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21.中世ヨーロッパ

封建制

 カロリング朝が瓦解した後、一時国王の高級官僚であった公・候・伯が支配権を握ったが、11c頃には権力がさらに城主層いわゆる「バン領主(罰令権を有する領主)」に分割される。封建領主という支配層の出現だ。

 フランク王国以来の託身と宣誓によって生まれた主従関係に加えて、主君が従士に勤務の対価として、土地その他の財産(知行)を与える習慣が結びついたとき、いわゆる古典的封建制が誕生した。その時期は1050年頃とされている。それは主君と家臣との双務的な契約関係だった。この主従関係は、ひとりの封建家臣がひとりの主君に専属的に勤務するのではなく、同時に複数の主君に奉仕するということもあり得た。この現象はフランスで著しく、勤務する優先順位は家臣が決めた。主君もそのことを承知のうえで、新しい家臣を受け入れたのだ。

 しかし、封建制の様相は国ごとに違いがあった。北フランスでは典型的な封建制が展開した。南フランスでは不完全封建制で、封土の代わりに自有地が広範に残存した。フランスから封建制が導入されたイングランドでは、強力な王室の支配がつづき、王権の威信を高める基盤として封建制が機能した。ドイツは叙任権闘争の結果、イタリア政策にうつつをぬかす皇帝をしり目に、封建貴族とその上に立つ諸侯の力が増大し、領封によって国土が分割されていった。イタリアでは、都市勢力によって封建制は抑止された。

 封建領主は狭小な空間とはいえ、支配の対象となる領地を、密度が高いキメの細かい支配で統治した。そのシンボルとして城がある。城はマジャール人などの侵攻から守る軍事的な要請ではなく、支配の拠点、支配のシンボルとしてのものだったらしい。10c初めから12c半ばまで、イタリア、フランス、ドイツ西部、北西スペイン、イングランドに、間断なく一定のリズムで着実に建設されていった。領主はここに住み、低額な地代や特権待遇を施すことを条件に、農民や手工業者を呼び寄せ、城を中心にした密集定住という新しい生活空間と、支配のシステムを形づくった。

 封建制の中核をなしたのが騎士だ。当初、騎士は叙任されるもので、生まれついての身分・階級ではなかったが、騎士としての装備を維持する必要から封建領地をもった階層に固定され、やがて男爵以上の貴族の称号を持っていない者の称号となった(ナイト爵)。 20歳前後で一人前の騎士と認められると、主君から叙任を受ける。叙任の儀式は基本的には、主君の前に跪いて頭を垂れる騎士の肩を、主君が長剣の平で叩くというものだ。

 騎士の甲冑や武器は異常に重く、元来のヨーロッパ産の小型の馬では、まったく用をなさない。アフリカや中央アジアの頑健で大型の馬が導入されるのは、8cフランク人がアラブ人と戦ったトゥール・ポワティエ間の戦いが、きっかけだったろうと言われている。その後品種改良され、馬の生産地としてノルマンディー、イングランド、両シチリア、特にスペインが有名になった。13c以降はロンバルディアやネーデルラント産の馬の需要も増えていった。騎士の需要だけでなく、農耕、運搬、交通手段として馬は多いに役に立った。

農村社会と荘園

 中世社会は、ゲルマン民族の大移動とローマ帝国滅亡に伴う混乱の中で、貨幣経済が崩壊し、通商が衰えて、荘園を中心とする自給自足が一般的だった、といわれてきた。しかし今日では、中世は一度たりとも封鎖経済であったことはない、という認識に変わっている。

 穀物生産の水準は決して高いとはいえないものの、消費を上回る余剰がある程度期待され、それは様々な市場で取引された。例えば、カール大帝の時代にフランクフルトで出された勅令によれば、小麦や大麦その他の市場価格が示され、小麦が大麦の倍の値段で決められている。こうした公定価格は貨幣を使っての日常的な取引なしにはあり得ない。

 一方、9世紀頃までのヨーロッパは森林におおわれた農村社会だった。中世初期のヨーロッパでは、森林地帯の面積が占める割合は、ライン川以東のドイツ領域では約70%、フランスが20〜30%、イングランド15〜20%と見積もられている。

 森は農村生活に欠かせない様々な資源を提供してくれた。燃料となる薪や木炭、樫の木などの建設材、枯れ葉肥料、豚の放牧(どんぐりやトチの実が豚の飼料になった)などなど。狩猟も行われたが、フランク時代以来、無主の土地は王のものと宣言され、巨大な原生林は一気に王領となった。王たちは何よりも猟場として森を保護し、狩猟をする権利が王や貴族の特権となった。
 しかし、森林伐採・土地開墾の進展とともに、入植農民たちに一定の貢租と引き換えに引き渡されたり、王から貴族や都市に「封」として貸与されたりして、実質的には王のものであることをやめる。

 1100〜1300年は大開墾時代だった。森を切り開き、新しい農地や集落がひっきりなしに作られていった。とりわけドイツ東部は広い土地が原生林に覆われていて、その入植運動(東方植民)は中世末まで継続する息の長い運動だった。東方植民ではドイツ騎士団の貢献が大きかった。南フランスでは、やや遅れて12c末から開墾ラッシュが起き、封建領主は支配圏の拡張をめざした。聖界大領主たる修道院も、「祈れ働け」の精神のもと、人跡まれな土地に臆さず入り込んでいった。特にベネディクト派シトー会の活躍は目をみはる。

 開墾の進展と共に農業生産の増加があり、鉄製有輪鋤(すき)、水車、風車などの技術革新があった。鉄製有輪鋤は、それを引かせるため八頭の牛を必要とし、個人ではとても買えないため共同管理を必須にした。畑は垣根のない開放耕地として細長い地条を耕し、どんな種をいつ蒔くかなどに共同会議が必要とされ、農村社会の再編成を促し、荘園を形成させた。水車は製粉に威力を発揮した。風車は川の水量が少なすぎたり、流れがゆるやかすぎたりする地域で用いられたが、高価なため、領主しか持てないものだった。
 開墾運動の進展、農業生産の増大の結果、11〜13cにかけてヨーロッパの総人口は倍増したという。

