序章1 宇宙創生

宇宙の歴史は今日ビッグバン・モデルと呼ばれるシナリオで説明されている。このモデルが示す宇宙創生と進化の歴史は、具体的な証拠によって裏付けられている。以下には、このモデルが語る宇宙の進化と、モデルがどのように検証されてきたのかを述べよう。特にどのように検証されてきたかを知ることは、ビッグバン・モデルを理解する早道だと思う。記述にあたっては、サイモン・シン「宇宙創生」(新潮文庫)を参考にした。本書は、ビッグバン・モデルがいかにして作られたか、をドラマティックに著していて、楽しめる本だ。ぜひ一読をお勧めしたい。

(ビッグバン・モデルによる宇宙の進化)

最初にビッグバン・モデルが宇宙の進化をどう説明しているか、簡単に述べておこう。

ビッグバンとは大爆発の意味だが、空間の中で、又は時間の中で何かが爆発したというのではない。なぜなら空間と時間はビッグバンの瞬間に作られたからだ。言葉の厳正な意味ではビッグバンは正しくないが、これに代わる名前を「スカイ&テレスコープ」誌が1993年に募集したところ、1万以上の応募があったにもかかわらず、ホイル(後述)がこのモデルを嘲笑するためにひねり出した「ビッグバン」に勝るものはない、と選考委員たちは判定した。ともあれ、ビッグバンとは空間と時間が生み出されたことをいう。

ビッグバンから1秒の後、数兆度という超高温だった宇宙は、膨張して劇的に冷え、数十億度にまで下がった。その頃の宇宙は、主として陽子と中性子と電子からなり、すべては光の海に浸されていた。

数分のうちには、陽子(水素原子核)は他の粒子と反応して、ヘリウムなどの軽い原子核を形成した。この最初の数分間で、宇宙に存在する水素とヘリウムの比率はほぼ決定された。その比率は水素10に対してヘリウム1の割合。

宇宙はその後も膨張して冷え続けた。この頃の宇宙には、簡単な原子核とエネルギッシュに飛び回る電子と、膨大な光が存在した。それらは互いにぶつかり合っては、跳ね飛ばされていた。

およそ38万年後(以下では30万年後としているが後38万年後に修正された)、温度が十分に下がり、電子の速度が落ちて原子核につかまった。このとき以降、光はほぼ何にもじゃまされずに、宇宙をまっすぐ突き進めるようになった。この時期の光の遺物は現在宇宙背景放射(CMB放射)として検出される。またCMB放射にはわずかなゆらぎがあり、これが銀河の種となった。

宇宙がおよそ10億歳になる頃には、密度のゆらぎと暗黒物質の重力によって最初の銀河が形成された。星の内部では核反応が始まり、中ぐらいの重さの元素までがそこで作られた。それよりさらに重い元素は、星の一生が終わるときに作られた。

第2世代以降の銀河は、星の爆発によって飛び散ったかけらを元に作られる。従って、もともと重い元素を含んでいる。現在の宇宙の年齢はおよそ137億歳と推定される。

(一般相対性理論と膨張宇宙)

ビッグバン・モデルの基礎となったのは、アインシュタインが1915年完成させた一般相対性理論だ。重力理論(重力方程式)として知られる一般相対性理論は、1905年に発表した特殊相対性理論から10年後に完成した。アインシュタインはこの方程式を宇宙全体にあてはめたとき、宇宙は不安定らしいことに気づき、宇宙を静的なものとするため(誰しも宇宙は永遠だと信じていた)、宇宙定数なるものを重力方程式に導入した。

ロシアの数学者フリードマンは1922年に発表した論文で、宇宙定数の値をいろいろ変えてみたときに、どんな宇宙モデルが生じるかを示した。特に宇宙定数を0にしたとき、すなわち宇宙定数を含まないモデルでは、宇宙は重力によって最終的に激烈な収縮(クランチ)を引き起こす。しかし、もし膨張によって始まった動的な宇宙ならば、重力に対抗できる勢いがあるとした。ところが、彼のアイデアはアインシュタインによって否定され、フリードマンは無名のまま世を去った。

ベルギーの聖職者にして宇宙論研究者であったルメートルもまた、フリードマンの業績を知らないまま、1925年膨張宇宙モデルを再発見した。彼の「原初の原子に関する仮説」と題する論文によれば、宇宙は小さな領域から始まり、外向きに爆発して、長い時間をかけて今日われわれが見る宇宙に進化したのだと結論した。今日われわれがビッグバン・モデルと呼ぶ宇宙モデルの原型だ。しかし、アインシュタインはそのアイデアはすでにフリードマンから聞いたと言って、同様にこの説を却下した。

(天文学の成果)

