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7.ギリシア

 ミケーネ諸国の崩壊後のギリシア本土には、ギリシア北部にいたドーリス人が南下し、ペロポネソス半島や、クレタ島その他の南エーゲ海の島々に定住した。彼らは前8c始め頃からポリスを形成していった。ポリスのミケーネ諸国との明らかな違いは、支配者がいないこと、専門の軍人も役人もいなかったことで、ポリス構成員は、資格を備えた者が交代で行政を担当し、必要とあればポリス防衛のため戦場へ出かけた。
 ポリスを形成する一方前8c半ばから前6c半ばの200年間、ギリシア人たちは地中海各地に出かけて定住した。これを大植民の時代といい、アドリア海沿岸、南イタリア、シチリア島、フランス南岸、スペイン東岸、エーゲ海北部、黒海沿岸、北アフリカのリビアなどに植民市を建設した。
 またギリシア人はフェニキア人との交流によってオリエントの文化を摂取、みずからもレヴァント(シリアとフェニキアの地中海沿岸)での交易基地をアル・ミナ(オロンテス川河口)に築いた。文化の摂取でもっとも重要なものはアルファベットの移入で、フェニキア文字を借用して前8c半ばギリシア・アルファベットが使われ始めた。
 ポリスには専門の軍人がおらず、国家防衛の戦いは、武器を自弁できる成員が参加して行われた。初期には高価な武器と馬を調達できる貴族が防衛の責務を担ったが、前7c半ばまでにはポリスの戦術は重装歩兵の密集隊戦術に移行した。

*密集隊戦術は平民が経済的に上昇し、戦闘に参加できる成員が増加したときに実現した。密集隊の兵士は左腕で丸くて大きな楯を、右手に長い槍を持ち、青銅の兜と胸甲、すね当てをつける。横一列に並んで隊列を組み、右半身を右隣の兵士の楯で隠すようにして防御を固める。この隊列が幾重にも並んで槍を前方に構え敵に対して前進する。このとき隊列の一番右端の兵士の右半身は無防備となるため、密集隊形の軍勢がぶつかり合うと、隊列の左側が相手の無防備な方へ回り込もうとして、戦列は右へ右へと傾き、歩兵の斜め前進が例外なく生じたという。

 ポリスでいち早く大国化したのはスパルタだった。スパルタは先住のアカイア人(ギリシア人の一派)をドーリス人が支配下に収めて前8c半ば成立した。前7c始めには隣国メッセニアを併合、被征服民はヘイロタイ(隷従身分)、一部はペリオイコイ(周辺住民、参政権がない)となった。被征服民の叛乱を抑えるため、市民が軍事訓練に専念するリュクルゴス体制という強固な警戒態勢を持つ国家を作り上げた。スパルタには民会と長老会があって、民会は国の最高の決定機関だが、長老会は民会の議案を前もって審議し、民会の決定を拒否する権限を持っていた。長老会は二人の王と28名の長老から成った。二人の王がいても王国であることを意味せず、王は戦時に軍隊を指揮する権限と、国の祭祀を司る権限を持つのみだった。また、スパルタはリュクルゴス体制の下、前6c半ばまでにギリシア第一の強国となり、ペロポネソス半島の諸ポリスが参加するペロポネソス同盟を結成した。

*リュクルゴス体制:男子は7歳になると親元を離れ集団生活に入り、年齢別に兵士になるための共同訓練が行われた。20歳で兵士として軍隊に編入、結婚できるが、30歳までは集団生活を続けさせられた。30歳を過ぎても、各自食糧を持ち寄って共同で食事をとった。女子はもっぱら子を産み、育児に専念し、虚弱な赤ん坊は新生児分別という制度で捨てられた。また女子の場合も、丈夫な子を産むため、身体を強健にする訓練を受けた。

 ポリスは貴族の政治から民主制(もっとも奴隷社会であることが前提で、女性に参政権は無かった)へと移行したが、その過渡期には僣主が現れた例が多い。僣主とは、非合法的に独裁者の地位に就いた者のことで、貴族間の抗争や貴族と平民の対立を利用して政権を掌握した。その地位は決して堅固ではなかったが、前7c〜6cにはギリシア各地に出現していた。有名なのはコリントスのキュプセロスと彼を継いだペリアンドロス親子だ。コリントスは前7cには海陸両面で商業活動の中心地となり、オリエントの文様を取り入れた土器を他のポリスに先駆けて量産して、ギリシアでもっとも繁栄を誇るポリスとなった。