 この頃から従来の二圃制に代わり、三圃制が広がった。農地を冬作物の畑、夏作物の畑、休閑地の三分割にする農法だ。三圃制は小麦やライ麦などの生産性を高めただけでなく、エンドウやソラマメなどの豆類の栽培を可能にした。豆類は土地を肥やし、植物性蛋白が豊富で多くの人口を栄養失調から救った。
 三圃制の普及も、農民が共同で畑を耕すことを促し、村落共同体を作った。村落はそのまま教区となり、教会と墓地を備えることになる。

 イタリアにおいては、商業発展の波に乗って、領主・農民双方の利益をめざした「分益小作」という契約が結ばれた。小作農は貢租に代え、収穫の半分(一定部分)を領主に払えばよく、また、領主は種や役畜の半分(一定部分)を前もって負担する、という契約方法だ。イングランドやフランスでも12c頃から分益小作が行われるようになり、13・4cに普及した。ただし、この2国ではずっと領主制が強固だった。
 分益小作が南ヨーロッパに広まったのに対して、北ヨーロッパでは「賃貸経営」が普及した。賃貸経営は、領主が直営地での自己経営を放棄し、農民に賃貸するようになったためで、領主たちが土地の金利生活者になったことを意味した。一般に賃貸経営の方が農民に有利で、富裕になれた。しかし、分益小作と賃貸経営とは、相容れないものではなく、比較的容易に入れ替わった。

教会

 中世社会では、私領に建てられた聖堂(私有教会)や修道院が増えていった。その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っており、こうした世俗権力が強大化していくと、その地域の司教の選出に対しても影響力を及ぼすようになっていく。
 世俗権力にとっても、少なからぬ教会財産の管理権を握るため、これは重要だった。一方、中世は教皇権が伸張し、聖職叙任権をめぐる争いが頻発するようになっていった。

 特に神聖ローマ帝国内では皇帝が司教たちの任命権を握って影響力を強くしていくことで、教皇選出においてまで影響力を持つに至った。しかし、俗権による叙任権のコントロールはシモニア(聖職売買)や聖職者の堕落という事態を招く一因ともなった。

 10cにブルグント王国に創立されたクリュニー修道院に対する俗権からの影響力を否定した改革運動や、俗権による叙任を否定した教皇レオ9世、聖職者の綱紀粛正をはかった教皇グレゴリウス7世による教会改革は、教会に叙任権を取り戻そうという流れを生んでいった。ここに至って皇帝と教皇の間で叙任権をめぐる争いが行われるようになった。叙任権闘争という。

 グレゴリウス7世は教皇権の占める皇帝権に対する優位を主張して、1076年に神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を破門した。ザリエル朝のもとで王権・帝権の強化が進んだことがドイツ諸侯らの懸念を招いていたこともあり、彼らはハインリヒの王位を否定する動きをみせた。こうして翌1077年、自らの政治的地位が動揺したハインリヒ4世が、グレゴリウス7世に一旦謝罪、屈服する(カノッサの屈辱)。だが、勢力を立て直したハインリヒ4世は、その後グレゴリウス7世をローマからの逃亡へと追い込んだ。両者の死後においても、皇帝と教皇の争いは一進一退であり、何らかの妥協点を定めることは困難に見えた。
 ハインリヒ4世の後を継いだハインリヒ5世は、ドイツ内での勢力基盤が安定しなかったこともあり、この叙任権闘争の決着を急いだ。1122年に結ばれたヴォルムス協約において、聖職叙任権は教皇が有するが、教会の土地、財産などの世俗的な権利は王が授封するという妥協が成立し、一応の解決へと至った。

 一方、修道院は中世ベネディクト派修道院が聖界を牛耳っており、中でも909年アキテーヌ公ギヨームが設立したクリュニー修道院が大きな勢力をもっていた。12c初頭には傘下に1500ほどの分院を擁した。しかし、大修道院クリュニーは、免税特権や教会の10分の1税の他、信者からの惜しげもない寄進によって巨額の富を蓄積し、世俗諸侯以上の大領主となった。
 こうしたクリュニーの有り様を批判した急先鋒がシトー修道院だった。クリュニーと同じブルゴーニュ地方のディジョン南部の森に1098年に建設された。彼らは厳格にベネディクト戒律を守り、衣食住とも質素な生活を心がけ、開墾運動において絶大な役割を果たした。特に1115年クレルヴォー修道院を創設し、シトー会発展に貢献した聖ベルナールがいた。

 教皇庁が主導した改革も行われた。組織面では「枢機卿会議」による教皇選挙規定が1059年定められ、世俗権力の干渉外に置かれることになった。会議はアレクサンデル3世(1159〜81年)のとき本式に出発し、規律・異端・列聖・訴訟などを扱った。枢機卿の任命は教皇の意のままだった。

 教会のもとで生まれたものに「大学」がある。従来は修道院や司教座の付属学校か、宮廷付属学校があるのみだったが、実用のみならず、真理の探究を何より高く掲げた高等教育機関として誕生した。
 1150年頃からパリ、オックスフォード、ポローニャ、モンペリエなどにでき、12c末から13cにかけて「団体」として特許状を付与された。王や教会の権威や命令をまぬがれ、自由な勉学のための自治特権を、組合を結成し自ら規約を作って主張していった。大学の学生は特権を与えられた聖職者だった。スコラ学、法学の追求を行う大学は、教皇に直結した教育機関、宗教研究機関であり、「ローマ法大全」を批判的素材とし教会法を作っていった。特に1140年頃、ポローニャの修道士グラティアヌスが編纂した教会法集成「グラティアヌス教令集」は、教皇を中心とした教会全体の実務を支えるのに役立った。これによりグラティアヌスは教会法の父と呼ばれる。以後、体系的な教会法が発達し、「教会法大全」に集結する。教会法大全は教皇が実務に支障をきたすごとに教会法学者に作らせ、改訂に改訂を重ねていったもので、「グラティアヌス教令集」、「グレゴリウス9世法令集」、「第六書」、「クレメンス5世教令集」、「ヨハネス22世追加教令集」、「普通追加教令集」の六法典からなる。

