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15.インド・クシャーナ朝、サータヴァーハナ朝、グプタ朝

クシャーナ朝

 インド・ギリシア人がバクトリアからバンジャーブ地方に去った後、バクトリアで次に有力になったのはクシャーナ朝だ。中国「後漢書」によれば、中国西北辺境の月氏族が匈奴に追われて西に移動し、バクトリアを征服して定住した。彼らを大月氏といい(残ったものは小月氏という)、大月氏のうちクシャーナ族がクジューラ・カドフィセースのもとに強力となって、バクトリアを平定、後南下して紀元1c後半ガンダーラを征服した(1c後半)。この頃中国では、後漢の班超が西域に進出、部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣している。
 クシャーナ朝はカニシュカ王(在位130〜155頃)のとき最盛期となる。カニシュカ王は首都をプルシャプラに置き、中央アジアからガンジス川中流域に至る地域を支配した(亜大陸内では四分の一)。首都近郊に大塔を建立し、第4回仏典結集を行った。また、この王朝のもとで東西文化の融合が進展し、仏像彫刻に代表されるガンダーラ美術や、大乗仏教が発達した。
 その後、王朝はイランに興ったサーサーン朝ペルシア(236年〜)の攻撃と、諸勢力の独立によって3cに入ると急速に衰退し、3c半ばころ滅亡した。

 大乗仏教の展開は、前1cの頃西北インドと南インドで起こった。これを大乗仏教運動といい、それまでの出家者中心の仏教に対し在家信者の立場を重視する。大乗仏教は万人の救済を目指す、大きな乗り物(大乗)という意味だ。大乗側は、自己の解脱を目指す従来の仏教を小さな乗り物(小乗)と呼んで軽蔑するが、小乗仏教は大乗側の呼び名なので適切ではない。伝統仏教は現在では、東南アジアやスリランカで信仰されている上座部仏教、チベット仏教として存在する。大乗仏教は「法華経」「般若経」「華厳経」などの教典を編み、観世音菩薩、阿弥陀仏などを創作した。大乗仏教哲学で有名なのはナーガールジュナ(竜樹、南インド・アーンドラ地方の人、150〜250年頃)で、「空」の思想を取り入れた。
 仏像彫刻のガンダーラ美術は、ヘレニズム(ギリシア)文化の影響のもと、紀元1cの末頃、ガンダーラの仏塔や僧院の装飾として彫られた仏伝図の中に自然に誕生した。それまではブッダの遺骨を崇拝しても、ブッダを像にして崇拝する習慣が無かった。その後、単独のブッダ像が出現し、大乗、伝統仏教のいずれも仏像を積極的に受容したことにより、仏像、菩薩像の崇拝が始まった。

 一方、異民族の侵入が相次いで、伝統的な秩序が崩壊したバラモン教では、シヴァとヴィシュヌを最高神とする神々の体系が作られた。またバラモンたちは、正当派の社会・政治思想を理論的体系とするため、ヴァルナ社会の人々の義務を定めた「マヌ法典」を紀元2cまでに編纂した。以後最高のヒンドゥー法典として、現代まで権威を保持する。マヌ法典では、自己のヴァルナの義務を守ることを繰り返し命じ、同じヴァルナの女性と結婚することを求め、女性は男の子を産むことが重要な仕事であり、幼いときは父に、結婚後は夫に、夫の死後は息子に従属すべきことを命じた。また、牝牛を豊饒と母性の象徴として神聖視した。

サータヴァーハナ朝

 デカン高原では、2c始め頃サータヴァーハナ朝(ドラヴィタ系とみられる)が抜きん出た。王朝を強大にしたのは、ガウタミープトラ・シャータカルニ(在位106〜130年頃)で、北から多数のバラモンを招き、積極的にアーリヤ文化を導入し、ヴァルナ社会の秩序をもって王権を強化した。王の一族から仏教の信者になるものも多く出て、デカン西部の石窟僧院や、デカン東南部のアマラーヴァーティーなどの仏教遺跡が建てられた。こうして北にクシャーナ朝、南にサータヴァーハナ朝が栄えた。サータヴァーハナ朝はクシャーナ朝と同じく、3cに入ると急速に衰退した。

