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1.メソポタミア文明

 メソポタミアのティグリス、ユーフラテス両大河は、現在のトルコからイランにかけての山地に源流を持つ。その流域は夏の間は乾燥するが、冬の間に山地に降った雨や雪が春に解けて平野部に洪水をもたらし、作物を育てる沖積土をもたらす。しかし、平野部は冬でも雨が少なく、砂漠地帯であって、川から離れた所、水を利用できない所には人が住めない。洪水の危険・きびしい気候は自然を動かす神秘的な力への信仰を醸成し、神殿が建てられ、神官が生まれた。治水・灌漑が行われ、生産性を高めた農作物と土器は、余剰物が周辺地域の鉱物や海産物と交易され、社会的分業が発達し、神官の中からこれらをコントロールする権力ができあがった。

シュメール人都市国家

 前5千年頃メソポタミア南部に村落社会のウバイド文化(シュメール人かどうかは不明)、前3500年頃から都市社会のウルク期の文化が生まれた。ウルク文化の担い手はシュメール人(語族系統不明)で、楔形文字を発明し、粘土板に刻んだ。シュメール人の都市国家は前3100年頃に成立、前2300年頃まで続き、キシュ(セム語系)、ウルク、ウル、ラガシュなどの都市国家が覇権を握った。それぞれの都市にはジグラッド(神殿)が建てられた。

 後のウル第3王朝時代(後述)に成立した「シュメール王名表」には洪水伝説が記されていて、王権はエリドゥ、ララク、シュルパクなどの諸都市へ受け継がれ、その後「洪水が襲った。洪水が襲ったのち王権が天より降りきたった。王権はキシュにあった。」という。一方粘土板の断片によれば、シュルパクの王系にあるジウスドラという者が大洪水を生き延びた、という。いずれにしろ、旧約聖書にいう大洪水の話は、この辺りの話を素材としている。
 また、ウルク第1王朝では「ギルガメシュ」の英雄叙事詩が生まれ、アッカド語やヒッタイト語にも翻訳されて後世に伝えられた。この叙事詩はギルガメシュとエンキドゥ両雄の物語で、やはり大洪水の話も登場する。一方先の王名表では、ギルガメシュ(ウルク5代王)は今もその跡が確認されるウルクの城壁を建設し、キシュの王アガを撃退した。また、ウルクの後ウル(ウル第1王朝)が王権を握り、その後ラガシュが王権を握ったという。しかし、これらの王朝は併存していたとも考えられる。

アッカド王国

 前2330年頃、メソポタミアはセム系アッカド人のサルゴン1世によって統一された。サルゴン1世はもとキシュ王に仕えていたが、独立してキシュの近くに首都アガデを建設した。これをアッカド王国という。サルゴンは下の海(ペルシア湾)から上の海(地中海)までを支配して「四界の王」と言われ、イラン諸地域を破り、杉の森(レバノン)や銀の山(タウルスの山地)にまで遠征軍を派遣した。一方娘をウルに月神ナンナの祭司として送り込み、シュメール人の宗教伝統を尊重した。

 アッカド王国が衰退した後、南部メソポタミアは政治的に混乱し、前2112年に成立したウル第3王朝(ウル・ナンム王)によって収拾された。この王朝はわずか100年しか続かなかったが、膨大な数の行政・経済記録を粘土板に残した。アムル族(セム系)やエラム族(イラン高原を支配、語族系統不明)の侵入により、ウル第3王朝は滅亡、これによって、シュメール人が政治の舞台から姿を消す。

古バビロニア王国

 その後イシン、ラルサ(共にアムル人の国)など様々な王朝が盛衰した。やがて同じアムル人のバビロン第1王朝(古バビロニア王国)6代王ハンムラビ(在位前1792-50)が、メソポタミア全土を統一する。ハンムラビ王はシュメール法典類を集大成し、新たにハンムラビ法典を制定した。「目には目を、歯には歯を」で有名な同害復讐の原則を持つ、世界最古の成文法典だ。またシュメールの主神エンリルとバビロンの地主神を合体させ、マルドゥク神とした。ハンムラビ王亡き後バビロン第1王朝は衰退し、前1595年ヒッタイトに滅ぼされる。