トップページに戻る

24.オスマン帝国

オスマン建国

 トルコ人はモンゴル高原や中央アジアの遊牧民だったが、11Cにはセルジューク族がセルジューク朝を建国した。また、1071年アナトリア東部のマラーズギルドでビザンツ帝国と激突勝利した後、アナトリアのニカエア(現イズニク)のちコニヤを首都にルーム=セルジューク朝(1077-1308)が成立した。
 トルコ人の多くがアナトリアに移住し(移住の第1波)、アナトリアもイスラーム化したが、一方でトルコ人もアナトリアの土着文化と融合、ギリシャ人、アルメニア人、クルド人と混血した。
 13Cモンゴル帝国が勃興すると(そもそもモンゴル帝国構成員の大半はモンゴル人でなくトルコ人だった)、モンゴルから多くのトルコ人が逃れてアナトリアに流入した(移住の第2波)。1243年ルーム=セルジューク朝はモンゴルに破れ、藩属国となった。モンゴルは1258年アッバース朝を滅ぼし、イル・ハーン国を建てたため、アナトリアはイル・ハーン派遣総督の支配するところとなった。

 モンゴル支配を嫌い、トルコ人が多数ビザンツとの国境に近い西アナトリアに移った。彼らはガーズィ(イスラーム信仰戦士)たちに率いられて自立し、トルコ系諸候国(ベイリク)を形成した。その一つが、オスマン・ガーズィ(オスマン1世、在位1299-1326年)率いるオスマン候国だった。

 オスマン朝が基礎を固め、国家らしい体裁を整える契機となったのは、第2代オルハン(在位1326-62年)の時、ビザンツの要都ブルサを獲得したことだ(1326年)。ここはオスマン朝の最初の首都として大きく発展し、アナトリアにおける一大商品集散地となって、イラン、ヴェネツィア、ジェノヴァから商人がやってきた。絹織物生産が行われ、現在でもトルコ絹織物工業の中心地だ。また、緑のブルサと呼ばれ、温泉の町としても人気がある。
 オルハンはすぐさま銀貨を鋳造し、また、東方イスラームから移住してきたウラマー(イスラーム知識人)の力を借りて、イスラーム法にもとづく裁判制度や行政制度を導入し、国家体制を固めた。
 また、ビザンツ帝国内部でヨハネス5世とその後見役カンタクゼノスの権力争いが起こったとき、カンタクゼノスから援助を求められたため、これに介入して1353年バルカンの1城砦を移譲された。これがバルカンへの最初の足がかりとなった。

オスマン朝のバルカン統一

 オルハン死後、第3代ムラト1世(在位1362-89年)になってオスマン朝はスルタンを名のったといわれる。
 1389年コソヴォ平野の戦いで、セルビア王ラザール指揮するセルビア、ブルガリア、ハンガリー連合軍を破った。ムラト1世はこの戦いの最中に一人のセルビア人に切りつけられ、戦後すぐに死亡した。
 オスマン側はその報復として、ラザールはじめ多くのセルビア人領主を処刑したので、セルビア人が大挙コソヴォを捨てて北方へ移動し、そのあとにアルバニア人が入植した。

*このコソヴォの悲劇が、ユーゴスラヴィア時代からコソヴォ自治州としてアルバニア人が多数を占めている理由であり、セルビアとの間に様々な紛争をもたらしたが、2008年コソヴォ共和国として独立した。

 ムラト1世死後、第4代バヤズィト1世(稲妻王の異名をもつ、在位1389-1402年)は領土拡張をさらに精力的に推し進めた。
 まず西アナトリアのトルコ系諸候国を再征服した後、1396年ハンガリー国王を中心とした対オスマン十字軍(フランス、イングランド、スコットランド、フランドル、ロンバルディア、サヴォイア、ボヘミア、ドイツの各地からやってきた騎士・貴族が加わる)とブルガリア最北部にあるドナウ沿岸のニコポリス(現ニコポル)で激突・勝利し、オスマン朝の領土は一挙にドナウ河畔にまで拡大した。
 バヤズィトは一転アナトリアへ軍を進め、南東アナトリアの強敵カラマン候国、黒海沿岸のイスラーム法官カーディ・ブルハネッディンの国家を併合し、オスマン朝はドナウからユーフラテスに至る一大帝国となった。

 しかし、サマルカンドを首都にマー・ワラー・アンナフルからイラン、イラク、アフガニスタンに至る大帝国を築き上げたティムールがアナトリアへと軍を進めてきて、両軍は1402年アンカラ郊外のチュブク平原で激突、戦いのさなかアナトリアの兵士たちがティムール側に寝返ったため、バヤズィト側は敗北し、バヤズィトは捕虜となった。
 ティムールはアナトリアのすべてのトルコ系諸候国を復活させ、バヤズィトを伴ってサマルカンドへ帰還したが、途中バヤズィトは死去した。こうしてバヤズィトの帝国は瓦解し、以後10年間オスマン朝は空位時代となる。

 しかし、つづく第5代メフメト1世、6代ムラト2世の時代に、オスマン朝は急速に立ち直り、アナトリアとバルカンで喪失した領土を回復していった。


オスマン帝国の成立

 第7代メフメト2世(在位1451-81年)のとき、オスマン朝は帝国としての威容を表す。それは、何と言ってもコンスタンティノープルを53日間の激しい攻防の末陥落させ(1453年)、ビザンツ帝国を滅ぼしたことに由来した。
 コンスタンティノープル攻防戦は、ハンガリー人技術者ウルバンに作らせた巨大な大砲、(金角湾の入り口が鉄の鎖で閉鎖されたため)ボスフォラス海峡側から陸地を通って金角湾に船を降ろした「艦隊山越え」のエピソード、などでよく知られる。
 ウルバンは始めビザンツに自分の技術を売り込んだのだが、ビザンツ側は資金不足で雇うことができなかった。また、ビザンツは第4回十字軍の略奪によりすでに荒廃しきっていたし、オスマン朝10万に対し、ビザンツ側はたった7千という軍勢だったので、オスマンの勝利は当然だった。
 しかしビザンツ帝国の消滅は、ヨーロッパ史上に中世の終わりを告げる大事件であり、当時のヨーロッパ諸国に大きな恐怖を与えた。

