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25.日本略史

建国

 日本は中国・朝鮮の影響の下、前4〜3世紀には北九州に稲作・金属器を伴う弥生文化が成立した(中国は戦国時代)。前108年漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡などの四郡を置いたとき、日本に及んだ影響は著しく、紀元前後には倭人は百余国に分かれ、一部の国が楽浪郡に朝貢した(「漢書」地理誌)。ただしここで倭とは、楽浪より南から船にのって朝貢してくる種族を総称したもので、日本の九州方面の他、朝鮮西南海岸の種族や人々を含むと考えられる。
 57年倭奴国が貢を奉じて後漢に朝賀し、光武帝は印綬を授けた(「後漢書」東夷列伝倭条、1784年博多湾志賀島から出土した金印に「漢委奴国王」の刻印)。また、後漢安帝のとき(107年)倭国王師升(スイショウ)らが生口百六十人を献じて朝貢した(同書)。
 その後倭国は乱れたが、卑弥呼をもって王となし、弟が補佐して国を治めた。いわゆる邪馬台国だ。239年卑弥呼は大夫難升米(ナンショウマイ)を魏(明帝)に遣わして、親魏倭王の称号を得た。247年卑弥呼が死に台与が立てられる(以上「三国志」魏書東夷伝倭人条)。司馬炎が晋朝を開くと、台与はさっそく使者を送って祝賀の意を表した(266年、「晋書」東夷伝倭人条)。これ以後413年倭王が東晋の朝廷を訪問するまで、倭人は中国の記録からいっさい姿を消す。

 朝鮮半島では313年高句麗が楽浪・帯方をとり、その後高句麗は百済・倭国同盟軍と戦った(同盟を記念して372年百済近肖古王が倭に七枝刀一口などを贈る(紀)、奈良県天理市石上神宮に七支刀が現存)。また新羅が百済から独立、高句麗では広開土王が活躍した(「好太王碑文」)。412年広開土王が死んだ翌年、倭が久しぶりに中国南朝・東晋に遣わし、追うように416年百済が東晋に遣わした(「晋書」)。朝鮮半島の勢力関係がらみのことだ。420年東晋が滅亡し宋が興ると、ただちに倭王讃は宋に遣わし(421年)、これ以後438年倭王珍、443年倭王済、469年倭王興、478年倭王武が宋に遣わした(「宋書」夷蛮伝倭国条、倭の五王という。仁徳〜雄略に比定)。倭王武(倭名ワカタケル、雄略)は宋から得た称号が高句麗王と同等でなかったのを不服とし、以後南朝への遣使を取りやめた。479年倭が東城王を立てて百済王とした(紀)が、502年東城王が廃され武寧王が即位すると、半島に対する倭の影響力が衰退した。

 オホド王(継体)は、前王系が断絶し越の国から迎えられて大王になった。在位中、朝鮮半島加羅の直轄地(紀で任那4県という)の百済への割譲、磐井の反乱(527)、仏教の私伝などがあった。割譲の見返りとして、百済から技術者・五経博士が送り込まれることになり、帰化技術者の集団は東漢(ヤマトノアヤ)氏の統率下に入り、品部として組織された。

*記紀は日本王統譜をカムヤマトイワレヒコ(神武)を初代として記述するが、神武及びこれに続く八代は記紀の創作だ。10代ミマキイリヒコ(崇神)から記述が具体的となり、こういう大王(オオキミ)も存在したかもしれない。ただし、万世一系かどうかは非常に怪しい。というのも、始めの頃大和王権は諸勢力の連合として成立していたようで、有力な系統が大王となった可能性も大いにあり得るからだ。オホド王からは、記紀の記述もかなり詳しくなる。

 ヒロニワ(欽明)大王の562年、新羅が加羅を滅ぼし(紀で任那滅亡、実際は倭軍の屯田基地があったと考えられる)、半島は三国時代となって、倭は半島から後退する。国内では崇仏の是非をめぐって、蘇我氏と物部氏の対立が起こった。対立は蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、崇仏派が勝利して決着した。

 額田部皇女(別名トヨミケカシキヤヒメ、推古)は蘇我馬子に擁立され、最初の女帝となり、厩戸(別名上宮王・聖徳太子)を摂政とした。この頃中国では長い南北分権状態を脱し589年隋が成立、周辺諸国は強大な中華帝国の出現に対し朝貢を行った。厩戸・馬子の倭王権も、600年隋に遣わす(第1回遣隋使)など、隋・朝鮮の文物を積極的に導入、冠位12階、十七条憲法など国内秩序を法政化した。「隋書」東夷伝では、2代煬帝の608年倭のアマタラシヒコが遣わし、翌年裴世清(ハイセイセイ)を答礼使節とした、とある(第2回遣隋使、アマタラシヒコは大王の通称、第1回遣隋使を含め紀では意識的にか無視されている)。その隋は煬帝の3次にわたる高句麗遠征にもかかわらず成果がなく、大運河工事などで国が疲弊、618年唐にとって代わられた。

