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11.ローマ帝国

初期共和制

 イタリア半島には前1000年頃印欧系諸部族が移住し、鉄器時代が訪れる。それまで半島に住んでいたのは地中海先住民というべき人々で、既にミケーネ時代のギリシアとも交易があったと推定される。その後、印欧系移住民(イタリキと総称される)に呑み込まれた。先住民でただひとつエトルリア人のみが、後々まで高度な文明集団として大きな影響力を持ち続けた。
 一方、ギリシア人が前8cから大挙して地中海各地に進出、イタリア半島南部・シチリア島にもギリシア人が植民市を建設する。こうしてローマが歴史に登場する以前、イタリア半島はエトルリア人、イタリキであるラテン人(ローマ人を含む)やサムニウム人、ギリシア人などが併存していた。前6cエトルリア人は都市国家の連合を形成、地中海で活発な交易を展開しギリシア人の植民や交易活動と衝突した。またイタリアのほぼ全域がエトルリア人の覇権の下にあって、初期の王制ローマの王はエトルリア人であったとも言われる。トスカナ地方にはエトルリア人の墳墓としてチェルヴェテリ墳墓群やタルクイニア墳墓の壁画が知られる。ローマ人はエトルリア人から多くの文明を学び、やがてエトルリア勢力を駆逐・王を追放することによって、初期の共和制に移行した。前509年のこととされる。

 当初ローマの共和制は、ローマ市民が貴族(パトリキ)と平民(プレプス)からなっており、2名の最高公職(コンスル)が置かれた。しかしパトリキ、プレプス間には越えがたい身分差別があって、通婚が認められなかった。やがてプレプスの不満が爆発、プレプスはローマ近郊の聖山に立てこもり、労働・軍務を放棄した。当時のローマは異民族(ウォルスキー族・アエクウィー族・ケルト族など)や山岳諸部族(サムニウム人など)に脅かされ、聖山への総退去はプレプスの最大の武器となった。パトリキ側は折れ、プレプスの代表、護民官が設置される(前494年)。
 身分闘争の第2幕は成文法公開の要求だった。それまで法はパトリキからなる神官によって独占され、裁判の基準が明らかにされなかったため、法の公開が求められた。やはり、プレプスの聖山への総退去戦術で前450年、12枚の銅板に刻んだ法文が公示された。「十二表法」といい、ギリシアの法(ソロンの法)が参考にされた。これがローマ法の基礎となる。その5年後、パトリキ・プレプス間の通婚禁止も解除された。

 前405年ローマはエトルリア人の都市だったウェイーに宣戦布告、10年以上にわたる戦闘の末これを攻略し、ウェイーの捕虜は奴隷とされた。しかし、続いてケルト人がローマに侵入、ローマは大敗・略奪された。ケルト人には領土欲が無かったため引き上げたが、その後ローマは長く、敗戦の日を忌み嫌うべき日として記憶する。
 また、山岳地帯のサムニウム人は飢饉や人口過密があれば、侵略者となって山を降りてきて、ローマはサムニウム人と幾度か戦いを交えたが、ようやく前290年サムニウム族を完全に屈服させた。
 半島全土の覇権は、半島南部のギリシア人なかでもタレントゥムを降伏させたことで達成された。タレントゥムはギリシアのエペイロス王ピュロスに救援を要請したが、ローマ軍は前275年これを撃退し、前272年タレントゥムは降伏した(イタリア半島統一)。

 十二表法制定以来、平民会決議はローマの法となったが、それには元老院の承認を必要とした。また、平民は公職に就くことができなかった。征服によってローマの公有地が拡大しても、それは貴族たちが占有するだけで、平民は負債や土地問題に悩まされ続けた。パトリキとプレプス間は再び紛糾し、混乱した。こうした中前376年、護民官リキニウスとセクスティウスの提案で、コンスル(執政官)2名のうち1名を平民から選出することが決議された(リキニウス=セクスティウス法)。また、前326年には債務奴隷が禁止された。

 前287年プレプス出の独裁官(非常時の執政官)ホルテンシウスは、プレブス達の総退去に面して、平民の声を反映するため民会決議が元老院の承認を要せず国法たりうることを制定した。これが名高いホルテンシウス法で、この法によりパトリキ・プレプス間の法的な平等が実現したとされる。平民会決議はローマ市民全体を拘束し、貴族たるパトリキもこれに出席するようになった。区(トリプス)ごとに投票したので、平民会はトリプス民会と呼ばれるようになった。

 この頃の政体はしばしば「混合政体論」といわれる。コンスル・元老院・民会の三つの権力がよく均衡を保ち、互いに牽制しあっているのだ。ローマ興隆の歴史を「世界史」40巻に著した前2cギリシアのポリュビオスによれば、ローマの国政を牛耳っていたのは三つの要素で、コンスルの権限に着目すれば君主政のように見え、元老院のそれに着目すれば貴族政、民会の権限に着目すれば民主制のように見えて、これら三つがローマの国政に幅をきかしていたという。

ポエニ戦争

 ローマが強大になるのはポエニ戦争でカルタゴを破り、地中海世界を統一してからだ。伝説によればカルタゴ(ギリシア風にはカルケドン)は前814年フェニキア人の植民市として建設された。カルタゴは西地中海交易圏を張り巡らし、イベリア半島、サルディーニャ島、北アフリカ沿岸部、シチリア島西部に拠点を築いて、前3cには西地中海に覇権をふるった。
 ローマが地中海に幅をきかすようになると、カルタゴとローマは地中海の勢力圏をめぐって争うようになり、幾度か条約が結ばれた。条約締結の主導権は当初カルタゴ側にあって、前3c半ばまでは両者は衝突を避けることができていた。

 ポエニ戦争の発端はシチリア島の争奪戦だった。当時、シチリア島は西半分がカルタゴ、東半分がギリシア人勢力のシラクサに属していた。このときギリシアの植民市メッシーナはシラクサの傭兵隊マメルティニが不法占拠していて、シラクサ王ヒエロン2世がこれを討伐しようとした。ここにカルタゴとローマが介入して、ローマ・カルタゴの全面戦争となる。
 両軍の力はほぼ互角で一進一退を繰り返した。カルタゴは将軍ハミルカルが善戦するが主力は傭兵だったため、市民兵から成るローマ軍がやがて優勢となる。和平が成立し、カルタゴはシチリア島を放棄、巨額の賠償金を支払うこととなった(第1次ポエニ戦争、前264〜241年)。

 さらに、カルタゴは傭兵隊の反乱による内紛があって国力を弱め、サルディーニャ島もローマに譲り渡すこととなる。傭兵隊の反乱を鎮圧した将軍ハミルカルは、新天地を求めイベリア半島の経営に乗り出す。当時原住民のケルト人は部族間のまとまりがなく、ハミルカルはイベリアのケルト部族を次々と服属させた。この地で銀鉱を開発し、カルタゴの国力の復興に一役買うことになる。

 イベリア半島におけるカルタゴ勢力の北限はエブロ川で、北はローマの勢力圏だったため、ローマとカルタゴはエブロ条約を締結していた。この条約をどちらが侵犯したのか分からないが、エブロ川南にあるサグントゥムという町の内紛をきっかけとして第2次ポエニ戦争(別名ハンニバル戦争、前219〜201年)が勃発する。