 この征服直後、メフメトは父ムラト2世の時代から絶大な影響力をもっていたトルコ人有力者チャンダルル・ハリル・パシャを処刑し、代わってバルカンのキリスト教出身のザガノス・パシャを大宰相に据えた。また、草創期に活躍したガーズィやアナトリアの有力な家系の者を政治の中枢から排除して、中央集権支配の足場を築いた。

 同じ1453年ベオグラード(ハンガリー)を攻撃したが失敗すると、矛先をバルカン内部の平定に向け、1459年セルビア、さらにフィレンツェが支配するアテネを占領、翌60年ビザンツ皇族が支配するモレア(ペロポネソス)半島を征服。61年アナトリアの黒海沿岸に軍を進め、ジェノバが支配していたアマスラ、トルコ系チャンダル候国のスィノプを併合し、第4回十字軍時代に成立したコムネノス朝ビザンツ皇族のトレビゾンド帝国を征服した。トレビゾンド皇帝ダヴィドは、マー・ワラー・アンナフルを本拠にアゼルバイジャン、イラン、イラクを領するトルコ系アクコユンルのウズン・ハサンと縁戚関係にあり、それを頼りにオスマン帝国への貢納金支払を渋っていたが、結局ウズン・ハサンの援軍はあてにできなかった。
 次いでバルカンへときびすを返し、ワラキア(現ルーマニア南部)のヴラド・ドラクール(吸血鬼ドラキュラのモデル)と戦った。このバルカンの英雄は翌年破れはしたものの、その果敢な抵抗により、ワラキアとモルダヴィア(現ルーマニア北部)の両候国がオスマンの宗主権下に内部自治を認められる地位を獲得した。

 またアルバニアでは、英雄スカンダル・ベグが頑強に抵抗した。彼はヨーロッパの防波堤として全ヨーロッパから期待され、広範な支援を受けていた。そのため、オスマンが完全にアルバニアを服属させるのは、16C後半にまで下る。その一応の征服をみ、続いてボスニアを併合した(1466年)。
 同年、アナトリアの旧ルーム=セルジューク朝の首都コニヤに拠るトルコ系カラマン候国が、ウズン・ハサンの支援を得てなお中部アナトリアを支配していたが、これを併合、'73年、ついにウズン・ハサンとの対決がエルジンジャン近郊で行われ、オスマン軍の大砲と鉄砲の威力の前に、ウズン・ハサンの騎馬軍が破れて、ウズン・ハサンは逃亡した。こうしてオスマン帝国の領土はアナトリア東部に及んだ。

 1475年クリミア半島のクリム・ハーン国(チンギス・ハーンの血統)が服属し、黒海はオスマンの湖となった。これによりクリミア半島のカッファ他黒海に多くの居留地を持っていたジェノバは大きな打撃を受け、地中海西部へと活動の拠点を移した。

 こうしてメフメト2世は、ヨーロッパ諸国から「破壊者」、「キリスト教最大の敵」、「血に塗られた君主」などと恐れられた。
 メフメト2世はまた、1465年コンスタンティノープルに新たな宮殿の建設を開始し78年に完成した。これがトプカプ宮殿だ。以後1853年までオスマン王家の居所であり、かつ政治の中心として機能した。ここにオスマン王家の女性や子供たちが移り住んで「ハレム」ができたのは、ずっとのち12代ムラト3世(在位1574-95年)時代のことだ。「ハレム」の名は歪んだイメージを持たれているが、実際はオスマン王家の家庭であり、上流文化のサロンだった。


オスマン帝国の発展

 メフメト2世死後王位継承争いが、長子バヤズィトと弟ジェムの間でおきた。当時のオスマン帝国では、君主の死後いちはやくイスタンブルに上洛して玉座に座った者が王位についた。だから、地方に軍政官として派遣された王子たちにとって、赴任先がどこになるか死活問題となった。なぜなら、王位を継承しそこなった王子には、メフメト2世以来法典化された「兄弟殺しの法」による死がまっていたからだ。
 その玉座に最初に座ったのはバヤズィト(8代バヤズィト2世、在位1481-1512年)だった。しかし、弟ジェムは兄と争い、ブルサでアナトリア支配権を要求した。しかし、これが認められるはずがなく、以後兄弟間の争いとなり、ジェムは敗れ、最後に仇敵のロードス島ヨハネ騎士団のもとに亡命した。
 その後、ジェムはフランスに送られ、ヨーロッパ諸国の対オスマン工作に利用された。ヨーロッパではジェムジェムの名で知られ、各地を転じた。

 バヤズィト2世の時代ウラマーの影響力が増大した。オスマン朝における学問の発達は、高等教育を目的としたマドラサが2代オルハン以来建設されていたが、メフメト2世によって、首都に八つのマドラサが建設されると、ここにイスラーム諸学発達の基盤ができあがり、その出身者たちが次第に国政や法律部門で発言力を持つようになった。
 こうしてバヤズィト2世の時代に、特にイスラーム法学者の活躍がめざましく、後のスレイマン1世のものとされる法典も、この時代に編纂されたものを土台にしている。

 一方、この時代は、アナトリアの民衆の間にシーア派の影響力が増大した。それはイランにシーア派12イマーム派のサファヴィー朝が成立したためだ。創始者のイスマーイールは南東アナトリアに侵攻し、さらにはバクダードのアクコユンル(白羊朝)を滅亡させるなど、オスマン帝国にとって脅威となりつつあった。
 イスマーイールはアナトリアにさらに深く侵攻するため、アナトリアで広範なシーア派の宣伝活動を繰り広げた。やがてアナトリアにシャー・クル(サファーヴィー朝のシャー・イスマーイールの奴隷)を名のる人物を首領とした大規模なシーア派の反乱が起こった(1511)。この反乱で鎮圧に向かった大宰相が戦死したが、シャー・クルも戦死したため、その支持者たちはイランへ逃亡した。
 このときひそかに王位を窺っていた王子セリムは、イェニチェリの支持をたのんでクーデターを敢行し、バヤズィトを廃位してみずから即位した(第9代セリム1世、在位1512-20年)。バヤズィトは引退先のトラキアの町へ向かう途中急死したが、セリムが密かに毒殺したという。
 また、セリムは王位を脅かす恐れのある2人の兄弟と5人の子供を殺した。これは先の「兄弟殺し」の一例だ。