 隋の二の舞を防ぐべく内政固めを行っていた唐は、644年以降高句麗遠征を実施、これが不落と見るや矛先を百済に代え、'60年百済滅亡、'68年高句麗も陥した。
 この間倭ではタカラ皇女(皇極重祚して斉明)のとき、中大兄・中臣鎌足らが唐の脅威を受け、当時王権をほしいままにしていた蘇我氏(蝦夷・入鹿)を滅ぼし、遣唐使を派遣('59年)した。しかし'60年唐・新羅が百済を滅ぼした際、倭は再興を期す百済に'61年救援軍を送り、'63年白村江で唐・新羅に惨敗を喫した。タカラは九州で病死、後中大兄が即位(天智)した。
 この後中大兄は敗戦の危機感から、唐・新羅の襲来に備える防衛拠点を筑紫など各地に築き、再度遣唐使を派遣('65,69年)して倭への侵略回避を狙った。さらにこの国際的緊張をてこに、唐の法典・国政を積極的に学び、戸籍作り(庚午年籍、'70年)を行うなど、律令国家建設に邁進した。

壬申の乱、律令国家の建設

 しかし律令国家建設への動きは、伝統的な祭祀を行う地方豪族(国造)・民衆に激しい不満を鬱積させた。その結果中大兄死後、近江令施行('71年)などその路線を継承しようとした大友(天智の子)と、地方豪族の意向を取り付けた大海人(天智の弟)との争いとなった。天下分け目の戦いは大海人の勝利に終わった('72年、壬申の乱)。 大海人(天武)は、当初10年ほど伝統的祭祀を尊重した後、やがて中大兄の路線に復し、律令国家建設へと再出発する。また、以後倭は日本と号し、大王は天皇(スメラミコト)と称した。
 大海人死後、その后ウノノサララ皇女(持統)が遺志を継ぎ、'89年飛鳥浄御原令、701年大宝律令の完成へ導いた。また中国に向けての史書(記紀)が編纂された。

 律令制度は始め極度の国際的緊張の中で隋唐並の文明国家を建設することを至上命題としたため、充分な咀嚼・検討を経ずに摂取された。かつて律令制の崩壊と言われた三世一身の法(723年)や墾田永世私財法(743年)の発布は、むしろ墾田地を公地に組み込み律令制を強化するもので、律令を日本の実状に合わせて改変したものと見られる。
 一方仏教は、貴族や渡来人だけのものから、地方豪族や民衆の間に広まってきた。行基は民間への布教を通じて、信者の力で地溝・道橋・布施屋を作った。始めこれを危険視して弾圧した律令国家も、聖武天皇(在位724-49年)の時代にこれを公認、その力を利用して'43年大仏建立の詔を発した('52年完成)。'41年の諸国への国分寺建立の詔と合わせ、ここに天平文化が花開いた。
 この間律令官僚の藤原氏(中臣鎌足が祖)が力をつけ、不比等は聖武天皇の皇后に娘の高明子(コウミョウシ)を立て、以後藤原氏が政治に関わっていく。しかし、天武系の皇統は高明子の子孝謙(重祚して称徳)女帝で断絶、天智系に代わった。聖武・女帝時代、続日本紀は長屋王、藤原仲麻呂、道鏡などの政権の変遷を描く。

平安時代

 桓武天皇(在位781-806年)は都を京都に遷し(平安京)、坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に勢力を拡大、仏教では遣唐使に随行した最澄・空海により密教が伝えられた。

 内政は安定、藤原良房・基経に始まる外戚藤原氏の摂関政治が行われ、また藤原氏は他氏を排斥して、専制支配を盤石のものとした。この間菅原道真によって遣唐使が廃止された(894年、宇多天皇)が、道真もまた藤原氏によって排斥された。
 一方この頃から律令制はゆるみ荘園制に取って代わられていった。すなわち、墾田永世私財法発布以来自墾地系荘園が発達したが、公領である限り様々な租税負担を強いられたため、地方豪族・富農は10c頃から自墾地を中央の権門勢家に寄進するようになった(寄進地系荘園)。902年(醍醐天皇)には初の荘園整理令を発するものの効果はなかった。

 荘園が発達すると共に、収奪を行う国衙と荘園は対立することとなり、両者は武力を持つようになった。武士団がこうして形成されていく。特に国司(任地に赴いた者を受領という)として赴任した者の中から、任期を過ぎても任地にとどまる者があり、これが武士団の棟梁となった。平将門、藤原純友の乱(合わせて承平天慶の乱、935-41年)が起こったとき、鎮圧する側も武士に頼って、武士の力を見せつけた。
 995年藤原道長が内覧(事実上の摂関)となり、藤原全盛時代となる。清少納言、紫式部など王朝文化が花開く一方、仏教界では空也・源信により日本独自の浄土信仰が興った。
 藤原氏全盛も道長が没すると翳りを見せ始めた。1068年即位した後三条天皇は藤原氏を外戚としなかったため即位と共に親政を行い、券契不明確な新立荘園を廃止し公領に組み入れることを目的として、記録荘園券契所を設置('69年)した。また'72年には白河天皇に譲位して自ら上皇として政務をとり、続く院政の原型を作った。

 後三条天皇没後白河天皇は'86年譲位、日本独特の王権の形態「院政」を開始した。折から活発化していた寺社間の紛争(延暦寺と園城寺間)や寺社の朝廷への強訴(興福寺や延暦寺)に対して、武士(源義家・義綱、平正盛・忠盛)を利用してこれに対抗させた。ここに源平相並ぶ武士団の構図が出来上がった。
 鳥羽院政の時代(1129-年)になると、従来の荘園整理令に見切りをつけて凍結、院自ら荘園の寄進を受けたので、諸国の所領の半ばは荘園と化していった。一方残る半ばの公領を基礎とする国衙も、国守任命権が上級貴族の終身特権として与えられる知行国と化していった。庶民の間には農耕神事に発する「田楽」が流行した。
 鳥羽院政末期、後白河天皇即位をめぐり、崇徳上皇と後白河天皇が対立、これに摂関家の内訌(藤原頼長と忠通)が加わり、鳥羽院の死を契機に保元の乱(1156年)が発生した。源氏(源義朝)・平氏(平清盛)の武士の力を頼ったため、一気に武士の発言権を加速した。
 保元の乱に勝った後白河天皇は譲位して院政を開始、その近臣藤原通憲(信西)・藤原信頼にそれぞれ平清盛・源義朝が結びつき、武士団同士の主導権争いとなって三年後平治の乱('59年)が起こった。乱は平清盛が圧勝し、後白河院の下で筆頭近臣となり、院・摂関家外戚さらに太政大臣となって、清盛一門は顕官要職を独占した。

