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19.イスラーム帝国アッバース朝とその分裂

アッバース朝(750〜1258年)

 ウマイヤ朝は14代マルワーン2世(位744-750)のとき、預言者の叔父の血をひく家系のアッバース家に取って代わられた。
 アッバース家の代理人アブー・ムスリムという者が、746年派遣先のホラーサーンで蜂起し、ウマイヤ朝のホラーサーン総督を追放、アブー・ムスリムは将軍カフタバを司令官としてイラクへ派遣した。カフタバはウマイヤ朝軍の抵抗を排除し、749年クーファで革命運動を指導していたシーア派のアブー・サラマに迎えられた。
 アブー・サラマはシーア派から新しいカリフを選ぼうとしていたが、アブー・ムスリムがアッバース家のアブー・アルアッバースをカリフとしていちはやく忠誠の誓い(バイア)を行ったため、アブー・サラマもしぶしぶこの事実を認めた。
 マルワーン2世は反撃の軍を集結させ、アルアッバースの叔父アブド・アッラーフ率いるアッバース軍とモスルに近いザーブ川(ティグリス支流)で会戦したが、士気の低さからあっさり敗れ、マルワーンはエジプトに逃亡、その地で殺された。ここにウマイヤ朝は滅亡した。

 クーファでカリフに就任したアブー・アルアッバース(在位750〜54年)は、政権奪取に利用したシーア派の切り捨てを画策し、ホラーサーンにとどまっているアブー・ムスリムに、アブー・サラマを除く了承をとりつけた。カリフの意図を知ったアブー・ムスリムは、自ら刺客を送りサラマを殺害した。

 ときにアッバース朝成立直後の751年、アブー・ムスリムが派遣した軍と唐の安西節度使・高仙芝(コウセンシ)が、天山山脈の西北嶺フェルガーナ地方(現キルギスタン西北部)のタラス川で交戦した。高仙芝が石国(タシュケント)を襲い、財宝を奪い、その王を捕虜として長安に連れ去ったため、その遺臣がアッバース朝に援軍を求めたからだ。
 戦いはムスリム軍が勝利し、高仙芝は敗走した。タラス河畔の戦いを機に、唐人捕虜によって製紙法が中国からイスラーム世界に伝えられたことは有名だ。

*タラス河畔の戦い当時、唐は玄宗の時代。この後755年安史の乱が勃発する。

マンスールと平安の都

 サッファーフが天然痘で没すると、兄のアブー・ジャーファルがカリフ位を継承し、マンスール(在位754〜75年)と称した。兄が弟の次に即位したのは、マンスールの母親が奴隷だったからだ。叔父のアブド・アッラーフは当時シリア総督だったが、奴隷の子であるマンスールの就任を拒否し、自らカリフを称して自立したため、マンスールはアブー・ムスリムに討伐を命じた。ムスリムはモスル北方のナスィービーンの戦い(同年)でアッラーフを破り、捕虜となったアッラーフは獄中で殺された。
 次いでマンスールは、ホラーサーンに強い勢力をもつムスリムも除外すべく、ムスリムがホラーサーンへ帰る途中、クーファに近い新都ハーシミーヤに招いて殺してしまった(755年)。
 革命運動に利用されたシーア派も、新政権によって期待を裏切られ、各地で反乱の機会をうかがい、762年メディナで、翌年にはイラクのバスラのシーア派が反乱を起こしたが、2つの反乱は間もなく鎮圧され、マンスールは強力な中央集権体制をつくりあげた。
 軍隊の中核は王朝の建設に活躍したホラーサーン軍約3万だった。彼らの俸給(アター)は十分に引き上げられて重用された。イラン、シリア、エジプトの各州には総督(アミール)が派遣された。

 その後は比較的平穏で、マンスールは首都バクダード(平安の都)の建設(762-66)、駅伝(バリード)の制度を整えた。
 バクダードは直径2.35キロメートルの円形都市で、4つの城門が設けられた。北東部をホラーサーン門といい、ホラーサーン街道・シルクロードを経て唐の長安に至る。南東部をバスラ門といい、ティグリス川を船で下り、港町バスラからペルシャ湾を経てインド・東南アジアを結ぶ。西南部をクーファ門といい、クーファを経てメッカに至る。西北部はシリア門で、ユーフラテス川(現在とは流れが全然違う)を利用して途中から西進してダマスクス、北進してアレツボを経てコンスタンティノープルに至る。このように始めから世界を結ぶ国際都市として最初から構想された。
 バクダードの円城内及び、周辺には3万のモスク(礼拝所)、1万のハマーム(公衆浴場=沐浴場のこと)が建ち並んだ。ユーフラテスとティグリス両大河の間に運河が数多く掘られ、あらゆる商品が陸揚げされた。交易はシリア・エジプトから小麦粉、中国から絹織物や陶磁器、中央アジアから毛織物や奴隷、東南アジアやインドから香辛料、アフリカから金や奴隷などが運び込まれた。水利が良いため、バクダード周辺には耕地や果樹園が増えた。市内には多くの職人が集まり、絹織物・綿織物・貴金属・ガラス製品・紙などを生産し、輸出された。

ハールーン・アッラシード

 第5代カリフ、ハールーン・アッラシード(又はラシード、在位786-809年)の時代アッバース朝は最盛期を迎える。アッラシードは千夜一夜物語の主人公でもある。
 官庁(ディーワーン)ではイラン人の書記が飛躍的に増大した。彼らはアラビア語の文章と計算の才能を生かして活躍する技術官僚であった。
 中でもバルマク家は栄華をきわめた。ハーリド・ブン・バルマクは、ウマイヤ朝の末期イランからイラクのバスラ(南部の町)に移住し、仏教からイスラームに改宗した。サッファーフの下で、軍務庁と租税庁の管理を任され、またカリフの娘の養育係りをつとめた。息子ヤフヤーも王子ハールーン・アッラシードの養育係りをつとめ、ラシードがカリフに即位すると宰相(ワズィール)になった。またその息子ファドルとジャーファルも総督や諸官庁の長官職を歴任した。特に弟のジャーファルは弁舌さわやかで、文章にもたけ、カリフのお気に入りだった。
 バルマク家は訪問客でにぎわい、ティグリス川対岸のフルド宮に住むラシードは、その様子をさびしく眺めていたという。しかし、40歳になったラシードは、メッカ巡礼から戻ると、ジャーファルを殺害し、ヤフヤーとファドルを投獄して、自らの意志による帝国の直接統治に踏み切った。こうしてバルマク家の栄華は終わりをつげた。