1912年スライファーは、アンドロメダ星雲が秒速三百キロの速度で地球に近づいている(青方偏移している)ことを発見した。また、今日ソンブレロ銀河で知られる星雲は、逆に秒速千キロメートルで地球から遠ざかっている(赤方偏移している)ことを発見した。こうして1927年までに45の銀河(星雲)について測定を行い、近づいている銀河4、他は遠ざかっていることを調べあげた。結果、わずかな銀河を除いて、ほとんどすべての銀河は猛烈なスピードで天の川銀河から遠ざかっているらしいことが分かった。

1929年スライファーの結果を聞いたハッブルは、ウィルソン山で助手のヒューメイソンと共に46の銀河について観測を行った。そして後退速度と距離の間に明らかな相関関係を見出した。つまり2倍遠くにある銀河はおよそ2倍の速度で遠ざかり、3倍遠くにある銀河はおよそ3倍の速度で遠ざかっているように見えた。これは過去のある時点で、宇宙に存在するすべての銀河がひとつの小さな領域に詰め込まれていたということを匂わせる最初の観測事実だった。それはまさしくフリードマンとルメートルが理論的に導いた予想と一致していた。

ハッブルその人はデータを重視しても思弁という領分に踏み込まず、ビッグバンを積極的に支持したりはしなかったが、2年後の1931年にはさらに精度の高い測定を行い、銀河の後退速度は距離に比例することを明確なデータとして発表した(「ハッブルの法則」として知られる)。かつてスライファーが初期に調べた青方偏移を示した銀河は、天の川銀河や近隣の銀河からの重力によって、局所的に速度の向きが逆転しているものとされた。また、このときハッブルの法則によって得られた宇宙の年齢は約18億年というものだったが、後にこの値は修正されることになる。

すでにフリードマンは世を去っていたが、ルメートルの論文は日の目を見ることになった。ルメートルの理論的予測とハッブルの観測が合致することに対して、少しずつ賞賛の声が上がり始めた。ルメートルの膨張宇宙モデルを後押ししたエディントンは、宇宙空間を風船の表面になぞらえた。銀河は宇宙空間の中で動いているのではなく、銀河と銀河の間の空間が広がっているからなのだ。アインシュタインも自分の静的宇宙を放棄し、膨張宇宙モデルを支持することを明らかにすると共に、一般相対性理論から宇宙定数を削除した。

(原子核物理学と天文学の融合)

1929年ハウターマンスとアトキンソンは、太陽が生み出すエネルギーが、水素がヘリウムになる際の核融合反応の結果として生じていると確信し、星の核融合を説明した。核融合反応の引き金を引くためには、最初に大きなエネルギーを投入してやらなければならない。水素原子核は正の電荷をもつ1個の陽子だが、2個の水素原子核同士は正の電荷同士なので、互いに反発する。しかしもしも、2個の陽子が十分に近ければ、「強い核力」として知られる引力が働き出し、電気的な斥力に打ち勝って2個の陽子を結びつけ、ヘリウム原子核を作るだろう。この臨界距離は10の-15剰mと計算された。太陽の内部深くの圧力と温度は、水素原子核を臨界距離内に近づけられるほどに大きく、それにより核融合が起こり、高温を維持できるだけのエネルギーを放出して、さらなる核融合を促すだろうとした。

しかし、ハウターマンスとアトキンソンは、星の核融合のごく一部の理論を作ったにすぎなかった。太陽が2つの水素原子核を融合させてヘリウムにすることができたにしても、それはヘリウムの中でも一番軽くて不安定な同位体でしかない。安定なヘリウムはさらに2個の中性子を加えたものだが、この時点ではまだ中性子は発見されていなかった。

ハウターマンスらの研究を仕上げるため、もっとも大きく貢献したのは核爆弾計画の本拠地ロスアラモスで理論部門を率いたベーテだった。彼は太陽内部の温度と圧力の条件化で、水素をヘリウムにするための反応経路を突き止めた。まず普通の水素が、より重くて稀にしか存在しない重水素(陽子1中性子1)と反応し、比較的安定した陽子2中性子1のヘリウム同位体ができる。次にこのヘリウム同位体が2個反応し、1個の陽子2中性子2の安定したヘリウム同位体をつくり、副産物として2個の水素原子核を放出する、というものだ。

こうして天体物理学者たちは、太陽が1秒間に5億8400万トンの水素を5億8000万トンのヘリウムに変換し、失われた質量が太陽を輝かせるエネルギーになることをイメージできるようになった。これほど速いペースで水素を消費しても、太陽は今もおよそ2×10の27剰トンの水素を含んでおり、これからまだ何十億年もエネルギーを生み続けることができるのだ。

