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3.オリエント諸地域と地中海

 オリエントとは、ヨーロッパから見た東方の表現で、メソポタミア、イラン高原、小アジア、エジプトを含めた地域を言う。
 メソポタミアとエジプト両文明の影響は、オリエントの他の地方、イラン高原、アナトリア高原、シリア・パレスティナなどに文明を芽生えさせた。一方、地中海世界はエーゲ海を中心に新石器時代から独自に存在しており、エウボイア島、キュクラデス諸島、クレタ島などに都市文明(担い手は不明)が発達、アナトリア、シリア・パレスティナとの交流が時とともに密になった。

 シリア・パレスティナは現トルコ東南端キリキア地方からシナイ半島までの南北560キロ、地中海から内陸砂漠地帯までの東西96キロの細長い地帯で、この地の最も古い住民はカナン人(セム系)といわれ、後アラム、フェニキア、ヘブライ人が割拠した。
 シリア・パレスティナはエジプトとの関係が深く、エジプトの史料によると、エジプト中王国はダマスカス、エルサレムなど数十の諸都市の支配をめぐって努力している。エジプト第2中間期に現れたヒクソス(外国の支配者の意)は、北方からの移住民(印欧系やフリ人)の到来と人口増大が、エジプトに向かう移住者すなわちヒクソスの群れとして立ち現れたものだ。そのため、エジプト新王国の時代になって、シリア・パレスティナへの対抗策がパレスティナの植民化として表れ、パレスティナにはエジプトの守備隊が置かれるようになった。

ヒッタイト

 小アジアのエーゲ海に接する地方には早くからギリシア人が入植する一方、アナトリア高原はヒッタイト、フリギュア人(ともに印欧語系)が支配した。
 ヒッタイトは紀元前1650年〜1200年頃の中央アナトリアを支配した。ハットゥシリ1世(在位前1650〜1620年)が首都をハットゥシャ(ボアズキョイ遺跡)に置き統一した。
 2代王ムルシリ1世は前1595年バビロンを征服するほどだったが、その後は内乱状態となり、7代王テリピヌ(在位前1530〜1510年)が内政改革を行ってアナトリアを再統一した。その死後再び内紛に見舞われ、アナトリア東・南部から侵入したフリ人(かつて印欧語系とされていたが、現在ではコーカサス語系とされている)の勢力が増大した。

 再びアナトリアを統一したのはフリ人の血が濃いシュッピルリウマ1世(在位前1345〜20年頃)だった。これをヒッタイト新王国といい、従来の王国(古王国といって区別する)とは別系統に属する。国政はテリピヌによって始められたものを継承した。
 しばしばエジプト新王国と戦い、前1286年ムワタリとエジプト王ラムセス2世との間で行われたカデシュの戦いは、戦いの記録が小アジアとエジプトの両方から出土していることで有名だ。
 前1269年ハットゥシリ3世は、アッシリアからの脅威を感じ、ラムセス2世との間に婚姻関係を伴う平和条約を結んだ。この世界最初の国際条約の原文が、やはりエジプト、ヒッタイト双方から出土している。これによって平和な時期は約50年間続いたが、その後ヒッタイトは弱体化、前1200年頃海の民とフリュギア人によってハットゥシャが陥落し滅亡した。
 なお、ヒッタイトは史上初めて鉄器を使用したとされるが、儀式用であり、品数も限られていた。

 同じ頃ティグリス・ユーフラテス上流域はフリ人のミタンニという国(前1500年頃)が、カルケミシュなどの都市を拠点として栄えた。ミタンニはヒッタイト、エジプト(新王国)、アッシリアの三勢力の均衡の上にのって、前15〜14cに繁栄し、エジプトやヒッタイトと婚姻関係を結んだ。
 また、バビロン第1王朝滅亡後の空白地帯(ティグリス・ユーフラテス下流域)はカッシート(語族系統不明)が前1550年頃から支配した。この国は前1155年エラムの攻撃によって滅亡した。