 イベリアにおけるカルタゴの将軍はこのとき、ハミルカルの長子ハンニバル。ローマに制海権を握られていたため、ハンニバルはスペインからアルプス越えでイタリア半島に侵入し、前216年カンネー(カンナエ)の戦いでローマ軍を殲滅した。しかし決定的な勝利を得られず膠着状態となる。そこで、ローマの将軍スキピオは直接カルタゴを攻撃し、召喚されたハンニバルとカルタゴ南方のザマで決戦が行われた(ザマの戦い、前202年)。ハンニバルは破れ、カルタゴが降伏して、カルタゴは海外領土のすべてを放棄させられ、50年にわたる賠償金の支払い、軍備は制限され、隣国との戦争にもローマの許可が必要とされた。
 ローマではスキピオがアフリカ征服者の異名を戴き、英雄と讃えられ、大スキピオと呼ばれた。一方ハンニバルは親ローマ派による危険を察知して亡命、後ローマの手に追い詰められて自殺した。しかしスキピオも一族の醜聞のため失意のうちに没した。両者の亡くなったのは奇しくも同じ前183年のことで、スキピオ52歳、ハンニバル64歳だった。

 前197年イベリア半島には属州ヒスパニアが設置される。他方、ローマにとって東方への関心はあまり無かったらしいが、前171年マケドニアをピュドナの戦いで破り保護国としてからは、ローマはヘレニズム文化の影響にどっぷり浸されるようになった。酒神ディオニュソスの密儀は禁止の布告が出されても根絶できず、ギリシアかぶれが街を徘徊し、ヘレニズム文化の影響は生活習慣の隅々に広がっていった。

 さて、カルタゴは敗戦から立ち直り、商業貿易によって再び繁栄していった。当時ローマ政界の大立者カトーは、カルタゴの繁栄に反感を抱き、元老院での演説で「それにしてもカルタゴは滅ぼされるべきである」と結ぶのを常とした。前149年、カルタゴはローマの許可なく戦争できないのをいいことにたびたび領土を侵犯していた隣国ヌミディアと、賠償金を完済した年に開戦したのだが、ローマはこれを口実にカルタゴに宣戦布告した。カルタゴは和議を求めたが、ローマの苛酷な要求についに戦意を固める。ローマの将軍は小スキピオ(スキピオの長男の養子)。カルタゴは国民の総力をあげ徹底抗戦したものの、3年に及ぶ海陸両面からのローマ軍の包囲に屈し、ついに前146年ローマ軍が市内になだれ込んだ。カルタゴは炎に包まれ、街は徹底的に破壊され、やがて廃墟と化した。生存者は全員奴隷として売り払われた(第3次ポエニ戦争、前149〜146年)。

 また、カルタゴ滅亡のこの年、ポエニ戦争中軍事行動を継続していた東方のマケドニアを属州として併合、繁栄していたギリシアの商業都市コリントスを破壊した。北アフリカにあったカルタゴ領にも属州が設置された。
 ギリシアがローマの一属州となってからも、後の帝政期を通じて文化や宗教の面でなおローマに優れるものがあった。ホラティウスは「征服されたギリシアが野蛮な征服者を虜にした」と言っている。

内乱の1世紀

 ポエニ戦争とうち続く戦役で、重装歩兵である自作農民の農地が荒廃し、土地を手放さなければならない人々が続出した。彼らは無産市民として都市に流入した。一方彼らが手放した土地は、貴族が大土地所有者となって、戦争の被征服民として奴隷となった者をこき使った。これをラティフンディアという。これは前218年の法で、元老院議員とその息子は大型船舶の所有つまり大規模な商業活動を禁止されたという理由がある。つまり、国務を担う高貴な人々に利潤追求はふさわしくない、というわけで、貴族の財力は土地に投資されるよりほかはなかったからだ。しかも、あいつぐ戦乱のため奴隷には事欠かなかった。

 こうした現状を見かねて、改革に乗り出したのがスキピオの一族グラックス兄弟だ。前133年ティベリウス・グラックス(兄)は護民官に選出されると、無産市民の問題を解決すべく、一定の公有地を占有する者は国に土地を返し、これを無産市民に分配する、という改革案を提出した。しかし理想に走るあまり、元老院の承認も得ず、当時たまたまローマに遺贈されたベルガモン王国の資産を勝手に自作農創設費用に充当したりした。そのため大土地所有者たる貴族の猛反対にあった。ティベリウスは翌年護民官の再任を画策し、反対派に襲われ殺されてしまった。
 続いて前123年ガイウス・グラックス(弟)が護民官に就任、彼は土地改革案にかぎらず、穀物、市民権、裁判などにわたる幅広い改革を実施しようとした。ガイウスは法改正で重任可能となった護民官の再選に一度は成功したものの、前121年再度護民官を狙うと反対派に襲撃され、追い込まれて自殺した。
 改革の挫折は、公有地の占有という曖昧な状態を精算し、大土地所有として法的に承認される結果に終わった。しかし、堕落した元老院議院貴族に対する民衆の反感はますますつのる一方だった。

 グラックス兄弟の改革の挫折によって、もはや中小土地所有農民による正規軍団の編成は維持できないことは明らかだった。そうした中で前107年コンスルに就任したマリウスは、無産市民から志願兵を採用して訓練した。こうした傭兵による職業軍団への兵制改革(マリウスの軍政改革という、前107年)が、後にローマの政治勢力の在り方に決定的な意味をもつことになる。マリウスの傭兵軍団は各地で活躍したが、傭兵はマリウスの私兵と化し、個人の軍事力のみならず政治基盤にもなっていく。
 その後多くの将軍がマリウスを真似て軍団を形成し、将軍同士の内乱が続くようになった。グラックス兄弟の改革から100年間を内乱の1世紀という。

 前91年イタリア人が団結して、ローマ市民権を求める戦いに立ち上がった。同盟市戦争という。元老院は譲歩し、前88年イタリア半島の自由人すべてにローマ市民権を付与した。イタリア半島の戦乱につけ込み、小アジア東北部ポントス王国ミトリダテスが小アジアのローマ属州地に侵入、8万人のイタリア人居住者を虐殺した。
 ここでミトリダテス討伐軍の指揮権をめぐる争いがマリウス(民衆派)とスッラ(閥族派)の間で発生する。スッラはこのとき、同盟市戦争の戦後処理にあたっていたが、突如ローマに進軍、突然の奇襲にほとんど無抵抗でローマは制圧され、マリウスは命からがら逃亡した。スッラは元老院の復古政策を宣言、民衆派を粛正した。前87年スッラはミトリダテス討伐に出征、ミトリダテス軍を打ち破ったが、講和を急いで帰国の途についた。
 というのも、ローマは復権したマリウスが、政敵の弾圧・虐殺に燃えていたからだ。スッラが前83年イタリアに帰還したとき、すでにマリウスは亡くなっていたが、政権を掌握し独裁官に就任した。彼は政敵を処刑・追放・財産没収を行い、元老院の権威を高めて護民官の権限を縮小し、前79年に引退した。