 同じ頃西ではローマ帝国が繁栄し、紀元前後の頃ギリシア人ヒッパロスが発見したとされる季節風(ヒッパロスの風)を利用して、インド・ローマ貿易が栄えた。インドからは胡椒、宝石、象牙細工、綿布、中国産の絹などが、ローマ帝国からはぶどう酒、オリーブ油、ガラス製品、陶器、銅・錫などがもたらされた。 ローマ市民の生活が奢侈に流れていたため、貿易はローマ側が輸入超過で、不足分はローマからの金貨・金塊によって埋め合わされた。このため、クシャーナ朝はローマ貨幣を自国の金貨に改鋳し、南インドではローマ金貨をそのまま使用した(南インド各地で発見されている)。また、インド・ローマ貿易の実状は、ギリシア人航海士が1c後半に書いた「エリュトラー海案内記」によって知られる。
 さらにインド商人は東南アジアとも交易を行い、その影響で東南アジアに国家の建設が始まり、1c末メコン川下流域には扶南国が興った。ローマ商人もインド商人の開拓した航路をたどって、東南アジアにまで出没し、後漢書によれば、日南郡(ベトナム中部)に大秦王安敦(皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのこととされる)の使節と称する者が贈り物を献じたという。ただし、この使節は本物かどうかは疑われている。

グプタ朝

 諸侯分立状態のガンジス川中流域では、320年チャンドラグプタ1世(在位320〜335年)がグプタ朝を創始した。バラモンを保護し、グプタ暦を開始(即位年を紀元とする)し、旧都パータリプトラに都を復活した。
 2代サムドラグプタ(在位335〜375年)は父の偉業を継ぎ、征服事業に着手、ガンジス川流域を支配すると共に、デカン高原を含む周辺地域に宗主国と仰がせた。王はまた、金貨発行を本格的に始めたことでも知られ、かつ大量に発行した。

 超日王の名で知られる3代チャンドラグプタ2世(在位375〜414年頃)のとき最盛期となる。サータヴァーハナ朝に代わってデカン高原の覇者となったヴァーカータカ朝(300年頃〜)と婚姻関係を結び、西インドを制圧した。中国僧法顕(ホッケン)はこの時代にインドを訪れ旅行記「仏国記」を著した。文化も爛熟し、サンスクリット文学が栄え、詩聖カーリダーサは戯曲「シャクンタラー姫」他の作品を作り、二大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」もほぼ現在の形となった。

 4代クマーラグプタ1世(在位415〜454年頃)はマガダ国の古都にナーランダー僧院を創建し、グプタ朝滅亡後もインドにおける仏教教学のセンターとなった。のちに中国僧の玄奘や義浄がここで学んだ。グプタ様式の仏像彫刻もさかんに制作され、優雅なサールナート仏、マトゥラー立像仏などの傑作が生まれた。グプタ朝と友好関係にあったデカン高原には、アジャンター窟院が掘られ、壁画が描かれた。大規模なヒンドゥー教寺院も多く建造された。
 またこの時代には、天文学、数学、物理学、医学などの諸科学も発達した。0を用いた計算法、十進法は数学の分野でインドが果たした偉大な貢献で、のちアラビアに伝わって「インド数学」と呼ばれ、さらに中世ヨーロッパに伝わって「アラビア数字」と呼ばれるようになる。
 その後グプタ朝は、中央アジアからの異民族の侵入、土着勢力の独立などで衰退し、6c半ば滅亡した。その後は550年からデリーにイスラム政権が誕生する1206年まで、ごく一時期を除いて群雄割拠の状態が続いた。