一方、1948年ガモフとアルファーは「化学元素の起源」という論文で、ビッグバンから数分後にヘリウム原子の形成が、宇宙で今日見られる比率になることを明らかにした。

宇宙には水素原子10000個に対してヘリウム原子1000個、酸素原子2個、炭素原子1個という割合で存在し、これ以外の元素をすべて合わせても炭素原子よりさらに少ないことが分かっている。水素原子とヘリウム原子で宇宙の原子組成の99.99%を占めるのだ。ガモフは宇宙に水素とヘリウムがこれほど多いのは、ビッグバン直後の状況によるものではないかと考えた。そもそもハウターマンスやベーテの仕事は、星の核融合ではヘリウムを生成する速度があまりにも遅いことを示唆していた。そこでガモフは、太陽が形成された時点でヘリウムの大部分はすでに存在しており、おそらくそれはビッグバンで生成されたのだろう、と考えた。また星の核融合では、ヘリウムより重い元素は作れそうになかった。そこで、ガモフは数学に強いアルファーの博士論文を指導するという名目で、計算を担当させることにした。

ビッグバンによる元素合成のポイントは、第一に宇宙の温度が1兆度より低く、百万度より高い時期だけだった。1兆度より高いと陽子と中性子は高速で飛び回り、互いにくっつき合うことができなかった。また百万度より低くなると、陽子と中性子は原子核反応を起こせるほどのエネルギーと速度をもてなくなる。第二に中性子は不安定で、ヘリウムなどの原子核内部に閉じ込められない限り、崩壊して陽子になってしまう。自由な中性子の半減期はおよそ10分だ。これによれば、宇宙創造の瞬間から1時間後には、陽子と反応して安定な原子核を作っている必要があった。第三に陽子と中性子の断面積の問題があった。粒子の断面積とは、他の粒子がぶつかってくるときに、標的となる粒子の面積はどれぐらいかを示す量だ。つまり、陽子と中性子は、相手にとってどれだけ大きな標的になるだろうか、ということだ。マンハッタン計画に従事した物理学者にとって、断面積を知ることはきわめて重要だった。ウラン内部の相互作用に対する断面積が大きければ大きいほど、原子核反応が起こる確率は高くなり、核爆発を起こさせるウランの必要量は少なくてすむからだ。戦後まもなく、貴重な断面積の測定結果が機密扱いを解かれだした。この新しい断面積の情報をもとに、ガモフとアルファーは、精度の高い計算を遂行することができた。こうした計算の結果アルファーは、ビッグバン元素合成が終わった段階で、10個の水素原子核に対し、ヘリウム原子核1個と見積もった。先に述べたように、これはまさに現実宇宙の比率に等しかった。つまり、ビッグバンは今日われわれが目にする水素とヘリウムの比率を説明することができたのだ。水素とヘリウムを作り出した初期宇宙の元素合成はわずか3百秒しか続かなかったというアルファーの発言が注目されるところとなり、ワシントン・ボストは「世界は5分で始まった」というセンセーショナルな見出しでこれを報じた。

その後アルファーはハーマンと組んで、初期宇宙の歴史を見直してみることにした。ごく初期の宇宙は、莫大な量のエネルギーに満ち、まったくの混沌状態だった。それに続く数分間は水素原子核と、核融合でヘリウム原子核が作られた。宇宙の温度が百万度以下になると、核融合は起こらなくなるが、宇宙誕生から1時間後までは、まだ原子核と電子はバラバラで、いわゆるプラズマ状態が続く。また、圧倒的な光の海があったが、光はプラズマの粒子にぶつかって散乱を起こし、宇宙は不透明だった。宇宙が膨張し温度が三千度ほどになると(約30万年後)、電子が原子核に捕えられ、水素原子とヘリウム原子ができる。光は宇宙空間をまっすぐ進めるようになって、宇宙は霧が晴れたかのようになった。アルファーとハーマンは、この瞬間に存在していた光は、今も宇宙を飛び回っているだろうと予測し、そしてその波長は1mm(波長からいえばマイクロ波)だろうと計算した。また、光は宇宙のあらゆる場所に存在していたのだから、この光はあらゆる方向からやってくるはずだった(宇宙背景放射または略してCMB放射という)。この光が検出されれば、ビッグバン理論の証拠となる。しかし、宇宙背景放射を本気で探そうという者はおらず、理論は忘れ去られた。

一方、同じ1940年代、ケンブリッジのホイル、ゴールド、ボンディの三人組によって「定常宇宙モデル」というものが提案された。このモデルはかつての永遠で静的な宇宙ではなく、宇宙は膨張するが、銀河間に広がっていく空間に新しい物質が生成され、やがて新しい銀河が形成される、そして宇宙は進化するが何も変わらず、永遠の昔から存在した、というものだ。この見方は、ハッブルの赤方偏移の観測と矛盾せず、何より宇宙は永遠だと考える人々に人気があった。その検証方法は、新しい赤ん坊銀河が、宇宙のいたるところに見つかるはず、というものだった。実はビッグバンという呼び名は、このときホイルがライバル理論を攻撃するためにつけた蔑称だった。二つの理論は以後宇宙論を二分するものとなった。

