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2.古代エジプト

 前5cギリシアの歴史家ヘロドトスはその著「歴史」で「エジプトはナイルの賜」と言った。
 ナイル川はヴィクトリア湖を水源とし、その全長は6700km。また、エチオピア高原を水源とするのを青ナイルと言い、本流(白ナイル)と現スーダンの首都ハルトゥームで合流して、ナイル川となる。
 河口付近は地中海性気候に属するため、雨は冬季に集中するが、雨量は河口の西と東では全然異なり、西端のアレクサンドリアで年平均降水量が204ミリ、東端のポート・サイードでは89ミリしかない。地中海から遠ざかれば雨量はさらに激減し、デルタの根っこにあたるカイロではたったの24ミリになってしまう。中部エジプト以南では降雨は極めて稀となる。
 エチオピア高原の雨期はエジプトとは逆に夏に集中する。白ナイルの流量は年間を通じてほとんど変わることがないので、青ナイルの水流が増水のメカニズムの源となる。

 6月大地がからからに乾燥し、水位も最低に下がったナイルに、増水の開始をつげる河のせせらぎの音が聞こえ始める。水位は上昇を続け、9月中旬から10月上旬にかけて最高に達する。あふれた水は両岸の自然堤防を越えて周辺を覆い、増水で運ばれてきた有機質に富んだ沃土が沈積する。10月末に増水が終わると、後には肥沃な「黒い土」が残される。
 増水開始の時期は規則的で、全天中もっとも明るい恒星であるおおいぬ座のシリウス(エジプトではソティスと言う)が日の出の直前に東天に出現したときが増水の開始を告げるもので、この朝出と朝出の間が365日であることから、1ヶ月30日、12ヶ月に閏日5日を加えた暦が考案された。12ヶ月は四ヶ月ずつ、増水期、冬期、乾季に分かれる。

 エジプトでは古来数千年「ベイスン・イリゲイション(貯溜式灌漑法)」が利用された。最高位に達した増水を畑に導き、そのまま水門を閉じて40〜60日放置、この間に肥えた土が畑に積もり、さらに土壌中の塩分が貯溜水に溶け込むので土壌の塩化も防ぐ。本流の水位が下がった後、水門を開けて一気に排水すれば、後には地力を更新した畑が残されるというわけだ。19cエジプトの近代化が始まり、換金作物である綿、さとうきびの栽培のため、ダムを設けて本流をコントロールする灌漑への転換が始まるまで行われた。

 前3c始めマネトというエジプト人神官が、プトレマイオス朝プトレマイオス2世のため古代エジプトの歴史を献上した。最初の統一国家からアレクサンドロス大王に征服されるまでの間を31の王朝に区分したもので、この区分は当時各地の神殿に保管されていた歴史記録に基づくものとされ、トリノ博物館所蔵の王名表パピルス(トリノ王名表と言う)の王朝区分とよく対応する。以下マネトの区分に従い、古代エジプトの歴史を概観しよう。

古王国時代

 第1・2王朝時代を初期王朝時代と呼ぶ。王都はメンフィスで、この頃の王は上エジプトの有力首長の中の第一人者に過ぎなかったようだ。

 第3王朝〜第6王朝をエジプト古王国時代(前2650〜2145年)と呼ぶ。王都は引き続きメンフィス。第3王朝2代王ジュセル(在位前2635〜15年頃)は、東西125m、南北109m、高さ62mの階段型ピラミッドをサッカーラに造営した。
 第4王朝初代王スネフェル(在位前2578〜53年頃)はダハシュールやメイドゥムに3基の方錘型ピラミッドを造営した。それぞれ一辺189m・高さ101m、一辺219m・高さ99m、一辺144m・高さ92mの3基で、これらは方錘ピラミッド建造方法への試行錯誤を行ったものと推定されている。
 スネフェルに続く3人の王、クフ(在位前2553〜30年頃)、カフラー(在位前2521〜2495年頃)、メンカウラー(在位前2488〜70年頃)は、それぞれギザに現在も偉容を誇る方錘型の3大ピラミッドを造営、ピラミッド建築の最盛期を作った。
 クフ王の大ピラミッドは一辺230m、高さ146.5m、勾配51°50分という最高の技術水準で作られた。カフラー王のピラミッドも遜色ない大きさを誇り、一辺215m、高さ143.5mで大スフィンクスを従えている。メンカウラー王のピラミッドはかなり小さく、一辺108.5m、高さ66.5mだ。

