規模は安陽県では未発見だが、てい(擲のてへん無し)州王城(殷中期の王城)は周囲7200m、城壁の高さ10m、内部には祭祀の基壇、陶器の製造場、酒造場、住居などが存在する。族邑の規模は湖北省黄陂の盤竜城遺跡によると、周囲1100mの城壁をもち、住居は半地下式の竪穴住居、小邑はその近くに点在し、人口数十人程度の粟作を主とする小聚落であった。
 殷王朝は祭政一致の国家であり、祭祀が王の重要な政事であった。また、文字を発達させ、動物の肩甲骨や亀甲に卜占の内容を文字で刻し(甲骨文字)、火熱を加えて割れ目で吉凶を占った。




 周の国礎を築いたのは西伯(文王)で、豊邑(西安の西)に拠った。彼を補佐した人物として太公望呂尚(リョショウ)が有名だが、なお伝説上の人物である。
 文王の子が武王で、彼は西方の諸侯を糾合して殷を討伐した(いわゆる殷周革命、前1050年頃)。武王は都を豊邑から宗周(西安市の西端)に移したが、数年で亡くなった。
 子の成王は幼少だったので、叔父の周公旦(シュウコウタン)が補佐した。周公は優れた人物で、殷の残存勢力を鎮圧、礼楽制度(秩序を維持する基軸)を整え、王朝の基礎を固めた。周公の礼楽制度は、中国的知性の原点におかれた。周の封建制は、殷の塁層的連合体制を解体し、一族・功臣に領地を与えて邑国(都市国家)をつくらせ、血縁関係に基づく政治的安定を確保した。
 成王と3代康王の時代は、周の全盛期であって、王の権威は強く、社会は平穏で安定し、後世の儒学者が輝かしい聖代として理想の時代と見なした。
 しかし、4代昭王、5代穆(ボク)王の時代となると、周道はようやく衰えをみせはじめ、周室と諸侯の関係は疎遠となり、諸侯が土着勢力と結びついて自立しはじめた。
 10代レイ王(蠣の虫なし)のとき大規模な反乱が起き、王は山西方面へ亡命、周公と召公が共同して国政を代行し、共和元年(前841年)とした。このときより、史記が紀年を明記し始め、以後中国は完全な歴史時代に入る。
 レイ王が亡命の後没し、子の11代宣王は中興の祖とされる名君で、国運はひとまず挽回されたが、続く12代幽王が暗君で反乱の中で落命した。続いて13代平王のとき宗周が異民族に占拠されたため、前770年洛陽に遷都せざるをえなくなった。それまでを西周、遷都後を東周といい、前221年秦が統一するまでの東周の前半を春秋、後半を戦国時代という。いずれもその時代を扱った歴史書「春秋」、「戦国策」に由来する。


春秋戦国

 前770年から晋が韓・魏・趙に分裂した前453年まで(または、これを東周が承認した前403年まで)を春秋、のち前221年秦の統一までを戦国時代という。封建諸侯を邑国とした都市国家は春秋初期に約250国を数えたが、互いに攻防を繰り返し、戦国末期には7つの大国とわずかの小国を残すのみとなった。
 北方の斉・晋、南方の楚・呉・越を「春秋の五覇」と呼ぶことがある。覇者とは国家連合の指導者というほどの意味である。北方ではまず斉の桓公が名宰相管仲(カンチュウ)を得て覇者となった。その死後、晋の文公が覇権を得、百数十年中原に号令した。一方、南方では楚の荘王の勢力拡張、呉越の死闘(前473年呉は越に滅ぼされる)、楚の覇権と推移した。
 戦国時代には「戦国の七雄」と呼ばれる、斉・韓・魏・趙・燕・楚・秦という強国が権力をうち立てた。まず魏が文侯が李カイ(孔子の孫弟子、カイはリッシンベンに里)を登用し富強の国となった。最後に秦の孝公が商オウ(革に央)を起用して発展した。孝公が亡くなると商オウは、反対派勢力により殺されたが、国力を充実させた秦は東進を開始した。これを契機に他の六国は活発な外交活動を展開して、縦横家と呼ばれる外交専門家が活躍、その代表が蘇秦と張儀で、それぞれ合従策、連衡策を論じた。
 春秋時代の戦争はもっぱら士以上の身分の者が参加し、四頭だての馬がひく戦車戦が主体だったが、戦国時代には歩兵(徴募された農民)を主力とする常備軍を、将軍が指揮する大規模な戦いとなり、戦禍が格段に大きくなった。
 春秋戦国時代の特徴は、第1に周の封建諸侯を封じた邑国が都市国家であったのに対し、都市国家が領土国家に整理統合されていく過程だったこと。第2に身分制度が崩壊し、諸侯・卿大夫・士・庶人の西周以来の身分制度のうち、貴族でなかった士・庶人のうちの士から学識・能力のある者が政治の舞台に台頭したこと。第3に鉄器の普及によって、農業・手工業が飛躍的に発展したこと。第4に文字が一般に普及し、いわゆる諸子百家が登場して、思想の黄金時代を迎えたことである。

 斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君は戦国の四君子と称せられ、いずれも各国の公子で国政を掌握したが、広く人材を集め、財力を傾けて門下に数千人の食客を集めたことで知られる。斉の宣王(前319〜301在位)も思想家を愛し、そのパトロンとなった。戦国最大のその国都臨シ(サンズイに緇の右)に彼らを優遇し、これを「稷下(ショクカ)の学士」と呼ぶ。これらの学者や思想家は諸子百家と総称され、自由に討論を繰り広げ相互に影響しあったので「百家争鳴」ともいわれる。かくて、仏教を除いて中国思想の原型は、ことごとくこの時代に萌芽したのである。
 諸子百家のうち、有力であったのは儒家・墨家(墨子)・道家(老子,荘子)・法家(韓非子)である。その第一の功労者孔子(前551〜479)の没後、弟子たちは各国に仕え、あるいは教育に専念した。その門下、孟子・荀子はそれぞれ性善説・性悪説を唱え、二大学派にわかれて発展をとげた。