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16.ゲルマン民族大移動とフランク王国

 ゲルマン民族の一派ゴート族は元スカンディナビア半島から1c頃バルト海対岸にわたり、それから1c半ののち一大勢力に成長した。ローマ帝国領内には早い時期から傭兵として移り住んだ。

 375年中央アジアから遊牧騎馬民族フンが怒濤の勢いでヨーロッパに襲来した。ウクライナにいた東ゴート族の一部はローマ帝国の保護を求めてドナウ地方に移動、多くはフン族支配に屈した。翌年には西ゴート族が黒海から追われ、ローマ東皇帝ウァレンスは、彼らがアリウス派キリスト教に改宗していたこともあって帝国領内トラキアへの定着を許した。
 しかし、ローマ商人のあこぎな振る舞いをきっかけに西ゴート人は反乱を起こし、378年これを鎮圧しようとしたウァレンス帝はアドリアノープルの戦いで戦死した。ローマ軍は敗退し、以後ゲルマン諸族がローマ帝国領を切り取って国家を形成していく。

 5c初頭に新たに西ゴート族指導者となったアラリック1世は一族を引き連れてイタリア半島に侵入したが、説得に応じガリアへと撤退した。跡を継いだ義弟アタウルフはガリアに移動、人質としてローマから伴っていたテオドシウス帝の娘ガラ・プラキディアと結婚してローマとの和解を演出した。
 翌年アタウルフは暗殺され、ガラ・プラキディアはローマへ帰った。418年新王ワリアはローマとの契約の下、南アキタニア(南フランス)のトゥールーズを首都として西ゴート王国を建設、帝国領内のゲルマン諸王国の初めとなった。西ゴート王国はフン族やイベリア半島に侵入していたゲルマン諸族と戦い、時としてローマ帝国との同盟を破り争うこともあった。
 特に451年カタラウヌムの戦いで、西ローマやアランと同盟しアッティラを破って、フンのガリア征服を断念させた。

 ゲルマン人の一派ヴァンダル族は北アフリカのカルタゴを首都として、439年王国を築いた。元中央ヨーロッパのシュレージェン地方にいた複数部族の連合で、ゲルマン民族大移動のあおりを受けて400年頃から西に移動し、ピレネー山脈を越えてスペインに入った。アンダルシアという名はヴァンダル族の名残という。その後、トゥールーズに建国した西ゴートと対立、429年ガイセリックに率いられてジブラルタル海峡をわたり、アフリカに上陸した。途中で進撃を阻止するローマ都市を一つひとつ制圧しながら、10年後ようやくカルタゴに定着した。

 453年フンのアッティラ没、死後フン帝国はあっけなく瓦解した。フンに服従していた東ゴート族はローマの同盟部族となった。しかし、定着を許されたパンノニア(現ハンガリー)は、度重なる動乱で荒廃しきっており、機会をとらえては反乱と略奪に乗り出さざるを得なかった。
 東ローマ帝国で人質として過ごしていたテオドリックは、部族への帰還を許されると王位につき、同時に皇帝ゼノンにより東ローマ軍最高司令官に任命された。
 476年西ローマ帝国がゲルマン人の王で傭兵隊長をつとめていたオドアケルによって、最後の皇帝が追われ滅亡すると、東ローマ皇帝ゼノンはテオドリックをオドアケル討伐に差し向けた。テオドリックは首尾よくオドアケルを倒したが、東へ戻らずイタリアにとどまって、493年ラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建国した。

 北海沿岸を拠点としていたサクソン人、アングル人、ジュート人らのゲルマン諸族は、5c半ばおそらく人口増加を原因として、ブリテン島への進出を本格化させた。すでにローマ軍は410年ブリテン島を完全に引きあげており、ローマ撤退からゲルマン進出までの半世紀は、ケルトの族長たちが独自の勢力をたくわえていた。サクソン人が到来したとき、これを迎えうった族長のひとりが、ケルト人とローマ人の血を引いたブリトン人アルトゥリウスで、これが「アーサー王」のモデルだとされる。
 サクソン人はブリテン島侵入とともに、この島の東部3分の1をまたたく間に手に入れ、しかも大陸からの移民の波は断続的につづき、6c初めにはアングロ・サクソン7王国が誕生する。あおりを受けてブリトン人は南西コーンワルやウェールズに押し込められるか、大陸のブルターニュに移住するかした。