 アテネでは貴族政治(前8c)−財産政治(前594年)−僣主政治(前546年)−民主政治(前508年)の順に発達した。前594年ソロンは債務の帳消しで、債務奴隷となっていた市民を救済し、身体を抵当に入れることを禁止する一方、市民を財産によって等級分けし、政治への参加を出自(貴族の独占)でなく財産によることを決めた。これをソロンの改革といい、以後を財産政治という。

 ソロンの改革の後しばらくすると再び貴族間の抗争が激化、その争いを勝ち抜いてペイシストラトスが僣主となった。かれは僣主となってからも二度追放されたが、前546年三度目の僣主に返り咲き、以後病死する前528年まで安定政権となった。彼の勧農政策により市民の生活は安定し、やがて始まる民主制の担い手が育成された。
 ペイシストラトス死後二人の息子は暴政を行い、スパルタの介入を招いて僣主政は崩壊した。その後上層市民の間で争いが激化、イサゴラスとクレイステネスの貴族同士の政権争いに収斂した。イサゴラスがスパルタに支援を求め再びスパルタが軍隊を送り込んだが、市民の抵抗にあって失敗、クレイステネスが呼び戻された。

 前508年クレイステネスの改革でアテネは民主制に移行した。改革は従来の四部族制に代わり、10部族制を採用、市民はいずれかの部族に所属し、各部族の下部組織のデーモスが基本行政単位となった。最高決定機関は民会だが、日常の行政は評議会が担当し、評議会議員はデーモス単位に人口に応じた人数が選出された。議員の任期は1年、重任はなく、再任も一回だけだった。また、陶片追放制度を採用し、独裁者の出現を未然に防いだ。陶片追放制度というのは、僣主になりそうな人を、皿のかけらなどに名前を刻んで投票するもので、これによって弾劾された者は10年間アテネの町を追放された。

ペルシア戦争

 ペルシア戦争(前492〜479)については、ヘロドトス「歴史」に詳しい。ペルシア帝国の大軍に対し、アテネを中心とするギリシア都市連合軍がいかに戦ったかを記述するため、ヘロドトスは「歴史」を書いたという。
 ことの起こりは、イオニアの諸ポリスが前499年アケメネス朝ペルシアに対して反乱を企て、これにアテネが支援したことだった。反乱は前494年ミレトスが陥落して鎮圧されたが、怒ったペルシア王ダレイオス1世は、反乱に加勢したアテネに対し前490年大遠征軍を派遣した。

 ペルシア軍はエーゲ海を横切ってナクソスなどを平定しながらアッティカの東岸マラトンに上陸、ここでアテネの将軍ミルティアデス率いる重装歩兵が目覚ましい戦いぶりでペルシア軍を敗走させた(マラトンの戦い)。このとき軍事大国スパルタは、アテネから援軍派遣を求められていたが、マラトンには合戦の一日後に到着した。その支援なしでペルシアの大軍を撃退したアテネの評価は、いやが上にも高まった(第1次ペルシア戦争)。

 マラトンの戦いから10年後の前480年、ダレイオスの子クセルクセス王は、父の遺志を継いで再びギリシア征服を試み、王みずからエーゲ海の北岸沿いに侵攻した。ギリシア側の作戦では、テルモビレーでスパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がペルシア陸軍を迎え撃ち、アルテミシオン沖でアテネを中心とするギリシア連合艦隊がペルシア海軍を迎え撃つ作戦だった。しかし、テルモビレーの戦いでは、レオニダス王率いるスパルタ軍が、前後を挟撃されて玉砕した。このため連合艦隊もアルテミシオンを撤退、ペルシア軍は楽々とアッティカを攻略した。アテネは海に決戦を求め、サラミス水道で終日戦闘が行われた(サラミスの海戦)。これによりかろうじてギリシア連合艦隊が勝利、ペルシア海軍は翌日撤退を開始し、クセルクセス王は帰国の途についた。ペルシア陸軍も北上してテッサリアで越冬、翌年プラタイアの戦いでギリシア側が辛勝した(第2次ペルシア戦争)。この後、ペルシア軍が再びギリシアに侵攻することはなかった。