マムルーク

 しかしアッバース朝成立後半世紀を経ると、主力軍であるホラーサーン軍は息子や孫の世代に代わり、特権のみ主張してカリフへの忠誠心が低下した。そのため、カリフは軍を保持することが次第に困難となっていった。
 そこで、9C前後には彼らに代わって、自由に動かすことができるマムルーク(奴隷軍人)を採用し始めた。マムルークとは「男奴隷」を意味するアラビア語で、その起源はウマイヤ朝にまでさかのぼる。主としてトルコ人、スラヴ人、ギリシャ人、モンゴル人などの「白人奴隷」をさし、特にトルコ人は馬上で弓を引くことができる騎馬戦士として重用された。
 第7代カリフ・マームーン(在位813-33年)は、自らが選択した髭のない、しかも顔立ちの立派な400のマムルークに身辺警護と政務の処理をまかせていたと伝えられる。
 第8代カリフ・ムータスィム(在位833-42年)ははじめてマムルークを大量に購入し、自分の意のままになる親衛隊を編成した。しかし、ムータスィムが編成したトルコ人マムルーク軍団は、宮廷の勢力争いに加担して殺人を行ったり、バクダード市中で乱暴・狼藉を行ったので、バクダードの民衆には不評だった。また、それまで王朝の軍隊として名誉と特権を保持してきたホラーサーン軍の激しい反発を招いた。このため、ムータスィムは即位後わずか3年で、マムルーク軍を伴いバクダードの北方にあるサーマッラーへやむなく遷都(〜892年まで)した。

 9Cのバクダードは、交易活動の進展と農業生産の拡大によって、経済の繁栄を謳歌し、文化面でも独自の成果が発表されるようになった。しかしそれにもかかわらず、アッバース朝のカリフ権には次第に陰りが見え始めた。821年、早くもホラーサーン総督のターヒルが、カリフへの服従を拒否してターヒル朝(821-873)を樹立した。

イスラーム法

 イスラーム法(シャリーア)はマンスールからアッラシードのまでの間に整えられた。イスラーム法は、宗教的な儀礼だけでなく、婚姻、相続、売買、訴訟など現世的規範も包括した。その内容は学派によって少しずつ異なり、シーア派ではコーランや伝承の違いから、かなり異なる法体系となった。スンナ派でも、4つの正統法学派、シャーフィイー派、ハナフィー派、ハンバル派、マーリク派(8C後半から9Cにかけて活躍した法学者の名前に由来)に別れ、訴訟の際は被告人の属する法学派の裁判官によって裁きを受けることができた。
 しかも、アッバース朝はこれらの法をまとめることはせず、どの学派の法をとるかは個々のムスリムの選択にまかせた。ただ重要な事柄の解釈について、4正統法学派の間にはそれほど大きな差はなかった。租税負担についても、アラブ人・非アラブ人を問わず、土地を耕す農民からは同率の地租(ハラージュ)を徴収するという点で一致している。ウマイヤ朝を揺るがしたマワーリー問題は、イスラーム法の完成によって、ムスリムの平等が実現し解消された。それ故アッバース朝を従来のアラブ帝国に対しイスラーム帝国という。
 このようにアッバース朝は、法を法学者の手に委ねた。国は軍と、国や軍を維持する財源の管理に留意すればよかった。

イスラーム社会

 アッバース朝時代は、イラク、イラン、シリア、エジプト各地のイスラームへの改宗が徐々に進行した。イラクでは政権の中心に近いため、比較的早くイスラーム化が進展したが、例えばイランでは、750年頃わずか8%だったムスリムが9C始めに40%、10Cには70〜80%に達した。コプト教徒が多数を占めていたエジプトでは、イスラーム化がもっとも遅く、10Cにはまだコプト教徒が多数を占め、12〜13Cになって現代と同じ9割程度がムスリムとなったと推定されている。
 各地の都市には、モスク、市場(アラビア語でスーク、ペルシャ語でバザール)、病院、隊商宿が建設された。公共の建物は、カリフや宰相、大商人、地方総督などの寄進(寄進財産をワクフという)によって建設された。これがイスラーム社会の町づくりを進める根幹のシステムであった。つまり、国がこれらを建設・運営するのではなく、権力者・有力者とはいえ、個人が建設し寄進するのがイスラーム社会だ。

 またイスラーム社会は奴隷が活躍する社会でもある。奴隷とはいっても西洋でいう奴隷とは待遇がまるで異なる。というのはコーランが奴隷に対する親切な扱いを繰り返し説いているからだ。
 そのため、奴隷は主人の許可があれば結婚することができ、解放の条件が金額で示されていればその資金を蓄えることができ、イスラームの信仰は自由であった。マムルークのような奴隷軍人のほか、主人の子供の教育にたずさわる者や有名な学者になった奴隷もいる。また、大商人の片腕になるような奴隷もいた。

 学問の分野では、ウマイヤ朝時代からギリシャ学術が導入され始め、アッバース朝になって本格化した。ハールーン・アッラシードは、バクダードにギリシャ語文献を中心とする図書館を建設し、知恵の宝庫と名付けた。
 その息子マームーンはこれを拡充して「知恵の館」と改め、ギリシャ語文献の組織的な翻訳(アラビア語への)を開始した。ヒポクラテス、ガレノスの医学書、アリストテレスの形而上学、プラトンの国家論、旧約聖書などが次々と翻訳された。この結果を受けて、医学、哲学、数学などの学問が発達した。ラーズィー(854-925)の「医学集成」が有名。
 また、アラブ固有の学問として、法学、コーランの解釈学、伝承学、散文学、歴史学、書記学などもめざましい発達を遂げた。これらの学問を広く修めた者は「ウラマー(知識人)」と呼ばれた。著名な成果に、ブハーリー(810-70)の「真正ハディース集」、タバリー(839-923)の「使徒たちと諸王の歴史」。

後ウマイヤ朝

 750年ウマイヤ朝が滅びたとき、新政権の追求の手をからくも逃れたウマイヤ家の青年アブド・アッラフマーンは、庇護者の応援で、北アフリカ、モロッコを経てジブラルタル海峡をわたり、グラナダに上陸した。
 彼は当地のムスリムに熱烈に歓迎され、コルドバの総督を追って、後ウマイヤ朝(756-1031)を樹立した。ただし、アミール(総督)の称号に甘んじた。アブド・アッラフマーン1世(在位756-88年)、首都コルドバ。しかし、アッバース朝の干渉と現地のベルベル人の反乱のため、アンダルスを完全に平定するには、さらに10年の歳月を擁した。
 彼はまた、アッバース朝と友好関係を樹立したフランク王国のカール大帝が、778年進撃してきたのに対して壊滅的な打撃を与えた。

*カール大帝:カロリング朝創始者ピピンの子。800年ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝冠を授けられ(一時的に西ローマ帝国復興)、フランク王国最盛期とカロリング・ルネサンスを現出した。