 さて、ゲルマンの王たちは、もともと移動する部族だったため、宮廷機構は発達しようもなかった。彼らがそれを必要としたとき、すでにあるローマの組織や人材に頼った可能性が大きい。もっとも整っていたのは東ゴートのラヴェンナにあった宮廷で、西ローマ皇帝府の組織と人材をそっくりみずからの宮廷に転用した。
 ゲルマンの宮廷への勤務は、王への個人的な誓約と託身に基づいていた。後継者たる王の息子たちも規模こそ小さいものの独自の宮人集団を抱え、新王として即位するときは子飼いの者たちを王の宮人として登用した。亡くなった王の廷臣たちは、その死の時点からただちに無用の人となる運命だった。

フランク王国

 フランク人が歴史に初めて登場するのは3c中頃だ。現在のネーデルラント、ベルギー北部の地域を拠点とし、ほとんど移動をしていない。ローマ帝国との関係は深く、パリで皇帝に祭り上げられたユリアヌス帝には側近になったフランク人が多かった。また、西帝国の執政官になったバウトの娘エウドキアは、東ローマ皇帝アルカディウスの妃となり、テオドシウス2世を生んだ。

 481年フランク王キルデリクスの子クロヴィス(Clovis、現代フランス語のLouisルイ、現代ドイツ語のLudwigルートヴィヒにあたる)が王位をついだ。野心家のクロヴィスは南に勢力を拡大すべく、486年北ガリアに権勢を誇っていたローマ人貴族シャグリウスを破り、支配地域をロワール川北部に拡大した。また東ゴート王国テオドレック王に妹のオードブレダを嫁がせ同盟を固めた。
 493年ブルグンド王女クロティルダと結婚、この王妃の薦めで496年、クロヴィスは3000人のフランク人戦士とともにアリウス派キリスト教からカトリックに改宗した。これは力を増していたローマ教会との協力関係をうち立てるのに計り知れない重要性をもった。
 507年ヴイエの戦いで、ガリアの覇権をめぐり、西ゴート王国アラリック2世と最終決戦を行い、アラリック2世は戦死、西ゴート族はスペインに退きトレドを都とした。こうしてライン川からトゥールーズに至るフランク王国が誕生する(メロヴィング朝)。

 508年パリを都に定め、セーヌ左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院を建設、その遺構は今もクロヴィス塔として残る。クロヴィスの宮廷はパリにあったローマの地方政庁の人材を用いたらしい。すでにシャグリウスがローマ人の王として支配を始めていたので、伝統的な官庁組織は崩れていたが、それを継承したものだ。

 晩年にはフランク人の小王クラスの名門家系にある者たちを、次々と奸計にかけ抹殺した。それ故メロヴィング朝は他の有力家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったといわれる。またメロヴィング朝では、政略結婚でない場合、妃はフランク人有力者の娘を避け、奴隷など著しく身分の低い女性が選ばれた。結婚により、一族が王家の親戚となって、王族に等しい血統と見なされるようになるのを避けたからだ。

 メロヴィング朝では中央の支配機構と地方の組織が、人の面でも制度の面でも連携がなくバラバラの印象が強い。地方の支配はローマ時代の拠点都市キウィタスを軸として行われた。キウィタスのほぼすべてが司教座になっていたこともあって、聖俗の統治と行政の要となった。王権はここに都市伯(コーメス・キウィタテス)を置くのだが、中央から伯を派遣するのでなく、セナトール貴族など地元の有力者たちが協議して、自分たちの利害を代弁する人物を選び、王権がこれを認証するというものだった。