鎌倉時代

 一族の繁栄のみを求める平氏に対して、武士勢力を糾合した源氏(源頼朝・義経)は1185年壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた。頼朝は直後、後白河院に丸め込まれた義経追討に移り、諸国に守護・地頭を設置して体制を整え(実質的な鎌倉幕府の成立)、義経をかくまった奥州藤原氏を倒して、ここに全国武士政権の体制を形成した('89年)。鎌倉幕府は朝廷の機構に入らず、公文所(のち政所)、侍所、問注所の機構を設置して、武士独自の権力体系を整えた。一方、朝廷の国衙行政は併存し、公武の二元構造は中世を貫くものとなった。
 幕府は頼朝死後、妻政子が実権を握り、2代将軍頼家は廃されたのち北条氏に謀殺され、3代実朝は頼家の遺児に殺されて頼朝の摘流が途絶えた。この期を捉えて後鳥羽院が西国武士を糾合、天下分け目の承久の乱(1221年)が勃発した。一方幕府(北条政子・義時)は東国武士を結束してこれにあたり、幕府が勝利した。
 この結果、西国武士の所領は没収され東国武士が進出した。この西遷御家人の中には、後に有力大名となる大友、毛利など数多い。幕府は京都に六波羅探題を設置し、朝廷の監視・西国御家人の統轄にあたった。また政子死後は執権・連署制(正副執権)をスタートさせ('24年)、これを筆頭に御家人の合議制たる評定衆を設置('25年)して、幕政の中心とした。さらに西遷御家人の進出は同時に社会的軋轢を生んだため、泰時政権下の'32年御成敗式目を制定して、訴訟を公平たらしめんとした。

*執権は初め政所別当を言う。後義時が政所・侍所別当を兼務して幕政を統轄し執権と称した。執権・連署制となってからは北条氏が世襲。この職掌とは別に、北条氏の嫡流当主を得宗といい、義時−泰時−時頼−時宗−貞時−高時と経る。特に貞時以後は執権としてより、得宗として幕政を専制した。

 時頼政権下'49年引付衆を設置して御家人の訴訟にあたらせた(引付頭人は評定衆が兼務)。これにより問注所の権限は大幅に縮小した。

 時宗政権下の'74・81年の2回モンゴル帝国(元)フビライが日本侵攻を図った(文永・弘安の役)。しかし、玄界灘の嵐によって、急ごしらえの船の元軍は自滅した。また高麗や南宋の降兵を含む混成軍団だったため、戦意が乏しかったためともいう。
 これを機に'93年鎮西探題が置かれた(貞時)。しかし、戦役は防衛戦だったため幕府は御家人に対する論功行賞ができず、御家人が困窮した。このため'97年永仁徳政令を発布して、御家人所領の売却・入質の禁止、既に売却・入質した所領の無償取戻しを認めて、御家人を救済した。また、貞時は引付衆を廃止して、得宗専制体制を敷いた。
 貞時からの得宗と身内人の専制は高時の代にも引き継がれ、高時が闘犬や田楽にうつつをぬかすに及んで、幕政は腐敗し、京周辺には「悪党」という名の無頼の徒が跳梁した。

室町時代

 倒幕は後醍醐天皇(在位1318-年)によって引き起こされた。'31年元弘の乱は楠木正成の活躍にもかかわらず天皇側は破れ、天皇は隠岐に配流、光厳天皇が幕府によって擁立された。しかし、大塔宮護良(ダイトウノミヤモリヨシ)親王が吉野に拠って反幕勢力を組織('32年)、楠木正成が河内千早城に拠り、後醍醐天皇が隠岐脱出('33年)、幕府側から足利尊氏が反旗を翻して六波羅探題を攻撃、同じく新田義貞が鎌倉を攻撃、北条高時以下北条一族が自害して、鎌倉幕府は滅亡した。
 後醍醐天皇は記録所を設置、全権を天皇に集中する政治体制を目指した('33年、建武新政という)。しかし時代錯誤の新政は御家人の反対に遭い、やがて尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した('35年)。その最中尊氏が発した「元弘没収地返付令」は建武新政を否定し、御家人の所領を元に戻すものであったため、御家人は尊氏の下に結集した。'36年楠木正成を湊川の合戦で破り、尊氏は光厳上皇を奉じて入京、建武式目を制定して幕府を設立した(室町幕府)。一方、後醍醐天皇は吉野に走り、ここに南北朝内乱が始まる。