アッバース朝の分裂

(イラン)821ターヒル朝(〜873)−867サッファール朝(〜903)−875サーマーン朝(〜999)−・・・−1253モンゴル支配−1393ティムール支配
(エジプト)868トゥールーン朝(〜905)−909ファーティマ朝(シーア派,〜1171)−1169アイユーブ朝−1250マムルーク朝(〜1517)
(イラク)946ブワイフ朝(シーア派,〜1062)−1038セルジューク朝(〜1194)−1092小政権乱立−1258モンゴル支配(アッバース朝滅亡)
(アフガニスタン)962ガズニ朝−1148ゴール朝
(北アフリカ)1056ムラービト朝−1130ムワッヒド朝(〜1269)
(イベリア)756後ウマイヤ朝(〜1031)−ムラービト・ムワッヒド統治−1230ナスル朝(〜1492)

 ハールーン・アッラシードの全盛期が過ぎた頃から、各地の総督や有力者たちがアッバース朝から離反し始めた。
 第7代カリフ・マームーン(在位813-33年)の821年、まずホラーサーン(イラン)総督ターヒルが、カリフへの服従を拒否してターヒル朝(821-873)を樹立した。ホラーサーンでは、郷土の英雄アブー・ムスリムを失ってから、アッバース朝の支配をこころよく思っていなかったためだ。
 マームーンや続く第8代カリフ・ムータスィム(在位833-42年)は、正規軍に代わって自由に動かすことのできるマムルーク(白人奴隷)を重用し始めたが、子飼いのマムルークたちも次第に勢力をつけ、861年第10代カリフ・ムタワッキル(在位847-61年)を暗殺してしまった。
 それからというものは、カリフはマムルークの手中にあって、あたかも捕虜のごとき存在であり、マムルークらは望むままにカリフを位にとどめ、廃位し、殺害したという。

 そのような中、14年に及ぶザンジュの乱(869-83年)が発生した。ザンジュとは黒人奴隷のことで、カリフやアラブの有力者たちの私領地(南イラクに集中していた)で働く労働力として使用されていた。マムルークと違い、彼らの労働条件は過酷で、扱いも粗末だった。
 イラン生まれのアラブ人、アリー・ブン・ムハンマドはそうした彼らを率い、各地のザンジュを解放して、次々に反乱軍に編入した。878年にはバスラ近郊に首都を建設しザンジュ王国を築いた。第15代カリフ・ムータミド(在位870-92年)は、879年ようやくザンジュの反乱軍に対する反撃を開始し、'83年ムハンマドは殺されて、ようやく乱は鎮圧された。

 その他イラン東部ではサッファール朝(867-903)が興き、西方へ進出し873年ターヒル朝を吸収した。またマーワラー・アンナフル(川(アム川)向こうの意)ではサーマーン朝(875-999)が勃興、この王朝は中央アジアで多くのトルコ人奴隷を獲得し、これを西アジア方面に供給したことで知られる。サーマーン朝は900年、サッファール朝を破ってホラーサーンの全域を支配下におさめ、ブハラに首都を定めた。エジプトにはトゥールーン朝(868-905)が興った。また、イラク北部のモスルには新たにハムダーン朝(905-1004)が成立し、カリフの支配領域はイラクの中部と南部に限定された。

 こうして各地に独立王朝が出現することにより、アッバース朝カリフの権威が及ぶ範囲は大幅に縮小した。また、国庫収入も著しく減少したため、軍隊への俸給の支払いが滞ることになり、カリフは軍隊を掌握することが困難になった。
 そのため936年、第20代カリフ・ラーディー(在位934-40年)はバスラ総督イブン・ラーイクを大アミールに任命し、軍隊の指揮権をゆだね、王国の統治を一任した。これによってカリフは名目上の存在でしかなくなった。
 しかし、ラーイクには人望がなかった。まもなく部下に職を追われ、政敵に暗殺されてしまった。この後、弱小のカリフとめまぐるしく交代する大アミールの時代が続く。

 間もなくカスピ海南部に興ったシーア派のブワイフ朝(932-1062)のアフマドが、946年バクダードに入城し、カリフを保護下において大アミールに任じられた。このときアッバース朝カリフのもとに送られてくる税金はごく僅かだったため、アフマドは土地からの徴税権を軍人に与えた。これが以後のイスラーム国家に根付いたイクター制の始まりとなる。
 ブワイフ朝は間もなくハムダーン朝の勢力をモスルへと撃退した。ブワイフ朝に服属した部族には、ひきかえにイクターを授与した。しかしイクター保有者は、農民の状態を顧みることなく過酷な徴税を行ったため、農村は疲弊していった。またアイヤールという無頼の徒が跳梁した。

ファーティマ朝

 過激シーア派のイスマーイール派のうち北アフリカで秘密運動を展開した一派は、ベルベル人の間に多くの支持者を獲得し、909年第4代正統カリフのアリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの血を引くと称するウバイド・アッラーフをカリフに推戴し、チェニジアでファーティマ朝(909-1171)を建国した。
 その第4代カリフ・ムイッズ(在位953-75年)は、969年遠征軍をエジプトに派遣してフスタートを落とし、ここに宮殿都市を建設した。新都はカイロ(正しくはカーヒラ、勝利の都の意)と名づけられた。ムイッズはさらに西はモロッコから、東はシリア南部、アラビア半島ヒジャーズ地方に至る領域を支配した。
 ファーティマ朝とブワイフ朝は同じシーア派でも、前者が過激シーアのイスマーイール派、後者が穏健なザイド派に属していたから、両者の関係は友好的ではなかった。

 ファーティマ朝は、紅海貿易の利をえて繁栄した。また無頼の徒アイヤールによって無秩序に陥ったバクダードに見切りをつけた大商人や知識人(ウラマー)たちが、カイロに移住してきたので、バクダードで育まれたイスラーム文化が移植され、首都カイロは混迷を続けるバクダードをしりめに、イスラーム世界の中心都市へと成長していった。
 しかしその繁栄は、ナイルの増水不足に端を発した「七年の大飢饉」(1065-71)が起こったのを境に一変する。長い飢饉のうえ、国土を荒らす黒人奴隷兵を恐れた農民たちが耕作を放棄したため、国土は荒廃した。