 前70年代半ば、ヒスパニア(イベリア半島)では、永年属州総督として振る舞っていたセルトリウスがローマから離反、原住民を結集しゲリラ戦を繰り返していた。小アジアではミトリダテスがまたしても反ローマの戦いを繰り返していた。セルトリウスはポンペイウスが前72年撃破し、ヒスパニアの支配権を回復した。
 この間、前73年剣闘士(剣奴)スパルタクスの奴隷反乱が発生した。カプアという町の剣奴訓練所から、スパルタクスに率いられて数十人の剣奴が脱走した。彼らはベスビオ山に立て籠もり、討伐隊のローマ軍を破った。そのため、周辺のラティフンディアから農奴がぞくぞくと集まり、その勢力は6〜12万にもなった。反乱軍は北イタリアを目指した。アルプスを越えて故郷へ向かおうとしたらしい。しかし、アルプス越えを前にして、進路をめぐる内部対立が起こり、一転して南下する。これは最大の謎とされるが、秋も深まりアルプス越えが困難だったとも考えられるが、むしろ障害として指摘されているのが、北イタリアにはラティフンディアが根付いておらず、食糧や武器の補給などの支援が受けられなかったというのが、理由ではなかったかという。前71年クラッスス率いるローマ軍によりスパルタクスは戦死、捕らえられた奴隷たちは、アッピア街道に磔にされた。その数6000本という。このクラッススはかつてスッラの下にあって、反対派からの財産没収によりローマ有数の大富豪になった人物だ。

 ポンペイウスはヒスパニアから帰還後の前70年コンスルに就任した。同年クラッススもコンスルとなった。ポンペイウスはセルトリウスやミトリダテスなどとも通じていた海賊を討伐、さらに前63年ミトリダテスを黒海北岸に追い込んで自害させた。ポンペイウスの権威は絶大なものとなる。さらに、元老院の意向にはかることなく東方への植民活動を実施、アルメニアの保護国化や、シリアの属州化、パレスティナの貢納国化などを次々と実現した。しかし、前62年末、帰還したポンペイウスは軍隊を解散し、元老院への恭順を示したものの、ポンペイウスの退役兵への土地分配と東方での施策は承認されなかった。

 ここでカエサルが登場する。カエサルは属州ヒスパニアで戦果もあげ、前60年ローマに帰還、やはり元老院閥族派の嫌がらせにあい、利害を共にするポンペイウス、クラッススと協調する密約を結んだ。これ以後を第1回三頭政治という。前59年両人の後押しでコンスルに就任する。
 コンスルとなったカエサルはポンペイウスの退役兵に土地を分配する法案と、東方処理を承認する法案を成立させ、自分の娘ユリアまでポンペイウスにくれてやって両者の絆を深めた。
 コンスル任期終了にともない、5年間にわたるコンスル代行の指揮権を獲得、この指揮権にもとづき前58年ガリアに向かい、ケルト人やゲルマン人と戦って武勲を得た。特に勇猛なゲルマン人のベルガエ族を破ったことで名声を高めた。戦利品はカエサルの財源を潤し、ローマ政界に金をばらまいて勢力を増大した。

 前55年ポンペイウスとクラッススは再び共にコンスルに就任、その後5年間のコンスル代行の指揮権も獲得した。カエサルもまた5年の指揮権を延長され、ここに三頭政治は更新されることになる。  しかし、前54年クラッススも武勲を欲し、アジアの大国パルティアへ遠征したものの、敗北して戦死した。こうしてローマはポンペイウスとカエサル両巨頭の権力となる。カエサルはさらにガリア征服を続行、プリテン島にも遠征し、前52年にはアレシアの包囲戦でウェルキングトリクス率いるガリア全土の蜂起を制圧した。これら一連のガリア戦争の経緯は名著「ガリア戦記」として自身が著した。

 いまや元老院体制にとって、カエサルこそ体制を脅かす危険人物と見られるようになった。閥族派は対抗する勢力としてポンペイウスを支持し、反カエサル派の中心人物に祭り上げた。ポンペイウスは三たびコンスルに就任、一方カエサルの軍事指揮権は終わりに近づいた。カエサルは任期満了と共に武装解除しなければならない。
 前49年カエサルは「サイコロは投げられた」と言って、武装解除せずにルビコン川を渡る。それはローマの国法に逆らって、内戦の火ぶたを切るものだった。ルビコン川は小さな川で場所も不明だが、当時ここを渡ればイタリア本土と見なされていた。強力なカエサルの進軍に対し、ポンペイウス軍は後退を余儀なくされ、その拠点を東方に移さざるを得なくなった。
 前48年ギリシア北部ファルサロスの戦いでポンペイウスは敗れ、エジプト・プトレマイオス朝に保護を求めたが、エジプトの手で殺されてしまった。このとき、カエサルはエジプト王クレオパトラと出会い、半年以上もエジプトに滞在した。この間にクレオパトラとプトレマイオス13世姉弟の政争に介入、クレオパトラに組みしてプトレマイオス13世を敗死させた。親密になったクレオパトラとカエサルがナイル川を周航する姿は人々の耳目を集め、クレオパトラの生んだカエサリオンはカエサルの子と伝えられる。

 ファルサロスの戦い後、カエサルは独裁官に就任した(任期1年)。続く、前46年北アフリカのタプソスでポンペイウス派の残党を破って10年間の独裁官、前45年ヒスパニア南部でポンペイウスの息子を破って、内乱は終結した。また、同年1月1日をもって太陽暦を採用した。ユリウス暦という。
 前44年2月カエサルは終身独裁官に就任、カエサルにはさまざまな栄誉と特権が付与される。ここに至って、もはやカエサルの独裁が一時的なものでないことに危機感を抱いた元老院保守派は、同年3月元老院を招集した場で、議場に入ってきたカエサルを取り囲み襲いかかった。こうしてカエサルは殺されてしまう。襲いかかった中に、目をかけていたブルートゥスがいたため、「ブルートゥス、お前もか」と叫んだというが、これはシェイクスピアの戯曲中のお話。
 このとき、クレオパトラはカエサリオンを連れてローマを訪れていたが、カエサルが殺害されると、急いでエジプトに戻っていった。

 カエサル暗殺後、カエサル派の主導権はカエサルの右腕で同僚コンスルのマルクス・アントニウスが握った。一方、カエサルは遺言で、養子オクタウィアヌスを後継者に指名していた。カエサル暗殺後の処刑をめぐり、オクタウィアヌスと元老院が対立すると共に、元老院保守派はアントニウスの覇権を警戒した。ここにおいて、カエサルの武将レピドゥスの仲介により、オクタウィアヌスとアントニウスが手を結び、前43年レピドゥスを加えた三者によって第2回三頭政治の密約が生まれた。
 こうしてカエサル殺害派への追求が厳しさを増し、殺害派の精神的指導者と目されていたキケロ(弁論家・政治家)が殺害され、バルカン半島に逃れて体制の立て直しを図っていたブルートゥスも、翌年マケドニアのフィリッピで破れて自殺した。
 ここにアントニウスが東方属州、オクタウィアヌスが西方属州、レピドゥスが北アフリカという勢力範囲が定められる。また、アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚、両者の結びつきは強まったかに見えた。

 アントニウスはクレオパトラをキリキアのタルソスに呼び寄せたが、そこでクレオパトラの魅力にとりつかれ、アレクサンドリアに同行、二人の間に三児をもうけた。
 この頃ポンペイウスの遺児の一人セクストゥスが、シチリア島を拠点に海賊行為を働いていた。オクタウィアヌスの親友で有能な部下アグリッパがセクスティウスを破ったことで、オクタウィアヌスは西地中海の制海権を手中にし、やがてレピドゥスも失脚させてしまった。
 一方、アントニウスは独断でローマ東方属州の要地をクレオパトラに寄贈したことが白日のもとにさらされた。しかもオクタウィアを離縁、クレオパトラの子を相続人にしたという。ローマの民衆はアントニウスの裏切り行為に怒り、オクタウィアヌス支持のうねりとなった。