*セナトール貴族:セナトールとは元老院議員の意味だが、ローマ帝国が帝政となってその威光が過去のものとなり、コンスタンティヌス帝のとき皇帝府の高級官僚にセナトール貴族の称号を与えたのが初めで、大土地所有者でもあった。

 クロヴィスは晩年「サリカ法典」を制定した。フランク王国に限らず、ゲルマン諸族は自分たちの法典の編纂を非常に熱心に行った。
 ゲルマン人の社会では、「訴えなければ裁判なし」が大原則だった。定期的に開かれる裁判集会や臨時集会に訴え出るのだ。捜査機関というものが存在しないので、原告は自分で被疑者を捜し、特定できなければ泣き寝入りになる。訴えは従って、被告人が特定されていることが前提だった。双方が異なった証言をしたときは、神の審判に委ねる。赤く熱した鉄片を素手でつかんだり、熱湯に手をいれたりして、傷の浅い方が真実の証言者と見なされた。手足を縛って水に投げ込み、浮き沈みで判定する方法もあり、この審判では沈んだ方がよしとされた。刑罰は罰金主義で、「サリカ法典」では被害者の身分、性別などによって詳細に定められている。

 クロヴィスは511年死去に際し、遺領をフランク人特有の均等分割相続の習慣に従って、4人の息子に分割する。これによって国力は衰えた。
 7世紀に入ると王国はさらに分裂し、次第に分国(地域)の宮宰に権力が移っていく。この状況下でアウストラシア、ネウストリア、ブルグンド三分国(地域)の宮宰の台頭は著しく、特にアウストラシア宮宰カロリング家から次代のフランク王国カロリング朝が開かれる。

 さて、東ローマ帝国ではユスティニアヌス1世が皇帝となると、古代ローマの栄光を取り戻すべく、534年ヴァンダル王国を征服、555年東ゴート王国を征服した。しかしその没後は、ゲルマンの一派でユスティニアヌスに協力したランゴバルド族がイタリアに侵入し、パヴィアを首都として王国を建設した。ランゴバルドはイタリア語でロンバルドと呼び、ロンバルディア平原などの語源となる。

カロリング朝フランク王国

 カロリング家はフランク王国の分国アウストラシア(現在のドイツ南西部、フランス北東部、ベルギー、ネーデルラントに相当)で代々宮宰となった。カール・マルテルは714年父から宮宰職を継ぎ、718年にはフランク王国全体の宮宰となり、メロヴィング朝の実権を握って、事実上の国王のようにふるまった。
 この頃、イスラーム勢力(ウマイヤ朝)が711年ジブラルタル海峡をわたりイベリア半島に進出、同年トレドを首都とする西ゴート王国は、イスラームにより征服された。その勢いはとどまるところを知らなかったが、カール・マルテルは732年トゥール・ポワティエ間の戦いでこれを撃破し、イスラーム勢力の侵攻を食い止めた。

 カール・マルテルが741年死去すると、その子ピピン(アウストラシア宮宰だった大ピピンとの対比で小ピピンとも呼ばれる)もフランク王国宮宰の実権を握り、751年もはや名目のみとなっていたメロヴィング朝キルデリク3世を廃し、フランク貴族たちによって王に選出されるという形でフランク王となった(ピピン3世、〜768年)。カロリング朝という。
 後ローマ教皇ステファヌス3世はパリに赴いてピピンに塗油し、王位を承認した。この見返りとしてピピンは754-5年ランゴバルド王国からラヴェンナを奪い、ステファヌス3世に寄進した(ピピンの寄進)。以後ローマ教皇領の元となる。

 ピピンの子カール(シャルルマーニュ、在位768〜814年)の代になると、ランゴバルド王デシデリウスは王女をカールの妃とし、フランク王国の脅威を取り除いて、ローマへの攻撃を開始した。773年ローマ教皇ハドリアヌス1世はカールに援軍を要請、カールはこれに応えるべく妃をランゴバルド王国に追い返して、ランゴバルド攻撃に踏み切った。774年首都パヴィアを占領、デシデリウスは捕虜となり、ランゴバルド王国は滅亡した。カールはランゴバルド王を兼ね、ローマ教皇領の保護者となった。また、父ピピンにならい、中部イタリアを教皇に寄進した。