中王国時代

 第1中間期(第7〜10王朝)を経て、エジプト中王国時代は第11王朝(前2040年頃)から第12王朝迄(前1786年頃)又は第13王朝迄(前1715年頃)を言う。
 第11王朝4代メンチュヘテプ2世によってエジプト全土が統一された。首都テーベ後イチ・タウイ(メンフィスの近く)。

 第2中間期(第13又は14〜17王朝)における第15王朝は異民族ヒクソスが支配した。メソポタミアをヒッタイト(小アジア)、ミタンニ(アルメニア)、カッシート(バビロニア)が支配した頃、民族移動の余波がシリア・パレスティナに及び、エジプトでも第14王朝が衰退した頃、ヒクソスがエジプトに侵入した。彼らによって、エジプトに馬と戦車がもたらされた。

新王国時代

 第18王朝〜第20王朝をエジプト新王国時代(前1552〜1070年)と呼ぶ。首都はテーベ。
 第18王朝3代トトメス1世はアメン神を祭るカルナック神殿を大規模に拡張し、王家の谷に初めて王墓を造営した。
 5(6?)代トトメス3世(前1490〜36年)は幼少のとき、前王トトメス2世の正妃でトトメス3世の正妃の母のハトシェプストがトトメス3世の共治王として権力をふるった。トトメス3世が実権を握った後、シリア・パレスティナを巡ってミタンニと対立、17回に及ぶアジア遠征を行った。
 第8代トトメス4世(在位前1412〜02年頃)の時、エジプトとミタンニは同盟条約を結び、シリア・パレスティナを巡る国際情勢は安定した。そのため両国に加え、バビロニア(カッシート)、アッシリア、ヒッタイト、クレタ、キプロスの間に交易が栄えた。

 第10代アメンヘテプ4世(のちアケナテン(イクナートン)と改名、在位前1364〜47年頃)はアメン神官団の権威に対抗するため、太陽神アテンを国家神とするアマルナ革命を行った。これは新都をエル・アマルナに建設したためだ。アマルナのアテン神殿に飾られたアケナテン王巨像に代表される芸術は、独特の写実主義的人体表現をとるため、アマルナ美術と呼ばれる。しかし、アケナテン死後は再びアメン神が国家神の地位に復した。
 11代ツタンカーメン(在位前1347〜38年頃)はわずか9歳で即位、摂政らにより都はメンフィスに戻された。早世して王家の谷に埋葬されたが、もともと王墓として建造されたものではなかったため小規模であり、これが幸いして盗掘を免れ、1922年ハワード・カーターによって完全な形で発見された。

 第19王朝2代セティ1世(在位前1304〜1290頃)はカルナックのアメン大神殿に大列柱室を建造し、その威容は天井石を失っただけで現在に伝わっている。
 3代ラメセス2世(在位前1290〜24年頃)はヒッタイトからシリアの回復を目指し、少なくとも4回以上アジアに遠征、前1286年ヒッタイト王ムワタリとのカデシュの戦いは引き分けたが、ヒッタイト、エジプトの両方から戦いの記録が出土している。また下ヌビアに多くの神殿を造営、中で最大のアブシンベル神殿は、岩山に彫り込まれた高さ約20mの四体の王の座像で有名だ。

末期王朝

 第21〜31王朝(前1070〜332年)を末期王朝時代と呼ぶ。
 前663年エジプトはアッシリアの一部となる。第25王朝。
 前655年アッシリアから独立、サイス朝エジプト(第26王朝、〜525年)と呼ぶ。
 前525年アケメネス朝ペルシアのカンビュセスに降伏、ペルシア帝国の属州となる。第27王朝。
 前404年ペルシア帝国から独立。第28〜30王朝(いずれも土着王朝)。
 前341年再びペルシア帝国の一部となる。第31王朝。前332年アレクサンドロス大王がペルシア軍を追った。マネトの王朝区分はここで終了する。