地中海文明

 前19c東地中海のクレタ島でクノッソスやファイストスなどに壮大な宮殿が建造された。イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズによって1900年以後発掘されたこの文明(語族系統不明)は、伝説上のクレタ王ミノスの名をとってミノア文明と呼ばれる。宮殿は長方形の中庭を中心に多数の建物が機能的に立ち並び、城壁の無い開放的なもので、壁にはフレスコ画が描かれていた。

 前1600年頃にはギリシア本土にミケーネ文明の諸都市が建設された。この文明こそドイツ人シュリーマンがホメロスの叙事詩を信じて、1871年以後私財を投じて発掘、ギリシアとは異質の先史文明の実在を証明し、ギリシア考古学に黎明をもたらした。彼はトロイア(小アジア海岸部)、ミケーネ、オルコメノス、ティリンスの発掘を行った。
 ミケーネ文明の担い手はアカイア人(ギリシア人の一派、印欧系)で、クレタの先住民の媒介や、あるいは直接メソポタミアやエジプトと交流することで、先進文明を摂取したと見られる。クレタ島にも前15cまでにはギリシア人が進出していた。

*ホメロス:叙事詩「イリアス」、「オデュッセイア」の作者とされる。この二つの叙事詩はトロイア戦争をめぐるもので、ヨーロッパ最古の文学だ。もともとは口誦されていたものを、ギリシア・アルファベットが発明されて間もない前8c後半以降に文字化された。物語はスパルタ王の妻がトロイアの王子に誘拐されたため、その奪還のためギリシア各地からアキレウスらの英雄たちが集まり、トロイア遠征に出かける。かくしてトロイア戦争が勃発、10年後トロイアは滅亡した。帰国の途についたオデュッセウスは船が遭難し、10年かけてようやく妻の待つイタケへたどりついた。

 ミケーネ諸国の宮殿は、前1200年頃何者かの侵略を受けて炎上した。ミケーネ文明崩壊の原因を、古くはギリシア人の一派であるドーリス人の侵入により破壊された、とされていたが今日では否定されている。近くは「海の民」がエジプト、アナトリアを含め、東地中海一帯を席巻し、ミケーネ諸国もその襲撃で破壊されたという説が注目されるようになった。しかし一回限りの襲撃でいくつもの都市が崩壊するとも考えられず、定説とはなっていない。

 ミケーネ諸国の崩壊に伴ってギリシア本土には、ギリシア北部にいたドーリス人が南下してきた。彼らはミケーネの人々と同じギリシア人で、ペロポネソス半島や、クレタ島その他の南エーゲ海の島々に定住した。彼らは前8c始め頃からポリスを形成していった(以下ギリシア参照)。

海の民

 地中海に出現する武装集団「海の民」にはいくつかのグループがあった。エジプトのアマルナ書簡にはルカの海賊、シエルデン人、デネン人の王について言及がある。前1286年のカデシュの戦いでは、ヒッタイトにはルカ人が、エジプトにはシェルデン人が傭兵となった。
 ミケーネ諸国の人々は小アジアに移住し、イオニアやアイオリス地方を形成したが、連鎖反応的にエーゲ海やイオニアなどを追われた人々が、小アジア南東部、キプロス島、シリア・パレスティナ、エジプトのデルタ地帯に押し寄せた。エジプトでは彼らを「海の民」と呼び、いくつかのグループがあったが、それぞれ独特の軍装によって見分けられるとした。
 ラムセス3世(在位前1184〜1153年)の治世には、前1177年ペリシテ人やチェケル人がデルタ地帯に押し寄せたが撃退され、ペリシテ人はイスラエル南部の海岸地帯(パレスティナ)、チェケル人はシリア・パレスティナ海岸の中央部に入植した。このうちペリシテ人については、起源がエーゲ海域やギリシアであったことが知られている。また、ヒッタイトの鉄器が儀礼的なものであったのに対し、実用的な鉄器(農具や武器)を使用していた。