 ついに前31年オクタウィアヌスは宣戦布告に踏み切ったが、アントニウスを公敵と呼ぶのを避け、クレオパトラに対してだった。ギリシア西北岸アクティウム沖での海戦で、アグリッパ率いるローマ軍に対し、クレオパトラ率いるエジプト艦隊は早々と逃亡、アントニウスもその後を追った。翌年オクタウィアヌスはアレクサンドリアを陥落させ、アントニウス・クレオパトラは共に自殺、カエサリオンは殺され、プトレマイオス朝が滅亡した。
 こうしてローマにおける100年の内乱に終止符がうたれた。なお、オクタウィアはアントニウスの遺児をすべて引き取って育てたという美談が伝えられている。

 さて、共和制初期においては、パトリキの中でもコンスル就任者などの家系を、特に貴顕貴族(ノビレス)といった。こうした富裕な家系の人々は、貧しい市民との間に保護・被護の関係を築いた。いわば親分・子分の関係でこれをクリエンテーラと呼ぶ。親分は何かと子分の面倒を見、子分は親分を支援する。これはローマにあっては殊の外根強く、ローマ人の肌に染みついた秩序であり、行動様式となっていた。クリエンテーラは網の目状に広がり、少数の有力者を頂点とする勢力圏を形成した。
 共和制末期の激動の時代、傭兵の採用によって、軍隊の統率者と兵士の関係はクリエンテーラに転化していく傾向があった。クリエンテーラの網の目は属州各地に及び、有力者の動員力の大きな源泉となった。

帝政

 前30年凱旋したオクタウィアヌスは軍隊の大半を解散、退役兵への土地の分配が実施された。オクタウィアヌスはプリンケプス(元首)と称えられた。元首とは筆頭元老院議員という意味だ。また、前27年全権の返還を申し出て、カエサルのような独裁者を懸念する元老院の不安を一掃した。オクタウィアヌスにはアウグストゥス(尊厳なる者)の称号が与えられる。一般には、この前27年をもって帝政(元首政)の始めとする。
 オクタウィアヌスは後14年没した。以後元首(皇帝)に対し、インペラトル(最高司令官)またはカエサルの呼称が一般化する。
 オクタウィアヌスはカエサルの轍をふまず、共和制を装った独裁制を築き上げた。その治世の中で特筆すべきは、ローマを世界の首都として、壮麗な建築物であふれる見事な都市に作り上げたことだ。同僚コンスルのアグリッパが多く関与し、パンテオン(現在残るのはハドリアヌス帝のときの再建)、アグリッパ浴場などを建設した。フランス・ニームのポン・デュ・ガール(水道橋)もアグリッパの命によって作られたと伝えられる。

 オクタウィアヌスは三人目の妻リウィアを終生の伴侶として愛したが、二人の間には子が無かった。リウィアにはティベリウスという連れ子があったので、これを養子にし、後継者とした。
 ティベリウス(在位14〜37年)にとって先帝の権威は余りにも大きく、自身の性格も陰気で、猜疑心をつのらせ密告者をあてにしたため、宮廷には様々な陰謀がうずまいた。そのため、政治に嫌気がさして隠棲してしまう。その間に親衛隊長セイヤヌスが取り入って権勢をほしいままにした。やがてセイヤヌスも帝位簒奪の陰謀のかどでティベリウスに排除され、その一党は皇帝の隠棲先カプリ島の処刑場で処刑された。そんなわけで、ティベリウス逝去の際には、元老院も民衆も共に喜んだらしい。一方で、ティベリウス帝の時代は、遠征や建築土木工事がほとんど行われなかったため、健全財政だったという。

 三代目がティベリウスの甥ゲルマニクスの子でガイウス(愛称カリグラは「幼児用の軍靴」の意、在位37〜41年)。父ゲルマニクスは当初ティベリウスの後継者に指名されていたが、赴任先のシリアで死亡している。美青年で才気煥発だったので民衆に人気があり、ためにティベリウスのねたみを買って毒殺されたのだという噂があった。その血を引くカリグラだったので、当初民衆の期待には並々ならぬものがあった。実際帝位を継いだ直後は、政治犯の釈放、減税、大盤ぶるまいをするなどしたため、民衆は拍手喝采した。
 しかし、まもなく重病で倒れ、回復した後は精神に異常をきたし、残虐行為に走るようになった。元老院を無視し、有力者の処刑や恣意的な財産没収、弱い者いじめなど、あらゆる狂気を行った。ついに侮辱された親衛隊将校の手によって殺されてしまった。わずか29才だった。

 カリグラ殺害後、元老院では共和制への復帰が検討されたが、親衛隊によってカリグラの叔父でゲルマニクスの弟のクラウディウスが担ぎ出された。クラウディウス(在位41〜54年)は解放奴隷たちを側近に重用し、ある意味での官僚制を整備した。この帝のとき、トラキアとブリタニアが属州に加えられる。しかし、側近たちや妻たちの意見に左右されやすく、女ぐせもよいとはいえなかった。最初の妻と二番目の妻を離婚し、三番目の妻は破廉恥を理由に処刑した。四番目の妻はカリグラの妹で姪のアグリッピナ、彼女は自分の連れ子を帝位に就けるためだけに結婚し、やがて夫を殺害したというのが通説になっている。

 その連れ子がネロ(在位54〜68年)。当初ストア派の哲人セネカや親衛隊長ブルスの補佐で善政をしいていた。しかし59年、口やかましい母アグリッピネを、愛人ポッパエアにそそのかされて亡きものにし、同時に妻オクタウィアを追放してポッパエアを妻にした。そのうちセネカやブルスの助言を聞かなくなり、セネカは引退後、陰謀に加担したとの疑惑をかけ自害させた。同年ポッパエアも怪死する。一説には、ネロがなじられた腹いせに身重の妻を蹴り殺してしまったという。
 政治的には乱費を重ねて国家財政を危機に陥れたが、富裕な有力者を追放したり処刑したりして、その財産で穴埋めした。一方、民衆に大盤振る舞いをしたり、積極的な財政支出で景気を良くしたため、民衆には人気があった。
 学芸を愛好し、様々な競技会を開催しては、みずから舞台に出演し民衆の喝采を求めた。しかし、元老院と軍隊を無視したため、最後は軍隊の反乱が各地で起こり、帝位を追われて自殺した。最後の言葉は「この世から、なんと偉大な芸術家が消えることか」だったという。死後、帝国各地で「私はネロだ」と名乗る男が跡を絶たなかった。

 さて、この頃のローマは征服戦争も終え、ローマの平和(パクス・ロマーナ)が訪れていた。皇帝は民衆に恩恵を施し、民衆にはパンとサーカスが与えられた。パンは民衆への穀物配給、それにぶどう酒や貨幣が分配されることもあった。サーカスとは元々戦車競争の楕円形コースを意味するキルクス(circus)に由来する。二頭立て又は四頭立ての戦車が2チーム又は4チームで競争し、民衆はこれに賭けて熱狂した。他に剣闘士の競技、猛獣の格闘、劇場での演劇やパントマイムなどの催しが行われた。

 ネロの死でオクタヴィアヌス、ティベリウスの血統(これをユリウス=クラウディウス家という)は絶えた。ネロ帝死後の1年間は内乱の年だった。3人の皇帝、ヒスパニア総督ガルバ(68年10月)、ガルバを裏切り帝位に就いたオト(69年1月)、ゲルマニア総督ウィテッリウス(69年7月)が担ぎ出されたが、70年初頭アレクサンドリア総督でドナウ軍団の支持も得たウェスパシアヌス(在位70〜79年)がウィテッリウスと対戦し、勝利した。
 ウェスパシアヌスの系統をフラヴィウス朝といい、この帝の後息子ティトゥス、ドミティアヌスが跡を継ぐ。