*イスマーイール派 シーア派ではイマーム位(信者の指導者)が第4代正統カリフ・アリーからその息子ハサン、フサインへと伝えられ、フサインがカルバラーで殺されたあと、フサインの子孫が代々イマーム位を継承、12代ムハンマドのとき、担ぎ出されてウマイヤ朝に反旗を翻したことがあった。このときの反乱でムハンマドは戦死したが、信者の指導者(イマーム)は本当に死んだのではなく、やがて姿を現して地上に正義と公正を実現してくれる「隠れイマーム」になった、という思想が流布された。これが現代のイランにも受け継がれている穏健な十二イマーム派だ。
 これに対して、7代目イマームを十二イマーム派が認定するムーサーでなく、その兄弟のイスマーイールだと主張するのがイスマーイール派の起源だ。その下部組織にカルマト派がある。カルマト派は都市の貧しい職人や労働者のあいだに支持者を獲得し、信者による生活必需品の共用や困窮者への救済活動を熱心に行い、9〜10Cにその勢力はアラビア半島のバフラインからシリアへと拡大した。しかしアッバース朝下ではに弾圧され、沈黙を余儀なくされた。
 イスマーイール派のハサン・サッバーフ(?〜1124)は、1078年以後イラン北部の山岳地帯にあるアラムート城によって勢力を拡大し、各地に暗殺者を送り込んでスンナ派要人を殺害した。後述するセルジューク朝のニザーム・アルムルクは、その最初の犠牲者だ。後に十字軍の騎士たちもこの一派に恐れをいだき、「山の長老」ハサンは若者たちに大麻を吸わせたうえで、彼らを刺客として送り出すという伝説をヨーロッパに広めた。英語のアサッシン(暗殺者)は、アラビア語のハシーシーユーン(大麻を吸う者たち)に由来している。アラムート城のイスマーイール派は、1256年フラグのモンゴル軍に降伏するまで、イスラーム世界に恐れられた。

セルジューク朝(1038-1194)

 バクダードの混乱はセルジューク朝が覇権を握ったことで収拾された。
 トルコ人は広くモンゴルや中央アジアで遊牧生活を送っていて、マムルークの供給源であったし、唐でも活躍する者が多かった。10C中央アジアのトルコ人が、部族間の抗争や人口増加の圧力をうけ、西方への移住を開始した。この集団をオグズ族という。彼らはムスリム商人や神秘主義者(後述参照)との接触を通じてイスラーム化した。そのうちアラル海のシル川河口付近に定着したオグズがセルジューク族だ。セルジューク族のトグリル・ベクは11Cイランに入り、ニシャープールでセルジューク朝を建国した。
 アッバース朝は、シーア派からカリフ権を回復するため、第26代カリフ・カーイム(在位1031-75年)は、1055年バクダードにトグリル・ベクを迎え、彼にスルタン(王朝の支配者)の称号を授けた。これ以後スルタンはイスラーム王朝の君主の称号として、20C初頭まで用いられることになる。

 セルジューク朝は、第2代スルタンのアルプ・アルスラーン(在位1063-72年)、第3代マリク・シャー(在位1072-92年)の時代に最盛期を迎えた。版図もマーワラー・アンナフルからイラン、イラク、シリアの全域に及び、アラビア半島南端のイエメンにも遠征軍を派遣した。
 この間の1071年、小アジアのマラーズギルドでビザンツ帝国に大勝し、十字軍遠征(後述)の原因を作った。

 2代のスルタンに仕えたイラン人宰相ニザーム・アルムルク(1018-92)は、バクダード、ニシャープール、ヘラート、イスファハーンなどの諸都市にみずからの名を冠したニザーミーヤ学院(マドラサ)を建設した。これはイスマーイール派の活発な布教活動に対抗して、スンナ派の神学や法学を振興し、また有能な官吏を養成することが目的だった。
 セルジューク朝はブワイフ朝のイクター制を踏襲した。異なるのは、セルジューク朝では徴税権だけの小規模な軍事イクターだけでなく、スルタンの一族や有力アミールがもつ行政イクター(徴税の権利と行政の権限をもつ)の数が増大したことだ。またアルムルクがイクター保有者の管理と統制に細心の注意を払ったことで、イラクやイランの農村にもようやく安定のときが訪れた。
 しかし、1092年アルムルクはイスマーイール派の凶刃に倒れ、同年マリク・シャーも病没した。これ以後、スルタンの一族の間に後継者争いが生じ、セルジューク朝はシリア、イラク、イラン南部にイクター保有を基礎にした小政権が乱立する。

 おりしも1098年、ビザンツ帝国の要請を受けた十字軍が興ったとき、セルジューク朝はこれを止める力を失っていた。

後ウマイヤ朝

 イベリア半島の後ウマイヤ朝では、アブド・アッラフマーン1世(在位756-88年)死後、ハカム(在位796-822年)は賭博と酒におぼれ、改宗した現地人ムスリムの反乱が起き過酷な弾圧を行った。
 その子アブド・アッラフマーン2世(在位822-52年)がアミール位を継承すると、彼はマーリク派(スンナ派)の法学を採用して統治の実現をはかった。

 しかし現地のイスラーム化が進むにつれて、急進的なキリスト教徒が反発を強め、半島北部のキリスト教諸侯も次々と反旗を翻した。南部では880年、西ゴート伯の子孫イブン・ハフスーンが現地人の改宗ムスリムを率いて反乱を起こした。彼もイスラームに改宗していたが、アラブの特権に不満をつのらせてふたたびキリスト教に復帰し、一時はコルドバを孤立化させるところまで追いつめた。

 8代目のアミールに就任したアブド・アッラフマーン3世(在位912-61年)は、917年イブン・ハフスーンの勢力を壊滅させ、932年にはトレドを征服してアンダルス全土の統一を回復した。彼は929年みずからカリフを称し、これによってイスラーム世界にはアッバース、ファーティマ、後ウマイヤに3人のカリフが並び立った。アブド・アッラフマーン3世のとき後ウマイヤ朝は最盛期を迎える。

 後ウマイヤ朝の軍隊はアラブ人とベルベル人によって構成されていたが、9C初頭からマムルークの採用が始まった。アブド・アッラフマーン3世のときには、多数のフランク人、ブルガール人、スラブ人奴隷が購入され、宮殿を警護するエリート護衛兵に抜擢された。こうして次第にマムルークが軍事力を独占するようになっていった。

 後ウマイヤ朝の都コルドバは、アブド・アッラフマーン1世が城壁や水道施設を建設し、また786年大モスク(メスキータ)の建設に着手した。大モスクはその後3度の大増築をへて、850本の円柱が林立する礼拝場を持っている。アブド・アッラフマーン3世のときには、町の人口は50万に達し、市街は終日活況を呈した。1600のモスク、300の浴場、70の図書館があったと伝えられる。
 ムスリムたちはアンダルスに揚水車を設置して灌漑農業を広め、ブドウ、オレンジ、オリーブ、サトウキビ、稲などの果樹や作物を持ち込んだ。稲の栽培はやがて半島南部のバレンシア地方が中心地となった。米と砂糖はまもなくヨーロッパ社会に持ち込まれ、アラブ文化の影響を今日に伝えている。
 産業は皮革製品、イスラーム三彩陶、毛織物・綿織物・絹織物、トレドの刀剣(ダマスクス意匠の象嵌細工)などが盛んだった。
 また、人々は東方イスラーム世界へ盛んに出かけて行き、カイロ、バクダード、ダマスクスなどでイスラーム諸学を学び、アンダルスに持ち帰った。