(宇宙の年齢)

1940年代ウィルソン天文台のバーデは、セファイド(*)と同様距離の測定に利用できることが知られていた「こと座RR型変光星」をアンドロメダ銀河の中に見出そうとしていた。これが見つかれば、アンドロメダ銀河までの距離を再測定し、セファイドを用いてハッブルが測定した距離(**)と照合できると考えたからだ。しかし、ウィルソン天文台の百インチ望遠鏡では見つからず、1948年に完成したパロマー山二百インチ望遠鏡をもってしても、その型の変光星は発見できなかった。バーデの計算では間違いなく発見できるはずのものだった。そのためバーデは、ひょっとするとアンドロメダ銀河までの測定距離は間違っているのではないか、と確信をもつにいたった。一方で1940年代には、ほとんどの星は古い種族(種族Uという)の星と、これらの星が死んだ後、その屑を材料として新しく若い種族(種族Tという)の星ができ、種族Tの星は種族Uの星より高温で明るく、青みがかった色をしていることが分かってきた。バーデはセファイドもまた、種族Uと種族Tに分類できると仮定し、天の川銀河内のセファイドは種族Uの暗いもの、アンドロメダ銀河のセファイドは種族Tの明るいものと仮定した。この仮定の下に、二つあるセファイドの種族ごとに、ものさしの目盛りを作り直す作業に取り組んだ。この結果、種族Tのセファイドは、同じ変光周期の種族Uのセファイドよりも平均して4倍明るいことが分かった。こうして種族Tと推定されるセファイドを有するアンドロメダ銀河までの距離は、従来知られていた距離のざっと2倍2百万光年と修正されることになった。アンドロメダ銀河までの距離は、他の銀河までの距離を推定するために使われていたため、他のすべての銀河までの距離もまた2倍に修正されることになった。この結果、ビッグバン・モデルが推定する宇宙の年齢は、いまや36億年に改定されると共に、銀河の距離測定にはまだまだ学ぶべきことが多く、他の発見があれば容易に修正される可能性もあることが分かった。

*セファイド 変光星には2種類あり、ひとつは連星で、暗い星が明るい星の前を横切るときの「食」によって明るさが変わる。もうひとつがセファイドで、星が安定した平衡状態になく、星の収縮と膨張が続くもの。収縮時に暗くなり、膨張時に明るくなる。セファイドを宇宙の物差にするのに貢献したのは、ハーバード・カレッジ天文台で一介の解析チームの一員だったリーヴィットという女性で、小マゼラン星雲内のセファイド変光星のみかけの明るさと変光周期との間に、厳格な数学的関係があることを発見した。これにより、天文学者たちはセファイドの等級を知ることで、それらの相対距離を求めることができ、じきにひとつのセファイドまでの距離が、視差などのテクニックを組み合わせて、具体的に確定されたことで、セファイドは宇宙の物差となった。

**アンドロメダ銀河までの距離は1923年ハッブルによって測定された。それまで大小マゼラン星雲以外に星雲内のセファイドが見つかった例はなかったが、ハッブルはアンドロメダ星雲にセファイドを発見し、星雲までの距離を90万光年と測定した。当時は天の川銀河が宇宙全体の姿だと考えられており、直径10万光年と計算されていたので、アンドロメダ星雲は天の川銀河とはまったく別の銀河だということが、この観測によって判明した。それから数年のうちには、多くの銀河はいっそう遠くにあることが分かり、また小マゼラン星雲は、重力によって天の川銀河の近くに繋ぎ止められた矮小銀河だということも分かった。

さて宇宙の年齢は、バーデの弟子のサンディッジによって、その2年後にさらに改定されることになった。あまり遠くにある銀河は、セファイドを検出することができないため、天文学者たちは1940年頃から、アンドロメダ銀河内で一番明るい星が、他の銀河の一番明るい星と同じ光度だと仮定し、それらの見かけの明るさを比較して、遠方の銀河の距離を測定していた。バーデは当時博士号の研究をしていたサンディッジに、この方法で推定した距離をチェックしてくれるように頼んだところ、サンディッジはこの方法には重大な欠陥があることを明らかにしたのだ。宇宙に存在する少なからぬ水素は、HU領域(電離水素領域)と呼ばれる大きく広がった雲を形成し、その領域は周囲の星たちの光を吸収して高温に熱せられ、高温と大きなサイズのためたいがいの星より明るく輝くことになる。サンディッジはHU領域と本物の星を区別できるくらい鮮明な画像を得て、HU領域を一番明るい星としていた遠方の銀河にある本物の星は、実はもっと暗いと結論した。こうして遠方の銀河がもっと遠くにあることが分かり、それは宇宙の年齢を推定するうえできわめて重要だったため、この観測によって宇宙の年齢は55億年まで改定されることになった。その後、サンディッジは銀河までの距離と宇宙の年齢の測定にかけての第一人者となり、宇宙の年齢は百億年から二百億年の間であることを明らかにした。