 教会はインノケンティウス3世のとき最盛期を迎えた後、1303年アナーニ事件で仏王フィリップ4世の法曹官僚ギョーム・ド・ノガレに辱められた教皇ボニファティウス8世の憤死、教皇クレメンス5世による教皇庁のアヴィニョン移転(1309〜76年)ではアヴィニョンの宮廷が絢爛豪華となった。ローマ帰還後はローマの教皇とアヴィニョンの教皇に教会が大分裂(*)し、教皇の権威は低下していく。

 教会建築では、ずんぐりとしたロマネスク様式から、天空にそそり立つゴシック建築へと変化した。ロマネスクでは窓を拡張するのが難しかったため、壁画が多かったが、ゴシックでは壁画の代わりにステンドグラスが用いられた。パリのノートルダム大聖堂、ランスやアミアンの大聖堂、ドイツでは、ストラスブルク、ケルン、ウルムなどの教会が有名だ。

*教会大分裂(シスマ、1378〜1417年):1377年教皇グレゴリウス11世がアヴィニョンからローマへ教皇庁を戻したが、翌年逝去した。教皇選挙でウルバヌス6世が選出されたが、フランス人枢機卿らは選挙は無効だとしてクレメンス7世を教皇とし、クレメンス7世はアヴィニョンに戻って、教会は大分裂した。事態収拾のため、1409年ピサ教会会議が開催され、双方の教皇(このときグレゴリウス12世とベネディクトゥス13世)の廃位とアレクサンデル5世の選出を決めるが、両教皇は納得せず、結局3人の教皇が鼎立する事態となる。1414年神聖ローマ皇帝ジギスムントの圧力により、ドイツ・コンスタンツで公会議が開かれ、公会議の権威が教皇に優越することを宣言、'17年に至り、争い合う三者(グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世及びヨハネス23世)に代わって新たにマルティヌス5世を新教皇として選出、シスマは解消した。

ドイツ、神聖ローマ帝国

 カロリング朝断絶後、東フランク王国では有力貴族たちが新しい王としてフランケン公コンラートを選出した。しかし、ザクセン公はこれに服従することを拒否し、両者の間には紛争が生じた。しかし、コンラートが死去すると、919年ザクセン公(*)ハインリヒ1世がドイツ王となってザクセン朝を開いた。
 ハインリヒは926年貢納金支払いを約してマジャール人との間に休戦協定を結ぶ一方、強固な砦を築き、騎兵を訓練強化した。この結果、933年にはマジャール人との戦闘で大勝し、国王としての威信を強化した。

*ザクセン公:ザクセン人はゲルマン人の一派で、元々エルベ川北岸に居住しており、5cにはその一部がデンマークのアングル人・ジュート人と共にイングランドに上陸し、いわゆるアングロ・サクソン人の元となった。サクソンはザクセンのこと。8cからフランク王国が東方への侵攻を開始すると、ザクセンは抵抗の末その版図の一部となり、カール大帝によってザクセン公に封じられた。

 ハインリヒ亡き後長子オットー1世(在位936〜62年)が国王を継承、955年にはレヒフェルトの戦いでマジャール人(*)を撃退した。また、962年には教皇ヨハネス12世よりローマ皇帝冠(皇帝在位962〜73年)を授けられた。世界史ではこの時をもって神聖ローマ帝国の誕生とされる(実際に神聖ローマ帝国を称するのは13c以降)。オットーは以後イタリア統治に腐心するが、その後も歴代神聖ローマ皇帝は、その名称の故にイタリア政策を重視することになる。

*マジャール人:ウラル山脈中南部の草原で遊牧生活を営んでいたが、9c黒海北岸へ移住、さらにハンガリー平原へ移動した。その後ヨーロッパを荒らし回ったが、レヒフェルトの戦いで敗れると、生き残りのためキリスト教化政策を進め、ハンガリー平原に統一国家を建設した。10c後半にはイシュトヴァーン1世が教皇からハンガリー王の戴冠を受け、ハンガリー王国として成立した。

 こうして神聖ローマ帝国は、当初ドイツ王兼イタリア王として成立したが、1032年ブルグント王国が断絶すると、ブルグント王も兼ねることになった。皇帝とは、元々カール大帝が継承した西ローマ帝国の帝権を受け継ぐものだった。しかし、実質的には大小の国家連合体であり、首都も存在しない。また、ドイツ王となっても、ただちに皇帝となるわけではなく、皇帝として戴冠する必要があった。ザクセン朝もハインリヒ2世死去により、1024年に断絶した。その後、帝位はザーリアー朝(又はフランケン朝、1024〜1125年)やホーエンシュタウフェン朝(1138〜1254年)、大空位時代(1254〜1273年)その他を経て、1452年からはハプスブルク家が世襲するに至る。

 1198年ローマ教皇インノケンティウス3世は、ドイツの王位争いに際し、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア(トリエル)大司教、ライン宮中伯(プファルツ伯、のちバイエルン公と交互)の賛同が不可欠であることを定めた。これが選帝候の初めとなる。ドイツ王の選挙であっても事実上皇帝となるので、選帝候という。1257年以降はザクセン公、ブランデンブルク辺境伯が加わり、1289年にはボヘミア王が加わって7選帝候となった。1356年にはカール4世が発した金印勅書(皇帝の命令が記され黄金製の印章が付された公文書、黄金文書ともいう)によって、この顔ぶれと特権が法的に確定する。