 南朝は北畠顕家・新田義貞が'38年までに戦死、その後常陸に北畠親房、九州に懐良親王を配したが、翌'39年後醍醐天皇は死去した。一方尊氏と弟直義(尊氏を補佐し二頭政治を行っていた)が、直義と足利家執事高師直との対立から兄弟間の対立へと発展、直義が南朝と結ぶなど情勢は二転三転した。これを観応の擾乱('50〜52年)といい、鎌倉で直義が毒殺され、決着した。
 その後も南北朝の戦いは継続し、南朝は'52年(北畠親房)、'53年(楠木正儀:正成3男)、'55年(足利直冬:直義の養子で南朝に帰順)、'61年(細川清氏:元管領、義詮の討伐を受け南朝に帰順)の4度入京を果たしたものの、南朝は徐々に衰退、幕府に'63年周防の大内弘世、伯耆の山名時氏など有力守護が帰服して、幕府は安定化した。

 義詮を経て3代義満(在位1368-1408没)の代、京都室町に室町第(花の御所)を営み、土岐・山名・大内など有力守護を制圧('89年明徳の乱・'99年応永の乱など)、また'92年南北朝合一を成就し、'97年北山に別荘として金閣を建て、ここで五山文学・水墨画・猿楽能(観阿弥・世阿弥)に代表される北山文化が花開いた。さらに1401年明との国交を開き日明貿易を開始した。
 義満死後幕府の求心力は弱まり、6代義教が'41年赤松満祐に殺された(嘉吉の乱)のを機に、幕府の勢威は次第に衰えた。

 8代義政のとき、はじめ実子がなく弟義視(ヨシミ)を後嗣としていたが、妻日野富子が義尚を生み、これを将軍に立てようとして応仁の乱を引き起こした('67-77年)。乱は将軍家の内紛に、細川勝元・畠山政長・斯波義敏(東軍)と山名宗全・畠山義就・斯波義廉(西軍)の勢力争い・家督争いを巻き込んで、大乱に発展した。戦乱は地方へも拡大し、以後戦国時代に突入する。'77年中央の戦乱はようやく終結したものの、京都は荒廃、幕府の権威は失墜していく。応仁の乱後、地方では群雄が割拠する。次第に荘園制が崩壊し戦国大名領国制が発展、また公家の多くが戦乱を逃れて地方に下ったため、文化の地方普及の一因ともなった。
 義政は、隠退した後'83年京都東山の山荘に銀閣をつくり、東山殿と呼ばれ、義政自身の好みからいわゆる東山文化が形成された。また日野富子は、新関を設置して課税したり、高利貸・米相場にも手を出して蓄財に努め、義政の政治に大きく関与した。  山城の国では、応仁の乱終結後も畠山政長・義就の争いが続き、業を煮やした国人・農民が「国中掟法」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた('85〜93年)。山城の国一揆と呼ばれる。

 一方9代将軍となった義尚は、衰退した幕府権力を再建するため、将軍直轄軍領を侵略した近江・六角高頼を征伐するため親征した陣中で病死した。この間、義尚に従軍した富樫氏の加賀の国では、戦費の拡大に国人層が反発して、'88年一向門徒と共に守護富樫政親を滅ぼした。加賀一向一揆といい、以後90年近く一向一揆が支配する国となった。
 10代将軍に擁立されたのは義視の子義材(ヨシキ)だったが、畠山政長の支援を背景としたため、政長に敵対する管領細川政元・日野富子と対立、将軍を追われた(明応の政変)。細川政元は管領となり義澄を11代将軍とし、義材は以後各地を転じて流れ公方と呼ばれた。
 1507年細川政元が暗殺されると、義材は翌年周防守護・大内義興に擁立され、将軍に返り咲くが(義稙ヨシタネと改名)、既に将軍とは名ばかりの存在となっていた。このとき義稙を支援した細川高国が管領となり、大内義興は管領代となる。'18年義興が管領代を辞して帰国すると、義稙と高国は次第に不和となり、'21年義稙は出奔、高国は義澄の子・義晴を新将軍とした。その高国も畿内国人反乱で没落し、細川晴元・三好元長にとって代わられる。
 晴元・元長もやがて不和となり、晴元は元長を堺に囲み自殺させた。元長の子三好長慶は'49年、晴元と将軍義輝('46年父義晴から将軍職を譲られた)を追放、ここに細川政権は崩壊し三好政権が誕生した。長慶は将軍を傀儡として畿内を支配したが、晩年は家宰の松永久秀に操られるようになった。
 地方では、関東の北条(早雲−氏綱−氏康−氏政−氏直)、山陰の尼子(経久−晴久−義久)、山口の毛利元就、東海の今川(氏親−義元)、甲信越の武田(信玄−勝頼)・上杉謙信、大分の大友宗麟、佐賀の龍造寺隆信、鹿児島の島津義久などの群雄が割拠した。

織豊政権(安土桃山時代)

 '65年松永久秀は三好三人衆と図り将軍義輝を殺害、義輝の弟で僧籍にあった義昭は逃れ、'68年織田信長に擁されて将軍となった。松永久秀は信長に屈服し、信長は畿内を制した。
 その後義昭と信長は不和となり、将軍義昭は浅井・朝倉、本願寺顕如、武田信玄と通じ、信長包囲網を形成した。信長は'70年姉川の戦いで浅井・朝倉を破り、'72年武田信玄が上洛を目指し三方ヶ原で信長の同盟軍徳川家康を破ったが、病んで翌年病死した。義昭も挙兵したものの捉えられ、将軍職を奪われ、ここに室町幕府は滅亡する。続いて信長は'75年長篠の戦いで武田勝頼を破り、'70年以降続いていた本願寺との石山戦争にも'80年勝利して、覇権を握ったが、'82年本能寺の変で明智光秀に殺された。その治世に、楽市楽座の設置、関所廃止などを行った。