*アテネの軍船は三段櫂船(トリエレス)という。乗員200名中180名が上下三段に設けられた櫂を漕いだ。漕ぎ手は武具自弁の必要が無く、貧しい市民でも参加できたので、これら下層市民がペルシア戦争に参加して発言力も高まっていった。

 サラミス海戦で最大の功績があったのがテミストクレスという人。彼は海軍を拡充し、サラミス海戦の際には、婦女子を疎開させ、作戦を立案した。しかし、後に陶片追放でアテネを追われ、敵地ペルシアに亡命した。理由は彼が何をしたというものではなく、有力者たちの勢力が拮抗する中で、権力を掌握する恐れありと判断されたためらしい。

デロス同盟

 前478年アテネを中心に150以上のポリスが参加して、対ペルシア攻守同盟が結成された。エーゲ海のデロス島に本部が置かれたためデロス同盟と通称される。軍船や拠出金を提供する国や額の決定はアテネが行い、財務もアテネが担当した。拠出金を集めた同盟金庫もデロス島に置かれたが、後前454年にはアテネに移管され、拠出金の運用でアテネは勢力を伸張、スパルタはアテネに対する警戒心を増大させた。
 この間アテネではキモンが出、エーゲ海北部からペルシア人を排除するのに貢献し、小アジアへの遠征軍を指揮した(前467年)。国内ではアイスキュロス「ペルシアの人々」(前472年)、ソフォクレス、エウリピデスの三大悲劇詩人らの作品が上演された。

 キモンは保守派で親スパルタ派であったため、アテネ国内で次第に不利になり前461年陶片追放(10年を経ず帰国を許される)、次第に民主制推進派が台頭した。その黄金時代がペリクレス時代(前451〜429年)だ。前451年ペリクレスの提案になる市民権法が成立、アテネ市民権は両親がアテネ市民である者に限ると定められた。前447年からアクロポリスにパルテノン神殿の建設事業を推進した。また民主制を徹底し、民衆法廷の陪審員になる市民に手当を支給する制度を作った。

*パルテノン神殿:アテネの中心地アクロポリスの丘に建つこの神殿は、前447年守護神アテナを祀るため国の威信をかけて建設に着手、15年の歳月をかけて完成した。パルテノンの名はアテナがパルテノス(処女)神であることに由来する。神殿は後キリスト教会、イスラームのモスクなどに転用されながらも長く完全な姿を保っていたが、1687年オスマントルコ軍が建物内に貯蔵していた火薬がヴェネツィア軍の砲弾のため爆発して大きな被害を受けた。その後廃墟となっていた神殿を、19c始めイギリスの駐トルコ大使エルギン卿が移動可能な大理石のほとんどを買い取り、本国へ運んだ。この神殿壁面を飾っていた浮き彫り板などの大理石群は、現在ロンドン大英博物館にエルギン・マーブルとして展示されている。

 前449年アテネ・ペルシア間に「カリアスの和約」が成立、小アジアで断続的に続いていた戦闘が終結した。しかし、アテネはデロス同盟を維持し、脱退を希望する国に対して武力をもって抑圧した。またデロス同盟の資金を流用してパルテノン神殿を建設したりなどしたので、スパルタ他のポリスが反発、ペロポネソス戦争(前431〜404年)が勃発した。 ペロポネソス戦争はトゥキュディディス「歴史」に詳しい。
 開戦の翌年アテネでは疫病が発生、ペリクレスの作戦で住民は城壁内に避難していたためたちまち蔓延し、死者は1/3に達した。ペリクレスもこの病で前429年没した。しかし、戦況はアテネ有利に推移したため、ペロポネソス戦争中の前415年アテネは無謀にもシチリアに遠征した。これは2年後遠征軍のほぼ全軍が壊滅するという結果に終わり、この知らせによって、デロス同盟から離反する国が相次いだ。この後ペロポネソス同盟軍によってアテネへの陸上輸送が遮断されるなど、アテネにとって戦況は悪化の一途をたどり、前412年スパルタとペルシアが同盟締結、前405年には海上封鎖もされて餓死者が出るに至り、前404年アテネは降伏した。