 セリムはアナトリアのシーア派を弾圧し、4万人を処刑した(この後遺症はオスマン朝を貫き、現代トルコにまで持ち越されている)。彼らが支持するサファヴィー朝イスマーイールとの戦闘(1514年チャルディラーンの戦い)で、大砲と鉄砲の威力で圧倒した。
 '16年、マムルーク朝とシリアのアレツボ北方で戦い(マルジュ・ダービクの戦い)、シリアを獲得、翌'17年カイロを陥れマムルーク朝を滅亡させた。
 結果、オスマン帝国はメッカとメディナを保護下におき、名実ともにイスラーム世界帝国となった。またシリア、エジプトの技術者、職人、知識人などをイスタンブルに連れ帰ったため、文化の大輪の花を咲かせる原因となった。

 セリム崩御に際して、他に兄弟がいなかったため、兄弟殺しが行われず王位についた。第10代スレイマン1世だ(スレイマン大帝、壮麗王とも呼ばれる、在位1520-66年)。父が東方の征服王であったのに対し、西方の征服を行い、13回に及ぶ遠征をみずから指揮した。
 16Cはフランソワ1世(フランス)、カール5世(神聖ローマ帝国、ハプスブルク家)、エリザベス1世(イギリス)などの名君、ローマ教皇、ルターのプロテスタント勢力、それにスレイマンががっぷり四つに組んだ国際関係を展開した時代だった。
 スレイマンはフランソワ1世と同盟しハプスブルク家に対抗した。都市国家が乱立していたイタリアの利権をフランスと神聖ローマ帝国が狙っていたため、フランスはスレイマンと手を結んだのだ。

 スレイマンは1521年、ベオグラードを陥落させてセルビアを平定した。バルカンの防衛線ハンガリーは、この頃ハブスブルクの傘下にあったが、1526年モハーチの戦いで大砲をもって圧勝し、首都ブダに入城、サボヤイ・ヤーノシュを王に推戴して併合した。サボヤイはハンガリーの貴族たちとフランスに支持された。
 これに対して、カール5世はフェルディナントをハンガリー王に推戴し、フェルディナントは一時サボヤイを追ってブダを取り戻した。1529年スレイマンは再びハンガリーを攻めてブダを奪回、余勢を駆ってフェルディナントのいるウィーンに迫った(第1次ウィーン包囲)。しかし冬になったため撤退した。当時のヨーロッパでは寒い冬に戦をする習慣がなかったからだ。
 オスマンとハプスブルクの抗争はその後も長く続き、ハンガリーは結局1541年に三分割され、ブダ州、テメシュヴァール州が設置されオスマンの直轄領となった。東部はオスマンに貢納する半独立のトランシルヴァニア公国、西部のわずかな部分がハンガリー王国としてハプスブルクの支配下に留まった。

 オスマン帝国海軍は長い間ヴェネツィアに及ばなかったが、メフメト2世が金角湾に造船所を作り、バヤズィト2世が海軍を増強して、スレイマンの時代にはヴェネツィアをしのぐ海軍力を保持していた。
 1522年ロードス島の聖ヨハネ騎士団に対し大艦隊を派遣して、半年に及ぶ攻防の末降伏させた。
 また、1538年プレヴェザ(ギリシャ)沖海戦でキリスト教徒連合艦隊を破り、東地中海の制海権を確保した。このとき、オスマン艦隊を率いたのは元エーゲ海の海賊で、のちオスマンに帰順して海軍提督に任じられたバルバロス・ハイレッティン(「赤髭」)であった。

 ヨーロッパの大航海時代よりずっと以前から、インド洋にはムスリム商人の商業ネットワークが張りめぐらされていて、東南アジア、南インドの沿岸地域にイスラーム化が進行し、多くのムスリム政権が現れた。
 ポルトガルはこうした「ムスリムの海」に武力をもって強引に参入し、貿易の独占を図った。インド洋経由でメッカ巡礼に来る人々を庇護する立場のオスマン帝国としては、こうした事態を座視するわけにはいかなかった。1535年ポルトガルによって多大な損失を受けた、グジャラートのムスリム君主バハドゥル・ハーンの要請を受けて、スレイマンは'38年インドのディーウに艦隊を派遣した。また、スマトラのアチューのスルタンの要請に応えて技術的援助をしている。ホルムズ海峡(オマーン)でもポルトガルとの戦闘を行った。これらの遠征の結果は大した成果をあげたわけではないが、オスマンの平和を意図したものではあった。
 スレイマンは、1566年ハプスブルクがトランシルヴァニアを侵略したとの報に接し、高齢にもかかわらず13回目の遠征に出発した。ハンガリーのシゲトヴァルを包囲の最中、陣中に没した。

 続いて第11代セリム2世(在位1566-74年)が即位した。
 この頃、中央ユーラシアの諸ハーン国は、イランにシーア派のサファヴィー朝が勃興し、イラン経由で地中海に出られなくなっていた。そのため、カスピ海北岸、クリミア半島経由のルートを選択していたが、ロシアのイワン4世がアウトラハン(カスピ海北岸)至るヴォルガ流域を占領し、このルートを押さえると、この巡礼・通商ルートをロシアの手から解放するようオスマン帝国に再三要請していた。
 ハプスブルクとの関係が一段落した1566年以後、オスマン帝国はようやく要求に応えて、ドン川とヴォルガ川との間に運河を開削し、軍隊と艦隊を運河経由でアストラハンへ送った。これに対してロシアとサファヴィー朝は同盟して、ローマ教皇に反オスマン十字軍の結成を訴えた。
 このため、イランを北方から包囲しようとのオスマンの計画は失敗した('69年)ものの、ロシアも'70年以後は領内におけるムスリムの自由な通行を認めた。'80年以後は、オスマン軍がカスピ海の西岸を制圧したため、マー・ワラー・アンナフルとオスマン帝国との交通はいっそう盛んになった。


オスマン帝国の社会

非ムスリムたちの処遇

 もともとイスラーム諸王朝は、その支配を受け入れた民には人頭税(ジズヤ)を課す代わり、従来の宗教的自治を認めた。とりわけ「啓典の民」と呼ばれたキリスト教徒とユダヤ教徒は、保護民(ズィンミー)と位置づけられた。
 オスマン帝国もこの伝統を踏襲した点では違いがない。ジズヤ収入は大きな収入源となったので、改宗を強要することは得策ではなかったからだ。
 非ムスリムは、政治的な権利を持てなかったから、ムスリムとは平等とはいえなかったが、宗教的に非寛容であったヨーロッパ諸国に比べれば、オスマン帝国は比較にならないほど寛容な国家であり、その下で、人々は自由に交流した。
 こうしてオスマン領内には、さまざまなキリスト教諸派が、民族的・地域的に存在して、さながらモザイクの様相を呈した。近代になって、西洋列強がこのモザイク的状況を利用してオスマン帝国に侵出したため、民族的対立が激化したのだ。