(重い元素の合成)

重い元素の合成については、定常宇宙モデルのホイルが明らかにした。定常宇宙モデルにとっても重い元素の合成を説明することは必要だったからだ。ビッグバンはヘリウムより重い元素合成を説明できなかったし、星の中でも水素をヘリウムに融合するだけだ。星の温度は表面で数千度、中心部で数百万度と推定されるが、例えばネオンを作るには三十億度、ケイ素を作るには百三十億度が必要となる。さらに元素ごとに必要な温度が異なるので、それぞれ専用のるつぼが必要なのだ。ホイルはそこで、星の一生の終わり近く、水素燃料が尽き始めたときに何が起こるかに着目した。燃料が尽き始めたとき星の温度は下がり、星の中心部の高温によって生じる外向きの圧力が小さくなると、重力が勝って星は収縮を始める。しかし星が内向きに崩壊し始めると、星の中心部が圧縮されて温度が上がり、核反応が促進され熱の生成量が増えて、外向きの圧力が高まって崩壊を食い止める。こうしてひとまず安定を取り戻すが、それは一時的なものでしかなく、星は再び燃料を消費し続け、残り少ない燃料が再び尽きてくる。中心部の温度は下がり再び崩壊が始まる。するとまたしても中心部の温度が上がり、一時的に崩壊を食い止める。崩壊が止まっては再開するこのプロセスを経て、多くの星はゆっくりと死に向かって進んでいく。ホイルはさまざまな星(小さな星、大きな星、種族T、種族Uなど)について、星の一生の終わりに近づき崩壊を繰り返すときの内部の温度と圧力の変化をすべて計算した。そして極端な高温と高圧が様々な組み合わせになるために、幅広い質量領域の原子核ができるという事実を明らかにした。

例えば太陽の25倍の質量をもつ星では、驚くほど寿命が短く、二千万年ほどで寿命が尽きる。その寿命の最初の半分で水素を燃やしてヘリウムにし、寿命の後半では温度と圧力が上がりヘリウムから炭素が作られる。一生の終わりに崩壊を繰り返すとき、酸素、ネオン、マグネシウム、ケイ素、鉄その他の元素が合成される。また、このような重い星ではいったん崩壊が始まると止まらなくなり、あっというまに激烈な爆発を起こして死んでしまう。これが超新星で、その極端な環境の中でめったに起こらない核反応が起こり、特に重くてめずらしい原子核が作られる。爆発により星を構成していた元素は宇宙にばらまかれ、これらの星屑が宇宙に漂っているあらゆるものと混じり合い、再び凝縮して新しい星になる。こうしてできた第二世代の星は最初から重い元素を含んでいる。われわれの太陽は第三世代の星だろうと考えられている。こうしてホイルの計算は、われわれが目にするほぼすべての元素について、なぜ今日のような存在比になっているのかを説明した。

問題は炭素の合成メカニズムだった。炭素が合成されるメカニズムが分からなければ、より重い元素の合成は説明できないからだ。炭素の中で普通に存在するのは、陽子6+中性子6からなる炭素12だ。通常のヘリウムが陽子2+中性子2のヘリウム4だから、3個のヘリウムから1個の炭素原子核に変換するメカニズムはあるのか、ということになる。ところが3個のヘリウム原子核が同時に衝突する確率は事実上ゼロと考えられる。別のメカニズムは、2つのヘリウム原子核が融合してベリリウム8の原子核(陽子4+中性子4)を作り、ベリリウム8原子核がヘリウム原子核と融合して炭素原子核を作るというものだ。ところがベリリウム8は非常に不安定で、瞬時に自発的に崩壊してしまうことが知られている。そこでホイルは「励起状態」の炭素を、考えの出発点においた。普通の炭素にエネルギーを投入してやると励起状態にすることができる。エネルギーと質量は等価だから(E=m×c2剰)、励起状態の炭素原子核は普通の原子核よりもわずかい質量が大きい。そこでホイルは炭素12には、ちょうど都合の良い質量(ベリリウム8の質量とヘリウム4の質量の和)をもつ励起状態が存在するはずだと推論した。もしもそんな炭素原子核が存在すれば、ベリリウム8の寿命が非常に短いとはいえ、ベリリウム8とヘリウム4はすばやく反応して炭素12になることができるはずだ。ホイルはその励起状態の炭素原子核は、普通の炭素12より7.65メガ電子ボルトだけ多くのエネルギーを持つと予測した。当時炭素12はすでに詳細に測定されており、7.65メガ電子ボルトに励起状態があるという記録はなかったが、ホイルはこの予測をカリフォルニア工科大のファウラーに伝えてその励起状態を探してもらった結果、まさしく7.65メガ電子ボルトに励起状態がある炭素が発見された。こうしてベリリウム8とヘリウム4が炭素に変換されるメカニズムが証明された。また、炭素の生成に説明がついたことで、宇宙に存在する他のすべての元素を生み出した核反応の出発点が確認された。