 カールの生涯は征服行に費やされる。ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族とは772年から10回以上の遠征でザクセン戦争をすすめ804年にこれを服属させた。スペイン遠征(778〜795年)では後ウマイヤ朝のイスラーム勢力を征討し、エブロ川以北にスペイン辺境領を置いた。「ローランの歌」はこの遠征を題材にする(主人公ローランはカールの甥で、イスラム軍に包囲され、孤立無援の戦いをする)。東方では791年以降ドナウ川中流のスラブ人、パンノニア平原のアヴァール人(モンゴル系又はテュルク系と推定される)を征討してアヴァール辺境領を置いた。

 800年カールはローマ教皇レオ3世により西ローマ皇帝冠を授けられる(カールの戴冠)。ローマ教皇にとって、ビザンツの宗主権から完全に離脱するためには、みずからもローマ皇帝をもつことが必要だった。すなわち、西ローマ皇帝称号は古代の亡霊でなく、ビザンツ帝国との関係の政治力学から生まれたものだ。これに対して、ビザンツはカールの要求の半分だけを認めた。つまりフランク人の皇帝を名乗ることだけを許したのだ。

 カールはアーヘンに791年から宮廷を建設、794年に完成した。建設資材のほとんどはラヴェンナから取り寄せた。その中にはテオドリック大王の巨大な騎馬像もあった。しかし、カールの宮廷は各地を転々とした。それは、絶えず領内を移動して、伯との接触を確保する必要があったことと、この時代いまだ道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。

 地方行政は中央から伯を派遣した。ドイツの研究者たちは、彼らを帝国貴族層と呼ぶ。さらに伯を監査するため、定期的に巡察使を派遣した。カールは779年から何度か勅令を出して、フランク王国のすべての自由人が自分への忠誠宣誓を行うように命じ、巡察使は宣誓した者のリストを宮廷にもってくるよう言いつけられている。
 中央からの伯の派遣と巡察使とが、中央集権化の試みと見る向きもあるが、実態は極めて地方分権的で、封建社会が培われていった。

 一方で、カールはヨーロッパ全体に学識に優れた名高い人材を求め、教育の顧問とし、学芸の切磋琢磨を促した。世にカロリング・ルネサンスという。最も有名なのがイングランド出身のアルクイン、献詩、教会典礼、言語理論に秀でた。他にランゴバルドからペトルス(カールの文法教師)、スペインの風刺詩人テオドゥルフス、アイルランドの詩人ドゥンガル他、彼らはアーヘンの宮廷や各地の離宮など、カールと共に転々と移動した。

 カール死後、王国は生存していた息子が一人だけだったため、その息子が相続しルートヴィヒ(ルイ)1世(在位814〜840年)となった。
 しかし、ルートヴィヒ死後、長子ロタール1世が権力を掌握して西ローマ皇帝を継承したものの、他の2人の息子ルートヴィヒとカールが兄に反旗を翻し、841年フォントノワの戦いで勝利した。その結果843年ヴェルダン条約が結ばれ、王国は東(ルートヴィヒ2世)、中(ロタール1世)、西(カール(シャルル)2世)、に分割された。

 西フランク王国は当初から地方分権化が進んで諸侯が台頭し、王権は弱体だった。987年カロリング家の血統が断絶、分家のユーグ・カペーが継承してフランス王国となる。

 東フランク王国ではカール3世が881年西ローマ皇帝として戴冠、884年には西フランク王を兼ね東西を再統一したが、887年ノルマン人の侵入により廃位された。カール3世の甥アルヌルフは891年ルーヴァンの戦いでノルマン人を撃退、896年西ローマ皇帝として戴冠した。しかし911年ルートヴィヒ4世の死によりカロリング家が断絶した。ザクセン朝を経て、後の神聖ローマ帝国につながる。