 しかし、カリフ・ヒシャーム2世(在位976-1013年)のとき、彼の母親スブフとその愛人ムハンマドが国政を牛耳って政治が乱れ、1002年独裁的な権限をふるったムハンマドが没したとき、アンダルスは各地の小君主が乱立して分断され、1031年に王朝は消滅する。
 後ウマイヤ朝の崩壊を機に、キリスト教世界では1035年カスティリャ王国、アラゴン王国が相次いで成立、両国は1085年トレドをイスラーム側から奪回した。これをレコンキスタ(再征服)という。

ムラービト朝とムワッヒド朝

 北アフリカではムラービト朝、ムワッヒド朝が相次いで覇権を握った。

 ムラービト朝は西サハラのベルベル人サンハージュ族の首長ヤフヤー・ブン・イブラーヒムによって創始された。彼は1039年にメッカ巡礼の帰途、カイラワーン(ケロアン)でマーリク派法学者の教説に深い感銘を受け、彼の弟子の一人でイブン・ヤーシーンという者を故郷に連れ帰り、彼に導かれて宗教結社を作った。結社はやがて政治運動へと転化して軍団を結成した。
 サンハージュ族の人々は、西サハラにムラービト朝を樹立(1056〜1147)、まもなく聖戦(ジハード)をとなえて南下し、ガーナ王国(8C頃〜1076)を滅ぼし、スーダンのイスラーム化をもたらした。
 初代アミールに就任したイブン・ターシュフィーン(在位1061-1106年)はマラケシュに首都を建設、北方へと軍を進めモロッコ、アルジェを支配下におさめた。

 また、後ウマイヤ朝が消滅したアンダルスのムスリム諸侯が、ターシュフィーンに援軍を求めたため、1086年イベリア半島にわたり、カスティリヤ王国のアルフォンソ6世の軍をうち破った。続いて、グラナダ、コルドバ、セビリアを落として、ムラービト朝の版図を広げたが、トレドだけは奪回することができなかった。
 キリスト教世界の英雄エル・シッドが現れたのはこのときのことだ。本名ロドリゴ・ディアス・デ・ビバルといい、カスティリヤ王国の貴族の家に生まれ、王国軍の総帥に抜擢されたが、アルフォンソ6世の怒りをかって国外追放となった。
 亡命者となったエル・シッドはサラゴサの君主に仕え、バレンシアがムラービト朝の攻撃にさらされると、ここに出向いて町の防衛に奮闘した。この地で流浪の生涯を閉じたといわれるが、生涯をつづった「わがシッドの歌」が吟遊詩人に歌われ、伝説化した。

 ムラービト朝はマーリク派の法学者を手厚く保護し、国家の統一をはかった。首都マラケシュとは別に、トレムセンは学芸の中心地としておおいに栄えた。

 しかし、世代が変わるとムラービト朝の宗教的情熱は衰え、部族間の絆にもゆるみが生じ始めた。この間に、キリスト教徒はサラゴサ(1118年)、リスボン(1147年)を奪回した。

 一方、北アフリカのアトラス山中では新しい勢力が台頭した。同じベルベル人のムワッヒド朝(1130-1269)だ。王朝の成立経過はムラービト朝に似ており、アトラス山中マスムーダ族のイブン・トゥーマルトは、1106年メッカ巡礼の際、バクダードでガザーリーの思想や神秘主義を学び、宗教や道徳を改革しようとする情熱にかられて故郷に戻ってきた。そしてみずからマフディー(救世主)と称し、人々にタウヒード(神の唯一性)の教義を説いた。この運動の同調者はムワッヒドゥーン(唯一神の徒)と呼ばれ、王朝の名のもとになった。

 トゥーマルト死後、この運動を継承してムワッヒド朝の創始者となったのがアブド・アルムーミン(在位1130-63年)だ。彼はマスムーダ族をまとめて勢力を拡大し、1145年アンダルスに進出してムスリム諸侯にその主権を認めさせ、'47年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした。ムワッヒド朝もこの町を継承して首都とした。
 アルムーミンはマラケシュに四角の尖塔で名高いクトゥビーヤ・モスクを建設し、学問を熱心に奨励したので、12C後半のマラケシュには多くの文人・学者が集った。

 しかし、ムワッヒド朝も初期の宗教的情熱がさめると国内は分裂していった。アルムーミンの息子ユースフ(在位1163-84年)の治世を最後の輝きとして、その後同じモロッコに興ったマリーン朝(1196-1465)によって次第にその領土を蚕食された。
 1212年にはコルドバ北東のラス・ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教徒連合軍に敗れ、彼らによって1236年コルドバ、1248年セビリアを失い、1269年マリーン朝に吸収された。

 ムワッヒド朝分裂後、ムハンマド1世がグラナダにナスル朝(グラナダ王国1232〜1492)を建国する。しかし、1236コルドバ、1248セビリアがキリスト教国によって陥落し、領土は半島南部の狭い一角に限られた。弱小のナスル朝が生き残るため、北方のカスティリヤ王国に一定の貢納金を払い、北アフリカのマリーン朝からは移住者を受け入れた。14世紀後半、グラナダに美しいアルハンブラ宮殿を建設。しかし、1479アラゴンとカスティリヤがスペイン王国として統一されると、キリスト教勢力の優位は決定的となり、1491スペイン国王フェルナンドはグラナダを包囲、ナスル朝に無条件降伏を促し、翌アルハンブラ宮殿は明け渡されて、レコンキスタが完成する。その後半島では、ムスリムとユダヤ人は改宗、ないし退去させられた。

スーフィー(神秘主義者)の登場

 イスラーム世界では、イスラーム諸学を身につけたウラマー(知識人)は、宗教指導者(イマーム)としてだけでなく、コーランやハディース(伝承)にもとづく立法権、もめごと、相続についての裁判権を有し、また政府の法律顧問などとなって、次第に社会的な影響力を増していった。
 ウラマーたちの努力によって、イスラームの神学と法学は高度な発達をとげ、信仰生活を律する六信・五行の規定が細かく定められた。
 一方で、神(アッラーフ)はもっと身近に感じられるはずのものであり、或いは、社会の上層部をしめる富裕者が贅沢三昧の生活を送っていることも信仰の道を外れていると見なす者が現れた。彼らは羊毛の粗衣(スーフ)をまとい、禁欲と清貧のうちに、修行によって神への愛を深め、神との一体感を得ようとした。彼らはスーフィー(神秘主義者)と呼ばれた。