フランス、カペー朝

 西フランク王国ではカロリング朝断絶後、987年パリ伯ユーグ・カペー(西フランク王ロベール1世の孫)がフランス王に選ばれた(カペー朝)。当初、国王の権力基盤は非常に弱くパリ周辺を抑えるのみで、各地には伯と呼ばれる諸侯が割拠した。また、イングランド王位を持つノルマンディー公家による圧迫を受け、フランス領土の大半を支配されていた。
 1180年即位したフィリップ2世(尊厳王)は、巧みな攻略結婚やイングランド王室の内部抗争を利用し、13c始めまでにイングランド領土の大部分を剥奪して領土を大きく拡大し、国王の権力を強化した。

 この頃フランス南部に広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、アルビジョワ十字軍と呼ばれる異端撲滅闘争があり、ルイ9世(聖王)までに完了し、結果としてフランス南部にまで王権が伸張した。こうしてローマ教皇との連携を強化したが、同王による第6回、第7回十字軍の失敗はフランス財政に大きな負担を強いた。

 フィリップ4世は財政難の打開のため、国内の聖職者への課税を図り、ローマ教皇と対立するようになる。1302年フィリップは三部会(身分制議会)を開催して、フランス国内の諸身分から支持を得、翌'03年アナーニ事件を引き起こしてローマ教皇ボニファティウス8世を一時幽閉し憤死させた。代わってフランス人のクレメンス5世を教皇に擁立する一方、テンプル騎士団の資産に目をつけ、異端の濡れ衣を着せてこれを解散させ資産を没収した。1309年には教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(教皇のバビロン捕囚)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。

イングランド

 ノルマン・コンクウェストによりノルマンディー公ギョーム2世が、ウィリアム1世として即位、ノルマン朝を創始した(1066年)。この王朝は征服王朝だったため、当初から国王に権力が集中していた。

 ノルマン朝3代ヘンリー1世は嫡男を失い、他に正嫡がなかったため、死後ヘンリーの妹の子フランス・ブロワ伯家のエティエンヌが、諸侯の支持でイングランド王スティーブンとして即位した。これをブロワ朝と呼ぶ。
 しかし、ヘンリー1世自身は生前に娘マティルダを後継者に指名しており、マティルダはスティーブンの即位を不当として内戦となった。スティーブンがマティルダの息子フランス・アンジュー伯アンリを後継者とすることで和平が成立、スティーブン死後アンリがヘンリー2世として即位し、プランタジネット朝(アンジュー朝とも呼ばれる)が始まった。

 ヘンリー2世のプランタジネット朝は、フランスに広大な所領を持ったままイングランド国王に即位したため、アンジュー帝国と呼ばれる一大領邦軍を形成した。歴代国王は対フランス政策に忙殺されると共に、フランス語を話すフランス人としての意識も強かったと言われる。そのため、フランス王家カペー朝・ヴァロワ朝と領地を巡る争いが絶えず、百年戦争を招く結果となる。

十字軍

 セルジューク朝トルコは、1071年小アジアのマラーズギルドでビザンツ帝国に大勝し、アナトリアを征服されたビザンツ皇帝アレクシオス1世は、1095年ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼した。しかし、このときイスラーム教国からの聖地エルサレム奪還を大義名分とした。

 ウルバヌス2世は同年クレルモン公会議を召集し、トルコ人によってキリスト教徒の聖地エルサレムへの巡礼が妨害されていること、我々の土地からいまわしい民族(トルコ人)を根絶やしにするよう訴えた。民衆の熱狂によって、まもなく騎士と雑多な民衆からなる十字軍が結成され、翌8月遠征へ出発した。

 十字軍は1098年、激戦の末セルジューク朝のアンティオキアを占領し、ここから南下した。当時エルサレムはファーティマ朝の支配下にあったが、土地の人々は、十字軍を「聖地への巡礼団」と誤解し、彼らに食料を提供したり道案内をつけてやったりした。
 '99年エルサレムに到着した十字軍は、市内に乱入し殺戮集団と化した。老若男女を問わず、およそ7万人のムスリムとユダヤ教徒を虐殺、「聖墳墓教会の守護者」としてフランスのロレーヌ公ゴドフラワ・ド・ブイヨンを選出した。およそ200年にわたって続くエルサレム王国(*、1099-1291年)の成立だった。

 第2回十字軍(1147〜8年):第1回十字軍の後しばらくの間は、中東においてはエルサレム王国などのキリスト教徒と、群小のイスラーム教徒の都市が共存する状態が続いていた。しかし、イスラーム教徒が盛り返し、キリスト教国のエデッサ伯国を占領したことで、ヨーロッパで再び危機感が募り、教皇エウゲニウス3世が呼びかけ、第2回十字軍が結成された。フランス王ルイ7世、神聖ローマ皇帝コンラート3世の2人を指導者に、多くの従軍者が集まったが全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。パレスチナにたどりついた一部の軍勢もダマスカス攻撃に失敗し、フランス王らはほうほうの体で撤退した。

 第3回十字軍(1189〜92年):エジプト・アイユーブ朝を創始したサラーフ・アッディーン(サラディン)は、ジハード(聖戦)を呼びかけ、1187年ヒッティーンの戦いで大勝、およそ90年ぶりにエルサレムを奪還した。教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランド獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。しかしフリードリヒ1世はキリキアで川を渡ろうとしたところ、落馬し、鎧の重さのため溺死した。その後もフィリップ2世は帰国、残るリチャード1世は、サラディンと五分に戦ったが、休戦協定を結び、エルサレムの奪還は失敗に終わった。ただし、エルサレム巡礼の自由は保障された。