 中部フランク王国はネーデルラントからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で地域的な一貫性がなく、統治が困難を極めた。そのため、870年メルセン条約によって、イタリア以外の北部の領土が東西フランク王国に分割吸収された。950年頃カロリング家が断絶、その後神聖ローマ帝国時代に皇帝にイタリア王として兼任されることとなる。

フランク王国の教会

 教会組織は司教(地方教会の長)−司祭(小教区教会の長)−助祭という職制があった。司教は教会行政の管理・監督の最高責任者で、司教がいる都市を司教座といった。司祭はミサや祝祭などの行事、洗礼などの祭式を行った。助祭は教会の社会活動、救貧施設の運営、障害者の救済や病人の施療活動などを取り仕切った。新しく司教が選ばれる場合、メロヴィング朝期には宮廷の高官が天下りすることが多かったが、地元の司教座の聖職者から選ばれるときは司祭でなく、助祭に白羽の矢が立つ事例が目立つ。これは司教選出の基準が、宗教的情熱や識見ではなく、住民の生活にどれだけ奉仕したかが物差しになることを示している。

 修道院は聖ホノラトゥス(サン・トノラ)の400年頃建設したレランス島(カンヌ沖合の小島)のレランス修道院が最初だ。彼はエルサレムに巡礼し、エジプトの修道制(当時エジプトでは修道生活が隆盛をきわめ、約10万人の男女が禁欲生活を送っていた)を手本にした。レランス修道院はやがて、修道士出身の司教を各地に送り出した。というのも、レランスの初期の修道士たちは、ゲルマン民族移動に伴い、北ガリアの大農場を放棄して南に逃れてきたセナトール貴族の子弟が多く混じっていて、さながら亡命修道院の様相を呈していたからだ。これを手初めとして、司教座都市やその近郊へと修道院の建設が活発化していく。

 6cには聖ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カシーノに修道院を建設し、中世を通じて戒律の手本となった「ベネディクト戒律」を編纂した。その一方で、世俗とのつながりが密接となり、安楽な生活を送る修道院の頽廃も目立ってきた。アイルランド出身の聖コルンバヌスは、こうした弛緩した修道制や、きらびやかな法衣をまとう司教の姿に衝撃を受け、アイルランドの厳しい戒律とベネディクト戒律の中間的な「混合戒律」を普及させ、また司教座から遠く離れた田園に修道院を建設した。ブルゴーニュのリュクスーユ修道院、北イタリアのボッビオ修道院がその改革の拠点となった。

商業

 商業では6c末までヨーロッパではシリア人やユダヤ人商人の活躍が目立っていた。彼らは地中海世界の物産オリーブ油やパピルス紙、又は東方の香辛料や絹織物を西欧にもたらし、ガリア、イタリア、スペインの諸都市に居留区を作っていた。しかし、7c中頃シリア人が忽然と姿を消す。その突然の消滅は、西欧での遠隔地商業の構造変化と結びつけられ、活発な議論をまきおこした。ベルギーの歴史家ピレンヌはイスラム勢力が地中海を支配したため、ここを舞台とする自由な取引が停止してしまったと考え、「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」と評した。ピレンヌ・テーゼと言われる。
 これに対してフランスのイスラーム学者モリス・ロンバールは、イスラーム教徒が政治支配と経済活動を切り離して考えていたから、その膨張が地中海交易の途絶をもたらすはずはなく、むしろ西欧の金準備が枯渇したため、シリア人が見切りをつけて故郷に帰ったのだと主張した。
 金準備が枯渇したかどうかはともかく、6c後半〜7c前半にかけて地中海とロワール川以北の交流が停滞・途絶する。これは、北西ヨーロッパを圏域とする新しい商業ネットワークが出現したための、漸進的自然な移行の結果と考えられる。また、中世における地域間商業は様々な場所で流通税や取引税が徴収された。国王の保護を受けた商人や修道院商人のみがそうした税の徴収をまぬがれ、そうでないただの商人の利益は著しく損なわれた。こうしたこともシリア人撤退の一因だったろうと思われる。