フェニキア人

 シリアはヒッタイト新王国とエジプト新王国両勢力の境界地帯をなしていたが、両者が弱体化するとともに、本来のセム系移住民が入植し、都市文化が発達した。
 フェニキア人はカナン人の末裔で、ペリシテ人やチェケル人がパレスティナ海岸に入植した後フェニキア人と呼ばれるようになった。現レバノンを中心とする海岸部を領土とし、その最も有名なものがティルスとシドンの海港都市だ。他の民族に対して友好的で、ヘブライ王ダビデやソロモンにも、宮殿建築や造船などで協力した。これはフェニキア人が、木材(レバノン杉)の輸出と手仕事(石工、大工)に長けていたからだ。
 彼らの主要な舞台は地中海で、クレタ人やミケーネ人の制海権が没落した後3世紀の間地中海の主人公だった。その活動範囲はジブラルタル海峡に迄至り、北アフリカや大西洋に面したタルテッソス王国などの要衝に殖民した。前9c末にはティルスがカルタゴを建設、カルタゴはさらにマルタ島、シチリア島、スペイン南岸に植民市を建設した。
 フェニキア人はまた、ウガリットの楔形文字のアルファベットを改め、簡略化した象形文字で22個の子音だけから成る記号のアルファベットを発明した。

アラム人

 アラム人(セム系)はシリア砂漠から史上初めてラクダの遊牧とともに現れ、ユーフラテス川上流域、やがてシリア中央部に進出して都市国家を営んだ。中心都市はハマ、前10c中葉以降はダマスカスで、ラクダを使ってシリア砂漠を中心とする隊商貿易を行い、地中海貿易のフェニキア人と手を結んでいた。
 交易のための共通語としてアラム語を全オリエントに広め、メソポタミアの新バビロニア王国、イラン高原のペルシア帝国にまでアラム語が日常語として急速に広がった。後のアレクサンドロス大王の時代以後も各地で土着化して根強く使われ、パレスティナでも使われてキリストは日常この言葉を使った。またアラム語はフェニキア人が発明したアルファベットを文字として採用したため、アルファベットも広まった。

ヘブライ人

 ヘブライ人はもとトランスヨルダンの砂漠や荒野にいたハピルという流浪の略奪者だった。かつてエジプト新王国はパレスティナに殖民し守備隊を置いたが、アマルナ書簡には、この地の王の訴えとして、ハピルが領地を略奪し守備隊がいないのでエジプトに貢納できないとある。ハピルすなわちヘブライ人は、モーセ(エジプトに滞在し後出国、出エジプトの物語)やヨシュアの下前13c後半カナンに侵入した。
 その後士師と呼ばれる指導者達が諸部族を指揮してカナン人やペリシテ人たちと戦い、やがてペリシテ人の勢力を海岸平野だけに封じ込めていった。ヘブライ人を統一したのはヤハウェ神の預言者サムエルの支持を取り付け、イスラエルの初代王となったサウルだった。サウルはパレスティナ各地を転じてペリシテ人との戦いを続行した後、ギルボア山で戦死した。後を継いだのは、サウルと不仲になりペリシテ人の下で傭兵隊長をしたこともあるダビデ(在位前1000〜960年)で、ペリシテ人を南部海岸地帯に封じ込めるのに成功し、のちエルサレムを都とした。
 次いで子のソロモンが即位(在位前960〜930年)、ヤハウェ神殿と自分のための宮殿を建設した。しかし、攻略結婚や貿易関係者の手により神殿にはヤハウェ以外の神々の像が置かれ、ソロモン以後のイスラエル王達の大多数は多神教徒だったと見られる。
 ヘブライ人の統一王国はやがて南北二つの王国に分裂、北にイスラエル王国(前932〜722年、首都サマリア)、南にユダ王国(前932〜586年、首都エルサレム)となった。イスラエル王国はアッシリアに征服され滅亡。ユダ王国はアッシリア滅亡後、メソポタミアにできた新バビロニア王国に征服された。