デヴシルメ

 イスラーム社会にはその初期から「マムルーク」という奴隷徴用の制度が存在したが、オスマン帝国でもバルカン征服の折に、捕虜として獲得した人材が活用された。
 バヤズィト1世の時代になると、さらに組織的な人材登用の方策が開発された。それは最初はバルカン、のちにアナトリアをも対象としたキリスト教徒子弟の徴用政策であった。
 およそ12〜20才の少年が、イスラームに改宗していないことを条件に徴用され、赤い帽子と衣装を着せられて、バルカンやアナトリアの片田舎からイスタンブルに連れてこられた。
 彼らはイスラームに改宗させられ、トルコ人の家庭に預けられて、トルコの生活習慣を身につけさせられた後、成人してイェニチェリ(常備歩兵)、スィパーフ(常備騎兵)となった。その兵力はバヤズィト1世のとき、イェニチェリ5千、のち1万2千人(1473年)に達し、スィパーフは7500騎だったという。
 この制度をデヴシルメ(トルコ語で集めることの意)といい、スルタンの個人的な奴隷だった。

 デヴシルメに徴用された少年のうち、特に優秀な者はトプカプ宮殿内の「学校」で宮廷侍従として教育され、のち高級官僚となった。1453〜1600年の間に大宰相を務めた36人中、5人以外はすべてデヴシルメ、ないし他の奴隷身分の者だった。
 その中で大宰相として特に有名なのがソコルル・メフメト・パシャだ。ボスニア出身の彼は、スレイマン1世に信頼され、スレイマン亡き後、ドン川とヴォルガ川を運河で結ぶ計画を立案、キプロス島の征服の達成、ボスニアとセルビアの間のドリナの橋建設などを行った。その出身地ソコロヴィッチ村から多くの親類縁者をイスタンブルに集め、一族で影響力を持ったが、1579年政敵に暗殺された。


オスマンの帝国統治

 ムスリムにとって正しく生きることは、神に服従することだ。イスラームとは神に絶対的に帰依する、という意味であり、イスラーム法(シャリーア)は神が啓示し「定めた」真理だからだ。
 シャリーアは「コーラン」に示された神の言葉を本源的な法源とし、予言者ムハンマドの言行録「ハディース」を参照系として、神の意思を類推(キヤース)し、イスラーム法学者(ムフティー)の合意(イジュマー)を得る形式で2世紀ほどの歳月をかけて体系化された。

 よってイスラーム国家の政治とは、ありとあらゆる分野をカバーするシャリーアによる統治だ。
 理念的にはシャリーアがただ一つの法律だが、現実には先行イスラーム諸国家のアラブの慣習を取り入れたカーヌーン(語源はギリシャ語)、中央ユーラシアのヤサク・ナーメ(禁令集、チンギスハーンのヤサ(禁令)につながる)が存在した。ヤサク・ナーメは後(16C以後)カーヌーンの用語に融合して定着する。

 こうして、オスマン帝国の法律はシャリーアとカーヌーンの2本立てとなった。
 シャリーアは成文法でなく、その適用にあたっては、そのつどイスラーム法学者の解釈を仰いだ。
 一方カーヌーンは、体系的ではないにしろ、スルタンの勅令やイスラーム法学者の意見を集大成した「カーヌーン・ナーメ」として成立した成文法だ。
 さらには、何ごとにも現実主義的なオスマン帝国は、バルカンの支配にあたっては、オスマン進出以前にバルカンの多くの地域を支配していたセルビア系ネマーニア王朝のステファン・ドゥシャン王の法典を、中部・東部アナトリア方面については、アクコユンルの君主ウズン・ハサンの法典を、征服後まもない段階では広範囲にわたって適用した。

 オスマン帝国の国政最高決定機関はトプカプ宮殿で行われたスルタンの御前会議だ。御前会議は、
 1、会議の事実上の主宰者である大宰相(サドラザム)とその補佐の宰相(ワジール)たち
 2、バルカン(上位)とアナトリアの2人の大法官(カザスケル)
 3、国璽尚書(ニシャンジ)
 4、バルカン(上位)とアナトリアにそれぞれ主席と次席のいる財務長官(デフテルダル)
から成る。
 大法官はウラマー出身者、その他はデヴシルメ出身者が多かった。

 地方の統治は、バルカンとアナトリアはティマール制という軍事封土制のもとに直轄領とされた。この制度は、軍事奉仕を代償に、その土地の徴税権を与えられるものだ。
 ティマールは小封土で、その保有者はスィパーヒー(騎士)であり、彼らはいざというとき封土の多寡に応じて徒士をひきつれ出征する義務を負った。
 彼らを指揮するのは、州、県に派遣された軍政官(司令官)で、大半はデヴシルメ出身者であった。反乱などカーディ(下記)の手に負えない事態が生ずれば、そのときは軍政官の武力がこれを鎮圧した。

 一方、県の下にある郡の行政はカーディというイスラーム法官(大法官の管轄下にある)があたった。郡はすべての都市におかれ、軍政官が駐屯する州や県の大都市も、行政的にはカーディが中心的な役割を果たした。
 カーディの官邸は都市行政の中心となる「シャリーア法廷」であり、昼夜を問わず住民に対して開かれていた。書記が「法廷記録」を作成し、裁判の他、動産・不動産売買の証文、相続手続きの公証記録、中央からの勅令、中央に送られる上奏文、ワクフ(下記)文書、租税徴収記録など様々な民政がここで行われたことが知られる。

 他のアラブ地域の多くは、中央から総督が派遣され、イェニチェリなどの軍隊が駐屯したが、オスマン以前の体制がおおむね維持された。これらの地域は、租税のうちの一定額を州の総督を通じて毎年一括して納入した。このため、サールヤーネ州(年貢の州)と呼ばれ、間接的に支配された。
 エジプト州、バクダード州、バスラ州、イエメン州、ハベシュ(エチオピア)州、アル=ハサー(クウェートに相当)と北アフリカ諸州などだ。