 最初に「神への愛」の観念を説いたのは女性思想家ラービア(714-801)だった。貧しい家庭に生まれ、子供の時にさらわれて奴隷に売られたが、最後はイラクのバスラで清貧と敬神の生活を送った。彼女は、地獄の恐れから神に仕えたのでも、天国に行きたくて、または物が欲しくて神に仕えたのでもない。ただ神への愛のために仕えたのだと語った。
 彼女に続く後世のスーフィーたちは、神への愛を拠り所にして、瞑想と修行によって神に近づき、さらに神との合一の境地に達しようと努めた。
 神秘主義が民間に流行し始めると、各地に聖者が登場した。彼らは神から特別の恩寵を授かったとされ、人々の願い事を神に取り次ぐ仲介者としての役割を果たした。人々は夜になると道場に集まり、聖者の指導のもとに修行を重ねた。修行の方法は、体を揺すりながら神の名を唱えたり、笛の音に合わせて踊るなど様々だった。また、修行の合間にやさしく話して聞かせる講話の時間も設けられていた。

 始めのうち、ウラマーたちはこれらの神秘主義者の活動にたいし、正統なイスラーム信仰に反する行為であるとして、厳しい批判を加えたが、思想家ガザーリー(1058-1111)が学院の教授の職を捨て、2年の放浪の末に、神秘主義こそ真理にいたる道であると説くに及んで、ウラマーによる神秘主義批判は次第に影をひそめた。
 12Cに入ると、神秘主義者たちは聖者を中心にして教団を結成し始めた。最初の教団はバクダードに成立したカーディリー教団で、この組織はやがてシリア、エジプト、アフリカ、インドへと拡大していった。
 13Cには中央アジアにメウレウィー教団、インドにチシュティー教団、北アフリカにシャージリー教団などが結成され、神秘主義は最盛期をむかえた。
 こうして神秘主義が民間に流行し、各地に教団が結成されることによって、イスラームのエネルギーが再び興隆期を迎えた。教団員の熱心な活動によって、西アジアのイスラーム化がいちだんと進行した。教団員はまた、商人の後を追うようにしてアフリカ、中央アジア、インド、東南アジアへと出向き、現地の習俗を取り入れながらイスラームを柔軟に説いたので、イスラームの拡大に大きく貢献した。


十字軍

 ビザンツ帝国は、1071年小アジアのマラーズギルドでセルジューク朝に大敗を喫した後、徐々に帝国領の縮小を余儀なくされ、ついにローマ教皇ウルバヌス2世に援軍の派遣を要請するに至った。
 ウルバヌス2世は1095年クレルモン公会議を召集し、トルコ人によってキリスト教徒の聖地エルサレムへの巡礼が妨害されていること、我々の土地からいまわしい民族(トルコ人)を根絶やしにするよう訴えた。民衆の熱狂によって、まもなく騎士と雑多な民衆からなる十字軍が結成され、'96年8月遠征へ出発した。
 しかしトルコ人による聖地巡礼妨害は、ビザンツ帝国によって流布されたデマだった。1073年セルジューク朝のマリク・シャーの手のものが、無血のうちにファーティマ朝からエルサレムの支配権を奪ったとき、マリク・シャーは部下が町を略奪するのを禁止し、異教徒を含む住民の安全は保障されていたのだ。

 十字軍は1098年、激戦の末セルジューク朝のアンティオキアを占領し、ここから南下した。1098年以降エルサレムは再びファーティマ朝支配下にあったが、土地の人々は、十字軍を「聖地への巡礼団」と誤解し、彼らに食料を提供したり道案内をつけてやったりした。キリスト教徒がエルサレムに巡礼することに何の不思議も感じなかったからだ。
 '99年エルサレムに到着したこの巡礼団は、突如殺戮集団へと変貌した。彼らは市内に乱入すると、老若男女を問わず、ムスリムとユダヤ教徒を虐殺した。このときアクサー・モスクで殺されたムスリムだけでも7万人に達したといわれる。
 勝利を収めた十字軍の騎士たちは、聖墳墓教会に集まり、神に感謝の祈りを捧げ、「聖墳墓教会の守護者」としてフランスのロレーヌ公ゴドフラワ・ド・ブイヨンを選出した。およそ200年にわたって続くエルサレム王国(1099-1291)の成立だった。

 キリスト教徒によるエルサレムの虐殺の報は、翌月にはバクダードにもたらされたが、アッバース朝カリフはもとより、セルジューク朝でも地方政権が乱立していたため、なすすべがなかった。エルサレムの支配権も、十字軍到来直前にファーティマ朝へ変わったばかりだったが、ファーティマ朝も混乱していた。
 わずかにセルジューク朝から分離したザンギー朝(1127〜1222)で、アター・ベク・ザンギーが反撃を試みた(1144)が、目的を達成しないうちに子飼いのマムルークに殺されてしまった。後を継いだ息子のヌール・アッディーンは、1154年ダマスクスを併合しシリア主要都市を支配下に収め、十字軍と交戦した。

アイユーブ朝

 アイユーブ朝の創始者サラディン(サラーフ・アッディーン)は、十字軍に対して聖戦を行い、十字軍に恐れられ、全ムスリムの英雄となったことでつとに有名だ。

 1163年エルサレム王国を継承したアモーリー(アマルリック)は、十字軍の閉塞状態を打開するため、エジプトに侵攻した。当時ファーティマ朝では内部抗争で混乱しており、政敵との争いに敗れた宰相のシャーワルがダマスクスに逃れ、ヌール・アッディーンに援軍を求めた。
 ヌール・アッディーンは、エジプト介入のチャンスとばかり、遠征軍司令官にシールクーフを任命した。その甥のサラディンもこれに同行した。翌年シリア軍はシャーワルの復権をたやすく実現したが、シリア軍の勢力を恐れたシャーワルはこんどは十字軍のアモーリーに援軍を求めた。十字軍の介入によって、シリア軍はエジプトを撤退した。
 しかしアモーリーはエジプト支配の野望をあらわにし始め、これに危機感を抱いたファーティマ朝カリフは再度援軍派遣を要請、これに応じて'68年シリア軍が遠征し、アモーリーは宿敵との接触を回避してエルサレムへ引き上げた。カイロを解放したシールクーフは、エジプトの解放者として熱烈な歓迎を受け、ファーティマ朝の宰相に任命された。しかし、その直後肥満が原因で病死し、次いでサラディンが宰相に任命された。

 1169年、宰相に就任したサラディンはエジプトの実権を掌握、ダマスクスの君主の許可無くアイユーブ朝(1169-1250)を樹立した。王朝名はサラディンの父アイユーブに由来する。ヌール・アッディーンは、何度も詰問の使者を送ったが、サラディンは沈黙を守るだけだった。
 サラディンはまずマムルークを選抜して直属の軍を編成し、この親衛隊とシリア軍の騎士にイクターを授与する一方、再び十字軍と結んだファーティマ朝の旧勢力を一掃した。
 続いてサラディンはスンナ派復活の手をうった。カイロにスンナ派の学院(マドラサ)を建設し、エジプト各地にスンナ派の裁判官を送り込み、シーア派裁判官との入れ替えを推進した。1171年カリフ・アーディドは没し、ファーティマ朝は滅亡した。