 東ヨーロッパと行う取引で最大の商品は奴隷だった。そのため奴隷(slave)とはスラブ人を意味した。カロリング朝期となると、奴隷貿易はいっそう体系的となり、ロレーヌ地方の司教座都市ヴェルダンは、奴隷を去勢してスペインのイスラーム圏に輸出する拠点となった。
 その他の商品では、北フランスやライン地方の刀剣、モーゼル川沿いの森林地帯ホッホヴァルトのガラス製品、陶器ではライン流域のバドルフ、オルレアンのサラン、イングランドのイプスウィッチが有名だった。これらは他地域に輸出されたと考えられる。そうでなければ農村部で自給生産された。衣服などの繊維製品、陶器、製鉄と鍛冶などが、所領で生産された。

 葡萄酒は、キリスト教の浸透とともに、教会でのミサその他の典礼に欠かせなかったので、すでにローマ時代、地中海世界から発した葡萄栽培が3c末北ガリアやドナウ川沿岸に及んだ。4cにはライン川やモーゼル川沿岸、5cにはロワール川沿岸に及ぶ。イングランドやアイルランドには、フランク王国から大量の葡萄酒が輸出された。

第二次ゲルマン民族移動

 8c後半スカンディナヴィア及びバルト海沿岸に原住した、北方系ゲルマン人のノルマン人がヴァイキングと呼ばれる略奪遠征を本格化させる。その侵略は大規模かつ恒常的で、社会的混乱を引き起こしただけでなく、ヨーロッパの勢力地図を大きく書き替えた点できわめて重要だった。
 彼らはイングランド、フランス北部ノルマンディー、ロシアへと遠征して建国し、またその故地スカンディナヴィアにデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの北欧諸王国を建国した。

 865年イングランドに上陸したデーン人は、イングランド7王国のうち、イースト・アングリア、ノーサンブリア、マーシアなどを征服し、「デーン・ロー」と呼ばれる領域を構成した。後デーン人の王クヌートが1016年イングランドにデーン朝を開く。

 911年には、首長ロロに率いられたデーン人がノルマンディーに定着した。ロロはしばしば北フランス沿岸部を荒らし回り、885年には西フランク王国の都パリを包囲した。同国王シャルル3世は、911年キリスト教に改宗したロロをノルマンディ地方を与え、ノルマンディー公として封じた。ノルマンディー公国は以後ヨーロッパ内部の人間集団の流れの源となる。
 すなわち、1066年ノルマンディー公ギョーム2世は、対岸のイングランドに侵攻し、これを征服、ノルマン朝を建国した(イングランド王ウィリアム1世を名乗る)。これをノルマン・コンクウェストという。
 それより前1018年、ノルマンディー公国出身のロベール・ギスカールはイタリアへ侵攻し、南イタリアにシチリア王国(オートヴィル朝)を建国した。またギスカールの弟ロジェはシチリア島を征服した。

 ロシアに侵入した一派はヴァリャーグと呼ばれ、リューリクがノヴゴロド王国、オレグがキエフ王国を建国した(後イーゴリがオレグを後見人に882年キエフ大公国を建国)。キエフは後スラブ化し、10c東方正教会に改宗した。

 アイスランドには800年代ヴァイキングの最初の移民がなされ、ダブリンが建設された。アイスランド人レイフ・エイリクソンは北アメリカに最初に到達したが、そこに移住することはなかった。

 ヴァイキングの故地スカンディナヴィアでは、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどの国が作られる。これらの国は、大陸部よりもキリスト教化が遅れ、デンマークでは980年、ノルウェーでは11c初めイングランドの宣教師を招いてキリスト教化した。スウェーデンではさらに遅く、12cの中頃のこととされる。