 豊臣秀吉は同じ年山崎の合戦に明智光秀を破り、信長の後継者となった。以後秀吉は'84年小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦ったがこれと和し、'85年四国の長宗我部氏(安土桃山時代の戦国大名)、次いで'87年九州の島津氏を帰服させ、'90年関東の北条氏を滅ぼし、奥羽伊達氏(安土桃山時代の戦国大名)を服属させて、天下統一を達成、'85年関白となった。その事業は信長の政策を継承し、楽市・楽座、朱印船貿易、刀狩、検地を行った。また都市・諸鉱山の直接支配などにより商業資本を掌握し、税制を確立、兵農分離を徹底させた。さらに朝鮮への侵略を計って出兵したが('92年文禄の役、'96年慶長の役)、失敗した。

*秀吉の刀狩りは、それまで武士と農民は分離していなかったが、武士階級と農民階級を明確に分離した。ただし、江戸時代でも、全国の諸藩には郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。

江戸時代

 豊臣秀吉が'98年死去すると、秀吉の天下統一に協力し、実力者として君臨した徳川家康と、秀吉政権の奉行人でその遺児を盛り立てようとした石田三成の争いとなり、1600年両者は関ヶ原で激突、家康が勝ち'03年征夷大将軍を得て江戸幕府を開いた。'05年将軍職を秀忠に譲り、大御所と呼ばれ駿府にあり、側近に本田正信・正純、実務官僚の伊奈忠次・大久保長安、学識経験者として崇伝・天海・林羅山、貿易・財政顧問に後藤庄三郎・茶屋四郎次郎、外交顧問にウィリアム=アダムスなどの多彩なブレーンを擁した。
 家康の経済政策は、'01-02年伝馬制(東海道・中山道)の制定、伏見に銀座を置き金銀貨鋳造、佐渡・岩見の金銀山、'04年一里塚の設置、糸割符法の制定、南蛮渡航の朱印状交付など。
 '14-15年には大阪の陣で豊臣氏を滅ぼす一方、幕府の統制力を強化するため'15年武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定した。「禁中並公家諸法度」は、天子は治政の学問・和歌・有職故実を学ぶこと、親王は左右内大臣の下に位置すること(皇親政治を避けるため)、武家の官位は幕府を介して叙任されること(大名と朝廷が直接つながることを避けるため)などを定めることにより、天皇の権威を保持したまま、天皇親政・皇親政治を阻み、また他の大名たちが天皇を利用することのないよう、天皇権威を独占することを目的とした。

 家康が'16年死亡すると、2代秀忠(在位'05-23年)は、さらなる幕府組織の拡充、整備強化を行った。日光山東照社の造営('17年)、娘和子入内('22年)を実施、また家康以来の幕府統制力強化のため、福島正則・最上義俊・本田正純・越前宰相松平忠直などの大名の改易・減封を行った。

 3代家光(在位'23-51年)は、酒井忠世、土井利勝らの補佐を得て幕政にあたり武家諸法度改定('35)、職制(大老・老中・若年寄・三奉行の職掌を明文化)、兵制(軍役令の改定)、参勤交代制('35)など幕府諸藩の制度を整える一方、日光東照社の大改造を行った。
 家光は家康の積極外交政策を鎖国政策へと転換する。既に'31年に朱印船を廃し奉書船制度を開始していたが、海外貿易の利益独占・キリシタン禁止を目的として、'33年奉書船以外の船の海外渡航を禁止し(第1次鎖国令)、'39年ポルトガル船の来航禁止(第5次鎖国令)まで、数次の鎖国令を発した。同時にキリシタン弾圧が行われ、弾圧に苦しんだキリシタンは'37-8年島原・天草の乱を起こしたが、平定された。
 寛永の大飢饉(1642-3)を契機として、幕府は本格的な農政へ乗り出し、飢饉による百姓の没落を防ぐ目的で田畑永代売買禁止令('43)を発布した。幕藩領主たちは封建制の基盤である農民を維持する勧農政策に転換していき、併せて平和がもたらされたことで、実質的な領地の拡大を図る道を求めていく。こうして近世中期(享保年間)は近世初頭(慶長年間)に比べ全国の耕地面積が約2倍に増大すると共に、人口も倍増した。さらに、農民規制の集大成として慶安御触書(農民法度、'49)を定めた。この結果、幕藩体制は、その支配下にありながら独自の領国を持つ藩を統治機関として、農民を全国的に掌握する体制となった。また、キリスト教禁止を目的に寺請け制度が導入され、制度化した。これにより、家は檀那寺と結びつき、盆や彼岸など先祖供養の仏教行事が全国的に定着する。

