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14.サーサーン朝ペルシア

 パルティアのアルケサス朝は1c頃弱体化し、同じイラン人で南イランのパールス地方で独立した王朝(初代パーパク)を継いだアルダシール1世(在位220〜240年)が、226年クテシフォンを攻略メディアを掌握して、ここにサーサーン朝ペルシアが興った。アルダシール1世はアケメネス朝の後継者であること自認し、230年にはメソポタミア全域に支配を及ぼした。

 サーサーン朝の帝国体制は、アルダシール1世の長男2代シャープフル1世(在位240〜272?年)によって確立された。イランはパルティア以来ローマ帝国と対峙していたが、ローマはこのとき軍人皇帝時代、幾度となくローマ帝国と戦って勝利し、特に260年エデッサの戦いではローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にした。その勢力は西はアンティオキアからアナトリアの一部にまで及び、東はホラーサーン(イラン北東部)、北はアルメニア、コーカサス山地に及んだ。王朝はパルティア以来の大貴族、各地に配された王族が枢密会議の構成員となり、王に直属する官僚制度もかなり整備された。

 9代シャープフル2世(在位309〜379年)のとき、サーサーン朝の中央集権制は完成したとされる。ローマとはニシビス(ティグリス上流の都市)を巡って攻防が続き、363年ローマのユリアヌス帝がメソポタミア遠征を行い、戦死した際、シャープフル2世はローマとの和平を結び、ニシビスを確保しアルメニアを分割させた。また、捕虜のローマ人を使ってメソポタミアにローマ式の城塞を建設し、コーカサス回廊のダルバンドには遊牧民の南下を防ぐため城壁を築いた。ホラーサーンには新市ニシャープールを建設した。

 サーサーン朝はアケメネス朝の伝統への回帰を志向し、ゾロアスター教を継承した。アルダシール1世は新しい地方を征服すると、そこでこれまで守られてきた火を撤去し、新しく自らの火を建立した。彼の宗教上の助言者は祭司のタンサールで、アルダシール1世の権力を背景に各地のゾロアスター教会を統合すると共に、ゾロアスター教の正典を確定した。またシャープフル1世の下で祭司長となったキルデールは、3代の王の下で権勢をふるい、多くの聖なる火を建立し、王の魂の保護者となり、祭司が王位継承まで介入するという慣習を作った。またシャープフル1世の碑文の下に、自らの功績を述べた碑文を残した。

 一方でキリスト教の影響はサーサーン朝下でも大きな問題となった。3cシャープフル1世がアンティオキアを陥落させたとき、ローマ人の捕虜からメソポタミアでキリスト教が広まった。シャープフル2世の下キルデールがキリスト教やユダヤ教、マニ教を迫害したが、13代ヤズデギルド1世(在位399〜421年)のときには宗教に寛容な政策がとられ、ローマとの間には平和条約(409年)、セレウキアでキリスト教の公会議を後援して教会制度を整備した。しかし、ヤズデギルド1世死後は再びキリスト教を迫害したので、ビザンツ帝国と戦争になった。その後、サーサーン朝のキリスト教徒はネストリウス派を受け入れ、西方の教会から独立し、それ以来キリスト教問題でビザンツ帝国が介入することはなくなった。

   5c頃から帝国の東に遊牧民エフタルが現れ、強大になってサーサーン朝の政治に介入するようになった。17代ペーローズや19代カワードはエフタルの援助によって王位につき、エフタルに貢納金を払い、財政を逼迫させた。

 20代ホスロウ1世(在位531〜579年)のときサーサーン朝の最盛期といわれる。貴族たちに擁立された弟と戦って王位を勝ち取り、シリアへ侵入してアンティオキアを陥し、多額の賠償金を取り立てた。561年にはビザンツ帝国と和平条約を結んで西方国境を安定させ、東方の宿敵エフタルを、折からトランスオクシアナ(オクサス川の北)に南下してきたトルコ系遊牧民と同盟して滅ぼした。
 ホスロウ1世は中央集権体制を強化し、多くの制度を改めた。それまで口誦されていたゾロアスター教の聖典「アヴェスタ」の筆写を完成させた。折からビザンツ帝国ではキリスト教に基づく学問に移行し、それまでのギリシア科学の中心地となっていたアテネのアカデミアが閉鎖、失職した哲学者や医者がサーサーン朝に移住してきた。そこでスサ近くに彼らを集めて教育機関を作り、ギリシア語やサンスクリット語の著作が多数翻訳された。

 22代ホスロウ2世(在位591〜628年)のとき、ビザンツ帝国と戦い、ダマスカス、エルサレム、エジプトを攻略し、エルサレムではキリストが磔になったという「真の十字架」を奪ってクテシフォンに持ち帰った。キリスト教徒の娘シーリーンとの恋物語は、後に詩人ニザーミーによって美しい叙事詩にまとめられた。628年クテシフォンで起こった叛乱で殺され、シーリーンはその墓前で自ら命を絶ったという。その息子カワード2世(在位628年のみ)は、ビザンツ帝国との関係修復に努め、エジプト、シリアから軍隊を撤収、真の十字架を返還した。

 その後サーサーン朝は内乱が続き、折からアラビア半島に発したイスラーム勢力がシリアやエジプトを席巻し、最後の王ヤズデギルド3世のとき、サーサーン朝軍は636年カーディシーヤの戦いで破れ、642年にはニハーワンドの戦いで破れてクテシフォンを逃れ、651年王自身も裏切りによって殺されてサーサーン朝は滅亡、ここにアケメネス朝以来10c以上に及んだイラン人の国家が終焉した。以後、イランのみならず、アラビア半島、シリア、エジプト、北アフリカ一帯に、アラブ人のイスラーム帝国が君臨する。しかし、イラン人はその後も、イスラーム帝国の中で独特の意識と伝統を保って生き続けた。