 第4回十字軍(1202〜4年):ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施された。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負ったヴェネツィア商人の意向を受け、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、市民の虐殺や掠奪が行われ、フランドル伯ボードゥアンが皇帝となってラテン帝国を建国した。ビザンツの皇族たちは各地に亡命政権を樹立し、57年後の1261年にビザンツ帝国として再度復活した。

 第5回十字軍(1228〜9年):ローマ教皇グレゴリウス9世は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世(**)に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年破門されたままフリードリヒは遠征、当時アイユーブ朝は内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく平和条約を締結した。この結果フリードリヒはエルサレムの統治権を手に入れた。'30年グレゴリウス9世はフリードリヒの破門を解く。しかしフリードリヒには補給の困難な内陸部の聖地を守り抜こうとする気はなかったため、10年後死海東方のカラクの城主によって、エルサレムは再びムスリムの掌中に戻された。

 第6回十字軍(1248〜9年):エルサレムが再度イスラム側に陥落したため、フランス王ルイ9世聖王が700隻の大艦隊を率いてナイル河口に到着した。しかし、アイユーブ朝のバフリー・マムルーク(海のマムルーク)軍にマンスーラ市街で包囲され、狭い路地に追い込まれた十字軍は、増水期の運河で1〜3万人が溺れ死んだという。ルイ王自身も捕虜とり、莫大な賠償金を払って釈放される。

 第7回十字軍(1270年):フランス王ルイ9世が再度出兵するが、アフリカのチェニスを目指す途上で死去。後十字軍国家は縮小の一途をたどり、1291年に全滅する。

 この他、神の啓示を受けたとする少年エティエンヌの呼びかけにより少年・少女が中心となって結成された少年十字軍(1212年、聖地に向かう途中、船を斡旋した商人の陰謀によりアレクサンドリアで奴隷として売り飛ばされた)、1218〜21年の十字軍(エルサレム王国の後身アッコン王国がエジプトを攻略するも失敗)、1271〜72年の十字軍(第7回十字軍の流れで、イングランド王太子エドワードとフランス・ルイ9世の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、エジプト・マムルーク朝の勢力に成果を収められず撤退した)などがある。

 十字軍の影響として、次のことがあげられる。
1.教皇の呼びかけではじまった十字軍が失敗に終わったので、教皇の権威が衰えた。
2.従軍した封建領主(諸侯・騎士)が、戦費の負担で没落する者が多かった。その結果相対的に国王の権力が強化されることになった。
3.東方貿易が盛んになり、ビザンツやイスラームの文物が西ヨーロッパに到来、後のルネサンス時代を準備することになった。

*エルサレム王国(1099-1291年):聖墳墓を守るために作られた国家で、1292年イスラーム軍によって消滅するまで、シリア・パレスティナに君臨し、また支配がトルコ、エジプトに及ぶなど、その支配領域は広大だった。王は世襲制、大貴族を中心とする上級顧問会議が中枢をなす中央集権機構を備えていた。臣従を誓ったのは、エデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領など。この王国で生まれた二世たちは、エルサレム王国人として育ち、現地の妻を娶り混血した。イスラーム教徒、ユダヤ教徒、東方キリスト教徒が支配に服した。

**フリードリヒ2世:ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェとの間に生まれた(ハインリヒ6世はコンスタンツェと結婚することでシチリア王を兼ねていた)。ハインリヒ6世死去により、ドイツでは叔父のハインリヒがドイツ王に即位したが、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の争いが再燃したため、相続権を有するフリードリヒの身が危険になった。母コンスタンツェは皇帝の相続権を放棄し、シチリア王国を切り離して、フリードリヒをシチリア王として自らその摂政となった。翌年コンスタンツェは亡くなるが、フリードリヒは教皇インノケンティウス3世の後見を受け、パレルモで成長した。
 当時のシチリアはノルマン人王朝の下、12cルッジェロ2世の時代に、パレルモの宮廷で高度な官僚制が作られた。聖俗の重臣から成る王室顧問団(クリア・レギス)が内政・外交において王を補佐し、国王案件以外の事件について広範な裁判権を掌握していた。また、キリスト教文化とイスラム文化が融合した独特の文化を生み出しており、フリードリヒはここで様々な価値観を持つ人間に触れ、数カ国語を話せたという。また、異教徒への寛容と理解の精神を育み、さらにイスラムの進んだ自然科学を受容した。
 ヴェルフ家神聖ローマ皇帝オットー4世が廃位されると、フリードリヒは1215年ドイツ王として即位、'20年十字軍の実行を約して教皇ホノリウス3世から神聖ローマ皇帝冠を受けた。同時に嫡子をハインリヒ7世としてドイツ王とした。教皇グリゴリウス9世は十字軍を実施しないフリードリヒを破門、フリードリヒは破門されたまま'28年十字軍を起こした。しかし、アイユーブ朝スルタンのアル・カーミルと自然科学の話題などを通じて親しくなり、交渉によって聖地を回復した。一方、グレゴリウス9世との間は冷えたままで、フリードリヒ皇帝軍が教皇派の軍を破った後、'30年破門を解かれた。
 その後もイタリア政策に腐心、ドイツでは息子の反乱が勃発した('35年、後ハインリヒは自殺)。イタリア政策も成功を収めることはなく、'45年インノケンティウス4世によって、イスラム教徒の友人であるとして再び破門された。'50年死去、ドイツ王は次男コンラート4世が継いだが、ホーエンシュタウフェン朝は衰退した。

英仏百年戦争(1339-1453年)