 ダマスクスの君主アッディーンは'74年病没、その死を待っていたかのように、サラディンはシリアに軍を進め、ダマスクスを無血のうちに開城させた。'76年にはザンギー朝の残党が拠るアレッポと和約した。
 また十字軍の進攻に備えて、フスタートとカイロを囲む城壁の建設(未完)やカイロ南側に城塞の建設を開始した。さらに1182年、東地中海の制海権を握っていた十字軍に対抗すべく、既存のエジプト艦隊を増強した。

 エルサレム王国では、1186年後継者争いの後人望のないギーが王位を継承した。この機会サラディンはダマスクスからムスリム諸侯にむけて、十字軍に対する聖戦(ジハード)を呼びかけた。エジプト・シリア・北イラク諸侯から成るムスリム軍は2万5千、十字軍側もこれに対抗してほぼ同数の軍を結集し、翌'87年ティベリアス湖西方のヒッティーンの丘で衝突した。
 この戦いは最初互角だったが、風上にたったムスリム軍が雑草に火をつけ、十字軍は恐慌状態となったためムスリム軍が勝利した。ヒッティーンの戦いに勝利を収めた後、サラディンは十字軍の保持する主要都市を次々と落とし、同年念願のエルサレムを解放した。
 また'92年には新たに到着したリチャード獅子心王との戦いを五分にすすめ、休戦協定にもちこんだ。しかし、'93年病没して、ダマスクス市中に葬られた。

 サラディン死後、長子アフダルがダマスクスでスルタンを称したが、カイロやアレッポの一族はこれを承認せず、カイロとシリアの各都市に一族が自立する王朝の分割支配となった。そしてカイロに有力なスルタンが登場したときだけ、エジプト・シリア統合が復活するという変則体制となった。
 十字軍は1228年ドイツとシチリアの王を兼ねるフリードリヒ2世が大軍を率いてアッカーに上陸した。フリードリヒ2世は、シチリアがイスラーム文化の色濃い土地柄だったため、アラビア語を理解し、イスラームの宗教や哲学に造詣が深かったといわれる。エジプトのスルタン・カーミル(在位1218-38年)は'29年、みずからの政権維持のために、サラディンが苦労の末奪回したエルサレムを、こともあろうにこのフリードリヒ2世に譲り渡し、内外のひんしゅくを買った。
 しかしフリードリヒ2世には、補給の困難な内陸部の聖地を守り抜こうとする気はなかった。10年後には、死海東方のカラクの城主によって、エルサレムは再びムスリムの掌中に戻された。
 アイユーブ朝は、1250年マムルーク朝にとって代わられる。

マムルーク朝

 アイユーブ朝末期のスルタン・サーリフは、前スルタンによって編成されたマムルーク軍団が王位を簒奪しようとたくらんでいるのを知り、彼らを根こそぎ捕らえ牢獄に送った。その代わり、多くのトルコ人マムルークを購入し、彼らにイクターを与え、ローダ島の兵舎に住まわせた。この兵舎に住むマムルークは、やがて「海のマムルーク(バフリー・マムルーク)」の名で知られるようになった。
 1249年フランス王ルイ9世が第7回十字軍を組織し、700隻の大艦隊を率いてナイル河口に到着した。しかし、ナイルはすでに増水期に入っており、縦横に張り巡らされた灌漑用の運河には深い水がたたえられていた。これに悩まされながらもルイ王は、エジプト軍が防衛戦をしくマンスーラをめざした。これに対してバフリー・マムルーク軍は、'50年マンスーラの市街で十字軍を包囲し、狭い路地に追い込まれた十字軍は1〜3万が運河で溺れ死んだという。ルイ王自身も捕虜となった。
 このとき、スルタン・サーリフはすでに病没しており、妻のシャジャル・アッドゥッルがその死を隠し、命令書にサインをし続けた。その後サーリフの長子トゥーラーンシャー(アッドゥッルにとっては義子)をスルタンに擁立した。

 ところが新スルタンとなったトゥーラーンシャーは継母に好意を抱かず、バフリー・マムルークに対しても次々に逮捕・投獄してその勢力の削減をはかった。これに怒ったマムルークたちはマンスーラの戦いで際だっていたバイバルスを中心にスルタンの暗殺計画を練り、これを殺してしまった。
 マムルークたちはただちにシャジャル・アッドゥッルをスルタンに推戴した。イスラーム世界最初の女性スルタンの誕生だ。彼女のスルタン位就任によって、エジプトにトルコ人奴隷兵を基盤とするマムルーク政権が成立した。これをマムルーク朝(1250-1517)という。

 しかし、女性スルタンはイスラーム世界では通用せず、アレッポのアイユーブ家君主ナースィルはダマスクス諸侯の支持を受けてアッドゥッルに反旗を翻し、シリア中北部に独立の支配権を確立した。女性スルタンでは収まらないと知ったアッドゥッルは、同年バフリー・マムルーク出身の司令官アイバクと結婚し、スルタン位を夫に譲り渡した。彼女が王位にあったのは、わずか80日間だった。
 アイバクがスルタンに就任すると、上エジプトのアラブ遊牧民(ウルバーン)が、マムルーク政権の誕生に抗議して反旗を翻したがこれを鎮圧した。しかし間もなくモンゴル軍の来襲が起こった。
 ときにモンゴル帝国第4代ハーン・モンゲは、弟フラグにイラン遠征を命じ、1253年フラグは西征を開始した。フラグは、まずイランのイスマーイール派を討伐した。イスマーイール派は、スンナ派要人の暗殺によってイスラーム世界に恐れられていたから、これを討伐すればイスラーム世界の解放者として迎えられるとの読みからだ。イスマーイール派の教主が降伏すると、フラグは高らかな勝利宣言をイスラーム諸国に送付した。
 続いてフラグは'58年信仰の象徴であるアッバース朝カリフのバクダードを包囲、20日間の攻防後、カリフ・ムスタースィムは投降し殺された。これによりアッバース朝は滅亡、バクダード市街はモンゴル軍によって、徹底的な略奪と殺戮にさらされた。この後フラグはイラン・イラクにイル・ハーン国を建国(1258〜1353)した。
 フラグは当初の征服計画り、イラクからシリアへと軍を進め、'60年アレッポを落とし、男子を虐殺、婦女子は奴隷商人に売り払った。ダマスクスでは君主ナースィルが逃亡、モンゴル軍に開城して虐殺を免れようとする意見が体勢をしめた。このときアレッポにいたフラグの元に、モンゲの死を知らせてきた。フラグは次代ハーン選定会議に出席すべく、後事を将軍キトブカに託して帰国した。
 キトブカは、十字軍の使節を引見した後、ダマスクスからさらに南へ軍を進め、エジプト国境のガザまで進出した。