 4代家綱(在位1651-80年)は家光死により幼くして将軍となり、酒井忠勝・保科正之らがこれを補佐した。'51年家光の死を契機に由井正雪らによる慶安の変が起きるが、事前に発覚して事なきを得た。これをきっかけとして、幕府は牢人を発生させる大名改易を推し進めた政策を改め、大名・旗本の末期養子の禁を緩めた(武断政治から文治政治への転換といわれる)。治世後半、'66年から酒井忠清が大老となり家綱を専制的に補佐した。
 家綱の代、河村瑞賢によって奥羽から江戸への輸送を行う東廻り、出羽から日本海沿岸、下関、瀬戸内海、紀州沖・遠州灘を経由する西廻り航路が開発('71-2)された。農村の生産力拡大によって、大量輸送の必要が生じたためだ。特に西廻り航路開設は、敦賀・小浜・大津・京都の豪商たちが衰退し(古代から近世初期まで敦賀・小浜で陸揚げされ、馬の背に乗せ、琵琶湖で再び船積みされていた)、代わって大阪商人を台頭させた。また京都は、高級絹織物・蒔絵など高度に洗練された商品の生産地へと、その性格を変えていく。
 特に大阪には年貢販売機関として諸藩の蔵屋敷が立ち並んだ。蔵屋敷では米は入札制で販売され、落札者には米切手という米引換証が発行された。米切手は他人に譲渡自由だったため、これを売買する市場、米市が17c後半自然発生的に起こり、1688年(元禄元年)には新しく開発された堂島に移転した(米会所の原型)。後の享保期の初めごろから、堂島では先物取引が起こった。当初幕府はこれを投機として禁じたが、米将軍吉宗は1730年密かに行われていた先物取引を公認、堂島米会所が成立した。これは世界に先駆けての商品取引所の開設だった(近代的な商品先物取引が本格的に成立したのは1865年のシカゴ商品取引所)。

 5代綱吉(在位1680-1709年)は、はじめ堀田正俊を大老として、大老直轄の勘定吟味役を設置、農政に力を入れると共に、武家諸法度を改訂、忠孝・礼儀を柱とする文治主義をとった。礼儀を重視する綱吉は、正俊が若年寄稲葉正休に刺殺された直後の'84年、服忌令(ブッキレイ、穢れを排することを目的とした)を発布、服喪と忌引を細かく定めると共に、'87年捨病人・捨牛馬の禁令を出し(生類憐れみの令の最初)、'94年には犬の飼育について細かな触れが出され、さらには野犬小屋の設置などでお犬様の天下となり、ついには憐れみの令はあらゆる生き物にまで適用されたため、庶民を苦しめる悪法となった。
 正俊刺殺後、閣老の御用部屋が将軍居室から遠ざけられ、側用人の役割が重くなった。そのため側用人柳沢吉保のもとに多大の賄賂が集まることになる。さらに、護国寺(亮賢)や知足院(隆光、いずれも綱吉生母桂晶院が帰依した)の創建、将軍の大名邸御成りなどで幕府財政が悪化、財政窮乏打開策として荻原重秀をして金銀改鋳(慶長金銀から質を大幅に落とした元禄金銀)を繰り返したため、諸物価が高騰し、庶民は苦しんだ。
 一方、元禄時代は綱吉の奢侈な生活、時代の根底にあった農業生産力の上昇と商品流通の増大を背景に、庶民が文化の担い手となる。元禄文化を代表するのは松尾芭蕉・井原西鶴・近松門左衛門、芭蕉は俳諧を確立、西鶴は浮世草子、近松は浄瑠璃・歌舞伎台本作家として活躍した。
 この時代、農村では貨幣経済が浸透、四木(桑・漆・茶・楮)、三草(紅花・藍・麻または木綿)といわれる商品作物の栽培が進み、瀬戸内海の塩、手工業としての綿織物、京都西陣の伝統的高級絹織物、灘・伊丹の酒造、有田・瀬戸の窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興することになる。

 6代家宣(在位1709-12年)は、側用人間部詮房(マナベアキフサ)・政治顧問とした朱子学者新井白石により正徳の治と呼ばれる政治改革を行った。正徳の治とは新井白石が家宣・家継時代(1709-16年)に行った文治主義政治をいう(この点では綱吉に同じ)。その他、金銀の海外流出を防ごうとした長崎新令(*)、物価安定のための貨幣改鋳(元の慶長金銀と同質の貨幣を目指した)などの経済政策を行ったが、家継死により失脚したため、成果を上げ得なかった。

*18cに入ると、それまで増産傾向にあった金・銀・銅生産が枯渇傾向を示し、一方で海外物資が大量に日本に入り込んでいた。白石は幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、海舶互市新例(長崎新令)を発布した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額を、清国船は年間30艘・交易額は銀6000貫まで、オランダ船は年間2隻・交易額は銀3000貫に制限した。

 8代吉宗(在位1716-45年、大御所として-51年)は文治政治を改め、武断政治に戻すことを基本方針とした。手始めに武家諸法度を天和令に復し、鷹狩りを再開した。次いで幕府財政を立て直す必要があった。商品流通・貨幣経済の発展に伴い、諸物価の基準であった米価は下落を続け、米収入を俸禄の基本とする旗本・下級武士の困窮に直接つながっていた。そのため、倹約令で消費を抑える一方、上米の制、定免法、足高の制(*)などを定め、かつ、新田開発を奨励し、さらに米価の高値安定を図るため米相場に介入した。これらにより米将軍の異名をとる。

*上米(アゲマイ)の制は、諸藩に対し一万石につき100石の献上米を課し、旗本・御家人に支給、代償に参勤交代を緩和、一時的に財政難を救った。定免(ジョウメン)法は、従来の年毎に収穫量を見て年貢額を決める検見(ケミ)法に代えて、過去数年平均値に基づいて年貢を定め、凶作の年も変更しないというもので、年貢収納の強化につながった。足高(タシダカ)の制は、ある役職に就任する者がその役高に達しないとき、在職中に限り不足額を支給、人材登用を容易にした。