 カペー朝最後の国王シャルル4世が1328年死去すると、男子の跡継ぎがなかったため、カペー家は断絶した。
 王位はフィリップ4世の甥にあたるヴァロワ伯フィリップに継承され(ヴァロワ朝)、フィリップ6世(在位1328-50年)として戴冠した。これに対してフィリップ4世の娘イザベルとイングランド王(プランタジネット朝)エドワード2世の間に生まれたエドワード3世は、カペー家の相続を主張してフランスに侵攻、ここに百年戦争が勃発する。

 またフランドル地方の帰属問題も百年戦争発端の原因だった。フランドルは11c以来イングランドから輸入した羊毛で毛織物を生産し、ヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。ここを支配するフランドル伯は形式上は西フランク王国に属していたが、独立性を保ち、しかも諸都市の市民の力が強かった。カペー朝フィリップ4世のとき豊かなフランドル地方の支配を狙い、これを併合したが、その支配が苛酷だったため、1302年コルトレイクにおける金拍車の戦いで、フランドル都市連合軍がフランス軍を破った。そのためフランスはフランドルの独立を認めざるを得なかった。その後はフランドル伯が親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。イングランドはフランスとの関係悪化に伴い、1336年エドワード3世はフランドルへの羊毛輸出禁止に踏み切る。そのため毛織物産業は大きな打撃を受け、ヘント(ガン)で反乱が勃発、フランドル諸都市が追従し、フランドル伯は追放され、百年戦争勃発に際してフランドル都市連合はエドワード3世への忠誠を宣誓した。

 1338年エドワード3世は北フランスに侵入、フランスに挑戦状を送って決戦を迫ったが、フィリップ6世は直接対決を避け、200隻の艦隊でイングランド沿岸部を攻撃、海上輸送路を断つ作戦を採った。両王軍は海峡の制海権をめぐり、'40年スロイスの海戦でイングランドがフランスを破った。しかし、内陸部ではフランス軍が優勢で、両者とも決定的な勝利をつかめないまま、同年休戦した。
 '46年イングランドはノルマンディーに上陸、クレシーの戦いでエドワード黒太子(エドワード3世長男)率いる長弓隊の活躍に対し、弩弓や規律のない騎馬突撃のみのフランスが大敗、勢いづいたイングランドは港町カレーを包囲戦の末に陥落させた。翌'47年、教皇クレメンス6世の仲裁によって休戦、その年にペストが流行し始めた。'50年フィリップ6世が死去、ジャン2世が即位した。

*ペストの流行:モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになっていたことを背景に、1347年ジェノヴァ商船によりイタリアのメッシーナに上陸した。ネズミについていたノミがペスト菌を持ち込んだらしい。ヨーロッパ自体も長い天候不順と頻発する飢饉で弱まっていたため、流行に拍車をかけ、14c末までにヨーロッパの人口の三分の一が死亡したと推定される。猛威をふるうペストに対して、人間はほとんどなすすべがなく、ただ死体を大きな穴に放り込んで、火をつけることしかできなかった。その一方で、ユダヤ人やハンセン病患者が、病気の蔓延させたとして迫害された。

 '56年のポワティエの戦いでは、激戦の末エドワード黒太子によってジャン2世が捕虜となり、ロンドンに連行された。フランスではさらに'58年、戦争による農地の荒廃、重税などに反発する農民反乱ジャックリーの乱が勃発した。'60年教皇インノケンティウス6世の仲介によるカレー条約で、ジャン2世の解放とフランス領土の大幅な割譲が定められたが、'64年ジャン2世はロンドンで死去した。

 '64年即位したシャルル5世(在位1364-80年)は敗戦による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要歳入をそれまでの直轄領からの年貢にたよる方式から国王課税収入へと転換した。これにより、フランス王権の財力は飛躍的に伸びることになる。
 その後も幾度かの戦い・休戦を繰り返したが、イングランドでは'76-7年にはエドワード黒太子、エドワード3世共に死去、年少のリチャード2世新王となった。その'80年イングランドでワット・タイラーの農民反乱が発生する。一方のフランスはシャルル5世が'80年死去し、シャルル6世が即位した。

 イングランドではワット・タイラーの反乱を鎮圧したリチャード2世が、評議会を廃して親政を開始し、'96年にはフランスと休戦協定を結んだが、これに反対する議会派諸侯を処刑するなど、議会派と激しく対立した。議会派は'99年リチャード2世を廃して、ロンドン塔に幽閉、ヘリフォード伯ヘンリーがヘンリー4世として即位した。ここにプランタジネット朝が終焉、ランカスター朝が成立する。

 一方のフランスも幼少のシャルル6世の後見人一派(ブルゴーニュ派)と、親政を支持するオルレアン派が対立する中で、'92年シャルル6世が精神錯乱に陥り、混迷していた。両派の対立は1407年オルレアン公ルイの暗殺により、内乱に発展した。
 イングランドでは'13年ヘンリー4世が死去、ヘンリー5世が即位した。ヘンリー5世はフランス内乱の機を逃さず大軍を率いてフランスに侵攻、'15年アジャンクールの戦いで足並みの揃わないフランス軍に壊滅的な打撃を与え、'17年にはルーアンを陥落させてノルマンディー一帯を掌握した。'19年ブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランド王家と結託し、アングロ・ブルギーニョン同盟を結んだが('20年トロワ条約)、これはシャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世の婚姻によって、ヘンリー5世をフランス王の継承者とするもので、事実上イングランド・フランス連合王国を実現するものだった。

 しかし、'22年ヘンリー5世、シャルル6世ともに死去、事態は再び混迷に向かう。イングランドでは生後1年に満たないヘンリー6世を即位させた。ヘンリー5世の二人の弟ベットフォード公ジョンとグロスター公ハンフリーが幼君を補佐したが、摂政の座を巡って争いが起き国情が乱れた。一方、フランスではシャルル6世の王太子シャルルが、フランス王を名乗って各地を転じた。