星の内部の核反応という観点から元素合成を説明するためには、他にも何十というステップからなる緻密な推論と、数え切れないほどの見直しが必要で、ホイルはその後も十年以上にわたりファウラー及びバービッジ夫妻と共同研究を行い、この4人組によって「星の元素合成」という共著論文で、星の一生のそれぞれの段階が果たす役割を明らかにし、個々の原子核反応による結果を示した。なお、ヘリウムよりも重く炭素より軽いリチウムやホウ素は星の内部では合成されないが、ビッグバン直後の高温の中で作られることも、その後の研究で明らかになった。

(CMB放射の発見)

ベル研究所のベンジアスとウィルソンは、衛生からの信号を受信するために設計されたが不要となった、角型アンテナを電波望遠鏡として利用した。二人はこのアンテナの性能を十分に理解するため、雑音レベルのチェックに取りかかり、電波銀河のない領域にアンテナを向けたところ、意外にも気がかりなほどの雑音を検出した。すぐさま雑音源を突き止めるため、様々なチェックを行ったところ、どうしても説明のつかない雑音が24時間宇宙のあらゆる方向からやってきているようだった。ベンジアスがこの雑音の話を友人に話したところ、プリンストン大学のディッケとピーブルズの論文に、宇宙マイクロ波背景放射(CMB放射)が宇宙にあまねく存在し、今日では波長1mmの電波として検出されるはずだと書かれていることを知らせてきた。それはすでに1948年ガモフ、アルファー、ハーマンが予言したのだったが、それと知らずディッケとピーブルズも独自にCMB放射を予言したのだった。早速ベンジアスはディッケに電話をかけ、プリンストン・チームが予言したCMB放射を検出したことを告げた。1965年ベンジアスとウィルソンはこの観測結果をアントロフィジカル・ジャーナル誌に発表し、同じ号の姉妹編として、プリンストン・チームが自分たちが存在を予言したビッグバンのこだまをベル研究所の二人が検出したことのいきさつを説明した。ニューヨーク・タイムズは「信号は告げる、宇宙はビッグバンで始まった」という記事を一面トップに掲げ、天文学の偉大な発見のひとつだとして、怒涛のような賞賛の声が上がるところとなった。また後には、一時は忘れ去られていたガモフ、アルファー、ハーマンの業績も知られるところとなった。こうして、宇宙が30万歳だった頃晴れ上がったときに現れ1/1000mmほどだった光の波長が、宇宙がそれから千倍ほどに膨張しているため1mmほどのマイクロ波になって検出されたのだ。

1963年オランダ生まれのアメリカの天文学者シュミットは、ライル(*)の3C273と呼ばれる電波源を調査した。この電波源は電波があまりにも強かったため銀河内にある特異な星だと考えられていた。ところがそのスペクトルを分析した結果、その波長はかつてないほど大きな赤方偏移を示していた。何と光の速度の16%という途方もないスピードで後退していたのだ。後にこれはクエーサーと呼ばれる銀河となった。その後まもなくいくつかのクエーサーが発見されたが、どれも宇宙の果てにあるように見えた。つまりクエーサーは初期宇宙にしか存在しないものだ。初期宇宙の高温高圧の条件が、明るいクエーサーを作る条件だったのだろう。時と共にクエーサーは普通の銀河に進化したのに違いない。従ってクエーサーの発見もビッグバン・モデルを検証するものとなる。

*ケンブリッジ大学のライルは、1946年複数の電波望遠鏡を組み合わせることで、光学望遠鏡に比べて分解能が弱い電波望遠鏡の精度を上げる「干渉計」と呼ぶ技術を開発した。さらに'48年、可視光はほとんど出さないが電波を大量に出すような天体を調査(第1ケンブリッジ・サーヴェイ、略して1C)を行い、50個の電波源を天体地図に載せた。後にこれらはパロマー山天文台のバーデによって銀河であることが分かり「電波銀河」と呼ばれるようになった。ライルは次々にサーヴェイを続け(2C〜4C)、1961年までに5千もの電波銀河をカタログにした。その結果、電波銀河は遠くになるほどありふれた存在だということが分かった。電波銀河はおおむね平均的な銀河より若い銀河と考えられるため、この結果はビッグバン・モデルを検証する観測となった。若い銀河は宇宙の遠い所にしか見えない。なぜなら、その光はわれわれの所に届くまで何十億年もの時間がかかるため、われわれは初期宇宙にあったときの姿を見るからだ。