 ティトゥス帝(在位79〜81年)のとき、ヴェスヴィオス山が大噴火し、ポンペイの町が埋没する。これとは別にローマも大火に見舞われ、疫病が流行した。ティトゥス帝は民衆に全力で援助の手を差しのべ、善帝として愛されたが、自身も81年熱病で倒れて死んだ。なお、この帝のとき、父ウェスパニアヌスが着工したコロッセオが完成を見た。

 続く弟のドミティアヌス帝(在位81〜96年)は、猜疑心が強く密告、告発、弾圧を繰り返して、元老院の反感を買った。最後に后が側近や親衛隊長と共謀して皇帝を殺害する。元老院はこの帝の記憶をことごとく抹消した。しかし、堅実な財政管理、属州統治と国境防衛にはすぐれた成果をあげ、兵士たちもその死を悲しんだという。

五賢帝時代

 96年ドミティアヌスが暗殺された日、元老院はネルウァ(在位96〜98年)を皇帝に推挙した。そのため暗殺の陰謀にネルウァが関与していた可能性が大きい。追放されていた人々は呼び戻され、没収財産は返還された。ネルウァはすでに66才、実子も無かったため、後継者としてトラヤヌスを養子にした。こうして優れた人物を後継者として養子にするという先例が生まれた。以後を五賢帝時代(96〜180年)といい、ローマ帝国は黄金時代を迎える。

 トラヤヌス(在位98〜117年)はスペイン南部の名家に生まれた。属州出身の最初の皇帝となる。かつてアウグストゥスは領土拡大を禁止する遺訓を残し、これはクラウディウス帝のブリタニア併合を例外としてほぼ守られていた。これに対してトラヤヌスは外征に熱心で、ダキア、メソポタミア、アッシリアなどを併合し、ローマ帝国の版図を最大にした。特にダキア戦争の模様は、トラヤヌス広場にある高さ38メートルの円柱に絵巻物として描かれ、その偉容を誇っている。また、ダキアは植民者の定住によるローマ化が推進されたため、この地は現在ルーマニアと呼ばれる。
 トラヤヌスは何よりも元老院を尊重した。相当の激務をこなしたといわれ、属州行政を含む行政改革、救貧制度の拡充、貢租の軽減、公共事業の振興などに取り組んで、「最善の元首」なる称号を贈られた。
 トラヤヌスは臨終に際して、同郷人ハドリアヌスを後継者とし、養子に迎えたという。崩御の公表も数日遅れたため、帝位継承にはいろいろな風聞が絶えなかった。ハドリアヌスがトラヤヌスの后プロティナの愛人だとも噂された。

 ハドリアヌス(在位117〜138年)の治世は、トラヤヌスによって拡大した領土の現状維持に費やされた。そのため属州各地の視察旅行を行なう。
 ブリタニアの視察の際には、全長120キロに及ぶ「ハドリアヌスの長城」を築いた。ブリタニアの呼称は、ケルト人の一派ブリトン人に由来する。かつて、カエサルは二度にわたってブリタニアに侵入したが、占領の意志は無かった。クラウディウス帝の43年、ブリタニアの征服に乗り出したが、カラタクス王率いるシルレス族が数十年にわたって激しく抗戦、61年にはイケニ族女王ボウディッカも反ローマ独立闘争に決起した。84年に至り、アグリコラ率いるローマ軍団が、北部を除くブリテン島の大半を支配下に収めた。ハドリアヌス視察の時点でも、北部の脅威は依然として存続し、ローマ支配の北限に長城が建てられたわけだ。
 イエルサレムでは、ハドリアヌス巡回より半世紀以上前のユダヤ戦争のとき、ヤハウェ神殿が破壊され廃墟と化した。ハドリアヌスはここに植民市を再建しようとしたが、ユダヤ人はハドリアヌスが去った後、再び反乱の火の手を上げ、戦乱はユダヤ全体に及んだ。結局数十万人のユダヤ人が殺され、イエルサレム再建後もユダヤ人はイエルサレムに入ることを禁じられた。こうして、彼らはさすらいの民となる。
 こうしてハドリアヌスはその治世の大半、実に12年を属州各地の視察旅行に費やした。ローマ近郊の彼の別荘は訪問した名所や建造物を模し、そこで晩年の大部分を過ごした。一方、ハドリアヌスは内政面においても官僚制を整備し、国家機構が自律的に作動するようにした。晩年アントニヌスを養子にして後継者とした。

 アントニヌス(在位138〜161年)の治世は繁栄と平和の時代で、特筆すべきことはほとんど何も起こらなかった。また、敬虔で祖国愛にあふれていたので、ピウス(敬虔なる人)の称号が贈られ、アントニヌス=ピウスと称される。元老院との協調に努め、重要な決定は私的な顧問会に委ねた。官僚制の整備が進み、財政が節約され、亡くなったとき国庫は潤っていた。後継者としてマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスを養子にした。

 従ってアントニヌス死後、マルクス・アウレリウス(在位161〜180年)とルキウス・ウェルスの共同統治となる。その治世は当初から災厄続きだった。
 まずパルティアが侵攻し、これは数年で撃退したのだが、帰還兵から天然痘とおぼしき疫病が発生、帝国各地に広まってしまった。多数の生命が失われ、帝国の人口は深刻な打撃を受けた。その後もゲルマン人の侵入に悩まされ、その間に共同統治帝ウェルスが病死する。
 マルクス・アウレリウスは哲学者としても有名で、その著「自省禄」で自らの精神世界を綴った。そのため哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスと言われる。
 ネルウァ帝以来、実子がいないか、先立たれたかしたため、最良者の選抜による帝位継承が踏襲されてきたのだが、マルクス・アウレリウスは実子に恵まれたため、その子コンモドゥスが後継者となる。こうして、五賢帝の時代は終わりを告げる。

 コンモドゥス(在位180〜192年)はネロと同様の暴君となった。政治は側近にまかせきり、剣闘士の格好をして闘技場に登場したり、国境の平和を援助金の支払いで済ませたり、有力者の財産没収を行うなどの乱行を行った。やがて側室・侍従・親衛隊長らが共謀して暗殺してしまう。
 その後もネロ帝死後と同じように内乱となり、老齢の首都長官ペルティナクス(193年1月)は侍従と親衛隊長によって擁立されたが、3ヶ月足らずで親衛隊の反感を買い暗殺された。次いで親衛隊によって帝位が前代未聞の競売にかけられ、これを競り落とした元老院議員ディディウス・ユリアヌス(193年3月)はローマ皇帝として正統性を認められず元老院によって処刑された。このときまでに、パンノニア(現在のハンガリー)総督セプティミウス・セウィルスやブリタニア総督クロディウス・アルビヌス、シリア総督ペスケンニウス・ニゲルらが属州軍隊によって皇帝を僭称していた。この乱立の中から、最終的にセウィルスが勝ち残る。

 セプティミウス・セウィルス(在位193〜211年)は属州アフリカのポエニ人だった。そこで従来イタリア人だけからなる親衛隊は属州出身者にも門戸を開き、何より兵士を優遇し、軍務経験者が行政職に就くのをたやすくした。そのため、行政機構全体が軍人色をおびるようになる。また多くの元老院議員を処刑し、財産を没収したため、元老院の権威は失墜した。晩年をブリタニア遠征で過ごした。