 ペロポネソス戦争後、スパルタはアテネに代わって覇権を掌握しようとした。小アジア沿岸のギリシア諸国がアテネの支配から脱すると、ペルシアがこれらの国々に干渉を加え始めたため、スパルタは前396年ペロポネソス同盟軍を小アジアに派遣した。しかし翌年スパルタの覇権拡大に反感を持ったテーベが、スパルタを相手にコリントス戦争(前395〜386年)を始めた。裏にはペルシアの反スパルタ工作があったが、コリントス、アテネもテーベに応じて共同戦線を組んだ。前386年スパルタとペルシアが和約し、小アジア沿岸のギリシア人諸国とキプロスがペルシアの支配に服し、他のギリシア諸国はスパルタの支配を脱した。こうしてペロポネソス同盟は存続するものの、スパルタの野望は潰えた。

 その後、テーベはペロピダス、エパミノンダスの指導の下、急速に国力を高めた。前371年レウクトラの戦いでペロピダス率いるテーベ軍がスパルタを破り、また、エパミノンダス指揮下にペロポネソス半島に進軍、長年ヘイロタイ身分に落とされていたメッセニアを解放した。そのテーベも前362年テーベの覇権を警戒したスパルタ、マンティネイア、アテネなどのポリスと戦って破れ、エパミノンダスが戦死して(ペロピダスもその前に戦死)、以後テーベは急速に衰退した。テーベのみならず、ギリシアはその後混乱の度を深めて、全土が衰退していった。

ギリシアの文化

 ギリシア全土が参加するお祭り「オリンピアの祭典」は、ポリスが形成された当初の前776年から開催された。祭典はギリシアの神々に献納する目的で、場所はペロポネソス半島西部のオリュンピアという町で行われた。前8cから4年ごとにずっと開かれた。円盤投げ、レスリングなど、祭典は三ヶ月間行われ、その間戦争は休戦となった。これをオリンピックの平和という。なぜかというと、祭典はゼウス神に捧げる儀式で宗教行事だったから、休戦を破ると祭典への参加権が無くなり、デルフォイの神託がもらえなくなる。女人禁制、選手は素っ裸だった。

*ギリシアの神々:ギリシア北部のオリュンポス山に棲まうという神々で、ゼウス、ヘラ、ポセイドン、デメテル、アテナ、アポロン、アルテミス、ディオニュソス、アレス、アフロディテ、ヘルメス、ヘファイストスの十二神をいう。オリュンピアはゼウス神域とされていた。
*デルフォイ:ギリシア本土とペロポネソス半島の間のコリントス湾に面した町で、アポロンの神託所として古くからギリシア人の尊崇を集めた。

 思想・文化面でギリシアは特筆に値する。何しろ、労働を奴隷がするギリシア人は暇なので、いろいろなことを考えた。自然哲学では、タレース、ヘラクレイトス、デモクリトス、ピタゴラス。思想・哲学ではソフィストたち、ソクラテス、プラトン、アリストテレス。文芸ではヘシオドス、ホメロス、アリストファネスなど。

*ソフィスト=授業料を取って、アテネ民会での議論に勝てるような弁論述を富裕者の子弟に教えた人たち。
*ソクラテス=知徳合一を唱え、ソフィストたちと対決した。前399年青年を腐敗させたかどで死刑に処せられた。
*プラトン「ソクラテスの弁明」「国家」=ソクラテスの弟子。哲人を支配者とする国家を理想とした。前347年没。
*ヘシオドス「仕事と日々」=前700年頃のボイオティア地方の一寒村に住んだ農民詩人。人間は労働によってこそ家畜もふえ、裕福にもなる。働かぬことこそ恥だとした。しかしその後のギリシアでは、生産労働は奴隷の仕事という認識が一般的になる。
*アリストファネス「女の議会」(前392年)=女たちが男に変装して民会に出席し、女たちに政権を委ねてしまう喜劇。