(初期宇宙の密度のゆらぎ)

ビッグバン・モデルにとっての最後の問題は、大爆発で生まれた宇宙がいかにして銀河を形成するように進化したのか、ということになる。そもそも初期宇宙では、宇宙が膨張するせいで物質は均質なスープのようになっていただろう。しかし現実の宇宙は、物質のほとんどが銀河に集中している。そこでビッグバン支持者らは、初期宇宙はきわめて均一ではあったが、完全には均一ではなかったろう、多少の乱れがあり、どれほど小さかろうと密度のゆらぎがありさえすれば、必要なだけの進化は起こるだろうと考えた。そういう密度のゆらぎがあれば、重力のために物質がそこに引き寄せられ、その領域の密度はいっそう高くなり、さらに物質が引き寄せられる。このプロセスが次々と続いて、いずれは銀河が形成されただろう。

ゆらぎの痕跡を見つけるのに最適なのは、もっとも古い宇宙の遺物、すなわちCMB放射だ。もしも平均より密度が高い領域から出てきたCMB放射は、密度が大きいせいで生じた余分の重力から逃れるため、いくらか余分にエネルギーを失い、波長が少しだけのびるだろう。そこで、ある方角から来るCMB放射の波長が少しだけ長ければ、その放射は初期宇宙の中でわずかに密度が高い領域からやってきたことになる。もしもCMB放射にそんな波長のゆらぎが見つかれば、初期宇宙に銀河形成の種となった密度のゆらぎがあったことの証明となる。

しかし、天文学者たちがどれほど精度をあげつつ測定しても、CMB放射は完全に均一だった。1970年代には波長の差異を1/100の精度で検出できるようになったが、それでもゆらぎは見つかる気配がなかった。これ以上の小さなゆらぎとなると、もはや地上では検出できそうになかった。なぜなら大気中の水分がたえずマイクロ波を出し、そのマイクロ波は非常に弱いものだが、CMB放射の微小なゆらぎを埋もれさせてしまうには十分だったからだ。

そこで地上数十キロの高高度で観測することが考えられた。そのあたりの空気はほとんど水分を含まないため、水分によるマイクロ波がほとんどない。当初は気球にCMB検出器を積み込んで実験も行われたが、あぶなっかしい状態でうまくいかなかった。カリフォルニア大学のスムートはCMB放射を検出することに執念をもやし、気球実験にも何度か参加したが、いずれも悲惨な結果に終わっていた。そこでスムートは気球実験に見切りをつけ、空軍のU2偵察機を利用させてもらおうと申し入れたところ、意外にも許可を得ることができた。数ヶ月のうちに成果が上がり、空の一方と他方の間に、CMB放射が波長の1/1000ほどの違いがあった。だが、この波長の差異は地球が運動しているために生じたドップラー効果だと分かった。その速度は時速百万マイル以上だった。地球の速度とは、地球が太陽のまわりを回る速度と、太陽が天の川銀河内で動く速度と、天の川銀河そのものの速度の合計だ。これはこれで興味深い結果ではあったが、ゆらぎとは関係なかった。ゆらぎがあるとすれば、それは1/1000より小さいことになり、もはや飛行機観測でも検出は難しかった。なぜなら、検出器より高い場所にもまだ大気が存在し、精密な測定をぼやけさせてしまうからだ。

一方で、NASAが科学調査用人工衛星のアイディアを募集したところ、CMB放射検出器を積み込む案が、スムートらのチームと他にも二つのチームから出されたため、NASAも宇宙論に重大な意味をもつこの実験を支援すべく、1976年これらを統合して宇宙背景放射探査衛星(COBE、コービー)計画作り(の予備段階)に着手させることにした。実際にこの計画にゴーサインが出たのが'82年で、衛星製作が始まりいよいよ'88年のスペースシャトルにCOBEが積み込まれることになった。ところが、'86年チャレンジャーが打ち上げ直後に爆発、乗組員全員が死亡するという事故が発生したため、あらゆるスペースシャトル計画がご破算になってしまった。