 幕府財政が好転すると、'28年家綱が行って以来中止されていた日光社参を65年ぶりに復活した。これは社参に名を借りた大軍事演習と言えるもので、封建主従制の根幹である軍役動員を行い、改めて将軍権力を認識させたものだ。さらに'38年桜町天皇の大嘗祭を、吉宗の方から働きかけて挙行させた(大嘗祭は綱吉時代の1687年東山天皇即位時に再興されたが、幕府は難色を示し、以後挙行されていなかった)。これも朝廷との協調関係を持続させ、安定した幕府権力を構築することに狙いがあった。

 その他、吉宗の改革は多方面にわたった。目安箱の設置、抜荷禁止令、相対済し令(金銭貸借の訴訟は当事者同士で解決せよという法令)、大規模河川の普請を国役とする国役普請令などを発布し、町奉行大岡忠相に江戸の民政を担当せしめ、町火消しの設置、小石川養生所の設置(目安箱の進言による)、株仲間の公認などを行わせしめた。よって吉宗が主導した改革を「享保の改革」と呼び、幕府中興の祖と讃えられる。

 しかし、定免法は年貢収納を強化するもので、農民は苦しんだ。このため特に幕府直轄領で一揆が頻発、業を煮やした幕府は'22年田畑の質流れを禁止(質地流質禁止令)を発布したものの、農民がこれを徳政令と考え、それまで金主に取られた土地を取り戻そうと質地騒動を起こしたため、翌年には全面的に撤回した。これにより田畑永代売買禁令(1643年)の有名無実化が進行した。また、'32年西国での蝗虫(イナゴ)大発生による飢饉を機に米価が高騰、翌年江戸で初めての打ち毀しが起こった。

 10代家治(在位1760-86年)の代は、側用人から老中となった田沼意次が権勢を専らにし、田沼時代と言われる。田沼意次は9代家重(在位1745-60年)のときの側用人大岡忠光(家重が言語不明瞭で唯一家重の言を理解した)の下で台頭し、特に美濃郡上一揆('54-57年)に際し評定衆列座を命じられ、郡上八幡藩主・関与の老中・勘定奉行らを処分、幕閣に連なった。
 この時期幕府の年貢増徴は既に限界に達する一方、全国的に商品貨幣経済が発展していた。そこで意次は流通過程に財源を求める。すなわち商工業者の株仲間を積極的に公認、販売や製造における独占の特権を与える代わりに、運上金・冥加金を課して税収に充てた。また鉄座・真鍮座を設け、これも特定の商人に専売特権を認めた。長崎貿易では銅・俵物(海産物の乾物を俵につめた)を輸出して金銀の輸入をはかった。さらに町人資本による印旛沼・手賀沼の干拓事業、また蘭学を奨励する一方、最上徳内を蝦夷地に派遣し、アイヌを通じた対ロシア交易の可能性を調査させた。
 これらの政策は幕府財政を改善させようとする当時としては革新的・現実的なものだったが、商業資本との結託を求めたため賄賂が横行し、政治が腐敗した。加えて1783年浅間山大噴火、続く天明の大飢饉に有効な対処ができず、世人の恨みを買った。このため家治死とともに、後ろ盾を失った意次は失脚する。

 こうした先進気風を反映して、平賀源内(本草学者・戯作者、エレキテルの復元を行う)、杉田玄白(蘭方医、「解体新書(前野良沢と共著)」・「蘭学事始」)、林子兵(経世家「海国兵談」)などが出、また与謝蕪村(俳諧)、池大河(絵画)、本居宣長(国学「古事記伝」を著す)など、江戸中期の町人文化が栄えた。

 11代家斉(在位1787-1837年)は、初め老中松平定信(8代吉宗の孫、田安家から陸奥白河藩養子となった)をもって寛政の改革を行った。定信は田沼政治を批判して1787年登場、その改革は質素倹約と市中風紀の取り締まりを進め、超緊縮財政で臨むものだった。株仲間の解散を命じ、大名には囲米(*)を義務づけ、異学を禁じて朱子学を正統とし、棄捐令(*)を発して旗本・御家人らの救済を図り、市中窮民救済として七分積金(*)や人足寄場の設置など、今日でいう社会福祉政策を行ってもいる。また、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰還させた。対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を送り届けたロシアのアダム・ラクスマンの通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な姿勢で臨んだ。全体として保守的、理想主義的な傾向が強かったが、重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じて、結局は失敗することになる。

*囲米:災害・凶作のための備蓄、また米価調整目的も持つ。
*棄捐令:天明4年以前の借金は債務免除とし、それ以後のものは低利返済とした。このため札差は大損害を受け、以後旗本・御家人に対する貸付は行われなくなった。
*七分積金:地主・町役人が負担する町入用(マチニュウヨウ)を減じ、その節減分の7分(7割)を積み立てさせ、災害時の囲い籾、困窮者に支給する手当てへの準備金とした。管理運用は浅草向柳原に町方会所を設置、併せて籾倉を建設した。
*人足寄場:火付盗賊改方長官・長谷川宣以(通称は平蔵)の立案になる犯罪者の更生施設。

 定信は、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたとき反対し(尊号一件)、これを契機に父である一橋治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた家斉とも対立して辞職を命じられた。定信失脚後も、松平信明ら定信派の老中はそのまま留任してその政策を引き継いだので、彼らを寛政の遺老と呼ぶ。