 このほかにバルカンのワラキアとモルダヴィア、クリム・ハーン国のようにオスマンの宗主権のもとに従来の支配体制を許された地域、ドゥブロヴニクのように貢納することを条件にバルカンの通商特権を得た国、ツルナゴーラ(モンテネグロ)や東アナトリアのクルド族のように族長による自治支配を認められた地域がある。メッカとメディナは予言者の血統をひくシャリーフ家の統括が認められていた。

 オスマン帝国支配がこのように多様な形態をとったのは、既存の政治・社会体制とできるだけ摩擦を引き起こさないことを旨とするオスマン帝国の現実主義の産物であったこと、要は、租税収入が確保されることが重要で、それ以外のことに干渉する必要がなかったのだ。


ワクフ制度

 寄進制度のこと。イスラームには「余分な富の社会への還元」(サダカ)という理念がある。個人がモスク、マドラサ、病院、学校、救貧施設、水道、道路、橋、公共浴場などを建設し、または店舗、菜園、果樹園、などの所有権を放棄して、これをアッラーの名において公共の利用に供するために寄進するのだ。
 そこから得られる賃貸料収入は、ワクフ管理人によって、施設の光熱費、修繕費、そこで働く人の給与、学生の生活費などに充当された。さらには現金をもワクフ財として寄進し、その利子を運用することも頻繁に行われた。
 一面では、自分の財産をワクフとして寄進することによって、スルタンによる恣意的な財産没収を回避することができた。専制君主といえども、アッラーに寄進された物件を没収することはできなかったからだ。
 ワクフ制度の利点は、資本をもたない職人や小商人が賃貸料さえ払えば、どこでも営業できる機会が与えられることだ。これはキリスト教徒やユダヤ教徒でも例外ではない。従って、他民族、多宗教による共存がこの制度によって保障された。また、人の移動が促進された。
 しかし欠点も指摘されており、ワクフ管理人が制度を悪用して資本を着服し、施設の荒廃を招くことがあった。また、ウラマー(知識人)やスーフィー(イスラーム神秘主義者)が経済的利益を受け、保守化や怠惰を助長したという指摘もある。

 スルタン自身も率先してワクフ行為を行った。例えば、メフメト2世は「メフメト2世モスク」とこれに付属するマドラサ群、図書館、病院、救貧院などを建設した。これらのマドラサ群には常時600人の学生が勉強し、のちにオスマン帝国の最高学府となった。また、これらの施設の費用を賄うために大バザール(「グランド・バザール」の原型)を建設した。


バザールとカフヴェ・ハーネ

 現在のイスラーム都市の風物詩となっているバザールは、両替商、貴金属・香料・織物商などの店舗、キャラバンサライ(又はハーン)と呼ばれる隊商宿、行商人、仲買人、語り物師などがいて喧噪、多様な言語に満ちたイスラーム都市を象徴する場だ。
 バザールにはこのような常設の店舗が軒を連ねる常設市と定期市がある。後者は近郊の農村から穀物、果物野菜が集まり、香辛料、日用品などがテントで売られた。家畜の市もこれとは別に町のはずれに設けられた。

 常設市の商工民は、ヨーロッパのギルドと比較しうる同業組合を形成していた。各組合は原料の調達方法や製品の規格について商工業統制法の細かい規定に従わなければならなかった。物価の決定に際しては、組合の代表や名士が相談のうえ、最終的にはカーディが決定権を有し、物価表が「シャリーア法廷記録」に記載された。
 トルコ人の組合、特に皮なめし工、馬具職人、鍛冶工では「アヒー」と呼ばれる宗教的結社(13,4Cのアナトリアで発達した兄弟団的結社)が組織されていて、夕方になると、食べ物を持ち寄って会堂に集まり、旅人がくればもてなして泊め、皆で歌ったり踊ったりした。
 また、トルコ人商工民の間には、「ベクタシー」などのイスラーム神秘主義教団が深く浸透し、忍耐・禁欲・寛容などの倫理を説き、見習い職人から親方への昇進の儀式では、腰に帯を結んで長老の手に口づけするなどのイスラーム神秘主義教団への加入の儀礼が行われた。

 イスラーム都市のもうひとつの風物詩がカフヴェ・ハーネである。コーヒーは最初は薬用で、スーフィーたちが修行をおこなう際に用いはじめた。
 スーフィー教団はこれに入会した普通の人々には一種の社交場であったから、やがてコーヒーは嗜好品としての性格を強めた。
 16C始めにイエメン、次いでカイロ、シリアを経て16C中頃にはイスタンブルに流行した。イスタンブルでは男たちの憩いの場、情報交換の場、商談の場としてまたたくまに普及した。しかし、やがて時の政治への批判の場ともなって、スレイマン1世はコーヒーの喫飲を一時禁じたほどだ。

 カフヴェ・ハーネには金角湾の地域では、荷揚げ労働者、輸送業者、建築現場で日銭を稼ぐもののたまり場であったから、その日その日の仕事を振り分ける職安的な機能を発揮することになった。グランドバザールとハーンの密集するあたりでは、商人たちが集まり情報交換の場となった。
 しかし、カフヴェ・ハーネは男たちのたまり場であった。女たちにはハマーム(公共浴場)がたまり場で、ここでも欠かせないのがコーヒーだった。彼女たちはコーヒー・パーティーもよく開き、大規模な場合には楽師や踊り子さえ呼んだ。


宿駅とキャラバン・サライ

 オスマン帝国では旅の安全を確保するため、宿駅が完璧に整備されていた。宿駅は1日の行程に相当する3〜40キロごとに設けられ、ハーンまたはキャラバンサライがあった。
 これらはスルタンや高官がワクフによって建設したものである。山間の隘路や橋、海岸には関所を設け、近隣の農民に整備、橋などの修理を命じ、代わりに免税処置を講じた。
 国境や無人地帯には遊牧民を移住・定住させる屯田制度があった。宿駅を走る早馬の伝令はタタールまたはウラクと呼ばれた。


オスマン帝国の衰亡

 華々しい征服活動が終わる16C後半から17C前半は帝国の衰退の歴史となる。

 この頃地中海全域に人口増加が起こり、農村から都市への人口移動が始まった。その最大の標的とされたイスタンブルでは、地方から流れ込む人の波をいかにして押し止めるかが最大の課題となった。
 しかし人々は様々な手段でイェニチェリ軍団や官僚組織に食い込み、これらの組織は肥大化し、帝室財政を圧迫した。

