トップページに戻る
10.インド・マウリア朝

 ガンジス川流域でマガダ国が派遣を握っていた頃インダス川流域にはガンダーラ国などが存在していたが、前6c後半にはインダス川一帯はアケメネス朝ペルシアに征服され、その属州となった。前330年アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロスは前326年タクシラ(ガンダーラ国の首都)を屈服させ、インダス川流域の他の勢力を服従させ、もしくは滅ぼした。しかし、ここで連戦に疲れ望郷の念をつのらせた将兵の反対で、アレクサンドロスはインド征服を断念し帰途についた。
 アレクサンドロスがインダス川に踏みこんだ頃、ガンジス川流域を支配していたのはマガダ国ナンダ朝(前350年〜320年頃)だった。この王朝は出自がシュードラであったと伝えられる。2世代30年ほどの短命王朝だったが、デカン高原東北部までも領土に加えた。

マウリア朝

 前320年頃マガダ国辺境からチャンドラグプタが挙兵し、ナンダ朝の首都パータリプトラを落とし、マウリア朝を創始した。首都は引き続きパータリプトラ。直後アレクサンドロス撤兵後で混乱状態のインダス川流域を併合、デカン高原の一部も領土とした。ここにインド史上初めて両大河及びデカン高原の一部を領有する大帝国が出現した。
 チャンドラグプタ(在位前317〜293頃)は前305年頃、アレクサンドロスの死後シリアを引き継いだセレウコス朝が、インドに再侵入してきたのを迎え撃った。

 マウリア朝3代アショーカ王(在位前268〜232頃)は、はじめ暴虐のかぎりを尽くして恐れられたが、後仏教へ改宗して善政をしいた。多くの仏塔を建立して、ブッダ没後に建てられた8つの仏塔のうちの7つから仏舎利を取り出し、それらに分納すると共に、第3回仏典結集を行った。ラウリア・ナンダンガル石柱(高さ10mの巨大な円筒形石柱に2mの獅子像を置く)には王自ら刻ませた碑文が残り、征服したカリンガ国など各地の岩石に刻ませた碑文(磨崖碑という)と共に亜大陸最古の文字とされる。

*仏典結集、第1回はブッダ死後に開かれ、「律蔵」(教団の規則)、「経蔵」(ブッダの経説)を口唱した。第2回は仏滅後100年(または110年)に開かれ、「論蔵」(上座部派と大衆部派など各部派の教理解釈を収める)を加え口唱した。先の「律蔵」「経蔵」と合わせ三蔵と呼ぶ。その他この頃までに、ブッダの善行を語る物語もさかんに作られ、これらの物語を一括して「ジャータカ」(本生譚)と言い、数百話に及ぶ。第4回はクシャーナ朝カニシュカ王のとき(後述)。
*上座仏教は、アショーカ王の時代に仏教がセイロン島に伝えられ、同地で生まれた。

 アショーカ死後ほどなく帝国は分裂・衰退に向かい、さらにバクトリア王国(ギリシア人)が侵攻してきて、約50年後に滅亡した。その後は属州の太守や土着の有力者たちが独立し、インドは長い間群雄割拠が常態となった。ちなみに1400年以上後の征服王朝(デリー王朝、ムガル朝)までマウリア朝と同程度の版図を持つ国は出現しなかったし、この場合でも広大な領土を支配し得たのは一時期に過ぎない。

インド・ギリシア人

 バクトリア(現アフガニスタン北部、ヒンドゥークシュ山脈の北)には古くからギリシア人が植民し、アレクサンドロス遠征に伴ってさらなる植民が行われ、アレクサンドロス死後はセレウコス朝シリアの支配下に入った。前250年頃この地のギリシア人太守が独立して王国を興した。マウリア朝が崩壊し始めると、ヒンドゥークシュ山脈を越えて西北インドに侵入、前140年には本拠地バクトリアを遊牧民族に奪われたため、インドの地を本拠地とした。この勢力は歴史家たちによってインド・ギリシア人の名で呼ばれる。
 メナンドロス王のときが全盛期で、バンジャーブ地方のシャーカラに都を置き、アフガニスタン東部からガンジス川上流域までを支配下に収めた。王は学識と弁論に優れ、仏僧ナーガセーナと問答し、破れて以後仏教に帰依したという。仏典に伝えられるこの論争は、インド思想とギリシア思想の交流の一面を語るものとして重要だ。王はまた銀貨・銅貨30余種を発行、ギリシア語とインド語で文字が刻まれ、広大な地域から出土して、古代インド文字解読に大きく貢献した。
 メナンドロス王以後は分裂・衰退し、中央アジア方面から南下してきたシャカ族(インド・スキタイ族ともいう)、パフラヴァ族(イラン系・パルティア族ともいう)などに圧倒され、前1c半ば頃滅亡した。