 しかし信明死(1817年)後は、家斉が小姓上がりの水野忠成(タダアキラ)を側近の老中として親政、大奥で羽根を伸ばして多くの妻妾・子をもうけ、同時に大奥は華美驕奢となった。賄賂がはびこって幕政はゆるみ、幕府財政は窮乏化した。
 その一方で文化は爛熟し、寛政・天保両改革の間の時代の文化を文化文政という。山東京伝・滝沢馬琴・十返舎一九・式亭三馬などの戯作者、台本作家の鶴屋南北、喜多川歌麿・東州斎写楽・歌川豊国・葛飾北斎・安藤広重などの浮世絵、小林一茶(俳人)、良寛(歌人)などを排出した。また近藤重蔵(択捉開拓)、高田屋嘉兵衛(エトロフ航路開設)、伊能忠敬(「大日本沿海輿地全図」)、間宮林蔵(樺太探検)、平田篤胤(国学者、尊王思想)などの技術者、探検家、学者が出た。

 また、外国の脅威がこの頃から出始め、1808年フェートン号事件以来、ブリテン船の来航多く、幕府は海防を強化し、'25年異国船打払令を出した。また、'37年モリソン号事件などが発生した。

*フェートン号事件:英軍艦フェートン号が不法に長崎に侵入、オランダ(ネーデルラント)商館員を捕らえ、薪水・食糧などを得て退去した事件でナポレオン戦争の余波。
*モリソン号事件:日本人漂流民7名を伴い通称を求めて浦賀沖、鹿児島湾口に来航した米国商船モリソン号に対して、幕府が異国船打払令によって砲撃を命じ、退去させた事件。

 さて商品経済が発展するなか、機内からの下り物だけでは百万都市江戸の消費生活は支えきれず、江戸地回り経済がめざましく発展していた。野田の醤油、秩父・八王子・桐生の製糸織物、川口の鋳物、行田の足袋、近在では練馬大根などの生鮮品が供給された。問屋制家内工業も発展、技術革新も進み、中にはマニュファクチュア(工場制手工業)も芽生えた。しかし、経済的発展は農村での貧富の差を拡大、また銭遣いを進行させ、銭が無ければ暮らしていけない状況となった。銭のために身持ちを破り、博打を業いとする無法者も横行、手を焼いた幕府は支配地の入り組んだ関八州に広域警察「関東取締出役(勘定奉行配下)」を設けた(1805年)ものの効果はなかった。
 時を同じくして各地で一揆が続発した。各藩では財政困窮のため、特産品の専売、年貢増徴、あらゆる商品・流通などに税を課すなどして国益を図ろうとした。そのしわ寄せは弱者、特に農民に重くのしかかった。これに反対する豊後国一揆(1811年)、紀州大一揆や摂津河内の国訴('23年)、防長第一揆('31年)、播磨・丹波にわたる加古川一揆('33年)、甲斐一国騒動・三河加茂一揆('36年)などが頻発、'37年には大塩平八郎の乱が勃発し幕府は首謀者が幕府の元役人だったことに驚愕した。'30年には民衆が苦しい生活から逃避するお蔭参り(伊勢参り)に殺到した。

 なお商品経済の発展は、全国各地の特産物生産地帯で多量の年貢米が藩内の村落で消費されることを意味した。このため大阪はじめ移送量が減少し始めた。特に大阪への米の入津(ニュウシン)量は年々少なくなっていった。このようなとき'33年奥羽地方を中心に冷害に見舞われ、'37年まで続く天保大飢饉が発生した。最初の大凶作が伝わるや米の買い占め、売り惜しみが行われ、幕府は有効な対策を打たないうちに'34-5年の気候回復時をみすみす不作としてしまい、'36年ふたたび天候不順に見舞われてしまった。諸藩は対策に米の確保を最優先し、買米に奔走、ために米の流通は全国的に停滞、激しい米価暴騰をもたらした。特産品の需要は減退、その生産地では労賃引下げ・失業など構造的大不況に陥った。甲斐一国騒動・三河加茂一揆・大塩平八郎の乱などはこうした状況下で発生したものだ。

 1834年家斉の寵臣水野忠成が没した。'37年家斉は将軍職を徳川家慶(在位1837-53年)を譲ったが、なお大御所として'41年まで実権を握った。隣の中国では'40年アヘン戦争勃発、'42年までに清朝(道光帝)はイギリスに屈服した。
 内憂外患にときの老中水野忠邦は、家斉死('41年)を機に、財政再建・物価抑制・海防を目的とした天保の改革('41-43年)に着手する。財政再建は質素倹約(菓子・料理・衣服など日常生活品まで規制)・奢侈禁止(芝居・人情本・寄席などの大衆娯楽まで禁止した)を強要した。物価抑制は株仲間を解散して自由な取引を許した。しかし、改革はあまりにも性急に過ぎ、町奉行鳥居耀蔵が風俗矯正に名を借りて市中取り締まりを強化したため、市中は閉塞状態に陥り、わずか数年で失敗、しかも守旧派と開明派の対立は蕃社の獄を惹き起こした。

 幕府財政が逼迫する中、諸藩の天保の改革はそれなりの成果を上げた。特に薩長土肥など西南雄藩その他において、天保年間(1830-43年)、財政立て直し、富国強兵策が行われた。これにより幕末の政局を左右する経済基盤を確立した。長州の村田清風、薩摩の調所広郷(ズショヒロサト)、肥前藩主鍋島直政(閑ソウ)、水戸の藤田東湖、土佐の吉田東洋などが著名。

 1853年アメリカ提督ペリーが来朝、重大時局を迎えた。
 ペリーの通交要求に対し、老中阿部正弘は外交事情を朝廷に奏聞、また諸大名・有司に諮問して国論の統一をはかり開国を決意、'54年アメリカなどと和親条約を締結した。