そのためCOBEチームは、旧式の使い捨てロケットを探さなければならなくなり、協力を申し出てくれたのは、兵器テストで標的になる予定のロケットだった。このロケットは搭載能力がスペースシャトルの半分しかなく、大幅な減量と設計のやり直しを経て、'89年なんとか衛星打ち上げにこぎつけた。しかし、当初のデータ解析からは、何らゆらぎの兆候は見つからなかった。宇宙は「完全無欠なのっぺらぼう」のようだった。引き続きデータを収集した結果、ようやく'91年にわずか1/10万のゆらぎが姿を現した。ゆらぎはごく微小だったが、存在したのだ。COBEチームはさらに慎重な解析の見直しを行い、ゆらぎが正真正銘本物だと合意ができたため、'92年アメリカ物理学会で結果を公表、直後に行われた大規模な記者会見で、チームは宇宙の地図を資料として配布した。多色のパッチが入り混じったようなその地図は、CMB放射そのものだけでなく、検出器自体からのオイズがかなり含まれたものだったが、高度な統計のテクニックを用いて、1/10万のゆらぎが存在することを証明していた。チーム・スポークスマンの栄誉をになったスムートは、集まった記者団に対してこう言った。「私たちは、初期の宇宙のなかに最古にして最大の構造を見出しました。それが今日見られる銀河や銀河団や、その他もろもろの構造の種となったのです。あなたが信仰を持つ人なら、それはあたかも神の顔を見るようなものです。」各紙は紙面をまるごと使ってこれを報道し、中でもニューズウィークは「神の筆跡」と銘打ったセンセーショナルな記事を載せた。

ビッグバン・モデルの証明はこれにより完了した。

(ビッグバン・モデルの修正)

((インフレーション理論))

一般相対性理論によれば、空間は平坦か、内側に丸まっているか、外側にひろがっているかのいずれかになる。平坦な宇宙では光はどこまでもまっすぐに進んでいく。丸まった宇宙では、光は球形の経路にそって進み、いずれは出発点に戻る。天文観測によれば、宇宙はどうやら平坦らしい。ではなぜ平坦なのだろうか。

グースは1979年「インフレーション理論」を考えついた。これによれば、宇宙のごく初期、宇宙の誕生から10の-35剰秒後に途方もない膨張が起こり、10の-37剰秒ごとに大きさが2倍になって、百回ばかり立て続けに倍々になった。この時期をインフレーション期という。その後、宇宙の膨張は今日われわれが見るようなゆったりとしたものとなった。

インフレーション理論から導かれる結論は、生まれたばかりの宇宙にはほんの小さな密度のゆらぎしかなかったろうが、インフレーションはそのゆらぎを引き伸ばし、30万年後に存在していたことが分かっているゆらぎが生じ、密度が高い領域が種となって銀河が形成された。また、インフレーション以前には平坦でなかった宇宙が、それ以後はきわめて平坦に見えるようになった。あまりに巨大なため平坦に見えるのだ。

((暗黒物質))

銀河の周辺部にある星は非常に大きな速度で運動しており、銀河内部のすべての星の重力を合わせても、周辺部の星が宇宙のかなたに飛び去らないようにしておく重力に足りない。そのため宇宙論研究者たちは、銀河には膨大な量の暗黒物質、すなわち光は出さないが重力を及ぼす物質が存在するはずだとしている。このアイデアは1930年代という早い時期に、ウィルソン天文台のツヴィッキーによって提案された。計算によれば、宇宙には普通の物質よりも暗黒物質の方がずっと多くなる。

暗黒物質の候補として、かつてはブラックホール、小惑星、巨大な木星型惑星など光を出さない天体などが考えられたが、現在では未知の素粒子だろうという考え方に落ち着きつつある。2007年ハッブル宇宙望遠鏡が、宇宙の一定領域の50万個に及ぶ銀河の、重力レンズ(アインシュタインの重力方程式が予言)によるゆがみを調べた結果、この領域の暗黒物質の分布を明らかにした。それによると、暗黒物質が多い部分と普通の物質が多い部分が一致していることも判明した。それは暗黒物質が多いところに普通の物質が集まり、銀河が形成されたことを意味する。つまり、暗黒物質がたくさんなければ、銀河が生まれなかったろうと考えられるようになったのだ。

((暗黒エネルギー))

一方、宇宙の膨張速度は次第に大きくなっているらしい。1990年代末、天文学者たちがIa型というタイプの超新星を集中的に調査した。この超新星は非常に明るいため、遠くの銀河で起こった超新星爆発でも観測することができ、これを利用してそれが含まれる銀河までの距離も測定できる。その結果、宇宙の膨張速度が次第に大きくなっているらしいことが分かったのだ。宇宙を暴走に駆り立てている斥力の正体は謎で、「暗黒エネルギー」と呼んでいる。

COBE衛星より後に打ち上げられたWMAP(Wマップ)衛星は、CMB放射をCOBE衛星よりも35倍も高い精度で測定するためにデザインされた。2003年に発表されたWMAPの観測結果で、CMB放射のさらなる精度のゆらぎの検出の他、宇宙の構成要素のうち23%が暗黒物質、73%が暗黒エネルギー、残りわずか4%が通常物質という成果が得られた。宇宙の年齢も137億年+−2億年と計算され、さらにCMB放射のゆらぎの大きさは、初期宇宙にインフレーション期があった場合に期待される大きさと合致したという。
トップページに戻る