 セウィルスの妃ユリア・ドムナはシリアの出身で、カラカラとゲタを生んだ。カラカラ(在位198〜217年)はセウィルスの共同統治帝となる。しかし、セウィルス死後は兄弟の確執が起こり、カラカラはゲタを殺害する。
 212年カラカラは「アントニヌス勅法」を発し、帝国内のすべての自由人にローマ市民権を与えた。その狙いは税収の増大だ。それまで市民権の無い者は、相続税や奴隷解放税を払う必要が無かったからだ。また、カラカラ浴場を建設したことでも名を残した。しかし、217年パルティア遠征中に親衛隊長マクリヌスによって殺害され、マクリヌスが皇帝となった。

 マクリヌス支配には東方の軍団が不満を抱き、反旗をひるがえす。この結果マクリヌスは捕らえられ、殺された。次いで擁立されたのは、ユリア・ドムナの妹ユリア・マエサの長女の子エラガバルス14才だったが、実権はユリア・マエサの手にあった。エラガバルスは同性愛と奇怪な行動によって、元老院や軍隊の反感が高まり、在位4年にして母と共に殺害される。ユリア・マエサは次に、次女の子セウェルス・アレクサンデル13才(在位222〜235年)を皇帝に推した。

 アレクサンデルの治世は当初、元老院議員らの補佐を受けうまくいっていたものの、東方国境では226年パルティアが滅んでササン朝ペルシアが興り、ローマ勢力を駆逐しようとしていた。233年にはゲルマニアで反乱が起こり、母の忠告に従って戦争より報償金による和解を目指したため、軍隊の怒りを買い235年母と共に殺害された。ここに、セウェルス朝の家系が断絶した。

軍人皇帝時代

 以後235〜284年を世に「軍人皇帝の時代」と呼ぶ。この間正統な皇帝と見なされる者だけでも26人、その他共同統治の副帝3人、地方勢力に担ぎ出された自称皇帝に至っては41人を数え、半世紀の間に約70人もの皇帝が出現した。半世紀間の皇帝擁立は国境地域で圧倒的に多く、緊迫した国境の危機に対処するため各地に皇帝が乱立したことになる。
 この間の260年、ササン朝ペルシアとのエデッサの戦いでは、皇帝ウァレリアヌスがペルシア王シャープフル1世の捕虜となった。
 その子ガリエヌスは父ウァレリアヌスの共治帝となり、西部を担当した。父が捕らえられた後、東部では同盟国パルミュラの王オダエナトゥスがペルシア軍を撃退、ローマ属州の反乱軍まで鎮圧してくれた。その功に報いてガリエヌスは「東方の統治者」の称号を与えた。オダエナトゥスは勢いをかって一時クテシフォンまで攻略したが、王国の内紛で殺された。一方、ガリアにはゲルマニア総督ポストゥムスにより分離帝国が形成された。
 騎兵隊長から皇帝となったアウレリアヌス(在位270〜275年)は外敵の侵略に備え、ローマにアウレリアヌスの城壁を建設、ゼノビア(オダエナトゥスの妃)率いるパルミュラ王国、ガリアの分離帝国を破って帝国の統一を回復したが、東方遠征の途中暗殺された。原因は謎だ。

専制君主制

 皇帝乱立を収拾したのは、最後の軍人皇帝ディオクレティアヌス(在位284〜305年)、元親衛隊長だった。もはや広大な領土の統治と防衛は、単独で掌握できなかったので、286年将軍マクシミアヌスを西方の共治帝とし、さらに293年東西に副帝を置き四分治制(テトラルキア)を開始した。
 皇帝権の強化をはかるためペルシア風の拝跪礼による謁見を要求した。続くコンスタンティヌスも専制支配体制の強化をはかったため、ディオクレティアヌス以後の帝政を元首制(プリンキパートゥス)に対して、専制君主制(ドミナートゥス)と呼ぶ。
 それと共に様々な改革に着手した。これまでの属州を再分化し、帝国全土を12の管区に再編した。官僚制を整備し、セウィルス朝以後の軍人支配をやめ、民政と軍政を分離しようとした。深刻なインフレ対策には、税制を整備し通貨を安定させるため、人頭税と地税を組み合わせたカピタティオ・ユガティオ制を導入、帝国全土で人口調査と土地測量を実施した。もっとも一連の改革がどれほど奏功したかとなると、めざましい成果が得られたとは言えなかった。
 治世末期には伝統宗教の再興をめざし、302年マニ教禁令、303年キリスト教徒の弾圧を命じた。教会の破壊、聖書の没収、宮廷や公職からの信者の追放、信者への伝統宗教祭儀の強制を命じる勅令が繰り返し出された。「キリスト教徒大迫害」として知られる。
 305年病により退位、残された人生を豪華な別荘の菜園の世話をして過ごし、10年後天寿をまっとうした。

 ディオクレティアヌス帝が共治正帝と共に退位すると、帝位をめぐる抗争が起こった。後継者戦争に勝利を収めたのが、コンスタンティヌス(在位306〜337年)とリキニウス連合だった。対抗する勢力がキリスト教迫害に熱心で、これが帝国の覇権をめぐる焦点となったため、コンスタンティヌスとリキニウスは連名で313年「ミラノ勅令」を発し、キリスト教を公認した。しかし、東方を拠点としたリキニウスはその後キリスト教迫害を再開するなど、紆余曲折があった。324年コンスタンティヌスはリキニウスを処刑し、帝国を再統一した。
 コンスタンティヌスはディオクレティアヌスの改革路線を継承し、専制支配の体制を確立した。官僚制を基盤とする階層社会が整備され、皇帝の官吏の力は強大になった。軍事面では野戦機動部隊を創設、帝国内の軍隊の移動を円滑にした。経済的には国家通貨として高い信用を誇るソリドゥス金貨を発行し、税収の確保のためコロヌスを土地に拘束したり、身分や職業の固定化を推進した。ソリドゥス金貨は極めて純度が高く、ほぼ700年にわたって維持された。ちなみに現在アメリカ・ドルの通貨記号がDでなくSなのは、このソリドゥス金貨の長期にわたる安定した通用力を願ったためだという。
 330年コンスタンティヌスは旧ビザンティオンに新都を建設、後にコンスタンティノポリスと呼ばれた。これにより帝国の重心は東方に移動した。新都コンスタンティノポリスはキリスト教の装いをほどこされた都市として成長することになる。

 さて、4cには土地に緊縛された従属農民コロヌスなる階層が現れる。すでに1cにはコロヌス(小作人)は少なくなかった。奴隷制農場経営はイタリアのみならず属州各地に広がっていたが、奴隷制農場経営には奴隷労働力だけでなく、農繁期には多くの労働力を必要としたため、近隣の自由身分労働者が雇用された。また、征服戦争終結による奴隷供給源の枯渇、属州の農場経営の発展によるイタリア果樹作物が市場を喪失したこと、奴隷制農場経営は大規模化すると多大な監視組織が必要となって逆に不経済となること、反乱の危険も大きくなることなどを理由に、所領地を拡大する場合は奴隷制と並んで、小作人に土地を貸し出した方が有利になると考えられるようになった。
 小作人は、天候不順による不作や市場の不安定さなどから地代の滞納が重なると、自由が次第に制限され、従属の度合いを強めていく。こうなると次第に土地に緊縛されるようになって、4cにはコロヌスという階層が出来上がった。