 一方エジプトのスルタン・アイバクはかつての同僚だったバフリー・マムルークの勢力を恐れ、その軍団長アクターイを殺害、バイバルスも身の危険を感じて仲間のマムルークとともにカイロを脱出していた。
 モンゴル軍がアレッポを攻略する直前、第4代スルタンに就任していたクトズは、アイバクによって追われていたバイバルスと和解し、カイロに迎え入れ、フラグが無条件降伏を促していた使節団を処刑して、モンゴル軍との戦闘準備に入った。
 先遣隊を率いたバイバルスのバフリー・マムルーク軍はモンゴル軍をガザから駆逐、同年ヨルダン川西方の村アイン・ジャールートにモンゴル軍を打ち破って、キトブカは戦死、モンゴル軍は敗走した。
 アイン・ジャールートの戦いは、ムスリムにとってイスラーム世界の砦を守り抜いた輝かしい戦いとなり、逆にモンゴル軍にとっては征服戦争ではじめての苦い敗戦となった。また、ダマスクスやアレッポなどシリア諸都市もモンゴル軍から開放された。

 ところでスルタン・クトズは、モンゴル軍に勝利したときはバイバルスに対してアレツボをイクターとして与えることを約束していたが、約束を守らなかったので、バイバルスはエジプトに凱旋するクトズを殺害し、みずから第5代スルタン(在位1260-77年)に就任した。
 このとき'61年アッバース朝カリフの叔父と自称するアフマドという人物が、アラブ遊牧民の護衛に守られダマスクスを経てカイロに連れてこられた。彼の血統の正しいことが証明され、バイバルスはアフマドをカリフ・ムスタンスィルとして擁立した。
 アッバース朝カリフの擁立はイスラーム世界の諸君主から好意的に迎えられ、マムルーク政権の正当化にも効果があった。また、これによってバイバルスはエジプト・シリアのスルタンにして、カリフの代理としてイスラーム世界全体のスルタンともなった。エジプトのアッバース朝カリフは、これ以後、オスマン朝によってマムルーク朝が征服(1517)されるまで続くことになる。
 しかし、バイバルスは同年バクダードにカリフを復活すると称して、カリフ・ムスタンスィルを伴いダマスクスへ赴き、そこからわずか300騎の護衛をつけてカリフを送り出してしまった。はたしてカリフの一行はユーフラテス川を渡ったとたん、モンゴル軍の襲撃を受け、カリフはあっけなく殺されてしまった。その後新たに擁立されたカリフ・ハーキムは、カイロ市民との接触を禁じられ、スルタンを正当化するだけの飾りにすぎなかった。

 バイバルスは続いて、エジプト・シリアを結ぶ駅伝(バリード)網を整備した後、'67年以降対十字軍戦争に乗り出した。彼はシリア海岸地帯のカイサーリーヤなどの諸都市を奪回し、これらの都市を十字軍が二度と使うことができないよう徹底的に破壊した。'71年には難攻不落を誇った騎士の城が開城した。この城はその後補修され、今でもその優美な姿を見ることができる。
 イラン・イラクのイル・ハーン国に対しては、'73年ビレジクの戦いでモンゴル軍に壊滅的な打撃を与えた。また'77年にはエルビスタンでモンゴル軍をうち破り、この遠征の帰途ダマスクスで、部下と祝杯をあげている途中、腹痛をおこして倒れ、2週間後息を引き取った。死因は馬乳酒の飲み過ぎとも、毒殺とも伝えられる。彼の墓はダマスクスの旧市街に、サラディンの墓と隣り合って建てられ、現在ザーヒリーヤ図書館として一般に公開されている。

 マムルーク朝はスルタン・ナースィル(1293〜1341の間3度スルタンになる)の元最盛期をむかえた。14世紀はじめのカイロには、スルタンやアミール、大商人などによって数多くのモスク、学院、病院、商取引所、神秘主義道場が建てられ、人口は50万人に達したと推定される。
 ナースィルによるもっとも重要な事業は、エジプト・シリアを対象とした検地(ラウク)だ。1313-25年にわたって行われ、各検地ごとにアミールを指揮官とし、中央と地方の書記を総動員した。この結果にもとづいてイクターの再分配を実行した。その再配分とは、アイユイーブ朝以来の自由身分の騎士(ハルカ騎士という)のイクターを一律に削減し、マムルーク騎士のイクターを大幅に引き上げるものだった。

 一方イル・ハーン国では、イスラームに改宗した第7代君主ガザン・ハーン(在位1295-1304年)が、シリア進出を企て1299年末ユーフラテス川を渡って一時ダマスクスを占拠したが、翌年マムルーク軍の反撃を受けてすぐイラクへ引き揚げた。1303年にもガザン・ハーン自身が出陣してシリアに侵攻したが、やはりマムルーク軍によって敗退し、翌年失意のうちに病没した。その後、モンゴル軍がシリアへの進出を企てることはなかった。

 ナースィル死後、マムルークの間に権力争いが生じ、法と秩序は急速に失われていった。アラブ遊牧民は反旗を翻し、隊商やシリアの村々を襲って略奪を繰り返した。
 追い打ちをかけるようにペストが流行し始めた。ペストはモンゴル高原からビザンツ帝国を経て、エジプトやイタリア・フランスに流行した。エジプトでは1347年からアレクサンドリア、カイロに及び、エジプト・シリアの人口は1/3から1/4が失われたと推定されている。

 その後マムルーク朝はティムールの帝国から攻撃を受け(1400-1年)る。
 また、1382年スルタン・バルクーク以降の後期マムルーク朝をブルジー・マムルーク朝といい、前期のマムルーク朝がトルコ人のバフリー・マムルークを主体とする政権であったのに対し、後期はカフカス出身のチェルケス人によって占められた。しかもスルタンは、20数名の有力アミールから互選されたので、スルタン位をめぐる争いが激しくなり、絶え間なく内戦状態を繰り返した。
 最後はオスマン帝国のセリム1世によって、カイロを陥れられ滅亡(1517年)する。

*ティムールの帝国(1370〜1507) モンゴル帝国の諸国家は14世紀後半衰退しつつあったが、チャガタイ・ハーン国が東西に分裂した後、西チャガタイの部将ティムールは同国の混乱に乗じ、1370サマルカンドに自らの王朝を樹立した。その後、イル・ハーン国(1393)、キプチャク・ハーン国の大半を併合(1395)、1402新興オスマン軍をアンカラに破り、ユーラシアに広大な帝国を築いた(1405病死)。