 '29年ベッドフォード公の軍が、王太子シャルルの最後の砦ロワール川沿いのオルレアンを包囲したとき、彗星のごとく少女ジャンヌ・ダルクが登場する。ジャンヌはドン・レミという村の農夫の子で、この登場にフランス軍の志気が上がり、オルレアンは解放される。両軍にジャンヌの名声が鳴り響き、王太子シャルルはノートルダム大聖堂でシャルル7世として戴冠することができた。ジャンヌはシャルル7世にパリ解放を指示されるが失敗、'30年戦いで負傷して捕虜として捕らえられ、翌年宗教裁判にかけられ、火刑に処せられた。後日シャルル7世は裁判の調査を命じ、'56年名誉が回復された。また、20cに入ると聖女として列福されることになる。
 ともあれ、シャルル7世は'49年ノルマンディーを攻撃、ルーアンを陥落させた。翌年にはシェルブールに上陸したイングランド軍を大敗させた。これにより、ついに'53年イングランド軍はカレーを除くフランス全土から撤退、戦争は終結した。

 百年戦争の後イングランドでは1455年ヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こし、内乱となった。後世、薔薇戦争と呼ばれ、チューダー朝成立(1485年)によって収拾される。この間、うち続く戦乱で諸侯は疲弊し、絶対王政が確立することになる。

中世社会の経済と都市

 11c以降農業生産力の向上とともに、当初小規模で不定期だった各地の市が、次第に定期市に発展した。定期市はもともとあったローマ都市や司教座都市でも行われたが、定期市から発展した都市もあった。この時期の都市や市民の発展はしばしば「商業ルネサンス」とも言われる。

 特に商業活動は大量の人と物が動いた十字軍によって促進され、貨幣経済・商業の発達は商人や手工業者という新しい階級を生み出した。そして彼らの居住地域としての都市が成立・発展した。

 中世都市は、その成立の由来からローマ都市・司教都市・城砦都市・建設都市などに分けられる。ローマ都市は古代ローマ都市の跡に建てられた都市、司教都市は司教座がおかれた町の教会を中心に発達した都市、城砦都市は封建領主の城を中心に発達した都市、そして建設都市は港・河口・市場など交通の便のよい所に建設された都市だ。

*建設都市:エルベ川の東に数多く存在する。1回限りの建設行為によって作り出された。リューベックを代表として数多く存在する。イングランドでも11cには国王、12cには封建領主の手で、多くの都市が建設された。

 最初にもっとも都市化が進展したのは、セーヌ、ライン川の間だ。「シテ」という古代以来の司教居住区と、その周囲にできた市場集落「ブール」という二元構造があった。都市が拡大発展し、シテ及びブールが手狭になると、城壁外の主要道路沿いには「フォブール」が、郊外には「バンリュウ」が形成される。
 フォブールは城壁外移住者たちの中核となった場所、バンリュウは都市外部にあってバン(罰令権)が有効な場所だ。この都市の拡大再生産は不断に進み、13cからほぼ中世末まで市壁の再編が続いた。パリはその典型だ。

 都市の成長にもっとも貢献したのは商人と職人だった。彼らは相互扶助団体であるギルド(商人ギルドは誓約者団体として11c後半に成立、職人ギルドは職種別に集まり生産と販売競争規制・共同利益の保全をめざし12cから台頭)を形成し、それは徐々に力を強くしていった。商人・職人は、その初期の段階でコミューン運動を起こした(11c後半〜12c初頭)。彼らは貴族・豪族たちを政権の座から引きずりおろし、中世末には国王や皇帝をも向こうにまわして、平民の力を見せつけることになる。
 商人のうち富を蓄えた有力者が都市貴族となる。彼らは婚姻関係を通じて閉鎖集団を構成した彼らと一般市民の懸隔は次第に大きくなる。都市貴族はその経済力で都市活動全域を支配した。官職も彼らの独占するところとなった。

 フランスではカペー朝期に特許状を連発して、コミューン都市を認可する積極政策を進めた結果、13cはじめにはコミューンを「集合領主」として王権を補弼させ、その数39に及んだ。王はコミューンを保護し、見返りとして御用金を徴収した。

 イタリアではコミューンをコムーネと呼ぶ。イタリアの都市は、周辺農村部を従属させた都市国家であり、自治都市コムーネは、都市の有力市民、地区やギルドの代表によって運営された。

 都市は教会と中央広場を中核として展開した。中央広場は都市空間の中心で、街路をどう歩いてもそこにたどりつくようになっていた。広場は教会、市庁舎のいずれか、又はその両者に面していた。市民は町の中心である広場を美しくするため心を砕き、たいがい噴水があり、彫刻で飾られている。
 広場ではまた朝市や定期市が開かれた。定期市は大市、小市がカレンダーにのっとって定期的に開かれる。また、祭りが開かれた。キリスト教の祝祭、都市の守護聖人を祀る祭り、戦争の勝利を祝う祭りなどがひっきりなしに開かれた。ときには舞台が設置されて、演劇が行われることもあった。王や都市当局や裁判所が、ラッパや太鼓で人々を集め、都市条例、裁判の判決を読み上げるのも広場だった。都市条例の改定は、広場で読み上げることが発効の条件だった。

 12c半ば、ドイツ・リューベックを中心にハンザ同盟が作られた。北海及びバルト海域の北欧を商業圏とし、二百近い都市が集結した。特にフランドルのブルッヘ、ルーシのノブゴロド、ノルウェーのベルゲン、ロンドンに四大商館が置かれた。14c末に絶頂期を迎え、一方の地中海貿易圏とは陸路つながっていた。

 北海・バルト海貿易では、東ヨーロッパから穀物・海産物・木材などが西ヨーロッパに運ばれ、取引された。ライン川河口に近いフランドルでは、10c頃から毛織物生産が盛んとなり、ガン、ブリュージュなどが毛織物生産都市として栄え、ブルッヘから輸出された。バルト海からはニシン、ドイツ騎士団領からは木材・琥珀、ポーランドからは穀物、ルーシからは毛皮が主として輸出された。