 コンスタンティヌス死後、首都コンスタンティノポリスの軍隊が反乱を起こし、コンスタンティヌスの三人の息子以外の親族はほとんど殺された。その息子三人は相談して帝国を分割統治するが、やがて彼らの間に抗争が起こり、帝位簒奪者も現れたりして、三人の中からコンスタンティウス2世(1世はコンスタンティヌスの父コンスタンティウス)が単独の皇帝となって安定した統治を維持した。
 355年従兄弟のユリアヌスを副帝に任ずる。ユリアヌスはコンスタンティヌス死後の反乱の際、幼児だったためかろうじて難を逃れていた。ユリアヌスは派遣されたガリアを平定し、ゲルマン人をライン川の彼岸に撃退して声望を得た。一方、東方のペルシア戦線にあたっていたコンスタンティウスは361年急死、ユリアヌスが即位した。しかし、ユリアヌスも363年、ペルシア討伐の戦いの中で致命傷を負いたおれた。

 ユリアヌス死後、ウァレンティニアヌス(西)とウァレンス(東)兄弟が分割統治した。その376年フン族に圧迫されてゲルマン民族大移動が始まる。東方では西ゴート族がドナウ川南岸の帝国領内に移住、やがて暴徒と化し、378年ハドリアノポリスの戦いでウァレンス帝が敗死した。西方ではゲルマン人の侵入や暴動は抑止され、ウァレンティニアヌスの息子で後継者となったグラティアヌスは東部皇帝に軍人のテオドシウスを立てた。その後グラティアヌスが反乱で死ぬと、西方は混乱し、ゲルマン人の将軍と軍隊が台頭する。

 テオドシウス(在位379〜395年)は、392年キリスト教を国教とした。背後にはミラノ司教で勇猛な聖者アンブロシウスがいた。敬虔なキリスト教信徒としては、皇帝すら頭が上がらなかった。テオドシウスが腹心の部下をテッサロニケ市民に殺されたとき、腹いせにその市民の大虐殺を命じたが、アンブロシウスはただちにテオドシウスを破門し、皇帝は改悛の意を示して教会への復帰を認められたいきさつがある。
 テオドシウスは394年西方の簒奪帝を倒し、東西の再統一を成就させて単独の統治者となる。ローマ帝国最後の専制君主だ。395年テオドシウスが死ぬと、帝国は再び二人の息子アルカディウス(東)とホノリウス(西)が分割統治する。この東西分割で兄のアルカディウスに東の帝国が委ねられたのは、すでに帝国の重心が東に移っていたことの現れだ。そして東西関係は次第に疎遠になり、以後再び統一政権が樹立されることはなかった。

 帝国西部(西ローマ帝国、首都ローマ)では、以後ゲルマン民族の移住の荒波にさらされていく。西ゴート族がイタリアに侵入し、ヴァンダル族やスエウィー族がガリアに侵入した。410年ローマはアラリック率いる西ゴート族に蹂躙された。帝権は弱体化し、455年にはテオドシウスの血を引く者も断絶、皇帝は傀儡政権となり、実力者によって擁立されたり、廃されたりした。476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが幼帝を廃し、西ローマ帝国は消滅する。
 一方帝国東部(東ローマ帝国、首都コンスタンティノポリス)は都市も繁栄し、経済力も衰えなかった。ゲルマン民族の勢力を排除する力も残っていて、キリスト教と国家が一体化し、教義論争を繰り返しつつ、神寵帝理念の下でなお1000年の余命を保つことになる。

ビザンツ帝国

 395年ローマ帝国が東西に分裂した後は、東ローマ帝国を古代ローマ帝国と区別するため、首都コンスタンティノポリス(又はコンスタンティノープル)の古い名前をとって、ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ぶ。また、伝統主義を重んじたが、その伝統意識はローマ帝国、キリスト教、ギリシア文化によって支えられた。ローマ帝国の意識は、ビザンツ帝国の人々がローマ人としての自覚に生きていたことに現れる。そしてコンスタンティノープルは東洋と西洋の諸民族の行き来する文明の十字路にある。この都市を中心にして帝国と周辺世界がひとつのシステムを構成した。

 アタナシウス(在位491〜518年)は西ローマ帝国が滅んだ後皇帝となった。その統治は着実な成果を収め、没時には32万ポンドの金を国庫に蓄えた。
 アタナシウス没後は後継者をめぐり、元老院、軍隊に市民も加わって紛糾した。その結果、ユスティヌスという老将軍が選ばれた。農民上がりの無学な男で、勅令に署名することもままならない有様だったという。

 ユスティヌスの甥がユスティニアヌス1世(在位527〜565年)で、即位の半年後新法典編纂のために10人委員会を設置した。委員長はトリボニアヌス、編纂委員は首都の法学教授たちで、委員会は1年余りで歴代皇帝の法令をまとめた「勅令集」を完成させた(534年改編)。次いで法学者の法解釈・学説をまとめた「学説彙纂」、欽定の教科書として「法学提要」(共に533年)、ユスティニアヌス自身が出した法令「新勅令集」は彼の死後まとめられた。これら4つをまとめて「ローマ法大全」といい、ユスティニアヌスの名を不滅のものとした。
 当時北アフリカにはヴァンダル王国、イタリアは東ゴート王国、イベリア半島は西ゴート王国で、旧西ローマ帝国の領土だった地はゲルマン人の支配下にあった。ユスティニアヌスは531年将軍ベリサリウスに命じ、海路ヴァンダル王国へ遠征、534年同国を征服して、翌年にはイタリアへ遠征軍を送った。しかし東ゴート王国は激しく抵抗、最終的に555年になって滅ぼした。この間、西ゴートの内紛に乗じ、イベリア半島東南部を征服する。こうしてユスティニアヌスは古代ローマの栄光を蘇らせた最後のローマ皇帝となり、地中海は再びローマ帝国の海となったが、地中海世界の再統合はかえってその解体を促進させるという皮肉な結果になる。
 ユスティニアヌスはまた建築事業にも熱意を示し、コンスタンティノープルの象徴聖ソフィア教会を532年から5年がかりで、壮麗なものに再建した。

 ユスティニアヌス没後、ゲルマン人の一部族ランゴバルト人が北イタリアに侵入、さらに南へと領土を広げ、ローマ帝国の再興は束の間の夢に終わった。また、ササン朝ペルシアとの戦争が再開される。というのも、ユスティニアヌスは西方戦線に全力を注ぐため、ササン朝とは金で平和を維持しており(532・562年の平和条約)、貢納金の支払いが困難になると戦争が避けられなくなったためだ。572年ユスティヌス2世(在位565〜578年)はユスティニアヌスが約束した貢納金の支払いを停止した。しかし、戦争は泥沼化し、その間にバルカン半島にはアヴァール人、スラブ人が侵入してきた。
 マウリキウス帝(在位582〜602年)はササン朝との戦争をペルシアの内紛に乗じて終結させ、ドナウ国境線を回復すべく、バルカン各地で精力的な作戦を展開した。作戦は成功したものの、長期化する戦争への不満が爆発し、前線の軍団がフォーカスを皇帝に押し立てて都へ攻め上り、マウリキウスを処刑してしまった。フォーカスは恐怖政治を展開、帝国の各地で反乱が起こる。