 また、西欧の大航海時代の成果によって、南米の金と銀、とりわけ銀がイタリアを経由して1580年代以降イスタンブルなどの大都市に流入した。その結果、貨幣価値が下落し、物価が急上昇した。
 17C初頭にかけてのイェニチェリやスィパーフィーの反乱は、自分の給料が目減りしたことに対する不満の爆発だった。商工民もバザールの店を閉めてこれを支持した。
 アナトリアとシリアでも「ジェラーリー諸反乱」と総称される一連の反乱が頻発した。これはスルタン、ハレム、高官の間に蔓延する奢侈、賄賂、情実などの腐敗に対する地方の異議申し立てだった。

 行政の中心はトプカプ宮殿から大宰相府へと移った。デヴシルメ制度は形骸化し、ムスリムとして生まれ、マドラサで教育を受けた者が官僚組織の中核を占めるようになった。

 諸外国との関係では、1639年サファヴィー朝との間にカスリ・シーリーン条約が結ばれバクダードを最終的に領有した。
 一方、オーストリアとの間ではトランシルヴァニア問題に端を発した戦争で、一時は難攻不落と言われたウィヴィール城砦を陥落させたが、結局ザンクト・ゴットハルトの戦い(1664年)で大敗し、大宰相の卓抜な外交によって、ヴァシュヴァール条約(同年)で何とか帝国の威信を維持することに成功した。
 地中海では1669年クレタ島を奪ってヴェネツィアの繁栄に終止符がうたれた。
 しかし、1683年大宰相カラ・ムスタファは第2次ウィーン包囲を強行して失敗し処刑された。この暴挙は神聖同盟との5年に及ぶ戦争に発展し、これに敗北した帝国はカルロヴィッツ条約(1699年)でハンガリーを失った。

 スィパーヒーによるティマール制は17cに解体が進み、イルティザーム(徴税請負制)が普及した。
 18cにはほとんどすべての税目に適用されるようになった。徴税請負人はその権限と富を利用して土地を集積し、私的な大土地が形成された。この結果、アーヤーンと呼ばれる地方名士層が台頭した。
 19c初頭には、アナトリアとバルカンはほとんど全土が彼らの実質的な支配下におかれ、オスマン王家の支配力は著しく弱体化した。
 北部ギリシャのアリー・パシャ、西部アナトリアのカラオスマンオウル家、中部アナトリアのチャパンオウル家、シリアのアズム家などがアーヤーンとして名高い。

 17c半ばエーゲ海沿岸の港町イズミルが勃興した。その発端は、これまでもっぱらアレツボに運ばれていた北部イランの絹が、アナトリアを縦断してイズミルへもたらされ、ここからヨーロッパへ輸出されるようになったことにある。
 しかし、イズミルの発展はヨーロッパの資本主義経済と連動し、新たにその付近の農産物・畜産品、手工芸品の輸出港として機能するようになった。1838年イギリスとの通商条約以後は急速に加速された。
 アナトリア各地からイズミルへ向かうキャラヴァンルートが繁盛すると、カフヴェ・ハーネなどにたむろし、特異な服装をしたゼイベキと言われる人々が、キャラヴァンの護衛や道案内を口実に駄賃を要求した。彼らの出自は遊牧民が多く、1828年政府はイギリスの要求によって、ゼイベキの服装となりわいを禁止する勅令を出した。
 勅令の1年後西アナトリアのアイドゥン地方に大規模な反乱が勃発したが、その主力はゼイベキ、遊牧民、イェニチェリの残党(この軍団は1826年に廃止された)だったが、カラオスマンオウル家の軍勢に鎮圧された。やがてトルコ最初のアイドゥン−イズミル鉄道が完成(1866)すると、ゼイベキの活動の余地は無くなり、彼らは匪賊となった。


イスラームの衰退

 近代にはいると、技術革新と軍事革命を終えた西欧キリスト教世界が周辺に膨張を開始し、遠隔地に遠征し始める。イスラーム世界は、はじめのうち軍事的な敗北を喫するだけだったが、やがて文化や経済など広い範囲で、西欧キリスト教世界の本格的な挑戦を受けるようになった。これが「西洋の衝撃」と呼ばれる外圧だ。その衝撃の強さは、バルカン半島や地中海でヨーロッパに近接したトルコやエジプトで著しかった。

 イスラームとヨーロッパの力関係は、オスマン帝国が1682-99年(1683第2次ウィーン包囲)にかけて、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国との戦争に敗北した後に、急激に変化し、衰退の一途をたどることになる。1699年カルロヴィッツ条約によって、オスマン帝国はハンガリーの大部分、トランシルヴァニア、クロアチアなどを放棄した。
 その後もオスマン帝国は、スウェーデンとロシアの北方戦争にまきこまれ、ハプスブルクとの抗争も断続的に続いた。1718年パッサロヴィッツ条約では、ハンガリーの残部、ワラキア 、北セルビアをオーストリアに割譲し、中東の通商貿易に参加する特権を与えた。いまや立場は完全に逆転し、ヨーロッパがオスマン帝国の脅威になりつつあった。

 ロシアはエカテリーナ2世治下に、南下政策によって黒海を自分たちの海にしようとした。1768年から始まった露土戦争はオスマン劣勢のうちに推移し、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって、ロシア皇帝によるオスマン帝国内のギリシア正教徒への庇護権を認め、黒海の制海権を事実上手放し、何よりも同じトルコ系のクリム・ハーン国への政治的保護権を放棄させられ、ロシアに併合される道を開いた。ロシアは条約によって、商船のボスポラス、ダーダネルス両海峡の航行権、イスタンブルにおけるギリシア正教の教会建設と保護の権利を獲得した。この特権は、やがて帝国領土内の正教会教徒の保護権に拡大され、内政干渉への道を開くことになった。