*毛織物はヨーロッパの都市のもっとも重要な産業だった。代表がフィレンツェとフランドル諸都市だ。

 北ドイツではハンザ同盟の盟主となったリューベックの他、ハンブルク、ブレーメンなどが栄え、南ドイツではアウグスブルク(中世最大の銀・銅の産地)、ニュルンベルク(イタリアとの遠隔地貿易の要地)などが栄えた。アウグスブルクでは15cに大富豪のフッガー家が台頭、イタリアとの香辛料・羊毛取引で産を成し、15c末から銀山・銅山の採掘権を独占して巨万の富を築き、また国際的な金融資本家にのし上がって、16cには皇帝や教皇への融資を通じてヨーロッパの政治に大きな影響を及ぼすことになる。

 一方、地中海貿易圏では、北イタリアのヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの海港都市が早くから活躍していたが、特に十字軍以後はイスラム商人との東方貿易によって繁栄した。東方貿易で手に入れたこしょうなどの香辛料・絹・宝石などのアジアの特産物をアルプス以北に運んで銀と交換し、その銀でイスラム商人から香辛料などを購入した。
 特にヴェネツィアは、第4回十字軍以後東地中海に商権を拡大し、東方貿易によって莫大な富を手にして繁栄した。ジェノヴァも十字軍を利用して東地中海に商権を拡大し、両者は海上の覇権をめぐって激しく争った。
 内陸のフィレンツェは、13c以後毛織物生産と貿易・金融業によって大いに繁栄した。フィレンツェの大富豪メディチ家は商業・金融で巨富を得て、15c前半には市政を掌握、また文芸の保護に努めたので、ルネサンスの一大中心地となる。
 また北イタリアの内陸都市ミラノも毛織物・商業で栄えた。

 フランス・シャンパーニュ地方は二大貿易圏の中間に位置し、交通の要衝だったので、トロアを中心とする6都市で順に定期市が開かれ、シャンパーニュの大市として知られた。東方貿易・北海貿易によってもたらせる商品が取引され、12−3cに大いに繁栄した。
 またフランスでは、ルーアン・ボルドー・マルセイユなどの港市や内陸のリヨンなども栄えた。ボルドーはぶどう酒の輸出港として、リヨンは絹織物生産で知られている。

 貨幣でもっとも権威のあったのは、ヴェネツィアのドゥカート金貨と聖王ルイによるトゥルノワ銀貨だった。
 イタリアでは14c、商業・製造業・銀行業を兼ね備えたコンパニーアが、事業の規模拡大に伴い、家族以外の協力者を受け入れ、ヨーロッパ中に支店網を張り巡らした。また「複式簿記」もイタリア諸都市、次いで北ヨーロッパ諸国に採用されていった。為替手形、保険も発明された。13c末から14c初頭にかけて海上輸送にかかわる保険が現れ、半世紀後、陸上輸送の保険と生命保険が出現した。14c後半、貸借の決済として、銀行預金者のあいだで、振替、為替手形、小切手の利用により、現金を動かすことなく行われるようになった。
 商業技術の先進地イタリア、特にジェノヴァ、ヴェネトィアの商人は、子に読み書き算術を必須の素養とし、できる限り外国語も習得させた。イタリアとならんで商業の発達したフランドルには、都市の経営する学校があり、やはり読み書き算術を教えた。
 イタリアでは、公正証書の作成と認証を仕事とし、紛争を未然に防ごうとする法曹家である公証人が大活躍した。

 1400年前後にはイベリア半島のレコンキスタが進み、キリスト教徒とイスラーム教徒との妥協もできて、ジブラルタル海峡の航行に危険が無くなったとき、イタリアとフランドルの間に航路が開かれて両貿易圏は統合されることになる。

 さて、ヨーロッパ中世都市の特徴は、人口が少ないこと、市域が狭いことだ。都市は市壁によって囲まれ、面積は広い都市で600haほど(ヴェネチア、ミラノ、ガン、ケルン)、それなりの都市で100〜500haだった。ちなみにドイツ語のブルグ、フランス語のブール、英語のバラ、スラブ諸語のグラードは市壁で囲まれた都市を意味する。市壁はそう簡単に拡張できないため、人口の増加に応じていきおい都市は稠密になり、衛生をはじめさまざまな問題を抱えることになっていく。

 人口は、14c初めころ多いものでヴェネチア、ミラノ10万、パリ、ロンドン8万、2万以上の都市は、イタリアのパドヴァ、ジェノヴァ、ポローニャ、ナポリ、パレルモ、ドイツのケルン、フランドル(現ベルギーあたり)のブリュージュ、ガン、ブリュッセル、ルーヴァン、イーペル、トゥールネ、リエージュ、スペインのバルセロナ、コルドバ、セビリア、グラナダといったところが大都市、多くの普通の都市は1000人〜2万人以下だった。

 密集した都市は大変不潔だった。市民たちは自分の排泄物を地下室の壺に始末するが、なかには夜間に用を足したものを明け方に2〜3階から街路上になげ棄てるフラチな連中も少なくなかった。仕事からでる屑も街路に捨てられた。こうした汚物・塵芥の多くは家畜たちが処分した。街路には豚やアヒルが鳴き声をあげながらごみをあさり、豚は汚物まで清掃してくれた。それでも彼らが食べきれない粗大ゴミは残るわけで、大雨が流してくれるのを待つ以外になく、そのときは今度はそれらが流れこむ川をせきとめて洪水がおこるといった有様だった。
 人口が密集して不潔だから、都市は疫病の温床となった。ペストを先頭として大量死が何回となく繰りかえされた。