 ヘラクレイオス帝(在位610〜641年)は、暴君フォーカス打倒を旗印にカルタゴから攻め上り、救国の英雄と歓迎されて帝位に就いた。しかし、613年シリアでペルシア軍に大敗を喫し、翌年にはエルサレムも陥落、イエスの聖遺物がクテシフォンに持ち去られた。続いてエジプトも奪われ、帝国は重要な穀倉地帯を奪われて、618年勅令により穀物配給が廃止された。すでにさびれていた競馬競技と合わせ、パンとサーカスがここに終焉した。626年にはペルシア軍が皇帝不在のコンスタンティノープルを包囲した。翌627年ヘラクレイオスは逆にペルシア領内に深く侵入、ササン朝を全面降伏させたものの、この間にはすでにバルカン半島各地はスラブ人の世界となっていた。というのも、626年ペルシアのコンスタンティノープル攻撃に加わり、敗北後もバルカン半島に残り、かつ、ヘラクレイオスもアヴァール人に対する備えとしてスラブ人をバルカン半島西北部に招き入れさえしたためだ。
 ここで東方ではアラブ人が台頭する。ムハンマド死(632年)後、アラブは隣接する両大国ササン朝とビザンツ帝国に対する攻撃を開始する。ヘラクレイオスは636年シリアのヤルムーク河畔でアラブ人に惨敗を喫し、苦労の果てにペルシアから奪い返したシリア・パレスティナ・エジプトはなすすべもなく、次々と失われた。

 ほどなくアラブは海軍を創設、地中海世界に乗り出して、655年の伝統を誇るビザンツ海軍はアラブに惨敗を喫する。いまや地中海はアラブ人が支配者となった。ビザンツ帝国はローマ帝国の面影を失っていき、かろうじて命脈を保っていくものの、13c初めの第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領したときは、ついに一弱小国家へと転落する。

キリスト教

 キリスト教はイエス(前4位〜後28年位)死後、その弟子たちによって成立した。イエス自身はユダヤ教と分離する意志は無かったと推定され、イエスの一派はユダヤ教ナザレ派と呼ばれることもある。
 イエスはユダヤ教のラビ(宗教指導者)で、ナザレのイエスという。宗教家としてのイエスは、地上の人間の「救済の教え」を説き、特に貧しき者・虐げられた者の救済を説いた。また人間の平等や、互いのあいだの愛を説いた。しかし、しばしばユダヤ教の戒律(安息日など)を無視する言動をとったので、ユダヤ教の聖職者たちからローマへの反逆の嫌疑をかけられ、ローマ側によって十字架刑によって処刑された。

 イエス死後、ペテロがイエスの教団を維持し、これをイエスの兄弟だったヤコブが継続した。これをエルサレム教団という。しかし、ユダヤ教主流派の迫害があって各地に離散し、その中からユダヤ人以外にも精力的な伝道を展開したのがパウロで、その所属する教団をアンティオキア教会という。パウロは、異邦人改宗者に対して、律法遵守を免除したため、ヤコブのエルサレム教団と対立、両教団は別個に管区を設定した。しかし、紀元60年代、ヤコブ、パウロとも刑死、第1次ユダヤ戦争(66〜70年)の結果、エルサレム神殿が崩壊し、エルサレム教団も没落していった。この過程でアンティオキア教会は完全にユダヤ教から離脱してキリスト教としての歴史が始まる。

 キリスト教は2c中頃〜3c初めまでには、当初のパレスティナや近東からエジプト、シリア、ユーフラテス流域、小アジア、アルメニアなどに広がった。3c中頃迄には、ローマ帝国の首都ローマでは3c半ばには深く定着し、フランス、ライン川流域、イベリア半島南部に広まっている。

 そもそもローマ帝国では信教の自由が認められていた。エジプトのイシス神、シリアの豊穣神バール、小アジアの大地母神キュベレ、イランのミトラス神、そしてギリシアの神々に至るまで八百万の神々はローマでも崇められた。ただ、一神教としてのユダヤ教やキリスト教は、唯一神にこだわる余り、ローマの神々をあがめるような供儀をかたくなに拒んだ。
 ディオクレティアヌス帝の治世末期、伝統宗教の再興を目指し、ローマの神々への礼拝が義務づけられた。それに違反する者は罰せられたのだが、とりわけキリスト教徒はこれを拒否する者が目立った。これによりキリスト教徒大迫害が発生する。だが、ディオクレティアヌス自身は、ストア派の賢人のごとき生き方をした人物だったので、大迫害という認識はあくまでも後世キリスト教徒からの見識だろう。こうした非合法時代には、信者を埋葬する場所は地下墓地(カタコンベ)だった。

 コンスタンティヌス帝は313年「ミラノ勅令」を発し、キリスト教を公認した。この決定はすでに500万人を数える信徒の存在に押されての決断だった。コンスタンティヌスはときのローマ教皇ミルティアディスにサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会を贈った。後にサン・ピエトロ教会(現在のヴァチカン)に移るまで、これが教皇の座所となった。サン・ピエトロ教会は初代ローマ司教(教皇の前身)だったペテロをまつる。
 キリスト教公認と前後して、禁欲修行の場として修道院が興る。きっかけはエジプトの農夫だった聖アントニウスだ。アントニウスは村はずれにほど近いエジプトの砂漠で、孤独な修行生活を行った。その死の直後、アレクサンドリア主教アタナシウスによって「聖アントニウス伝」が書かれ、これをきっかけに禁欲運動が盛んになる。ナイル川に沿って各地に庵を編み、5000人もの穏修士が修行に励んだ。

 392年にはテオドシウス帝によってキリスト教は国教となった。各地に大きな教会ができ、聖職者も多くなり、教義をめぐり教会内の対立が起きてきた。そこでローマ政府は公認後、何度か聖職者を集めて宗教会議を開いた。教会内の対立を皇帝が調停するという意味で、「公会議」という。テーマは、常に救世主イエスは人間か、神かだった。人間だったら死刑になったあと復活した(と信じられている)はずがない。神だったら一神教で、神はヤハウェだけなのに、神が二人になってしまう。この矛盾をどう説明するかで論争したのだ。

 キリスト教派間の抗争を解決するため、コンスタンティヌス帝により325年ニカイア公会議が開かれた。これが初の皇帝によるキリスト教介入となる。この会議の結果、アリウス派はイエスを人間だとして異端とされた。この時点で、コンスタンティヌスはキリスト教徒ではない。あくまでキリスト教勢力を利用することが帝の意図だった。帝が洗礼を受けたのは死の直前だった。

 テオドシウス2世により開かれた431年エフェソス公会議では、ネストリウス派がマリアを「神の母」と呼ぶのに反対して異端とされた。

 マルキアヌス帝によって開かれた451年カルケドン公会議では、単性論派がイエスを人間でないとする(神だ)として異端とされた。しかし、シリアやエジプトを中心に単性論を支持する教会が多くあったため、各教会で対立司教が立つほどの分裂が生じた。

 これらの論争を通じて正統とされたのはアタナシウス派で「三位一体説」をとった。神とイエスと精霊の三つを同質のものとした。「父と子と精霊の御名において」というのがそれだ。

 異端とされた宗派は、アリウス派は最終的には消滅したが北方でゲルマン人に布教活動し、それなりに勢力を保った。ネストリウス派がイランから中央アジアへ勢力を広げ、唐にも景教として伝来し、単性論派がエジプト(コプト正教会)やエチオピア(エチオピア正教会)に行った。これらは東方諸教会として知られる。しかし、イスラム教勢力の拡張と共に、東方ではキリスト教は少数派となった。