 この頃には帝国の軍事力は、帝国権力の地方分権化、財政危機、産業の不振と農民の疲弊などによって、確実に弱まっていた。帝国発展の原動力だった常備歩兵軍団のイェニチェリは、18cには縁故によって入りこんだ没落農民や商工民などの雑多な混成部隊になりさがっていた。腐敗した正規軍に代え、帝国はアーヤーン(地方名家層)と協調しなければ外圧の危機に対応できなかった。彼らは指揮官として志願兵の公募と調達、城塞の建設、武器・糧食の調達輸送がまかせられた。しかし、彼らが調達した志願兵は烏合の衆であり、アーヤーンは戦時糧食の調達にあたって、農民から不当な暴利をむさぼり財貨をかき集めるのを常とした。しかも、何かあればいつでも帝国から離反した。
 1787年第2次露土戦争始まる。これはドニエストル川やクリミア半島の帰属をめぐる紛争に端を発したが、黒海の制海権にからんでおり、双方ともにゆずれぬ争いだった。その上ハプスブルク・オーストリアまで敵にまわすことになった。折しも1789年フランス革命が勃発し、敵を背後から牽制する要因として帝国は歓迎した。1792年フランス・ジロンド内閣はオーストリアに宣戦布告、ヨーロッパの戦乱が始まり、ヨーロッパの政局は一変した。こうしてオーストリアとロシアは、ともにオスマン帝国と講和を結び、西に目を転じざるをえなかった。しかし、オスマン帝国は外交のつたなさも手伝って、ロシアにドニエストル河口まで領土を広げることを許し、クリミア半島も正式に割譲した。

 1793年ときのセリム3世(28代、在位1789〜1807年)は、1793年フランスの援助のもと洋式軍隊を導入した。フランスにとっても、オーストリア、プロイセン、イギリスによる第1次対仏大同盟(1793年)による孤立を避けるため、オスマン帝国によしみを通じるのが得策だった。しかし、そのフランスは、1798年ナポレオンによってエジプト遠征を強行した。ナポレオンの目的はイギリスの植民地インドと本国との連絡ルートを遮断するためだった。友好国であったフランスから領土侵略を受けたオスマン帝国は、面子をつぶされることになった。

 ナポレオンは、エジプトのマムルークを一撃の下に退けた。マムルークは、当時徴税請負人として農地の2/3を所有しており、地元のムスリムから忌み嫌われていたが、マムルークの強圧から解放されたのもつかの間、エジプトの農民はフランスから軍需物資の調達のため略奪を受けることになった。フランス人たちは、コプト教徒を使って統治を進めた。しかし、コプトの監査人は、税を支払わない農民を鞭で打つなど、ムスリムはコプトへの反感を強めることになり、20世紀の現在でもエジプトのイスラーム原理主義者によるコプト攻撃に暗い影を落としている。また、フランス人は飲酒癖が悪く、女性に対するみだらな態度を示したので、こうした面からも嫌われた。
 ナポレオンは結局、エジプト農民の抵抗に手を焼いて農村の掌握に失敗したこと、シリアへの遠征にも犠牲を出したこと、イギリスに制海権を押さえられて打つ手が無くなったことにより、エジプト情勢に見切りをつけ、フランス本国の総裁政府を倒すべく、急遽1799年10月帰還した。
 ナポレオンの遠征はイスラーム世界に大きな衝撃を与えたが、一方で文化的な置きみやげも残した。ロゼッタストーンの発見、ナポレオンに従った科学者・技術者がヨーロッパの科学や技術をエジプト人に伝えたことだ。

 フランス撤退の後エジプトはマムルークや、ヴァーリー(エジプト州長官)を保護するトルコ軍、ムハンマド・アリー率いるアルバニア人部隊との間で政情が混乱した(カイロ暴動)。この混乱を収拾したムハンマド・アリーは1805年カイロ市民によってパシャの称号を授けられ、既成事実をつきつけられたセリム3世も、やむなく彼をヴァーリーとして追任した。
 ムハンマド・アリーは、守旧派を一掃するため、1811年隠然たる勢力を誇るマムルークの一党500名を、アラビア半島への出征壮行式典のふれこみで居城に集め、その帰途に伏兵に狙撃させて掃討した。
 ムハンマド・アリーは、エジプトがヨーロッパに太刀打ちできるように、国富を豊かにしようとして、全国検地による徴税強化、最新技術を導入した工場制工業の建設、専売制などを行った。一方農民は運河掘削、ダム建設などの強制労役、徴兵に駆り出されれた。徴兵の仕方は荒っぽいもので、村を急襲して男を根こそぎ縛って数珠つなぎにし、泣き叫ぶ家族を後目に、引っ立てるというものだった。そのため、徴兵拒否のために、すすんで体の一部を傷つけるものが多かった。

 帝国の本拠地では、セリム3世の軍制改革に対し、反動的なイェニチェリがウラマーを抱き込んで、コーランの定める宗教原理に背いたとして、1807年大法官に権威によってセリム3世を廃位した。その結果、イェニチェリたちとアーヤーンたちが対立し、その中で廃帝は殺され、アーヤーンの旗手大宰相ムスタファ・パシャも憤死した。
 続くマフムト2世(30代、在位1809-39年)は、先帝の意志を継ぎ、改革に理解を示すウラマーの支持を取り付けた上で、1826年軍制改革を行い、反対するイェニチェリを殲滅した。新しく西欧化された軍隊は「ムハンマド常勝軍」と名付けられ、陸軍大臣職を新設、陸軍士官学校も'34年設立された。軍隊では、ターバンが禁止され、フェズ(トルコ帽)が導入された。また、行政面でも、大宰相府は分割され、外務、司法、大蔵大臣が新設された。

 退化したイスラーム社会の内部改革をめざす潮流が18c半ばイスラーム世界各地にほぼ同時に生まれた。その担い手となったのは、スーフィー(神秘主義者)とウラマーだ。ムハンマドの時代精神に回帰しようとしたこの運動をイスラーム大改革運動という。その中で、アラビア半島中心部を掌握したワッハーブ派は、1805年、予言者の墓であってもその崇拝は許されないという厳格な理由から、メディナにあるムハンマドの墓廟を破壊した。しかし、メッカやメディナを落としたワッハーブ派は、巡礼団を襲撃して金品を奪い、ワッハーブ派への宗旨替えか、死を選ぶかという極端な選択を迫った。マフムト2世は、アラビア半島の反乱を押さえるため、エジプトのムハンマド・アリーに命じてこれを解体させた(1813年、第1次ワッハーブ王国の滅亡)。西欧式火器で武装したエジプト軍の敵ではなかったが、これによりオスマン帝国の無能力ぶりと、エジプトのムハンマド・アリー王朝の力量を内外に示すこととなった。10年足らずのうちに再建された第2次ワッハーブ王国も、エジプト軍の前に再び解体した。1920年代、ワッハーブ派は三たび半島を統一し、この指導者イブン・サウードが、現在のサウジアラビア王国の祖となる。

 1821年ギリシア独立戦争が始まり、'27年ナヴァリノの海戦で、オスマン帝国とエジプトの連合艦隊が、ギリシア独立を支援する英仏露三国艦隊に破れ、マフムト2世治下、1829年ギリシアの自治が認められ、翌年独立、セルビアも自治公国となった。ロシアはバルカン半島に大きな影響力を持つようになり、エジプトは海戦では破れはしたものの、オスマン帝国に大きな貸しをつくった。  ギリシア独立戦争にからみ'28年露土戦争、ロシアは開戦後またたくまにバルカンを南下、帝国第2の首都エディルネ(アドリアノープル)を落とした。ロシアはアドリアノープル条約で占領地の大半を返還したが、ドナウ河口、ボスポラス・ダーダネルス両海峡の通行権を得、バルカン半島における後の氾スラヴ主義の基礎をつくった。英仏両国は、ロシアの進出を抑えるために、ロンドンで会議を開きギリシアの独立を承認した。

 1832年オスマン帝国とエジプトは、マフムト2世がパレスチナに逃亡したエジプト農民の送還に応じなかったことを直接の発端として、第1次シリア戦争で争った。イブラーヒーム(ムハンマドの子)の軍隊は、アナトリアの地深く快進撃を続けて首都に肉薄した。これはフランスをのぞくヨーロッパ諸国の干渉で、'33年キュタヒヤ条約でムハンマド・アリーが休戦に応じた。しかし、マフムト2世は再度ムハンマド・アリーを懲らしめるため'39年第2次シリア戦争を起こし、イブラーヒームのエジプト軍から壊滅的な打撃を被った。この間マフムト2世逝去。しかし、この結果は仏を除く英露襖プロイセン4大国の干渉に会い、'40年ロンドン協定で、エジプトの世襲支配権のみを認め、シリア放棄、エジプトの開国という、結末に終わった。独立を挫折させられた失意のムハンマド・アリーは'49逝去。

 シリア戦争敗北を契機に、'39年オスマン帝国では、新スルタン、アブデュルメジト1世(31代、在位1839-61年)のもとギュルハネの詔勅が発布された。これは、ムスリムと非ムスリムの平等(従来は不平等の共存)、個人の生命・名誉・財産の保証(アーヤーンの圧迫を排除)、裁判の公開、徴税請負制度の廃止、徴兵制度の整備などがうたわれた。この詔勅によって、〜'76年まで続く改革運動、タンズィマートが開始された。それは、軍事・行政・財政・文化・教育の欧化政策であった。清朝の洋務運動、タイのチャクリー運動、日本の明治維新などアジアの欧化の先駆けでもあった。しかし、タンズィマートは成果をあげなかった。しかも改革の膨大な費用は税負担でまかなわれたから、不満を抱くムスリムたちは、イスラーム神秘主義教団の中で保守反動化した。

 '53年クリミア戦争勃発。'48年ヨーロッパ各地では革命が勃発し、マルクスの共産党宣言が書かれたが、バルカンでもブルガリアのヴィディンで農民反乱が起きた。これはキリスト教農民のムスリム地主アーヤーンに対する戦いで、アーヤーンたちの私兵で鎮圧したが、これにヨーロッパ列強の干渉を招く。聖地エルサレム管理権問題を直接の発端として、ロシアがモルダヴィア、ワラキア、ドナウ地方に進入して戦争が始まり、まもなく英仏両国も参戦した。オスマンは英仏両国と協力してロシアを破ったが、この戦争はオスマン領土の分割をめぐる列強間の争いでもあった。'56年パリ講和会議で、戦争終結とともに、列強の政治干渉と経済進出をますます増大させた。タンズィマートは同年に出された改革勅令で新たな段階に入り、非ムスリムの政治的権利を尊重した。'54年から行われた借款、外国資本によるイズミルとアイドゥン間の鉄道敷設、イギリス資本によるオスマン銀行設立など。エジプトでも、'56年レセップスにスエズ運河開削権が与えられた。その後も、うち続く戦争の膨大な戦費が外債への依存を強め、'75年オスマンの財政が破綻、翌年エジプトでも英仏二元管理という名の破産宣告を受けた。

 エジプトでは貿易収支が常に黒字だったにもかかわらず、寄生王朝としての性格が貧富の差を極端なものにしていたが、イスマーイールの代になって極端な欧化主義、計画性なき近代化によって、経済事情にうとい支配者が'62年にはじめて外債を出し、豊かなエジプトの農業資源を食いつぶしてしまった。その結果、英仏の大臣を抱えたヨーロッパ内閣が成立することになる。

 アブデュルメジトの後のスルタン・アブデュルアズィーズは暗君で、タンズィマート官僚を退け、浪費を繰り返し、賄賂を要求する専制君主だった。しかも鳥や珍獣をことのほか愛でるという奇癖があった。エジプト副王のイスマーイールも、自らの称号をワーリーからヘディーヴに代えてもらうため、大金を何度もスルタンに支払っている。そのため、ますます財政は悪化した。

 '70年代立憲主義運動が帝国に広がり、開明派のミドハト・パシャが'72年に大宰相に就任、アブデュルアズィーズを廃位し、'76年立憲制を導入、憲法を発布した(ミドハト憲法)が、立憲主義者を弾圧する新スルタンのアブデュルハミト2世に追放された。アブデュルハミトは憲法と立憲制を凍結し、専制君主制に逆戻りした。一方アブデュルハミト治下の'77年、スラブ系民族の反乱を機に、バルカン進出をもくろむロシアがキリスト教徒保護を名目として開戦し、露土戦争が勃発した。ロシアはバルカン進出に成功したが、ヨーロッパ列強の反対にあい、'78年のベルリン会議の結果バルカン進出の野望は挫折した。

 エジプトでは、'79年英仏両国とアブデュルハミト2世の圧力で、イスマーイ−ルが退位させられタウフィークがヘディーブとなった。財政の植民地化が進む中、アフマド・ウラービーなど陸軍将校を中心に「ワターニューン」(愛国者たち)という結社が生まれており、彼らの要求でウラービーは陸軍大臣に任命された。'81年ウラービーたちはタウフィークの退位を迫って決起したが、イギリス軍はただちにウラービー指揮するエジプト陸軍を撃破、この軍事干渉によって、ウラービーはセイロンに流され、1956年まで続くイギリス軍のエジプト駐屯が始まった。